些か比喩的ではあるが、私の生業は「夢を売る商売」である。実に尊い仕事に従事していると思う。しかし、逆説を弄する訳ではないがこれまで、人に「夢を持とう」などと言ったことはただの一度もない。特に相手が若い人である場合、それが、その人の将来の可能性を狭めてしまうのではないかと危惧されてしまうからだ。
私は「将来の夢」がころころ変わる子どもだったが、中学生の頃に、割と具体的に「国語の教師になりたい」と志すようになった。下らない動機で誠に恐縮であるが、なりたいと思ったのはひとえに「卒業式で泣きたい」という一点にあって、国語はたまたまそれしかできなかったというだけで理由としては二の次である。そう言えば、中学時代の担任は、高校のときの誤審事件の禍根から、「野球の審判と監督が両方できる職業は中学教師しかない」ということで先生になったと宣っていた。教科はやはり国語である。高校生のときは、教職に就くのは中学と高校のどちらがよいのか、そして進路は文学部と教育学部のどちらを選ぶのが正しいのか、結構本気で悩んだ。当時は国公立大にまだ「連続方式」というのが残っている時代で、A日程は大阪市立大の文学部、B日程は大阪教育大の教育学部を受験するという、最後まで煮え切らない選択をした。結局どちらも落ちたのだが。
進学した大学が嫌だった訳ではなかったし、何が原因かも最早記憶にはないが、学生生活は段々腐っていった。飲酒やら麻雀やらで夜な夜な覚醒しているものだから、とにかく朝が起きられない。携帯電話もない時代、後輩の女の子が駅の公衆電話からわざわざモーニングコールをしてくれて何とか起床し家を出ても、駅前のパチンコ屋が目に入ると気が付けばそこに並んでいるというような始末だった。
専門科目はそれでもきちんと、そして(自分で言うのも何であるが)概ね良い成績で単位を修得したが、語学を筆頭に1年次配当の科目が4年次になってもまだ大量に残っているという状況で、留年を重ね、恥を忍んで恩師に教育実習辞退の申し入れを行い、最終的には、大学を辞めるという道を選んだ。書き掛けで絶筆した卒論の担当教授が「もったいないなぁ」と言ってくださったのがせめてもの救いであり、またこの上ない含羞でもあった。
その選択は、「教師になりたい」という夢を自らの手で断ち切ることを意味した。もとより自己責任なので悔いる資格もなかったが、しかし、暫くは、前途を見出せぬ大きな虚無感に苛まれた。
幸い、当時のアルバイト先に正社員として拾ってもらえることになり、それからもう12年が経つ。大学中退という中途半端な学歴の私をこうして管理職にまで登用していただけたことには心から恩義を感じるところであるのだが、しかし自分の道が「これしかない」と思うと、人生としてどうなのかなと思うことは今でもしばしばある。これといって資格や能力を有する訳でもなく、この歳で新たな一歩と言っても厳しい現実が待っているのみであろうが、自分の将来を「教師」ということでしか考えていなかったという人生の歩みには、ちょっと残念なことをしたよなという後悔はある。その気になりさえすれば、もっと他にもいろんな可能性があったのではなかったかと。
そんなこともあって、人様に「夢を持て」などと大逸れたことはどうしても言えないのである。決して、夢を持つことを否定しているのではない。自分の進路を限定的に考えてしまうのではなく、可能性をいろいろと模索して、広げていくことが大切だと思うのだ。長い人生には様々な岐路がある。自分の人生だから相当真剣に考え抜き、慎重に進む道を選択すべきではあろうし、引き返すような真似もしたくはないが、選んだ道のその先にもまた岐路はあるはずで、その時々で魅力的に映る道へ力強く歩みを進めていけばよいと思いませんか。きっとその先に開ける世界はあるはずだ。そしてそれこそが、本当に掴むべき「夢」であるに違いない。
そんなふうに考えれば、「第二の人生」「第三の人生」のスタートを切ることは、限りなく輝かしく、胸の躍る話である。「第十の人生」「第百の人生」まで行ってしまって、いつまでモラトリアムやってんねんと叱られるようでは勿論いけないけれど。
時は春、新年度。出会いもあるが別れの時でもある。今年もいろんな人との別れがあった。旅立つ者より残される者の方がよほど淋しく、辛いと、残される側の者は勝手に思う。死に遅れたような気持ちにさえなる。
でも、その人たちは、自分にとって最も魅力的に見える空に向かって、強く羽搏いていく、この上なく希望に満ちた旅立ちなのだ。だからそれを、精一杯の笑顔とエールで送り出してあげることが、残された者の正しくあるべき姿だと思うのだ。
そして、いつまでも感傷に浸って人の旅立ちを見送っているばかりではない。いつか自分も、新しい空を見つけ、それへ向かって羽搏いてゆきたい。大空へ雄飛せんとするには少しく力不足の齢になってはしまったが、それでも、夢を見たいし、未来を信じてみたいのだ。
仕事柄、というのは嘘で、稼業に似つかわしからずというのが正しいが、ちょくちょく出張がある。やはり首都圏が多くて、東京は毎年行くし、周辺も神奈川、千葉、埼玉は回った。他は愛知、福井、香川、愛媛、福岡、そして最近はなぜか沖縄が多い。全国津々浦々には程遠いが、それでもいろんな所へ行かせてもらっている。
勿論「仕事として」行くのだから、物見遊山では決してないし、行くごとに企画や提案を伴った報告書を書かされるから、当然「出張の成果」を求められるものではあるが、しかし、「旅とは非日常へ一歩を踏み出すこと」を信条とする私であるから、出張には普段のデスクを離れる解放感に浸れる楽しみがある、というのが偽らざる心情である。
大概は上司に随行するとか、同僚や部下と一緒に、という出張であるが、セミナーや講演会など、単身赴くことも往々ある。一人旅の醍醐味同様、「一人出張」の良さは何を措いても、人に気兼ねをしなくて済むことである。余った時間で街を徘徊するのも自由、現地で旧知の人に会うのも自由、夜更かしして呑んだくれるのも自由、朝食を食べないのも自由、その分寝ていられるのも自由、行き帰りの睡眠も自由。自由自由、自由万歳。
かくも自由を謳歌できる「一人出張」であるが、一点だけ懸念材料がある。それは、昼食の問題である。
何を隠そう、などと偉そうに言える内容では全くないが、私は「一人で食事」というのが実に苦手なのである。
レストランなど、グループで行くことが主流の店に一人で佇むことが耐えられず、周囲が賑やかに談笑している中で一人黙っていることも辛い。また、注文した品が出てくるまでに費やされる時間をどう過ごしてよいのかがわからない。「手持ち無沙汰」ということの苦しみを味わうのに、これに勝るシチュエーションはないのではないかとさえ思う。
夜であればコンビニで弁当なり酒なりを購入して、ホテルの部屋でまったり食せるから問題ない。しかるに外出している昼間は大変な問題である。言葉を発しないで一人で過ごすのだから、できることなら混雑していない、閑散としたところがよい。結局、「一人で行くことが前提の店」を選ばざるを得ず、そうなると、選択肢は昼下がりの立ち食いそば店くらいしかなく、出張中は毎日そばを啜る羽目に陥る。大層貧しい食生活を強いられるのである。因みにファーストフードや牛丼屋という選択肢も考えられようが、意外に連れ立って食べに来る者が少なくなく、落ち着かないから、好んで行くものではあまりない。
そんな感じだから、普段の職場での昼食も一人であればコンビニで購入して自分のデスクで食べるのが専らである。仕事帰りに行きつけのバーで煙草を燻らせながら一人静かにグラスを傾けるなんてことをやってみたいとは思うが、やはり一人で行けぬものであるから、誰かを半ば強制的に連行してやっと店のドアを開けることができるのだ。誠に始末に負えない。こんなことは偏に孤独を異常なまでに忌み嫌う自身の根性なさによるものである。あるいは人見知りが激しい故のことかも知れぬ。いずれにしても、何とかせねばならない、不甲斐ない性格である。
折りしも先日、AKB48の前田敦子が「卒業」を発表した。各方面に叩かれながらもセンターの座を守ってきた彼女の孤高たるや、そこら辺の呑気な学生風情には到底理解できるものではあるまい。私は特段の贔屓ではないが、しかし弱冠二十歳、世の若者の多くはまだ社会にすら出ていない年齢というのに「孤高からの解放」とは何という生き急ぎ様であろうか。
けれどもまだまだ先の人生は長い。「孤高のセンター」で鍛えられた若者の前途に何が立ちはだかろうと乗り越えていけるのではないかと思う。その点、飯も一人で食えぬアラフォー男の情けなさと言ったらないと、素直に反省する次第である。“二度目の成人”を間近に控え、私は今更ながらに「自立」を求められている。
勿論「仕事として」行くのだから、物見遊山では決してないし、行くごとに企画や提案を伴った報告書を書かされるから、当然「出張の成果」を求められるものではあるが、しかし、「旅とは非日常へ一歩を踏み出すこと」を信条とする私であるから、出張には普段のデスクを離れる解放感に浸れる楽しみがある、というのが偽らざる心情である。
大概は上司に随行するとか、同僚や部下と一緒に、という出張であるが、セミナーや講演会など、単身赴くことも往々ある。一人旅の醍醐味同様、「一人出張」の良さは何を措いても、人に気兼ねをしなくて済むことである。余った時間で街を徘徊するのも自由、現地で旧知の人に会うのも自由、夜更かしして呑んだくれるのも自由、朝食を食べないのも自由、その分寝ていられるのも自由、行き帰りの睡眠も自由。自由自由、自由万歳。
かくも自由を謳歌できる「一人出張」であるが、一点だけ懸念材料がある。それは、昼食の問題である。
何を隠そう、などと偉そうに言える内容では全くないが、私は「一人で食事」というのが実に苦手なのである。
レストランなど、グループで行くことが主流の店に一人で佇むことが耐えられず、周囲が賑やかに談笑している中で一人黙っていることも辛い。また、注文した品が出てくるまでに費やされる時間をどう過ごしてよいのかがわからない。「手持ち無沙汰」ということの苦しみを味わうのに、これに勝るシチュエーションはないのではないかとさえ思う。
夜であればコンビニで弁当なり酒なりを購入して、ホテルの部屋でまったり食せるから問題ない。しかるに外出している昼間は大変な問題である。言葉を発しないで一人で過ごすのだから、できることなら混雑していない、閑散としたところがよい。結局、「一人で行くことが前提の店」を選ばざるを得ず、そうなると、選択肢は昼下がりの立ち食いそば店くらいしかなく、出張中は毎日そばを啜る羽目に陥る。大層貧しい食生活を強いられるのである。因みにファーストフードや牛丼屋という選択肢も考えられようが、意外に連れ立って食べに来る者が少なくなく、落ち着かないから、好んで行くものではあまりない。
そんな感じだから、普段の職場での昼食も一人であればコンビニで購入して自分のデスクで食べるのが専らである。仕事帰りに行きつけのバーで煙草を燻らせながら一人静かにグラスを傾けるなんてことをやってみたいとは思うが、やはり一人で行けぬものであるから、誰かを半ば強制的に連行してやっと店のドアを開けることができるのだ。誠に始末に負えない。こんなことは偏に孤独を異常なまでに忌み嫌う自身の根性なさによるものである。あるいは人見知りが激しい故のことかも知れぬ。いずれにしても、何とかせねばならない、不甲斐ない性格である。
折りしも先日、AKB48の前田敦子が「卒業」を発表した。各方面に叩かれながらもセンターの座を守ってきた彼女の孤高たるや、そこら辺の呑気な学生風情には到底理解できるものではあるまい。私は特段の贔屓ではないが、しかし弱冠二十歳、世の若者の多くはまだ社会にすら出ていない年齢というのに「孤高からの解放」とは何という生き急ぎ様であろうか。
けれどもまだまだ先の人生は長い。「孤高のセンター」で鍛えられた若者の前途に何が立ちはだかろうと乗り越えていけるのではないかと思う。その点、飯も一人で食えぬアラフォー男の情けなさと言ったらないと、素直に反省する次第である。“二度目の成人”を間近に控え、私は今更ながらに「自立」を求められている。
昨夏、休暇の一致しない内儀を置いて一人、東北地方を旅した。
この春に姿を消す急行「きたぐに」に乗って、日本海岸をその名の通り、北へ向かってひた走る夜行列車の旅情を味わった。富山と新潟の県境を越えた辺りで空が白み始め、親不知の天険断崖、青海川付近の線路にまで迫り来る荒波を寝台から眺めては心を躍らせる。夏場でさえこんな厳しい姿を見せる日本海であるから、真冬となるとどんな荒涼たる風景が広がるのだろうと思いを馳せるばかりである。
新潟で特急「いなほ」に乗り換え、一路秋田を目指す。しかし発車するや、「大雨と強風のため、本日に限りこの電車は、あつみ温泉止まりとさせていただきます」とアナウンス。そんなこと発車前に言ってくれよ、と周章狼狽するも後の祭り、周りの乗客で取り乱す者が一人としていないのを見て、この路線では恐らく日常茶飯事なのだろうと腹を括り、流れに身を任せることにした。
新発田、中条、村上と過ぎるにつれ雨足は次第に強くなり、空には雷の閃光がひっきりなしに駆け巡る。名勝、笹川流れを望む頃にはますます荒れ狂う日本海の姿が車窓に飛び込んでくる。あつみ温泉で電車を降ろされたときには滝のような豪雨。そそくさと代行バスに乗り込み、「とりあえず酒田まで参ります」と言われたその「とりあえず」という言葉に少なからぬ不安を覚えつつ、海岸線の国道を、そろりそろりと北上する。列車以上に、こちらまで打ち付けてくる波飛沫の迫力は凄まじく、ただただ恐怖であった。結局、バスは酒田を越え、約100kmを走り抜けて象潟まで進み、そこからは各駅停車の電車に乗り換えて、予定より3時間近く遅れて秋田に到達した。ハプニングとは言え、羽越線の鈍行など死ぬまで乗る機会はないだろうので、その意味では大変貴重な経験をした。
予定が狂って秋田での滞在時間が殆どなくなり、中途半端な時間潰しの後に、今度は新幹線に乗って仙台へ向かう。大学時代に文字通りの「みちのくひとり旅」で訪れて以来、16年ぶりの仙台である。駅の売店で、牛たん弁当とビールを買い込み、投宿先のホテルで一人静かに舌鼓を打った。
翌日はレンタカーを借りて、仙台近郊をドライブしてみた。今回はB級グルメツアーと決めていたので、事前の下調べで第一の意中としていた、東北道鶴巣PAの「油麩丼」なるご当地グルメを求めて車を走らせるも、そこにあったのは街中でもお馴染みの吉野家と、普通のスナックコーナーのみ。メニューをくまなく見てもそれが見当らず、失意のまま、今度は一般道に下りて松島を目指し、松島さかな市場で、「冷やしマグロ担担麺」と「牡蠣バーガー」の2つを食した。大層美味であったが、食い合わせが悪いのか、それとも単なる食い過ぎか、胃が凭れた上にトイレに駆け込む始末となり、少々難儀した。
東日本大震災の折にはここ松島も津波に襲われ、その復興の様子が写真で展示してあったので、食い入るように見た。松島湾内に点在する島々が緩衝材となり、津波の勢いを弱めたため、他の場所に比べると死者などの被害は軽微だったらしく、地元では「島が町を守ってくれた」と感謝していたそうだ。前日に日本海の猛威を見ていただけに、海の厳しさと優しさとの両面を見た思いに駆られた。そんな中、震度5弱の地震が発生し、津波注意報が発令された。静かな松島の町に、けたたましくサイレンが鳴り響き、凍りついてしまったのは申すまでもない。
2日目に乗った新幹線には「がんばろう東北」のステッカーが貼ってあり、行くところにはどこにも「来てくれてありがとう」「応援してくれてありがとう」とメッセージが掲出されていた。被災地を走るのは不謹慎とも思ったし、瓦礫が山高く積まれているのを見るのは辛いとも思った。が、理由は上手く説明できないが、行かずにはおれなかったのだ。ただ行くだけの行為が被災地の支援になるなんてことは毫もあるまい。けれども、そこで受けたことばは「来てくれてありがとう」である。「ありがとう」ということばがこれほど胸に沁みたことは、自分の人生で後にも先にもない。
阪神・淡路大震災を経験した者としては、あのときにも大層辛い思いをしたものだし、この探訪でいろんなことがフラッシュバックしたのも事実であるが、都市部の直下型地震と違い、今回の被害を甚大にしているのは津波であり、原発の問題も含め、復興への道程は気の遠くなるレベルの話であろうと思う。そうした不安や苦しみと闘わねばならない心労たるや筆舌に尽くし難いものがあろう。それでも、帰路に就く仙台空港——あの日、どす黒い海水が一時にして押し寄せ、瞬く間に飲み込まれたあの空港——のロビー一面に掲げられた全国各地からの応援メッセージを見て、堪らず落涙してしまったのを忘れない。被災地より遠く離れたところから物見遊山に訪れた者の感傷など実に勝手なものであるが、離陸した飛行機から見下ろす仙台の街に、一日も早い復興を願わずにはおれなかった。
さて、今日はあの日から1年である。「もう1年」なのか「まだ1年」なのか、去来する思いは人様々であろう。しかし、あの日から時が止まったままというところは多く、1年経っても復興への兆しすら見出せない地域もあるに違いない。経験を同じくしていない者には、思いを馳せることはできても、それに寄り添うことはできない。頑張っている人たちに「頑張れ」というのも違うような気がする。「自分にできることは何か」と自らに問うても具体的な答えは見つからず、ただ忸怩たる思いに駆られるばかりである。そうではあるが、いや、だからこそ、東北への思いはただただ募るばかりである。北国にも確かに春の足音は聞こえているはずだ。またいつの日か必ず彼の地を訪れたい。「ありがとう」のことばをもう一度聞きたくて。
この春に姿を消す急行「きたぐに」に乗って、日本海岸をその名の通り、北へ向かってひた走る夜行列車の旅情を味わった。富山と新潟の県境を越えた辺りで空が白み始め、親不知の天険断崖、青海川付近の線路にまで迫り来る荒波を寝台から眺めては心を躍らせる。夏場でさえこんな厳しい姿を見せる日本海であるから、真冬となるとどんな荒涼たる風景が広がるのだろうと思いを馳せるばかりである。
新潟で特急「いなほ」に乗り換え、一路秋田を目指す。しかし発車するや、「大雨と強風のため、本日に限りこの電車は、あつみ温泉止まりとさせていただきます」とアナウンス。そんなこと発車前に言ってくれよ、と周章狼狽するも後の祭り、周りの乗客で取り乱す者が一人としていないのを見て、この路線では恐らく日常茶飯事なのだろうと腹を括り、流れに身を任せることにした。
新発田、中条、村上と過ぎるにつれ雨足は次第に強くなり、空には雷の閃光がひっきりなしに駆け巡る。名勝、笹川流れを望む頃にはますます荒れ狂う日本海の姿が車窓に飛び込んでくる。あつみ温泉で電車を降ろされたときには滝のような豪雨。そそくさと代行バスに乗り込み、「とりあえず酒田まで参ります」と言われたその「とりあえず」という言葉に少なからぬ不安を覚えつつ、海岸線の国道を、そろりそろりと北上する。列車以上に、こちらまで打ち付けてくる波飛沫の迫力は凄まじく、ただただ恐怖であった。結局、バスは酒田を越え、約100kmを走り抜けて象潟まで進み、そこからは各駅停車の電車に乗り換えて、予定より3時間近く遅れて秋田に到達した。ハプニングとは言え、羽越線の鈍行など死ぬまで乗る機会はないだろうので、その意味では大変貴重な経験をした。
予定が狂って秋田での滞在時間が殆どなくなり、中途半端な時間潰しの後に、今度は新幹線に乗って仙台へ向かう。大学時代に文字通りの「みちのくひとり旅」で訪れて以来、16年ぶりの仙台である。駅の売店で、牛たん弁当とビールを買い込み、投宿先のホテルで一人静かに舌鼓を打った。
翌日はレンタカーを借りて、仙台近郊をドライブしてみた。今回はB級グルメツアーと決めていたので、事前の下調べで第一の意中としていた、東北道鶴巣PAの「油麩丼」なるご当地グルメを求めて車を走らせるも、そこにあったのは街中でもお馴染みの吉野家と、普通のスナックコーナーのみ。メニューをくまなく見てもそれが見当らず、失意のまま、今度は一般道に下りて松島を目指し、松島さかな市場で、「冷やしマグロ担担麺」と「牡蠣バーガー」の2つを食した。大層美味であったが、食い合わせが悪いのか、それとも単なる食い過ぎか、胃が凭れた上にトイレに駆け込む始末となり、少々難儀した。
東日本大震災の折にはここ松島も津波に襲われ、その復興の様子が写真で展示してあったので、食い入るように見た。松島湾内に点在する島々が緩衝材となり、津波の勢いを弱めたため、他の場所に比べると死者などの被害は軽微だったらしく、地元では「島が町を守ってくれた」と感謝していたそうだ。前日に日本海の猛威を見ていただけに、海の厳しさと優しさとの両面を見た思いに駆られた。そんな中、震度5弱の地震が発生し、津波注意報が発令された。静かな松島の町に、けたたましくサイレンが鳴り響き、凍りついてしまったのは申すまでもない。
2日目に乗った新幹線には「がんばろう東北」のステッカーが貼ってあり、行くところにはどこにも「来てくれてありがとう」「応援してくれてありがとう」とメッセージが掲出されていた。被災地を走るのは不謹慎とも思ったし、瓦礫が山高く積まれているのを見るのは辛いとも思った。が、理由は上手く説明できないが、行かずにはおれなかったのだ。ただ行くだけの行為が被災地の支援になるなんてことは毫もあるまい。けれども、そこで受けたことばは「来てくれてありがとう」である。「ありがとう」ということばがこれほど胸に沁みたことは、自分の人生で後にも先にもない。
阪神・淡路大震災を経験した者としては、あのときにも大層辛い思いをしたものだし、この探訪でいろんなことがフラッシュバックしたのも事実であるが、都市部の直下型地震と違い、今回の被害を甚大にしているのは津波であり、原発の問題も含め、復興への道程は気の遠くなるレベルの話であろうと思う。そうした不安や苦しみと闘わねばならない心労たるや筆舌に尽くし難いものがあろう。それでも、帰路に就く仙台空港——あの日、どす黒い海水が一時にして押し寄せ、瞬く間に飲み込まれたあの空港——のロビー一面に掲げられた全国各地からの応援メッセージを見て、堪らず落涙してしまったのを忘れない。被災地より遠く離れたところから物見遊山に訪れた者の感傷など実に勝手なものであるが、離陸した飛行機から見下ろす仙台の街に、一日も早い復興を願わずにはおれなかった。
さて、今日はあの日から1年である。「もう1年」なのか「まだ1年」なのか、去来する思いは人様々であろう。しかし、あの日から時が止まったままというところは多く、1年経っても復興への兆しすら見出せない地域もあるに違いない。経験を同じくしていない者には、思いを馳せることはできても、それに寄り添うことはできない。頑張っている人たちに「頑張れ」というのも違うような気がする。「自分にできることは何か」と自らに問うても具体的な答えは見つからず、ただ忸怩たる思いに駆られるばかりである。そうではあるが、いや、だからこそ、東北への思いはただただ募るばかりである。北国にも確かに春の足音は聞こえているはずだ。またいつの日か必ず彼の地を訪れたい。「ありがとう」のことばをもう一度聞きたくて。
最近流れているサントリーのプレミアムモルツのCMが、実に良い。木村拓哉と香取慎吾が、木下惠介監督の映画やドラマの名作シーンにタイムトリップして、激動の時代の中で日本の経済発展と共に歩んできたビールの歴史を重ね合わせて振り返る内容である。田中絹代、山内明、東野英心、笠智衆、山岡久乃などなど、もうこの世にいない往年の名優たちの姿が、ビートルズの名曲と相俟って、涙腺を決壊させる。
その中で、香取慎吾がこんな台詞を語る。「いつしか、ビールは仕事のストレスを流すものになってしまった。仕事のあとの一杯は美味い。でもそれは本当のビールの居場所ではないと思う」と。「東北熊襲発言」で物議を醸したり、「東海表記問題」で売国奴のように叩かれたりするこの会社ではあるが、しかし広告は企業の良心、これはこれで胸に沁みるメッセージである。
さて、人はなぜ、そして何のために働くのであろうか。
それを考えるとき、こんな一編の詩を思い出す。
宝石 伊川明子
明日がうれしいのです。
日曜日が来るのですもの
わたしはもう還暦を過ぎました それでも
日曜日が嬉しいのです
沢山の日曜日を失ったからなのです
「エコノミックアニマル」
そんな言葉がありましたね
あの人はその言葉の優等生
早朝に家を出て
日付変更線を超えて帰宅
わたしはうさぎの耳になって
近づいてくる車の音をさがしましたよ
定年になって
「アニマル」の皮をぬいだあなた
やっと夫婦の会話ができますね
沢山の日曜日をありがとう
わたしはいま
宝石のような日曜日を
ひとつ ひとつ たいせつに
ひろっています
この詩を読んで思い起こすのは、自分の幼い頃のことである。
当時、会社も学校もまだ「週休1日」の時代であった。建築士である父は、毎日朝早く家を出て、会社と建築現場を駆け回り、夜遅く帰ってくる。現場がややこしい地域であった場合、「夜中2時になっても帰ってこなければ警察に電話するように」と母に言い残して家を出ていったそうである。そんなストレスもあったのか、帰宅後には泥酔するまで酒を煽った上に、文字通りに寝た子を起こし、折角の休みである日曜は日曜で、日の出前から家を出て、終日趣味の釣りに没頭し、やはり帰宅は日没後に及ぶ。そんな感じだから、一家揃って夕食をとった記憶が殆どないし、休みに家族でどこかへ出掛けたこともあまりない。それでも子どもたちは父を疎ましく思ったことはなく、私はアパートの駐車場に帰ってきた父の車の音を違えることなく判別し、玄関のドアが開けば妹は父に飛びついた。
20数年前、部長に昇進した父は、なぜかその昇進を機に、「人に仕えたり、人を使うことが性分に合わない」と、長らく勤めた会社を退職し、1人で小さな建築事務所を開いた。私が高校生のときのことだ。たった1人の自営業だから、会社勤めのときより忙しさは増したはずであるが、どういう訳か、家にいる時間はサラリーマン時代より多くなった。父なりに何か思うところがあったのだろう。
大学進学時に実家を出るとき、1人暮らしの物件探しに付いてきてくれた。時はバブル景気の余韻がまだ残る頃。紫のダブルスーツに身を包んだヤクザ紛いの不動産屋を相手に名刺を差し出し、「私はこういう仕事をしてますから、素人やと思ってええ加減なこと言うてもろたら困りますよ」と凄んだ姿には驚いた。「仕事人」としての父をまともに見たのは初めてだったからである。物件が決まり、いざ帰りなんというとき、「ちょっと一杯飲もうや」と言い出し、天神橋筋商店街の小さな寿司屋で、生まれて初めて父と酒を酌み交わした。父は息子と一献交わすのが夢だったのだと言う。
それから15年余の歳月が経ち、自身も家庭を持つようになって、夫婦ともに働き蜂の我が家は、休みはおろか夕食のタイミングが合うことも殆どなく、せいぜい、2人ともが残業で帰宅のタイミングが一致したときに一緒に居酒屋に立ち寄る程度である。
そんな人生を送ってきたが、それ自体を不幸せと思ったことはない。父とて同じであろう。
労働は国民の義務であるから、人間は誰しも一定の年齢になれば働くことを強いられる。しかし強いられる営みほど虚しいものはあるまい。数年前、会社で2つの部署を兼務していたとき、一方の部署の仕事を「やり甲斐でやっている」、もう一方の部署の仕事を「使命感でやっている」と区別したことがある。区別はしたけれども、どちらも自分にとっての「働く意味」であり、「使命感」の方に苦しさや辛さがあったのは確かだし、それが原因で酒量の増加につながったのも事実だが、少なくとも「食うために働く」というような虚無的なものではなかった。
では先程の命題、すなわち「なぜ働くか」と言えば、働く自分を支えていたものが「必要とされる実感」であり、「必要としてくれる人」がいるから、ということ以外に答が見出せない。「必要としてくれる人」は、顧客であり社員であり、そして家族である。つまり、この世に存在する人たちの全てである。
いつしか還暦を過ぎた父が営む建築屋は、細々とではあるが何とか今も続いている。会社勤め時代に築いた人脈に、今なお支えられているからなのだそうだ。それを継ぐこともなく、全く畑違いの仕事に従事する愚息は誠に不肖ではあるが、仕事に対する姿勢だけは受け継いでいるつもりである。仕事は、支え支えられ、必要とし必要とされ、感謝し感謝され、そんなふうにして、人の幸せに寄与するものでなくてはなるまい。
そして、大切な人たちとビールでも飲みながら、ささやかな幸せを感じることができれば、それはそれでよいのではないかと思うのだ。
その中で、香取慎吾がこんな台詞を語る。「いつしか、ビールは仕事のストレスを流すものになってしまった。仕事のあとの一杯は美味い。でもそれは本当のビールの居場所ではないと思う」と。「東北熊襲発言」で物議を醸したり、「東海表記問題」で売国奴のように叩かれたりするこの会社ではあるが、しかし広告は企業の良心、これはこれで胸に沁みるメッセージである。
さて、人はなぜ、そして何のために働くのであろうか。
それを考えるとき、こんな一編の詩を思い出す。
宝石 伊川明子
明日がうれしいのです。
日曜日が来るのですもの
わたしはもう還暦を過ぎました それでも
日曜日が嬉しいのです
沢山の日曜日を失ったからなのです
「エコノミックアニマル」
そんな言葉がありましたね
あの人はその言葉の優等生
早朝に家を出て
日付変更線を超えて帰宅
わたしはうさぎの耳になって
近づいてくる車の音をさがしましたよ
定年になって
「アニマル」の皮をぬいだあなた
やっと夫婦の会話ができますね
沢山の日曜日をありがとう
わたしはいま
宝石のような日曜日を
ひとつ ひとつ たいせつに
ひろっています
この詩を読んで思い起こすのは、自分の幼い頃のことである。
当時、会社も学校もまだ「週休1日」の時代であった。建築士である父は、毎日朝早く家を出て、会社と建築現場を駆け回り、夜遅く帰ってくる。現場がややこしい地域であった場合、「夜中2時になっても帰ってこなければ警察に電話するように」と母に言い残して家を出ていったそうである。そんなストレスもあったのか、帰宅後には泥酔するまで酒を煽った上に、文字通りに寝た子を起こし、折角の休みである日曜は日曜で、日の出前から家を出て、終日趣味の釣りに没頭し、やはり帰宅は日没後に及ぶ。そんな感じだから、一家揃って夕食をとった記憶が殆どないし、休みに家族でどこかへ出掛けたこともあまりない。それでも子どもたちは父を疎ましく思ったことはなく、私はアパートの駐車場に帰ってきた父の車の音を違えることなく判別し、玄関のドアが開けば妹は父に飛びついた。
20数年前、部長に昇進した父は、なぜかその昇進を機に、「人に仕えたり、人を使うことが性分に合わない」と、長らく勤めた会社を退職し、1人で小さな建築事務所を開いた。私が高校生のときのことだ。たった1人の自営業だから、会社勤めのときより忙しさは増したはずであるが、どういう訳か、家にいる時間はサラリーマン時代より多くなった。父なりに何か思うところがあったのだろう。
大学進学時に実家を出るとき、1人暮らしの物件探しに付いてきてくれた。時はバブル景気の余韻がまだ残る頃。紫のダブルスーツに身を包んだヤクザ紛いの不動産屋を相手に名刺を差し出し、「私はこういう仕事をしてますから、素人やと思ってええ加減なこと言うてもろたら困りますよ」と凄んだ姿には驚いた。「仕事人」としての父をまともに見たのは初めてだったからである。物件が決まり、いざ帰りなんというとき、「ちょっと一杯飲もうや」と言い出し、天神橋筋商店街の小さな寿司屋で、生まれて初めて父と酒を酌み交わした。父は息子と一献交わすのが夢だったのだと言う。
それから15年余の歳月が経ち、自身も家庭を持つようになって、夫婦ともに働き蜂の我が家は、休みはおろか夕食のタイミングが合うことも殆どなく、せいぜい、2人ともが残業で帰宅のタイミングが一致したときに一緒に居酒屋に立ち寄る程度である。
そんな人生を送ってきたが、それ自体を不幸せと思ったことはない。父とて同じであろう。
労働は国民の義務であるから、人間は誰しも一定の年齢になれば働くことを強いられる。しかし強いられる営みほど虚しいものはあるまい。数年前、会社で2つの部署を兼務していたとき、一方の部署の仕事を「やり甲斐でやっている」、もう一方の部署の仕事を「使命感でやっている」と区別したことがある。区別はしたけれども、どちらも自分にとっての「働く意味」であり、「使命感」の方に苦しさや辛さがあったのは確かだし、それが原因で酒量の増加につながったのも事実だが、少なくとも「食うために働く」というような虚無的なものではなかった。
では先程の命題、すなわち「なぜ働くか」と言えば、働く自分を支えていたものが「必要とされる実感」であり、「必要としてくれる人」がいるから、ということ以外に答が見出せない。「必要としてくれる人」は、顧客であり社員であり、そして家族である。つまり、この世に存在する人たちの全てである。
いつしか還暦を過ぎた父が営む建築屋は、細々とではあるが何とか今も続いている。会社勤め時代に築いた人脈に、今なお支えられているからなのだそうだ。それを継ぐこともなく、全く畑違いの仕事に従事する愚息は誠に不肖ではあるが、仕事に対する姿勢だけは受け継いでいるつもりである。仕事は、支え支えられ、必要とし必要とされ、感謝し感謝され、そんなふうにして、人の幸せに寄与するものでなくてはなるまい。
そして、大切な人たちとビールでも飲みながら、ささやかな幸せを感じることができれば、それはそれでよいのではないかと思うのだ。
実に約3年ぶりの更新である。方々で駄文を書き散らしているものだから、どうしても反応のあるものに更新の偏りが出てしまうのだが、筆力の減退は著しく、否、この放置ブログのアーカイブを読み返すに、そんなものは元々備わっていなかったのだと、今更ながらに頭を打つ次第である。
文筆で生計を立てられればどれだけ幸せであろうかとは常々覚える感慨であり、殊にトラベルライターなど趣味と実益を兼ねた最高の生業に自分も就ければと痛切に思うものである。だが、例えば「乗り鉄」の嚆矢として知られる宮脇俊三のような人は、ヲタクの趣味世界を一般にも門戸開放して興味と関心を誘い、それ自体を文学の一ジャンルにまで昇華せしめた第一人者として後に続く者の追随を許さず、しばしば双璧のように謳われる種村直樹ですら宮脇と違って読者の好みは真っ二つに分かれるのであるから、況んや私の如きど素人など遠く及ぶべくもあるまい。
また、想像力が甚だ乏しい自分には創作活動など全くの埒外で、小説家や劇作家といった人達はそれだけで本当に凄いと思うのだが、もっと凄いと思うのは、「小説家がエッセイを書く」ことである。創作のネタになりそうなものを惜し気もなくエッセイに認(したた)めてしまうこと、それでいてあたかも小説を読んでいるかの如き錯覚に陥る滋味深さと言ったらないのである。かつては宮本輝、原田宗典、鷺沢萠、角田光代などを好んで読んだものであるが、最近のぶっちぎりは浅田次郎だ。文体の流麗さ、格調高い言葉選び、随所に散りばめられる軽妙な洒脱や諧謔、ほろっとさせる結び方。他に適する表現が思い浮かばないのが忸怩たるところであるが、もう「天才」と言う外あるまい。それが読みたいためにJALに乗って機内誌の浅田次郎の連載を貪るほどである。
こうした羨望は翻って自身を顧みるに、その無能さにますます打ち拉がれるばかりであるが、自身が範とする作品に共通してあるのは「ことばに命がある」こと。同義語が他にあってもやはりその語でなければならない、そのぴったり填まったことばのチョイスに唸らずにはおれないのである。それはことばに命が宿る、すなわち「言霊」の為せるところに違いないのであり、蓋し、これは遍くことばを操る者は相当心して向き合わねばならぬところのはずである。
それで、どうしても耐え難いことが1つある。第3回(たった8回前なのにこの間4年を経過していることを重ねて情けなく思う)でも記した「安易なかな書き」の問題である。
3月に「とうきょうスカイツリー」という駅が誕生するのだそうである。お江戸のことには疎いからよくは知らないが、元々「業平橋(なりひらばし)」だった駅名を、スカイツリーの開業に合わせて名称を改めるというのだ。ぴんと来られる方はご明察、「業平橋」の名は平安時代の色男、六歌仙にも名を連ねる在原業平に因むものであり、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥……」の有名な歌の所縁の地である。観光客誘致を意図してか、それを放棄しての今回の改名である。
大阪にも地下鉄に「ドーム前千代崎」という駅がある。その名のとおり京セラドームの前なのだが、この「ドーム前」が引っ掛かる。工事中の仮称は「千代崎橋」だったという。八百八橋と言われる大阪の街を走る地下鉄の駅名として如何にも相応しいではないか。どうしてもドームを語りたければ「千代崎橋(京セラドーム大阪前)」と副称にすればよいと思うのだが。
「わかりやすさ」というこれ以上ない合理的な理由に理解を示さぬ訳ではないが、かと言って地名はその土地のアイデンティティなのだから、伝統的な名をいとも容易く棄ててしまうような所業には首を傾げざるを得ない、というのは保守的思想が過ぎようか。それに「わかりやすさ」を言うのなら、同じく地下鉄の中央線の「コスモスクエア」はどうだろう。中国語の路線図には何たるかな、「宇宙広場」と記されている。ロケットの打ち上げや火星人はおろか、終点でありながら取り立てて目立った施設も見当たらないこの駅だが、知らぬ人が駅名だけ見たら一体何を思うのだろうか。因みにこちらの仮称は「海浜緑地」だった。これならイメージと実態がぴったり符合する。
然らばすなわちと、かな書きを採択する際の定番の理由として上がってくるのは「親しみやすさ」であるが、漢字表記を採らない理由としてはあまりにお粗末であろう。あまつさえ昨今では公立高校の名称にも「なぎさ」「つばさ」「フロンティア」などとかなが入る始末である。将来それを母校とする者の心中を慮るに、「親しみやすさ」だけでその名が一生ついてまわるのは、どうしても不条理の感が拭えない。
畢竟、ひらがなでもカタカナでも、この安直な「かな書き」がいただけないのだ。百歩譲って「わかりやすいから『とうきょうスカイツリー』で我慢する」としても、なぜ「とうきょう」でなければならぬのだろうか。「東京」では「親しみやすさ」が沸かないと言える根拠は何であろうか。かなは専ら表音文字であるが、漢字は加えて表意文字である。単なる記号を超えて意味が付与される。だからことばに命が宿るのである。
命の宿ったことばは人の心をも動かす。人や物の名に愛着を覚えるのもそれと同じであろう。だからこそ、安易で安直な名付けは、定めて慎重であらねばならないと思う。
文筆で生計を立てられればどれだけ幸せであろうかとは常々覚える感慨であり、殊にトラベルライターなど趣味と実益を兼ねた最高の生業に自分も就ければと痛切に思うものである。だが、例えば「乗り鉄」の嚆矢として知られる宮脇俊三のような人は、ヲタクの趣味世界を一般にも門戸開放して興味と関心を誘い、それ自体を文学の一ジャンルにまで昇華せしめた第一人者として後に続く者の追随を許さず、しばしば双璧のように謳われる種村直樹ですら宮脇と違って読者の好みは真っ二つに分かれるのであるから、況んや私の如きど素人など遠く及ぶべくもあるまい。
また、想像力が甚だ乏しい自分には創作活動など全くの埒外で、小説家や劇作家といった人達はそれだけで本当に凄いと思うのだが、もっと凄いと思うのは、「小説家がエッセイを書く」ことである。創作のネタになりそうなものを惜し気もなくエッセイに認(したた)めてしまうこと、それでいてあたかも小説を読んでいるかの如き錯覚に陥る滋味深さと言ったらないのである。かつては宮本輝、原田宗典、鷺沢萠、角田光代などを好んで読んだものであるが、最近のぶっちぎりは浅田次郎だ。文体の流麗さ、格調高い言葉選び、随所に散りばめられる軽妙な洒脱や諧謔、ほろっとさせる結び方。他に適する表現が思い浮かばないのが忸怩たるところであるが、もう「天才」と言う外あるまい。それが読みたいためにJALに乗って機内誌の浅田次郎の連載を貪るほどである。
こうした羨望は翻って自身を顧みるに、その無能さにますます打ち拉がれるばかりであるが、自身が範とする作品に共通してあるのは「ことばに命がある」こと。同義語が他にあってもやはりその語でなければならない、そのぴったり填まったことばのチョイスに唸らずにはおれないのである。それはことばに命が宿る、すなわち「言霊」の為せるところに違いないのであり、蓋し、これは遍くことばを操る者は相当心して向き合わねばならぬところのはずである。
それで、どうしても耐え難いことが1つある。第3回(たった8回前なのにこの間4年を経過していることを重ねて情けなく思う)でも記した「安易なかな書き」の問題である。
3月に「とうきょうスカイツリー」という駅が誕生するのだそうである。お江戸のことには疎いからよくは知らないが、元々「業平橋(なりひらばし)」だった駅名を、スカイツリーの開業に合わせて名称を改めるというのだ。ぴんと来られる方はご明察、「業平橋」の名は平安時代の色男、六歌仙にも名を連ねる在原業平に因むものであり、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥……」の有名な歌の所縁の地である。観光客誘致を意図してか、それを放棄しての今回の改名である。
大阪にも地下鉄に「ドーム前千代崎」という駅がある。その名のとおり京セラドームの前なのだが、この「ドーム前」が引っ掛かる。工事中の仮称は「千代崎橋」だったという。八百八橋と言われる大阪の街を走る地下鉄の駅名として如何にも相応しいではないか。どうしてもドームを語りたければ「千代崎橋(京セラドーム大阪前)」と副称にすればよいと思うのだが。
「わかりやすさ」というこれ以上ない合理的な理由に理解を示さぬ訳ではないが、かと言って地名はその土地のアイデンティティなのだから、伝統的な名をいとも容易く棄ててしまうような所業には首を傾げざるを得ない、というのは保守的思想が過ぎようか。それに「わかりやすさ」を言うのなら、同じく地下鉄の中央線の「コスモスクエア」はどうだろう。中国語の路線図には何たるかな、「宇宙広場」と記されている。ロケットの打ち上げや火星人はおろか、終点でありながら取り立てて目立った施設も見当たらないこの駅だが、知らぬ人が駅名だけ見たら一体何を思うのだろうか。因みにこちらの仮称は「海浜緑地」だった。これならイメージと実態がぴったり符合する。
然らばすなわちと、かな書きを採択する際の定番の理由として上がってくるのは「親しみやすさ」であるが、漢字表記を採らない理由としてはあまりにお粗末であろう。あまつさえ昨今では公立高校の名称にも「なぎさ」「つばさ」「フロンティア」などとかなが入る始末である。将来それを母校とする者の心中を慮るに、「親しみやすさ」だけでその名が一生ついてまわるのは、どうしても不条理の感が拭えない。
畢竟、ひらがなでもカタカナでも、この安直な「かな書き」がいただけないのだ。百歩譲って「わかりやすいから『とうきょうスカイツリー』で我慢する」としても、なぜ「とうきょう」でなければならぬのだろうか。「東京」では「親しみやすさ」が沸かないと言える根拠は何であろうか。かなは専ら表音文字であるが、漢字は加えて表意文字である。単なる記号を超えて意味が付与される。だからことばに命が宿るのである。
命の宿ったことばは人の心をも動かす。人や物の名に愛着を覚えるのもそれと同じであろう。だからこそ、安易で安直な名付けは、定めて慎重であらねばならないと思う。