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『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 先日、我が社に入社してきた中途採用の方が、「地域性の違いに悩んでいます」とこぼした。

 この方は生粋の大阪人で、操る言語も純正品の大阪弁である。全国展開の弊社にあって、配属も大阪だというのに、一体何を悩むと言うのだろう。

 すると、彼はこう言った。

 「淀川と大和川を越えたら、そこはもう、異国でした……」

 出た。北摂人の「河内・泉州蛮族説」。非関西人、いや、非大阪人には分かるまいが、「大阪は一つ」ではないのである。

 以前から抵抗感があった考え方だが、よそ様からすれば、京都も神戸も奈良も一括りの「関西」であり、ともすればそれらの全てが「大阪」である。

 言葉も全部「大阪弁」とひっくるめられがちであるが、実際には似て非なるものである。例えば動物園に鼻の長い動物がいたとする。そして「あの動物は何と言うのか」と問うたとする。京都の岡崎動物園では「象と違いますやろか」と逆に尋ねられ、大阪の天王寺動物園では「象に決まってるやろ」とキレられ、神戸の王子動物園では「象やんなぁ」と同意を求められると言う。ザ行の発音ができない和歌山弁、「しとぉ」「やっとぉ」の神戸弁は、明らかに大阪弁ではない。大阪の中でさえも、摂津、河内、泉州で微妙に異なる。

 確かに、今や関西人でさえ、これらの違いを気にする者は少ないだろうし、言葉の違いとて不明瞭になりつつある。気質の違いとて、地元民でも分かりにくいかもしれない。

 しかし、現実にはやはり違うのだ。同じ大阪でも、川を渡れば「そこは異国」と言って悩む御仁がいるように。岸和田市民が祭りを理由に会社を休むなんてことは、淀川以北の人間には到底理解できることではないだろう。関西を一括りに「大阪」と表現されることへの抵抗感は、そんな点にあるのだ。

 さて、件の彼は、社会経験をそれなりに積んだ30代。なんだかんだ言っても、それなりに柔軟性を持って、「異国の文化」に順応しようとしているようだ。何とか頑張ってほしい。
 今年の漢字は「変」に決まったとか。「落」を予想していたが第3位。これまで一度として当たったことがないが、余程世相の対極で生きているのだろうか。

 ところで、文部科学省が2月に発表した新学習指導要領案で、小学校の国語の「解説」を読むと、以下のような記述がある。

 「漢字の指導については、日常生活や他教科等の学習における使用や、読書活動の充実に資するため、上の学年に配当されている漢字や学年別漢字配当表以外の常用漢字についても、必要に応じて振り仮名を用いるなど、児童が読む機会を多くもつようにする」

 当たり前である。今更何をか言わんや。

 小学校で指導する漢字は一般に「教育漢字」と呼ばれ、指導要領で学年ごとの配当が明示されている。「ゆとり教育」への転換点であった2002年の指導要領改訂では、配当学年では読めるように、その上位学年で書けるように、というようなことが謳われ、以降、小学校の教科書では、各単元の最後にまとめられる新出漢字の箇所に、「前の学年で習った漢字」が併記されるようになった。

 これを厳格に運用する教師は、「習った漢字以外は用いてはならぬ」と指導することが往々にしてあるようで、かく言う筆者も小学校時代、全く同様のことが強いられた。

 それは自分の氏名にも例外なく適用され、特に可哀相だったのは、クラスメイトにいた「石原正美」という児童である。小学2年生の時点で「美」だけが未習であったために、この人は、事もあろうに自らの姓名を、「石原正み」と表記することを強要されたのだ。誰の眼にも異様に映る「み」である。

 方や、11月17日付の産経新聞(
http://sankei.jp.msn.com/life/education/081117/edc0811170812000-n1.htm )によると、千葉県のある私立幼稚園では、百人一首や高村光太郎、島崎藤村、佐藤春夫らの詩を音読させる教育を行い、園児たちもそれをよどみなく読むと言う。

 「野ゆき山ゆき海辺ゆき 真ひるの丘べ花を敷き つぶら瞳の君ゆゑに うれひは青し空よりも……」と朗々と読み上げる幼稚園児。英才教育とか先取り指導とか、そういう次元の話ではあるまい。流麗な日本語に幼少期から接することの意味は、決して小さいものではないはずだ。

 指導要領の改訂によって、「変」な慣習からの「変化」が進むのなら、それは大いに結構なことである。「み」に泣くような子どもがこれ以上出てこないことを願うばかりだ。
 私は大阪の生まれであるが、実家は岡山市にある。父親の仕事の都合で引っ越しただけの話で、そもそも実家と言ってもマンションであり、土着民ではない。

 それでも、その岡山市が来年、政令指定都市に「昇格」するというのは、ちょっと気になる話である。単なる地方都市であった岡山が、大都会と肩を並べる(ような気になる)訳だ。ネット上でしばしば展開される、広島市民との「目糞が鼻糞を笑う」泥仕合にも、一つの節目を迎えることだろう。

 ところが、である。政令市になるにあたって決めねばならないのは「区名」であるが、これが全くいただけないのだ。

 例えば、我が実家は、都心部から、旭川という一級河川を挟んで東側にあり、街の趣きは既に郊外であるのに、「中区」なのである。そして、肝心の都心部も、合併により編入された旧御津郡域も、一括りに「北区」なのである。

 聞けば、区割りの時点で既に悶着があったらしく、当初の案どおりだと、都心まで1キロ程度の地区に住む住民が、更に東へ離れること10キロの西大寺地区まで行かねば区役所にありつけないという不条理に苛まれることになり、結局分区することで落ち着いたらしい。

 しかし、分区したらしたで、どちらも市域の東寄りなのに、都心に近い方が「中区」、旧西大寺市の地域が「東区」なのだ。警察も消防も郵便も全て「東」なのに、区だけは「中」である。

 公募により区名は決せられたらしいが、その際、2つの条件があったという。1つは「既にある地名を用いてはならない」。もう1つは「『中央』など、特定域のステイタスが高まるような名称は不可」。揉めないようにということだろうが、こんな条件が突き付けられれば、おかしな瑞祥地名にするか(案の定、応募“作品”には、「さくら」だの「桃太郎」だのがあったらしい)、芸のない東西南北にするか、どちらかしかないではないか。

 西大寺など、旧瀬戸町域を含むとは言え、「西大寺」以外に的確な表現はあるまいと思うし、一定の定着を見ている「岡南」や「城東」の名だってあるではないか。大体、「中」と「中央」の違いは何だと言うのか。

 区名などより行政の中身こそが重要なことは百も承知である。それに私は最早岡山市民ではない。ただ、人名が立派な人格であるとするならば、地名とて街の品格であり個性であろう。つくばみらいだの南セントレアだのに比べれば格段にマシだが、そこにアイデンティティがあってもいいのではないだろうか。それが住む人たちの拠り所であるはずなのだから。
 黄金週間などと言うのはよいが、することもなく時間を持て余すばかりの休日は果たして「黄金」であろうか。そもそも「週間」などと言いつつ、実際の休日は1週に満たない4日間である。

 することがなければテレビは最高の味方である。レギュラーで見たことのないドラマの再放送をやってくれるのは願ってもない僥倖というものである。

 80~90年代のテレビドラマに一種のオマージュさえ捧げたい者の立場からすれば、昨今のドラマは大して惹かれるものがないと思い込んでいたのだが、それを覆されたのは『花より男子』である。

 若手は名実共に若手「俳優」であった。アイドル崩れの代物などではない。眼の力が違う。主演の井上真央はさることながら、三条桜子役の佐藤めぐみが良い。前クールの朝ドラ『ちりとてちん』で注目してはいたが、こんなところに出ていたのか。

 主人公の母親を演じる石野真子が素晴らしい。コミカルな役回りに笑わせられてばかりと思いきや、松本潤演じる道明寺司の母親役加賀まりこと対峙するシーンは秀逸だった。娘を愚弄した大財閥の社長を相手に、食塩を頭からかけて啖呵を切る姿は、子を思う親の心情がよく表現されていて胸に迫るものがあった。

 石野真子といい、『ちりとてちん』の和久井映見といい、『瞳』の飯島直子といい、この世代が母親役をやるようになったのかと思うと、それもまた感慨深い話である。

 テレビドラマの醍醐味は、こうしたバイプレーヤーの存在感にあると言えよう。数年前の大河ドラマ『新撰組!』の佐藤浩市のように主役を食ってしまっては元も子もないが、『瞳』の西田敏行、前田吟、近藤正臣、菅井きんや、『篤姫』の高橋英樹、長塚京三、樋口可南子、松坂慶子、平幹二朗、余貴美子など、その演技の中に、若手俳優の成長を温かく見守る眼差しを見て取れる助演者こそ、ドラマの重みであり、深みと言えるだろう。