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『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 山梨県で、90歳の女性が、散歩中の土佐犬に首を噛まれて死亡するという、世にも恐ろしい事件があった。新聞記事によると、飼い主が紐を付けて散歩させていたところ首輪が抜け、別の男性と立ち話をしていたこの女性に襲いかかったという。飼い主の男性には過失致死の疑いがあるとみて捜査中とのことである。詳細を知らないから不用意なことは言えないが、こういう輩が存在する限り、迂闊に外を出歩けない世の中であることは確かである。

 私は犬が大の苦手で、「小さいから可愛いよ」「噛んだりしないから大丈夫」などと言われても、そんなことは関係がない。相手が受精卵であろうが、口腔内を悉く抜歯しようが、嫌なものは嫌なのである。世の中には犬好きの方も多いであろう中で本当に申し訳ないのだが、犬が絶滅しても生態系は特に崩れないのではとそんなことを考えたりもするのである。生類憐みの令が発せられた元禄の世に生きていたなら、進んで切腹していたであろうと思う。漢和辞典で「猋(『森』のような配置で犬が3つ並んだ文字)」なんて漢字を見つけたときには危うく失神しかけるところだった。

 犬嫌いのご他聞に漏れず、原因はやはり幼少時のトラウマにあるらしい。

 父の実家が岡山県の山奥にあって、山陽自動車道はおろか、中国自動車道もまだ北房ICまでしか開通していなかった当時、枚方から5時間か6時間くらいかけて、一家揃って車で帰省していた。幼かった私は「北河内一の愛らしさ」との呼び声が高く、今は閉店してしまった枚方三越へ、母に連れられて買い物に行くと、すれ違う人で振り返らぬ者はいなかったほどだったという。自分でこんなことを記すのは厚顔無恥の極みとは重々承知しているが、往時を知る人20名以上がそう言うのだから仕方がない。私は事実を語っているに過ぎないのだ。話が逸れたが、とにかく女の子と見紛うほどの美少年であった私は、親戚縁者の多い実家に帰省すると、それはもう、皆に猫可愛がりされるのであった。すると、それを見ていたそこの飼い犬がジェラシーの炎を燃やし、田舎であるが故に(なぜ「故」なのかが今以て承服しかねるが、「故」らしい)常に放し飼いであったその犬に襲われ、逃げども逃げども止め処なく追い回されたのである。その後どうなったかの記憶はない。

 小学校のときは、皆でこぞって集団登校するのが慣例であった。その道中に、ヤのつく自由業の方のお屋敷があって、我々が通るときにそこの猛犬がガオガオと吠えてくるのが嫌だった。ある日、たまたま家を出るのが遅れ、一人走って皆の後を追いかけねばならないことがあった。何としてもあの犬屋敷までに皆に追いつかねばならない。私は必死に走った。盟友セリヌンティウスを待たせるメロスの如くに懸命に走った。遠くに目指す集団の隊列が見えたが、しかしそれは、犬屋敷を既に超えた地点であった。已んぬるかな、私は単身、犬屋敷の前を通過せねばならなくなった。一転、極力存在感を消して、忍び足で慎重に歩みを進めた。もう少し、あと少し……というところで、この猛犬の視界に入ってしまった。敵が一人と見るや、いつにも増して激しい吠え方をしてきた。けれど、屋敷内から飛び出してくることはあるまい、ここはいち早く走り去ろうとダッシュをかけた瞬間、猛犬は公道に躍り出てきたのだ。またしても、放し飼いの犬に襲われるの巻である。私は断末魔の叫びを上げながら猛然と走り、遂には目指す集団を追い越すまでに駆け抜けた。あまりの顛末に、友達の誰かが、飼い主であるヤのつく自由業の方を呼んでくれ、九死に一生を得た。

 という訳で、私はこの歳になっても犬への恐怖を拭うことができず、従って当然ながら犬というものと生活をともにしたことが一度もないし、この先永劫にする予定もないのであるが、あるとき、内儀の実家に行く用が発生した。そこには犬がいる。内儀が仕事先でドックフードのサンプルを大量にもらったらしく、「中丸に持って行ってあげよう」ということで召喚を受けたのである。「中丸」というのは実家のその犬のことで、正しい名前は「ゆめ」と言うのだが、某ジャニーズグループに狂信的にのめり込んでいる内儀が独自に命名し勝手にそう呼んでいるものである。これだけでも十分どうかしているが、それより何より、犬のいる家に行かねばならぬことに、私は大変な戦慄を覚えたのである。

 だが、内儀の実家と折り合いが悪い訳でもなく、訪問を拒む理由もないので、しぶしぶながら伺うことにした。家の玄関の前に立った時点で、2階のベランダから「中丸」が苛烈な勢いで吠えてくる。ほら、「吠」という漢字は“口偏に犬”って書くではないか。この会意文字の構成がインパクト満点で十分に怖い。それによく考えれば、他の動物なら「鳴(啼)く」と表すのに、犬にだけ特別な単語が与えられている。このことに世の人々はもっと思いを致すべきではなかろうか。

 恐る恐る家に上がったのだが、「中丸」はガルルと言うだけで私をガン見こそすれ、決してこちらに近寄ってこようとしない。義母曰く、「この子はあかんたれでねぇ」とのことで、「中丸」が私に吠えかかってくるのは見ず知らずの私に対して怯えているのだとか。怯えているのはこっちの方であるが、犬が吠えるのは威嚇行為に他ならないと思っていた私には、これは少々驚きだった。最初は顔を忘れてしまい、内儀にすら警戒心を示したほどのあかんたれぶりである。聞けば、雷鳴が轟くと号泣して(本当に涙を流すらしい)震えているとか、内儀が実家に置いていったリラックマのぬいぐるみが大好きでボロボロにしてしまったとか、「中丸」だけの話なのかどうか分からないが、犬って意外とかよわいのよねと、変に感心してしまった。

 目をとろんとさせて睡魔と闘いつつ、しかし私への警戒を片時も緩めることのない「中丸」は、私が帰るまでは何があっても眠らないと言わんばかりにガン見を続けてくる。こんなにキミのことをビビッているこの私がそんなに怖いのかねと、だんだん可哀想になってきたので、2時間ほどの滞在の後、そそくさと辞去した。その後、ほっとした「中丸」は、直ちに眠りに落ちたという。

 やはり犬と仲良くはなれなかったが、獰猛としか思っていなかった犬の弱さを知って、ちょっとだけ認識が改まった1日であった。
 仕事柄(今度こそは本当に仕事柄)、社外の人に会う機会が多い。弊社は業態の特性上、全国各地に事業所が多店舗展開され、1つの拠点にいる社員は多くてもせいぜい10名程度であって、その全員が一堂に会する機会はそうそうないものであるから、現業にいるときは「人脈」というのは専ら社内で広げるものという認識を持つ者が多い。私も実際そうであったが、管理職(しつこいが中間)になって販管部門に異動になったとき、そんなものを「人脈」などと臆面もなく口にしていたことを大層恥じたものである。幸い、それからは社外に文字通りの「人脈」を広げる機会を多く得て、ファイル数冊分に及ぶ名刺のストックを見てみても、教育、出版、人材開発、人材派遣、法務、労務、広告、マーケティング、コンサル、イベント企画、商社、官公庁、住宅メーカー、不動産、医療、製薬などなど、弊社の業種に一体何の関係があるのかというものまで、多種多様な人脈を得ている。

 以前、ある会合で、初対面の、それも地位の高い人に、「ご無沙汰しています!」と言われ、いくら私が「?」という顔をしても、「いやぁ、本当にご無沙汰しておりまして……」と言われ続け、そのうち、この方のご尊顔を失念しているのは自分の方ではないかと不安になってきて、次第に後に引けなくなり「そうですよねぇ、あのときはこんなことがありまして……」などと口から出任せを言っているうちに、「ところで今はどちらにいらっしゃるんですか?」と訊かれ、「鶴見区の方でマネージャーをやっております」と言ったが最後、「それはそれは! 新しいお名刺を頂戴してもよろしいですか?」と言われたので差し出して初めて、「……大変申し訳ありません、とんだお人違いをしておりました」というオチに至ったことがある。適当に話を合わせてその場を乗り切ろうとしたヘタレはこの私でした。あのときは舌を噛み切って果てたかったです。

 逆に、年に1~2回しかお会いしないけれど、毎年お目にかかるから当然覚えてくださっていると思って愛想良く、あるいは馴れ馴れしく接していたら、急に、「ご挨拶が遅れました。私、○○○の、○○と申します」と名刺を差し出されたときの悲しみと言ったらないのである。しかもこのやり取りは毎年繰り返されるので、いい加減面倒になって、毎年会っている人に「初対面のふり」をするというとんでもなく不毛なことを恒例行事として終生継続せねばならなくなっている。そんなに私は印象の薄い人間でしょうか。

 こうして顧みるに、人との付き合いは「広く浅く」を旨としてきた私は、自身の存在感というものをなかなか示せていないことに、改めて気づかされるのである。それが証左に、一度、潰瘍を患って会社を1週間ほど休んだことがあるのだが、病が癒えて出社したとき、「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」と述べたところ、周囲は私の1週間の欠勤を誰も知らなかったということがある。ここまで自分の存在感は薄いものかと、これには大層仰天した。この調子なら恐らく、私が横死するようなことがあっても誰にも気付かれず、あたかも世を儚んでどこかの砂漠に穴を掘ってそこに自身の体を沈め、風で砂が埋まるまでじっと待ち続け、ひっそりと永訣を図る世捨て人の如き犬死になってしまうではないかと気が気でないのである。故に、自身の人生の最終目標は、職場で突然喀血し、紅(くれない)に染まった自身の掌を見て「なんじゃこりゃー!!」と叫んだ上で事切れるという、「殉職」である。

 しかるに、自身がその人生を終えなんとするとき、この世に如何ほどの存在価値を残せたのかはやはり気になるところで、「いてもいなくてもよかった」というのであれば、これは全く浮かばれない話である。何としてもそこに自分が存在した証を残したい。これは誰かがそうしてくれる類のものではなく、自らが自らの存在価値を創造するしかないのだ。

 ならば如何にして自らの存在価値を創造するか。Wikipediaによると、存在価値とは「他者に対する自己の相対的優越性」とされている。何ということだ。「優越性」なんてそんな大それたなものを欲しているのではない。「あなたがいてくれてよかった」と、それだけ言ってもらえれば十分なのである。しかし、それを言ってくれるのは他者に他ならないのだから、他者との関わりの中でのみ、自分の存在価値(その言い方が大仰であるならば「存在感」でもよい)が創造されることは明らかである。随分平たい表現しかできないのが情けないが、「他者を大切にすること」、そこにこそ答を見出すべきであろう。

 マザー・テレサは、「愛の反対は、憎しみではなく、無関心である」と言ったという。蓋し、これは大いなる名言である。周りには確かに人がいるのに、その誰からも関心を示されず、孤独を覚えねばならぬ状況があるならば、これ以上の残酷さはあるまい。

 だからこそ、自身に関わる全ての人たちに関心を持ち、そしてその人たちが存在することそれ自体に感謝の念を持ちながら、自分という人間がこの世にいた意味を見出したいのだ。極めて些細なことではあるが、そんな思いで私は、例えば相手が忙殺を極める人で無視されたとしても、大きな声で挨拶をしたい。例えば人が自分のところに用向きを持ってくれば、必ず立ち上がり、その人の方を向いて対応したい。例えばしんどそうにしている人がいれば、「どうしたの? 大丈夫?」と声を掛けたい。例えば苦しんでいる人がいれば、何もできないかもしれないけれど、せめて話だけでも聞いてあげたい。例えば飲み会の誘いがあれば、なるべく断らないで、人を選ばないで参加したい。例えばメールが来れば、「承知しました」の1文であっても、必ず返信をしたい。例えばmixiやFacebookなどのSNSで、たとえ自分のページは閑古鳥が鳴いていたとしても、マイミクや友達のページには足繁く通いたい。例えば面倒くさいとぼやきながらも、毎年の年賀状は欠かさず出したい。

 自らが行動を起こすことでしか、自らの存在感は示せないのだ。5月の連休を前に、誰からも相手にされない孤独から身を守るべく、そんなことを考えるのであった。マザー・テレサから一気に卑近な話に落としてしまったのはお許し願いたい。ちなみに、内儀は連休中も仕事なので、家庭の中にあっても私は孤独である。
 室生犀星に『小景異情』という作品がある。故郷に対する愛憎相半ばする想いを詠った抒情詩であるが、「ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ/そのこころもて遠きみやこにかへらばや/遠きみやこにかへらばや」に表される静かな激情は胸に迫るものがあり、高校の現国の教科書で初めて目にしてから既に20年余が経つが、今尚諳んじて言える詩の1つである。

 私は齢38歳であるが、引っ越しは7回経験している。平均すれば5年半弱で住居を変えていることになる。また、出身地は「大阪府枚方市」ということにしているが、これは出生届を提出し、最初に暮らした場所ということでそうしているのであって、母親の胎内から出てきた場所は広島市、結婚するまで置いていた本籍地は岡山県川上郡(現・高梁市)である。ジプシーの如き生活を送ってきた私には、自分の故郷と呼べる場所がこれといってないのだ。

 これはよく考えれば大変に悲しいことであって、例えば、間違って私が何らかの偉業を成し遂げ、「故郷に錦を飾った」ということで顕彰を受けなんとする場合、一体どこの自治体が名乗りを上げてくれるのであろうか。

 帰属意識の必要に迫られないことは、それはそれで気楽でよいのだが、いざというときに拠り所がないというのはやはり淋しいものである。私の場合は「大阪人でありたい」というアイデンティティがどこかにあるのであって、しかるに土着民ではない自分を大阪人たらしめるものは何であるかというと、「大阪弁を操ること」以外に答えが見出せない。つまり、流浪の民が異郷の地にあっても最後に拠り所とできるものは「方言」しかないと思うのだ。

 ところが、ネイティブでないのにご当地の方言を喋ろうとする者の何と多いことか。

 自らがそうであることに強いアイデンティティを持つ大阪人、あるいは関西人(本来、「大阪」と「関西」は厳然と区別しなければならないのだが、面倒くさいので以下同義語として混用する)は、殊に東京に対する対抗意識が強いと言われ、自ら望んで東京進出を果たすことですら嫌われるのに、「……だよねー」とか「……じゃん」とか喋ろうものなら、「東京に魂を売った」などと苛烈な糾弾を受けることは必定である。事ほど左様に大阪弁に対する思い入れが強いのが大阪人であるが、これが方言というものに対する本来のあり方であろう。

 しかし、関西の大学にいると、地方出身者の多くは次第に関西弁を喋り始めるようになる。そのうち「俺はボケ担当」と相方もいないのに言い出して(しかも不思議なことに大概の者は「ボケ担当」を選ぶ)、実に下らぬことを高歌放吟に及ぶ者まで出てくる(駄洒落をびっしり書き連ねた「ネタ帳」なるものを持ち歩いている猛者さえ見たことがある)。これは一体何としたものであろう。彼らや彼女たちは、盆や正月に地元へ帰ってもやはり関西弁を喋るのだろうか。そして「ふとんがふっとんだ」などと口走った上に、「これが大阪の笑いやねん」などと訳知り顔に言うのだろうか。そんなことをして地元で「関西に魂を売った」と詰られたりはしないのだろうか。

 それに関西弁のイントネーションはそのほとんどが共通語と逆であるという、相当特殊なものであるから、そうやすやすと習得できるものでもないはずだ。「アカン」「ナンデヤネン」などと言葉の上はそれらしくても、聞く者が聞けばネイティブではないと一発で峻別できるし、あの、おかしな歌を聞かされているような奇妙な抑揚は何としても耳に障るというのが正直なところである。毎年10月から始まるNHKの朝ドラを見ていればよく分かろう。一線級の大物俳優を以てしても、ベテランの方言指導を付けても、ダメなものはダメなのである。

 こんなことを言うと、大阪人は何て排他的だとお叱りを受けるかもしれない。懸命に「大阪人」になろうとしている者の健気な思いを踏み躙る鬼の所業だと指弾されるかもしれない。しかし、よく聞いてほしいのだ。あくまで「おかしな大阪弁に対して排他的」なのであって、“母国語”を大切に固守する人たちを排他になど決して及ばない。少なくとも私はそうである。大学時代の同級生だった、中国地方出身のK君は今も関西に暮らし、嫁も関西の人間をもらっていて、この間かれこれ20年が経とうとしているが、相変わらずお国の言葉を全く自然に用いている。そしてK君の渾名は「ジャロ君」である。また、九州出身で大学も九州、社会人になって初めて大阪に出てきて社会科の教師をやっているSぴょんという女子は、生徒を褒めるときに「そうたい!そうたい!」と満面の笑みを浮かべながら高らかに地元の言葉を口にするが、子どもたちに慕われて止まない名先生である。

 と、批判めいたことをひとしきり書き連ねているうちに心苦しくなり、はたと冒頭の室生犀星の詩に戻るのである。私生児として生まれ、不幸な星の下に育った若き日の犀星は、血の繋がらぬ母との反駁の末に故郷を飛び出す。それは1つの決意であり不退転の覚悟でもある。しかし「異土」は決して自分を受け入れてくれようとはしない。孤独はますます深まるばかりで、さりとて「遠きみやこ」に自らの帰る場所もない。「都」と「みやこ」の間で彷徨う彼は、「よしや/うらぶれて異土の乞食(かたゐ)になるとても/帰るところにあるまじや」と壮絶な叫びを上げる。これはもう、「故郷との訣別」である。訣別した上で、「遠きみやこにかへらばや」と痛切なる望郷の思いを詠うのだ。

 1990年代の初頭だったと思うが、JR東海のCMに、「ファイト!エクスプレス」というシリーズがあった。「シンデレラ」の方があまりに有名でその陰に隠れている感があるが、これはこれで一種の抒情詩と言える秀作であった。そのシリーズの中に、「父の手紙」という作品があって、尾崎豊の『I love you』をBGMに、進学で故郷を離れ上京する3人の若者を描くのだが、その1人に宛てた父の手紙の内容が鮮明に思い出される。ナレーションは、室田日出男である。

 「お前は、新しい街で生きていくことを選んだ。その街でお前は、お前が捨てていくもの、置いていく人たちに、恥ずかしくない何かを掴め。それができるまでは帰ってくるな。自信が持てるまでは帰ってくるな」

 そう、故郷を飛び出した者は、「何かを掴む」までは、帰ってはいけないのだ。強い心を持って、故郷と訣別せねばならぬのだ。「方言は故郷を離れた者にとっての拠り所」と述べたが、それをこそ捨てての、故郷との訣別なのである。だから、発音がおかしいだの、イントネーションが狂っているだの言われても、それでも必死に“異国語”を喋ろうとするのだ。そこには実は、哀しいまでの望郷の思いが秘められていて、人知れず「遠きみやこにかへらばや」と落涙するのであろう。

 故郷を持たぬジプシーには、所詮その程度の想像力しか働かないのが、何だかとても申し訳なくなってきた。
 もう20年くらい前の作品で恐縮であるが、原田宗典のエッセイ集に『十七歳だった!』というのがある。氏のエッセイは軽妙な独特の筆致が好きで一時はよく読んでいたものであり、私が自身の駄文において「……なのだった」という文末表現を好んで用いるのは恐らく氏の影響である。

 この『十七歳だった!』は、氏が岡山で暮らしていた高校時代の思い出を面白おかしく綴った、抱腹絶倒の作品である。久しぶりに再読してみたが、全く色褪せることなくその滋味を堪能できた。私も岡山に住んでいたことがあるので、一致する記憶の中の情景が多々あって、余計楽しめたのかもしれない。

 本をよく読む割にはレビューを書くのが大層苦手で、苦悶しつつ認(したた)めたグダグダの紹介文をお見せするより、文庫版の内容説明を引用した方が断然適切な紹介になろうと思うので、勝手に借用させていただくと、「17歳。楽しくてムチャムチャ充実している一方で不満だらけ。自意識過剰で、恥しく(原文のママ)って、キュートな愛すべき時代。身悶えしながら書いた恋文で呼び出し川原での早朝デート。不良志願の第一歩、隠れ煙草。下半身の“暴れん坊将軍”に苦しめられ、深夜の自動販売機で決行するエッチ本購入作戦。カッチョ悪い小豆島家出事件の顛末。思い出すたび胸の奥が甘く疼く、ハラダ君の愉快でウツクシイ高校青春記」と、不惑を目前に控えた今でも、何かもう、胸がきゅーんとなるような、青春の甘酸っぱさやらほろ苦さやらが蘇ってくる作品なのである。

 ここに描かれている高校とは、岡山県立岡山操山高等学校のことで、「岡山五校」と呼ばれる進学校の一角を占める名門である。私の出身は、この岡山操山と双璧とされ、「岡山五校」の筆頭とされる、岡山県立岡山朝日高等学校である。東大・京大にそれぞれ現浪合わせて20名前後が合格するのだから、地方の公立高校としてはレベルの高い部類に入るだろう。『サンデー毎日』などを見ていても評価が高いようである。卒業生として、誠に誇らしきことである。

 と自慢気に述べてみたが、かかる栄光は遠い昔及び近年の話であって、肝心の私の卒業年度は、歴史上最も多い508名を擁する学年でありながら、東大3名・京大8名と、卒業生数が6割くらいに減っている近年の実績の半分以下である。ちょっと前までの子たちがゆとりゆとりと虐げられていたのを思うに、第二次ベビーブームの頂点たる我々の方が余程ゆとりだったのではないかと甚だ心苦しく思う。その原因というか背景として、「総合選抜制度」というのが上げられる。先述した「岡山五校」の5つの高校が一括募集を行い、成績で振り分けが行われて学力や男女比が平準化されることで、各校間の格差を解消するというもので、かつては割と全国各地で見られた制度である。

 私如きがかくも輝かしき名門伝統進学校に入学できたのも偏にこの制度のおかげであるが、歴代OBにとっては途轍もなく忌まわしい制度であったらしく、1999年にこの制度が廃止され、単独選抜に変わったとき、同窓会の副理事長がHPで、「総合選抜制度の呪縛から解き放たれ、文字通りに『昇る朝日』の再来云々」と挨拶を述べているのを見たときには、自身がこの学校の卒業生であることを心底申し訳なく思った。獅子身中の虫扱いされた卒業生の一人としては、各界でご活躍の先輩お歴々の面目をお保ち申し上げるためにも、今後終生、同窓会への出席は謹んでご辞退申し上げる所存である。

 などと悪態を突いてみたが、私もその時期にたまたま岡山に住んでいただけのことで、流浪の民に郷土愛や愛校心などは無縁のことである。そして申すまでもなく、私は底辺を這いずり回っていた落第生であった。そうではあったけれども、青春時代を振り返って、いつがいちばん楽しかったかと言えば、迷う方なく「高校時代」と答えると思う。

 『十七歳だった!』で綴られるようなネタまみれの3年間ではなかったけれども、平民以下ならではの鬱屈故か、文化祭や運動会の後は打ち上げに興じ、修学旅行の就寝後は目くるめく男女の逢瀬が重ねられ、学校の裏山で煙草を蒸したり街中に繰り出してカラオケに行ったりと、それなりのやんちゃもやった。好きな子に振られた男女が夜な夜な飲み歩いて傷を舐め合い、そして深夜の公園でしんみりと語り合い、気が付けば深夜2時で、高校生の分際でタクシーで帰宅、こっちは、親は我関せずとばかりに熟睡中なるも、女子の方は、両親が玄関で正座して待ち構えていて直ちに修羅場を迎え、翌朝学校で会ったときには彼女の顔は2倍に膨れ上がっていたという“事件”もあった。なお、この男女がくっ付けばよかったのではないかというご意見があるやもしれないが、そう上手くいかぬのは何かの因果であろう。

 そんな高校時代ではあったが、皆きちんと進学し、一応全うな社会人をやっているのであろうから、時効ということでご容赦願いたい。それに、壮年となった今回顧すれば、その一々が何とも小っ恥ずかしい思い出ばかりであるが、『十七歳だった!』の一節から引用させてもらうならば、「青春とは大きな誤解だッ!」なのであって、当時はそれが高校生の矜持くらいに思ってやっていたやんちゃなのであるから、それはそれで充実した高校生活であったと言うべきであろう。未熟なくせに粋がっているだけの時代ではあるが、しかしそれだけに、「青い春」とはよく言ったものであろうと思う。
 前回、「先生への憧れ」について述べたが、現実はそう甘いものではないらしく、私が現業でマネージャーをやっていたときに働いてくれていた当時の学生バイト君たちのうち、結構な数がその後教職に就いたのだが、その約半数が既に退職した。「君たちに俺のかつての夢を託すよ」と餞を述べたのは一体何だったのかと思うが(しかし述べられた方は大変な迷惑であろうが)、聞けば理由は例外なく、モンスターペアレントの存在である。

 また、先頃の報道によれば、大阪府の教員採用試験の合格者の13.4%が辞退したという。府の「教育条例」の影響とも言われているが、他府県の教員に採用が決まったという53%を差し引いても、残りの47%はそれ以外の道を選んだ訳で、夢を持つことに対して否定的に映るようなことを述べながら矛盾したことを言うようで憚られるが、「夢」ってそんなものかね、と、夢破れた者は思う。

 そもそも、教職を志す者たちはそれぞれに「先生のあるべき姿」についての自己像を持っているのであろうか。

 試みに、「先生」ということばの意味を、手元の辞書を引いて調べてみた。

 せんせい【先生】〔もと、相手より先に勉学した人の意〕指導者として自分が教えを受ける人。〔狭義では教育家・医師を指し、広義では芸術家や芸道の師匠なども含む〕 [運用](1)「先生と言われるほどのばかでなし」という成句があるように、必ずしも先生と呼ばれるのにふさわしくない人に対して、その自尊心をくすぐるために、また、軽い侮蔑・からかいの気持を込めて用いられることがある。例、「先生、先生とおだてられて至極ご満悦の体であった」 (2)教師が生徒に対して、一人称の代名詞として用いることもある。例、「先生のあとについて来てください」

 上記はこの世で最も語義の詳しい(と思っている)、三省堂の『新明解国語辞典』からの引用であるが、ここに「政治家」についての言及がないのが実に興味深い。同じ三省堂の『大辞林』には「師匠・教師・医師・弁護士・国会議員などを敬って呼ぶ語」との説明があるので、『新明解』の主幹の並々ならぬ意思が伝わってくる。

 いずれにせよ、一種の敬称であることは明らかであるので、「先生」と呼ばれる人はそれなりの人格や品格を兼ね備えなければならぬという矜持を持つべきというのは論を俟たない話であろう。

 さて、「敬称」に関して引っかかることがある。上記の『新明解』の[運用]の(2)がそれである。こういうことまで説明が及ぶのが新明解の新明解たる所以ではあるのだが、「先生」を一人称として用いることに、私は大いなる抵抗があるのである。なぜなら、くどいが「先生」は敬称なのであり、自らが自らに敬意を持って呼ぶというのはとんでもなく尊大なことだと思うからだ。比類の対象が卑近で申し訳ないが、『ドラえもん』のジャイアンが自らを「俺様」と呼ぶのと同じではないか。国語の歴史においても、自らに敬語を用いることが許されるのは、人間宣言以前の天皇のみである。

 「子どもたちに対してイニシアティブを取るためにも必要不可欠な手法」とその必要性を説く人もいる。しかし、そうしなければイニシアティブが取れないというのもおかしな話で、あるべき姿は繰り返すが人格や品格を兼ね備えることである。

 されど聖人でも仙人でもない人の子に全人格性を求めるのも無体な話で、所詮、「不完全な人間が不完全な人間を教え導く」ことが教育の実際である。別に頽廃的なアイロニーを述べているのではなく、だからこそ、人の気持ちに思いを致せるとか、謙虚な心と感謝の思いを持って人に接することができるとか、そういう「人間らしさ」にこそ人は魅力を感じるのであろう。少なくとも私は、完全無欠の近寄り難きサイボーグより、ちょっと間抜けなところがあるような、そんな人が好きである。

 森昌子の往年の名曲では、たをやめぶりの七五調の美しき調べで、こう唄われている。

  淡い初恋 消えた日は
  雨がしとしと 降っていた
  傘にかくれて 桟橋で
  ひとり見つめて 泣いていた
  幼い私が 胸こがし
  慕いつづけた ひとの名は
  先生 先生 それは先生

 そうそう、「先生」は、人に慕われてナンボなのだ。

 そして自身を顧みれば、若い子にちやほやされなくなって既に久しい。歳は取りたくないものだ。