例えば、電車に乗っていて、別に誰でもよいのだが、まあ、前田敦子によく似た人がいたとしよう。思わずTwitterで「電車なう。今、前田敦子そっくりの女子高生が乗ってきた! かわいいww #前田敦子」とつぶやいてみる。ハッシュタグをクリックすると、同じことをつぶやいている人がいるではないか。ふと顔を上げると、向かいの席に、ケータイを持ったまま、こっちを見て微笑んでいる女性が座っている。一目合ったその日から、恋の花咲くときもある……。
とまあ、くだらない妄想をしてしまったが、パソコンやケータイというものが普及すらしていなかった青春時代を過ごした者からすると、SNSというものを考え付いた人は、本当に凄いと思う。
既に死語であろうので、使うのも憚られるが、Web2.0というのは、ネット社会における1つの大きな転換点であった。誰もが情報の発信者となり得て、世相を斬ったり諸問題を世に問うたりする高尚な内容から、そんなことを人に言って聞かせて一体どうするんだという他愛もない日常の出来事に至るまで、実に大量の、しかも極めてパーソナルな情報が、ネット上を駆け回っている。
ブログにしてもつぶやきにしても、そもそもは日記なのだから、本来人に見せることを前提とするものではないし、また、すべきでないという意見もあろう。しかし、現存する日本最古の日記と言われる『土佐日記』はどうだろう。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」はあまりに有名な冒頭の一文であるが、男である紀貫之が女のふりをして書くというのは、取りも直さず人の目を気にしてのことであり、その嚆矢からして、既に人に読まれることを前提に日記というものが書かれていたのだということが分かる。
今も学校の現場に残っているのか分からないが、小学1年生のときに『あのねノート』というものがあった。「せんせい、あのね。ぼく、きゅうしょくだいすき。まだいちどものこしたことないんだよ」という具合に、担任教諭に対して独白を行い、それに対して担任が返信を行うという、一種の交換日記のような国語科の指導である。「せんせい」に「あのね」とタメ口を利くことが指導上正しいのかどうかという疑問は残るが、義務教育において恐らく初めて「文章を書く」ことに当たらせるのがこの『あのねノート』である。日記にしても作文にしても、「何を書いてよいのか分からない」と苦手に思う子どもはいるものだが、私などは、その内容や巧拙は別にして、この「担任からの返信」が楽しみでやっていたところがあったように思う。
発信者は受信者がいてこそ成立するものであり、「書きたい欲求」はことばを変えれば「聞いてほしい欲求」と言えよう。蓋し、Web2.0を加速させたのは他ならぬこの「聞いてほしい欲求」なのであって、SNSというものが流行るのも、源流はこの『あのねノート』にあるのかもしれない。
しかるに、SNSが『あのねノート』と決定的に違うのは、1対1ではなく、1対多であることである。相手が「多」であってもこちらの「聞いてほしい欲求」は変わることはないのだが、その相手の全員がそれを「聞きたい」と思うかは当然ながら別問題である。ここに、ネットの世界におけるコミュニティ形成の難しさがある。内輪ネタで盛り上がって、図らずも関わりのない人を排除してしまうこともあろう。愚痴や批判を書き連ね、イエスマンだけで盛り上がってアンチが疎遠になっていくこともあろう。そもそも趣味や思想が合わないことだってあるだろう。
かくして「聞いてほしい欲求」はネット社会の意図しない残酷な人間性によって打ち砕かれ、「mixi疲れ」ということばに代表されるように、ネットの世界においてさえ孤独を覚えてそれ自体への関わりを自ら絶ってしまうことになるのである。対人関係に問題を抱える者がネットにのめり込むというのはよく聞く話だが、実は、リアルの世界で人と上手くやっていけない者は、ネットの世界においても、やはりコミュニケーションが取れないのであろうと思う。
こうして考えると、SNSというものは何と脆弱で危険なコミュニティであることよと、戦慄すら覚えてしまうのである。余程気をつけてやらないと、自らの手で自らを孤独へと追い込んでしまうのだ。ならばそんなものやらなければよいではないかというご意見もあろうが、しかし、「聞いてほしい欲求」は、文字というものを手に入れて以来の人間の本質的な欲求であるし、少なくとも私の場合は、書くことを止めることは思考することを止めることと同義であるので、それをやってしまったら死んでしまうに等しいのである。孤独であろうが何であろうが、結果的に独白になってしまっても、発信することを止めることはできないのである。地味にして孤高な人間の営みである。
小学校のとき『あのねノート』をやり取りした、若くて美しかった担任も、恐らく定年を迎えなんとしておられることであろう。38歳の今、再び、「せんせい、あのね」とメッセージを認(したた)めたら、先生は一体、どんな返事を書いてくださるのであろうか。
九州の起点、門司の発車は5時01分である。大阪を2時間以上も後に出た、同じ長崎行きの特急「あかつき2号」が、門司発車の時点で8分後にまで迫り、博多到着に至ってはこちらより4分早い。すなわち門司~博多間のどこかで「あかつき2号」に追い抜かれるのだが、時刻表の上ではそれがどこなのか分からない。どこかで客扱いをせずにひっそり止まって、後から来た特急にそっと道を譲るのである。時刻表をよく見ると、既に岡山で「明星2号」、糸崎で「明星3号」と「あかつき1号」、西条あたりで「彗星2号」に抜かれており、これで5本の後続列車に道を譲ったことになる。これぞ急行のしおらしさとでも言うべき姿であって、「あかつき」でなくこの「雲仙」を選んだのには、何か自分の姿を重ねるところがあったのだと思う。
鹿児島本線をひた走り、6時15分、博多到着。言うまでもなく九州を代表する街である。前夜、大阪駅で買い貯めた食糧もひもじいもので、途中下車をしてラーメンの一杯でも食したいところだが、早朝から屋台で麺を啜るのもどうかと思い(大体早朝営業の屋台などあるのか?)、今回は見送ることにする。ところで駅名は「博多」であるが、行政上の都市名は「福岡」である。中学時代の修学旅行で一度訪れた街であるが、バスガイドのお姉さんに、福岡vs博多の熾烈な名称争いの話を聞いたのを思い出した。市制施行は1889年のことだそうだが、互いに相譲らぬ「福岡派」と「博多派」が闇討ちをし合ったという恐ろしい出来事まであったのだそうだ。この人たちが、平成の世の「つくばみらい市」とか「南セントレア市」などのキラキラ名称を見たら、一体どう思うのであろうか。
6時56分、鳥栖着。ここから西へ分かれる長崎本線に入る。11分の停車中に、横を西鹿児島行きの特急「なは」が通過していった。沖縄返還は3年前に実現したが、その前から沖縄の本土復帰を願って名付けられた名前だそうで、他に上がった候補には「おきなわ」「しゅり」「でいご」「ひめゆり」があったという。固有名詞なのに抒情的なのは一体どうした訳だろうか。遠く琉球の人々の切なる思いが偲ばれる。
県庁所在地なのにどこか影の薄い佐賀には7時30分の到着。博多からわずか1時間と少しであり、大阪から姫路よりも近い。口の悪い芸能人がテレビで「佐賀は福岡の植民地」などと言っているのを聞いて、佐賀県民は本気で憤るべきであると思ったものだが、さて、現地の人たちはどう思っているのであろうか。わずか1分で発車というのも、県の代表駅としての面目がないような気がする。
そして7時46分、肥前山口に到着。大阪から13時間以上を共にしてきた妹分の佐世保行き「西海」とは、ここでお別れである。他にも、寝台特急「さくら」「あかつき」、昼行の急行「出島」と「弓張」(後の特急「かもめ」と「みどり」)、そして普通列車でも、この駅で分割併合するものが多い。一日中、列車がくっ付いたり離れたりを頻繁に繰り返す駅もそう多くはあるまい。なぜか「俺とお前はお風呂のおなら 前と後ろに泣き別れ」という都々逸が思い浮かぶ。
妹分を置いて、兄貴分の「雲仙」が先に発車。針路を南へ変え、朝の光が気怠い車内に差し込んでくる。8時07分の肥前鹿島を出ると、左手の車窓には有明海が広がり、ここから諫早までの約1時間、途中の停車駅もなく、海岸線をうねるようにのんびりと走る。門司~博多間で抜かれた「あかつき2号」の後塵を拝する形であるが、こちらの乗客は我関せず、閑散とした車内はまるで午睡の雰囲気である。それに有明の海も所詮干潟なのであって、それもこの澱んだ空気の演出に一役買っているような気がする。このスローな空気は、急行列車でないと似つかわしくない。
いつの間にか、佐賀県から長崎県へ入ったと気づくのは、島原半島に聳え立つ雲仙岳の姿を見たときであった。16年の後に、この頂から火砕流が流れ落ちようとは、このとき誰も知る由はなく、その名を頂いた急行列車は、相変わらずぼんやりと走り続けるのみである。9時53分、左へ大きくカーブして、諫早に到着する。この先、大村湾沿いに走る旧線と、山間部をショートカットする新線とに分かれるが、スローな旅のはずのこの急行も、ここだけはさすがに新線を駆け抜ける。
いくつかの長いトンネルを抜け、旧線と再び合流して、10時16分、浦上に到着。既に長崎の市街地であり、平和公園や浦上天主堂などへはこの駅の方が近い。駅前には路面電車も走っている。空ろに過ごしていた客たちもようやく重い腰を上げ、10時19分、大阪から15時間39分の長旅を終えて、急行「雲仙」は、長崎のホームに滑り込んだ。新幹線の博多開業の影響もあるのだろうか、降り立った人は疎らである。けれどもホームは軒並み長く、東京や京都・大阪からやってきた夜行列車の終点としての風格は十分。改札を出て、振り返って仰ぎ見る大きな三角屋根の駅舎もまた、終着駅の堂々たる佇まいだ。しかしこの象徴的な駅舎も、25年後の2000年には、大きなドーム状の屋根に覆われた、近代的な建物に生まれ変わる。
社会科で学習した長崎は、江戸時代の鎖国政策の中にあっても海外貿易を許され、世界に開けた港町として活況を呈していた。今でも街の方々にその名残が認められるが、「港町」のイメージがあまりに強過ぎて、周りを山に囲まれた狭隘な市街地だったのは少し意外だった。グラバー園や大浦天主堂などを巡って、坂本龍馬ら亀山社中の人たちに思いを馳せ、博多でラーメンを断念した分、皿うどんを心行くまで堪能し、夜は稲佐山に登って、長崎の美しい夜景を愛でようと思う——。
「雲仙」は、この5年後、1980年10月1日のダイヤ改正で、妹分の「西海」とともに、姿を消す。その後、1900年代初頭に臨時列車として一時復活するが、これも知らぬ間に運転取り止めとなり、2009年3月の「はやぶさ」「富士」の廃止で、九州方面への直通夜行列車そのものが全廃となった。来年の10月には、九州を一周する豪華寝台特急「ななつ星」が走り始めるそうで、死ぬまでに一度は乗ってみたいと思うのであるが、吝嗇を旨とする者にとって、夜行列車への追憶は、古い時刻表の中でしか叶わぬものなのである。
※「夢十夜」と銘打ったくらいなので、今後も不定期であちこちを駆け巡ってみたいと思います。勿論、妄想の世界で。
鹿児島本線をひた走り、6時15分、博多到着。言うまでもなく九州を代表する街である。前夜、大阪駅で買い貯めた食糧もひもじいもので、途中下車をしてラーメンの一杯でも食したいところだが、早朝から屋台で麺を啜るのもどうかと思い(大体早朝営業の屋台などあるのか?)、今回は見送ることにする。ところで駅名は「博多」であるが、行政上の都市名は「福岡」である。中学時代の修学旅行で一度訪れた街であるが、バスガイドのお姉さんに、福岡vs博多の熾烈な名称争いの話を聞いたのを思い出した。市制施行は1889年のことだそうだが、互いに相譲らぬ「福岡派」と「博多派」が闇討ちをし合ったという恐ろしい出来事まであったのだそうだ。この人たちが、平成の世の「つくばみらい市」とか「南セントレア市」などのキラキラ名称を見たら、一体どう思うのであろうか。
6時56分、鳥栖着。ここから西へ分かれる長崎本線に入る。11分の停車中に、横を西鹿児島行きの特急「なは」が通過していった。沖縄返還は3年前に実現したが、その前から沖縄の本土復帰を願って名付けられた名前だそうで、他に上がった候補には「おきなわ」「しゅり」「でいご」「ひめゆり」があったという。固有名詞なのに抒情的なのは一体どうした訳だろうか。遠く琉球の人々の切なる思いが偲ばれる。
県庁所在地なのにどこか影の薄い佐賀には7時30分の到着。博多からわずか1時間と少しであり、大阪から姫路よりも近い。口の悪い芸能人がテレビで「佐賀は福岡の植民地」などと言っているのを聞いて、佐賀県民は本気で憤るべきであると思ったものだが、さて、現地の人たちはどう思っているのであろうか。わずか1分で発車というのも、県の代表駅としての面目がないような気がする。
そして7時46分、肥前山口に到着。大阪から13時間以上を共にしてきた妹分の佐世保行き「西海」とは、ここでお別れである。他にも、寝台特急「さくら」「あかつき」、昼行の急行「出島」と「弓張」(後の特急「かもめ」と「みどり」)、そして普通列車でも、この駅で分割併合するものが多い。一日中、列車がくっ付いたり離れたりを頻繁に繰り返す駅もそう多くはあるまい。なぜか「俺とお前はお風呂のおなら 前と後ろに泣き別れ」という都々逸が思い浮かぶ。
妹分を置いて、兄貴分の「雲仙」が先に発車。針路を南へ変え、朝の光が気怠い車内に差し込んでくる。8時07分の肥前鹿島を出ると、左手の車窓には有明海が広がり、ここから諫早までの約1時間、途中の停車駅もなく、海岸線をうねるようにのんびりと走る。門司~博多間で抜かれた「あかつき2号」の後塵を拝する形であるが、こちらの乗客は我関せず、閑散とした車内はまるで午睡の雰囲気である。それに有明の海も所詮干潟なのであって、それもこの澱んだ空気の演出に一役買っているような気がする。このスローな空気は、急行列車でないと似つかわしくない。
いつの間にか、佐賀県から長崎県へ入ったと気づくのは、島原半島に聳え立つ雲仙岳の姿を見たときであった。16年の後に、この頂から火砕流が流れ落ちようとは、このとき誰も知る由はなく、その名を頂いた急行列車は、相変わらずぼんやりと走り続けるのみである。9時53分、左へ大きくカーブして、諫早に到着する。この先、大村湾沿いに走る旧線と、山間部をショートカットする新線とに分かれるが、スローな旅のはずのこの急行も、ここだけはさすがに新線を駆け抜ける。
いくつかの長いトンネルを抜け、旧線と再び合流して、10時16分、浦上に到着。既に長崎の市街地であり、平和公園や浦上天主堂などへはこの駅の方が近い。駅前には路面電車も走っている。空ろに過ごしていた客たちもようやく重い腰を上げ、10時19分、大阪から15時間39分の長旅を終えて、急行「雲仙」は、長崎のホームに滑り込んだ。新幹線の博多開業の影響もあるのだろうか、降り立った人は疎らである。けれどもホームは軒並み長く、東京や京都・大阪からやってきた夜行列車の終点としての風格は十分。改札を出て、振り返って仰ぎ見る大きな三角屋根の駅舎もまた、終着駅の堂々たる佇まいだ。しかしこの象徴的な駅舎も、25年後の2000年には、大きなドーム状の屋根に覆われた、近代的な建物に生まれ変わる。
社会科で学習した長崎は、江戸時代の鎖国政策の中にあっても海外貿易を許され、世界に開けた港町として活況を呈していた。今でも街の方々にその名残が認められるが、「港町」のイメージがあまりに強過ぎて、周りを山に囲まれた狭隘な市街地だったのは少し意外だった。グラバー園や大浦天主堂などを巡って、坂本龍馬ら亀山社中の人たちに思いを馳せ、博多でラーメンを断念した分、皿うどんを心行くまで堪能し、夜は稲佐山に登って、長崎の美しい夜景を愛でようと思う——。
「雲仙」は、この5年後、1980年10月1日のダイヤ改正で、妹分の「西海」とともに、姿を消す。その後、1900年代初頭に臨時列車として一時復活するが、これも知らぬ間に運転取り止めとなり、2009年3月の「はやぶさ」「富士」の廃止で、九州方面への直通夜行列車そのものが全廃となった。来年の10月には、九州を一周する豪華寝台特急「ななつ星」が走り始めるそうで、死ぬまでに一度は乗ってみたいと思うのであるが、吝嗇を旨とする者にとって、夜行列車への追憶は、古い時刻表の中でしか叶わぬものなのである。
※「夢十夜」と銘打ったくらいなので、今後も不定期であちこちを駆け巡ってみたいと思います。勿論、妄想の世界で。
手元に、1975年3月の時刻表がある。当然、JRではなく国鉄の時代であり、山陽新幹線の岡山~博多間が開業したときの号である。読み物としてこれほど面白いものはない。時刻表や地図を「読む」という変わった趣味を持つ私であるが、時刻表を開いて「旅の空想」に浸り、地図を横に置いて、そこから見える風景を思い浮かべてみる。ネクラと言われようがヲタクと罵られようが、時間と金のない者にとっては、何より至福のひとときである。ましてこれが古いものになると、時空を超えた旅に出ることができるのだから、なお愉しい。
現在のJR京都線・神戸線を走る「新快速」は、当時は草津~姫路間の運行で、停車駅は石山・大津・京都・大阪・三宮・明石・加古川である。現在止まっている南草津・山科・高槻・新大阪・尼崎・芦屋・神戸・西明石は通過であるが、特に新幹線の拠点であり、在来線の特急も停車する新大阪を新快速が通過するのは、今ではおよそ考えられないことであろう。しかしこれは当時でも同じことで、父親が出張で新幹線に乗るとき、よもや新大阪を通過する電車などあろうはずもないと思って新快速に乗ったら京都まで連れて行かれてとんでもない目に遭ったと憤っていたことがある。けれどもよく考えれば今が止まり過ぎなのであって、国鉄・阪急・京阪とも、京阪間がノンストップであった頃が実に懐かしい。通勤電車に旅情を求めるのもおかしな話であろうが、途中駅での忙しない乗降がないのはゆったりできてよいのである。当時の新快速には喫煙車があったし、車内販売まであったらしいのである。
旅情という点で言えば、当時、国鉄には全国各地に「急行」が走っていた。スローな長旅には打ってつけであるのだが、今のJRからは昼間の急行が全廃され、夜行も北海道に辛うじて1本残るのみだそうである。この時刻表を読み解くと、大阪駅発着だけでも、山陽・九州方面は、宇野行き「鷲羽」、熊本行き「阿蘇」、長崎行き「雲仙」、佐世保行き「西海」、大分行き「くにさき」。山陰方面は、福知山線経由が城崎行き「丹波」、鳥取行き「いでゆ」、出雲市行き「だいせん」。姫新線経由は鳥取行き「みささ」と中国勝山行き「みまさか」。播但線経由は鳥取行き「但馬」。東に向けば、名古屋行き「比叡」、高山行き「たかやま」、長野行き「ちくま」、東京行き「銀河」。そして北へと向かうのは、金沢行き「ゆのくに」、富山行き「アルペン」、新潟行き「越後」、青森行き「きたぐに」と、これだけのラインナップがあった。旅好きにとっては、こうして行先と列車名を並べるだけでも胸が躍るものであるが、大阪発着の夜行がほぼ全廃となった今、特急の「サンダーバード」「しなの」「ひだ」を除けば、新快速が敦賀や播州赤穂まで行くのが最遠で、大阪駅のホームに立っても、遠く彼方の地に思いを馳せることはできなくなってしまった。
ならばせめてと、古い時刻表と地図を広げ、空想(妄想?)の旅に出かけてみようと思う。
さあ、ここは1975年6月4日、18時過ぎの大阪駅。今は「4番線」になった2番線で、長崎行き急行「雲仙」を待つことにしよう。36年後、ここの天空に大屋根ができるなどと、誰が想像しただろうか。18時19分。機関車に曳かれて、ブルーの車体の客車列車がホームに滑り込む。荷物車1両を含む前の7両が長崎行き、後の6両が佐世保行きの「西海」である。長崎行きと佐世保行きというのは兄妹みたいなところがあって、あらゆる列車が、この先、佐賀県の肥前山口まで併結運転し、そこで二手に分かれる。私は兄であるから長崎行きを選んだ。夜行ではあるが、全車座席車、しかもボックスシートである。15時間の長旅で臀部が耐え得るか少々心配であるが、これもまた、金のない者にとっての旅の醍醐味であろう。
食堂車も何もないのだから、食糧確保を万全にし、18時40分、ラッシュの喧騒をよそに、列車は大阪の街を離れた。三ノ宮・神戸と止まり、須磨の浦が車窓に映る頃には日も沈み、明石海峡大橋もない時代の空は広く、群青の深い色に吸い込まれそうである。19時58分、姫路着。現代の新快速なら1時間で走破するが、急行列車ののんびりした旅は、既にここで1時間20分弱を費やしている。
姫路から岡山にかけては淋しい山間部を走る。特に上郡と三石の間、つまり兵庫と岡山の県境にある船坂峠を超えるときは、旅愁を通り越して寂寥さえ覚えるものである。ここが県境、そして地方境であるのにはやはり必然があるのであろう。20時55分の和気を過ぎると、右手には吉井川の流れが望めるはずだが、既に漆黒の闇夜で、それを認めることはできない。21時18分、岡山着。街の明かりが見えてほっとする。つい3か月前までは、ここが新幹線の終点で、九州方面に向かう特急や急行が、昼夜を問わず頻発していたのだが、博多まで全通した今、その賑わいはちょっと落ち着いている。それでも山陰や四国に向かう重要な拠点の駅であり、政令指定都市以外で唯一「ひかり」が止まる駅としての矜持を持つことに変わりはない(後に岡山市も政令指定都市の仲間入りをするのだが)。
岡山から広島にかけては、中小の市町が連なり、倉敷・新倉敷・金光・笠岡・福山・尾道・糸崎・三原・西条と、割とマメに停車する。その中で糸崎は、駅前にこれといった商店も見当たらず、何故こんなところに停車するのかと訝ってしまうが、運転上は重要な駅らしく、10分以上の長時間停車であり、運転手も交替している。大阪から5時間弱、ホームに降り立って背伸びをしてみる。
広島に到着したときには日付変更線を跨いでいて、0時38分。この先、昼間なら宮島、大畠、柳井と、美しい瀬戸内の海が望めるところであるが、窓に顔を張り付けても真っ暗なだけであるから、眠ろうと思う。しかしここはボックスシートの辛さ。閑散期だからボックスは一人占めできるのだが、足を向こうの席に伸ばしても、中間が浮いているのだからどうも落ち着かない。さりとて横になろうにも、通路側の手摺りが邪魔をして、長身にとっては窮屈である。結局、普通に座って腕組みをし、俯いて目を閉じることにした。ところが客車は到着・発車の際に、衝撃のような独特の揺れ方をする。山口県内も岩国・柳井・光・下松・徳山・防府・小郡・宇部・小野田・厚狭と小刻みに停車するものだからその度に目が覚め、浅い眠りのまま、4時36分、空が白んだ下関に到着。機関車を付け替え、いざ関門海峡に挑む。といってもトンネルを潜って10分も経たぬうちに門司に着くのだから、大した感慨もないのだが、それでもここからいよいよ九州、気分は高揚するばかりである。
※長いので(二)に続きます。そのうち気が向けば書きます。
現在のJR京都線・神戸線を走る「新快速」は、当時は草津~姫路間の運行で、停車駅は石山・大津・京都・大阪・三宮・明石・加古川である。現在止まっている南草津・山科・高槻・新大阪・尼崎・芦屋・神戸・西明石は通過であるが、特に新幹線の拠点であり、在来線の特急も停車する新大阪を新快速が通過するのは、今ではおよそ考えられないことであろう。しかしこれは当時でも同じことで、父親が出張で新幹線に乗るとき、よもや新大阪を通過する電車などあろうはずもないと思って新快速に乗ったら京都まで連れて行かれてとんでもない目に遭ったと憤っていたことがある。けれどもよく考えれば今が止まり過ぎなのであって、国鉄・阪急・京阪とも、京阪間がノンストップであった頃が実に懐かしい。通勤電車に旅情を求めるのもおかしな話であろうが、途中駅での忙しない乗降がないのはゆったりできてよいのである。当時の新快速には喫煙車があったし、車内販売まであったらしいのである。
旅情という点で言えば、当時、国鉄には全国各地に「急行」が走っていた。スローな長旅には打ってつけであるのだが、今のJRからは昼間の急行が全廃され、夜行も北海道に辛うじて1本残るのみだそうである。この時刻表を読み解くと、大阪駅発着だけでも、山陽・九州方面は、宇野行き「鷲羽」、熊本行き「阿蘇」、長崎行き「雲仙」、佐世保行き「西海」、大分行き「くにさき」。山陰方面は、福知山線経由が城崎行き「丹波」、鳥取行き「いでゆ」、出雲市行き「だいせん」。姫新線経由は鳥取行き「みささ」と中国勝山行き「みまさか」。播但線経由は鳥取行き「但馬」。東に向けば、名古屋行き「比叡」、高山行き「たかやま」、長野行き「ちくま」、東京行き「銀河」。そして北へと向かうのは、金沢行き「ゆのくに」、富山行き「アルペン」、新潟行き「越後」、青森行き「きたぐに」と、これだけのラインナップがあった。旅好きにとっては、こうして行先と列車名を並べるだけでも胸が躍るものであるが、大阪発着の夜行がほぼ全廃となった今、特急の「サンダーバード」「しなの」「ひだ」を除けば、新快速が敦賀や播州赤穂まで行くのが最遠で、大阪駅のホームに立っても、遠く彼方の地に思いを馳せることはできなくなってしまった。
ならばせめてと、古い時刻表と地図を広げ、空想(妄想?)の旅に出かけてみようと思う。
さあ、ここは1975年6月4日、18時過ぎの大阪駅。今は「4番線」になった2番線で、長崎行き急行「雲仙」を待つことにしよう。36年後、ここの天空に大屋根ができるなどと、誰が想像しただろうか。18時19分。機関車に曳かれて、ブルーの車体の客車列車がホームに滑り込む。荷物車1両を含む前の7両が長崎行き、後の6両が佐世保行きの「西海」である。長崎行きと佐世保行きというのは兄妹みたいなところがあって、あらゆる列車が、この先、佐賀県の肥前山口まで併結運転し、そこで二手に分かれる。私は兄であるから長崎行きを選んだ。夜行ではあるが、全車座席車、しかもボックスシートである。15時間の長旅で臀部が耐え得るか少々心配であるが、これもまた、金のない者にとっての旅の醍醐味であろう。
食堂車も何もないのだから、食糧確保を万全にし、18時40分、ラッシュの喧騒をよそに、列車は大阪の街を離れた。三ノ宮・神戸と止まり、須磨の浦が車窓に映る頃には日も沈み、明石海峡大橋もない時代の空は広く、群青の深い色に吸い込まれそうである。19時58分、姫路着。現代の新快速なら1時間で走破するが、急行列車ののんびりした旅は、既にここで1時間20分弱を費やしている。
姫路から岡山にかけては淋しい山間部を走る。特に上郡と三石の間、つまり兵庫と岡山の県境にある船坂峠を超えるときは、旅愁を通り越して寂寥さえ覚えるものである。ここが県境、そして地方境であるのにはやはり必然があるのであろう。20時55分の和気を過ぎると、右手には吉井川の流れが望めるはずだが、既に漆黒の闇夜で、それを認めることはできない。21時18分、岡山着。街の明かりが見えてほっとする。つい3か月前までは、ここが新幹線の終点で、九州方面に向かう特急や急行が、昼夜を問わず頻発していたのだが、博多まで全通した今、その賑わいはちょっと落ち着いている。それでも山陰や四国に向かう重要な拠点の駅であり、政令指定都市以外で唯一「ひかり」が止まる駅としての矜持を持つことに変わりはない(後に岡山市も政令指定都市の仲間入りをするのだが)。
岡山から広島にかけては、中小の市町が連なり、倉敷・新倉敷・金光・笠岡・福山・尾道・糸崎・三原・西条と、割とマメに停車する。その中で糸崎は、駅前にこれといった商店も見当たらず、何故こんなところに停車するのかと訝ってしまうが、運転上は重要な駅らしく、10分以上の長時間停車であり、運転手も交替している。大阪から5時間弱、ホームに降り立って背伸びをしてみる。
広島に到着したときには日付変更線を跨いでいて、0時38分。この先、昼間なら宮島、大畠、柳井と、美しい瀬戸内の海が望めるところであるが、窓に顔を張り付けても真っ暗なだけであるから、眠ろうと思う。しかしここはボックスシートの辛さ。閑散期だからボックスは一人占めできるのだが、足を向こうの席に伸ばしても、中間が浮いているのだからどうも落ち着かない。さりとて横になろうにも、通路側の手摺りが邪魔をして、長身にとっては窮屈である。結局、普通に座って腕組みをし、俯いて目を閉じることにした。ところが客車は到着・発車の際に、衝撃のような独特の揺れ方をする。山口県内も岩国・柳井・光・下松・徳山・防府・小郡・宇部・小野田・厚狭と小刻みに停車するものだからその度に目が覚め、浅い眠りのまま、4時36分、空が白んだ下関に到着。機関車を付け替え、いざ関門海峡に挑む。といってもトンネルを潜って10分も経たぬうちに門司に着くのだから、大した感慨もないのだが、それでもここからいよいよ九州、気分は高揚するばかりである。
※長いので(二)に続きます。そのうち気が向けば書きます。
世の中には、浮世のありとあらゆるものが気に入らないと見えて、方々でクレームを宣う者がいる。これを一般には「クレーマー」と呼び、学校を始めとする教育機関や教育産業の世界においては「モンスターペアレント」という特別な呼称までもが付与される始末である。長くて煩わしいので「モンペ」と略すが、昨今ではこのモンペ、教育業界のみならず一般企業にも登場するらしく、「何でウチの子を残業させるのですか」「何でウチの子をこんなガラの悪いところに配属させるのですか」などと、親が会社に因縁をつけるような“事件”が増えているのだそうである。世も末である。
地下鉄御堂筋線のなかもず方面の電車に乗って、梅田を出て暫くすると、「電車がカーブを通過します。ご注意ください」というアナウンスが流れる。他にも立ち客がよろけるような急カーブは何箇所かあるのに、このような注意喚起の放送がかかるのはなぜかこの箇所のみである。それはいいとして、このアナウンス、私が高校生の頃くらいまでは長年、「列車が曲がりますから、ご注意ください」という台詞であった。「列車が(カーブを)曲がります」の意であるというのは通常の頭脳を持ち合わせた人間には明白だと思うのだが、「列車の車体が曲がるんかい!」と交通局にクレームがあり、今のようなアナウンスに変わったのだそうである。世の中には全く面倒な人がいるものだ。こんな輩を終日相手にしつつ、「貴重なご意見誠にありがとうございます」と思ってもいないことを言い続けねばならない、そんな業務に従事される方々の懐の深さには深い畏敬の念を覚えずにはおれない。
そもそも日本には古来から「皆まで言わぬ」ことが美徳とされ、「言わぬが花」「以心伝心」など、そうであることを賛美する箴言も多い。因みに「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざも同義で使われるものと思っていたら、かつて天然に存在する銀の量は金のそれに比して少なく、またその精錬法も未発達であったことから、金よりも銀の方が価値が高く、従って沈黙よりも雄弁の方が勝るというのが正しい解釈である、というのを見て仰天した。慌てて複数の辞書に当たってしまったではないか。「情けは人の為ならず」の誤解はあまりにも有名であるが、とんだ曲解があったものである。
話が逸れてしまったが、少々言葉が足らなくても、そこは行間を読んで意図を斟酌し、それを以て理解して、一々クレームなどつけるものではない、と思うのだ。
ところで私は見ての通り(誰が見るねん)の小心者であるから、自身が如何なる不当な接遇を受けようとも、クレームに及んだりなど普通はしない。時々、会社では上司の前でへこへこしている人間が、店に行くと突如豹変して店員に横柄な口の利き方をする場面を見かけることがあるが、ああいうのは人間性がどうかしているのではと思うほどである。そのような私が、過去に2度、我慢ならずにクレームに及んだことがあるのだからこれは余程である。いずれもタクシー会社、しかも同一の会社である。かつて、無関係なのに旧財閥系の名を屋号に用いていた格安タクシーの会社である。
1度目は、深酒が祟り、出勤時刻に遅れそうになったときのことである。当時住んでいた天満から、これまた当時の勤務先である放出まで、車をぶっ飛ばせば15分である。徒歩+電車より10分早い。桜ノ宮のラブホ街を抜け、片町→城見→鴫野と抜けるのが一番早いことも知っている。流しのタクシーを止め、この道順で行くように告げて走り出すや1分、いきなり右折すべきを直進した。
「ちょっとちょっと、今の交差点右ですよ」「あわわ」「まあよろしいわ。真っ直ぐ行って、2つ目の信号の1つ先の交差点を右へ行ってください」「は、はい」。そして右へ行くべき交差点をまたしても直進。「あのね、右って言いましたよね」「あわわ」「次の突き当たりは左折しかできないんですよ」「あわわ」「しょうがないから、一旦左折して、その先の信号をUターンしてください」「は、はい」。
そうこうしている内に信号待ち渋滞に引っ掛かる。青信号が極めて短いからで、それを知っているから最初の道順を指示したのにこれではタクシーに乗った意味がない。それを抗議すると、「だってお客さんが真っ直ぐって言いはりましたやん」「は? 私は『右へ』と2度までも言いましたのに真っ直ぐ行ったのはお宅ですよ」「あわわ」。もう諦めた。所定のルートに戻ったことだし、後はおとなしく黙っていよう。
結局電車+徒歩より10分余計に掛かって放出到着。いざ支払いとなって運転手曰く、「あ、あのぅ、メーター回してなかったんですが」「そんなこと私の知ったこっちゃありませんよ」「で、でも、タコメーターが付いてるんでお金もらわないと会社に叱られるんです」「じゃあおいくら払えばいいんですか」「こないだ天満から深江橋まで行ったときは3,000円くらいでしたから、3,000円ください」「いや、深江橋より放出は手前やのに、何で同じ3,000円なんですか。660円のタクシーでも大体2,300円くらいですよ」「でも、距離はかかってますから」「距離かかったって、大回りしたのはお宅ですやん」「お願いですから3,000円くださいよぅ」。いい大人が半泣きなので「わかりました、3,000円お支払いしますよ」と言って漱石さんを3枚渡し、降り際にタクシーカードを取ろうとしたら、「お、お客さん、何でカード取りはるんですか?」「ここに『必ずお取りください』て書いてますがな」「え、会社に苦情言いはるんでしょ」「勿論ですがな」「ううっ、勘弁してくださいよぅ」「勘弁ならん」。
かかる顛末の末、結局遅刻して上司に叱られた。タクシー会社にクレームを入れたのは言うまでもない。
2回目は、やはり深酒が祟って遅刻しそうになったときのことである(社会人失格ですね)。今度はオバハン運転手である。今回は所定のルートをきちんと走行してくれたのだが、ラブホ街を通過中、唐突に「私、死んだ主人と初めて結ばれたのがここなの♡」と語り始めたのだ。いきなり物凄い展開になった。以降、おばちゃんは、夫との馴れ初めから若い頃の夜の営みに至るまで、訊きもしないことを一方的に喋り続ける。前夜の酒が少々残るというのに、こんな話を出勤前に聞かされては吐き気が再燃するではないか。
そして放出に到着し、今度は定時に間に合ったと胸を撫ぜ下ろしながら支払おうとすると、出し抜けに「お兄さん、あなた結婚はしてるの?」訊いてきた。当時はまだ独身であったので、「いや、まだですけど」と答える。するとおばちゃん、「だめじゃない!!!!!」と激昂を始める。何事かと思って茫然とする私に、「私の知ってる先生がいい人を紹介してくれるから、名刺を出しなさい」と命令に及んできたのだ。これには流石に我慢ならず、「あのな、急いでるからタクシー乗ってんのに早いこと降ろしてくれよ。それに結婚相手くらい自前でどないかするから放っといてくれ。大体客に向かって『しなさい』とは何やねんゴルァ!」と、文字にしてみるとイマイチ迫力に欠けるが、昔取った杵柄よろしく壮絶な勢いでキレてみたのだ。するとこのオバハン運転手、この世のものとは思えぬ高笑いをして、ドアを開けたのである。あのときのオバハン運転手の顔は、今でも鮮明に記憶するトラウマである。
という訳で今回も遅刻。上司には「次はないと思え」と最後通牒を受ける始末。勿論タクシー会社にはクレームを入れたが、あれは何かの魔物に憑りつかれたのだ、そう思うしかない。
言葉が足らなくてもクレーム、言葉が過ぎてもクレーム。対人関係というのは実に難しいものである。
地下鉄御堂筋線のなかもず方面の電車に乗って、梅田を出て暫くすると、「電車がカーブを通過します。ご注意ください」というアナウンスが流れる。他にも立ち客がよろけるような急カーブは何箇所かあるのに、このような注意喚起の放送がかかるのはなぜかこの箇所のみである。それはいいとして、このアナウンス、私が高校生の頃くらいまでは長年、「列車が曲がりますから、ご注意ください」という台詞であった。「列車が(カーブを)曲がります」の意であるというのは通常の頭脳を持ち合わせた人間には明白だと思うのだが、「列車の車体が曲がるんかい!」と交通局にクレームがあり、今のようなアナウンスに変わったのだそうである。世の中には全く面倒な人がいるものだ。こんな輩を終日相手にしつつ、「貴重なご意見誠にありがとうございます」と思ってもいないことを言い続けねばならない、そんな業務に従事される方々の懐の深さには深い畏敬の念を覚えずにはおれない。
そもそも日本には古来から「皆まで言わぬ」ことが美徳とされ、「言わぬが花」「以心伝心」など、そうであることを賛美する箴言も多い。因みに「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざも同義で使われるものと思っていたら、かつて天然に存在する銀の量は金のそれに比して少なく、またその精錬法も未発達であったことから、金よりも銀の方が価値が高く、従って沈黙よりも雄弁の方が勝るというのが正しい解釈である、というのを見て仰天した。慌てて複数の辞書に当たってしまったではないか。「情けは人の為ならず」の誤解はあまりにも有名であるが、とんだ曲解があったものである。
話が逸れてしまったが、少々言葉が足らなくても、そこは行間を読んで意図を斟酌し、それを以て理解して、一々クレームなどつけるものではない、と思うのだ。
ところで私は見ての通り(誰が見るねん)の小心者であるから、自身が如何なる不当な接遇を受けようとも、クレームに及んだりなど普通はしない。時々、会社では上司の前でへこへこしている人間が、店に行くと突如豹変して店員に横柄な口の利き方をする場面を見かけることがあるが、ああいうのは人間性がどうかしているのではと思うほどである。そのような私が、過去に2度、我慢ならずにクレームに及んだことがあるのだからこれは余程である。いずれもタクシー会社、しかも同一の会社である。かつて、無関係なのに旧財閥系の名を屋号に用いていた格安タクシーの会社である。
1度目は、深酒が祟り、出勤時刻に遅れそうになったときのことである。当時住んでいた天満から、これまた当時の勤務先である放出まで、車をぶっ飛ばせば15分である。徒歩+電車より10分早い。桜ノ宮のラブホ街を抜け、片町→城見→鴫野と抜けるのが一番早いことも知っている。流しのタクシーを止め、この道順で行くように告げて走り出すや1分、いきなり右折すべきを直進した。
「ちょっとちょっと、今の交差点右ですよ」「あわわ」「まあよろしいわ。真っ直ぐ行って、2つ目の信号の1つ先の交差点を右へ行ってください」「は、はい」。そして右へ行くべき交差点をまたしても直進。「あのね、右って言いましたよね」「あわわ」「次の突き当たりは左折しかできないんですよ」「あわわ」「しょうがないから、一旦左折して、その先の信号をUターンしてください」「は、はい」。
そうこうしている内に信号待ち渋滞に引っ掛かる。青信号が極めて短いからで、それを知っているから最初の道順を指示したのにこれではタクシーに乗った意味がない。それを抗議すると、「だってお客さんが真っ直ぐって言いはりましたやん」「は? 私は『右へ』と2度までも言いましたのに真っ直ぐ行ったのはお宅ですよ」「あわわ」。もう諦めた。所定のルートに戻ったことだし、後はおとなしく黙っていよう。
結局電車+徒歩より10分余計に掛かって放出到着。いざ支払いとなって運転手曰く、「あ、あのぅ、メーター回してなかったんですが」「そんなこと私の知ったこっちゃありませんよ」「で、でも、タコメーターが付いてるんでお金もらわないと会社に叱られるんです」「じゃあおいくら払えばいいんですか」「こないだ天満から深江橋まで行ったときは3,000円くらいでしたから、3,000円ください」「いや、深江橋より放出は手前やのに、何で同じ3,000円なんですか。660円のタクシーでも大体2,300円くらいですよ」「でも、距離はかかってますから」「距離かかったって、大回りしたのはお宅ですやん」「お願いですから3,000円くださいよぅ」。いい大人が半泣きなので「わかりました、3,000円お支払いしますよ」と言って漱石さんを3枚渡し、降り際にタクシーカードを取ろうとしたら、「お、お客さん、何でカード取りはるんですか?」「ここに『必ずお取りください』て書いてますがな」「え、会社に苦情言いはるんでしょ」「勿論ですがな」「ううっ、勘弁してくださいよぅ」「勘弁ならん」。
かかる顛末の末、結局遅刻して上司に叱られた。タクシー会社にクレームを入れたのは言うまでもない。
2回目は、やはり深酒が祟って遅刻しそうになったときのことである(社会人失格ですね)。今度はオバハン運転手である。今回は所定のルートをきちんと走行してくれたのだが、ラブホ街を通過中、唐突に「私、死んだ主人と初めて結ばれたのがここなの♡」と語り始めたのだ。いきなり物凄い展開になった。以降、おばちゃんは、夫との馴れ初めから若い頃の夜の営みに至るまで、訊きもしないことを一方的に喋り続ける。前夜の酒が少々残るというのに、こんな話を出勤前に聞かされては吐き気が再燃するではないか。
そして放出に到着し、今度は定時に間に合ったと胸を撫ぜ下ろしながら支払おうとすると、出し抜けに「お兄さん、あなた結婚はしてるの?」訊いてきた。当時はまだ独身であったので、「いや、まだですけど」と答える。するとおばちゃん、「だめじゃない!!!!!」と激昂を始める。何事かと思って茫然とする私に、「私の知ってる先生がいい人を紹介してくれるから、名刺を出しなさい」と命令に及んできたのだ。これには流石に我慢ならず、「あのな、急いでるからタクシー乗ってんのに早いこと降ろしてくれよ。それに結婚相手くらい自前でどないかするから放っといてくれ。大体客に向かって『しなさい』とは何やねんゴルァ!」と、文字にしてみるとイマイチ迫力に欠けるが、昔取った杵柄よろしく壮絶な勢いでキレてみたのだ。するとこのオバハン運転手、この世のものとは思えぬ高笑いをして、ドアを開けたのである。あのときのオバハン運転手の顔は、今でも鮮明に記憶するトラウマである。
という訳で今回も遅刻。上司には「次はないと思え」と最後通牒を受ける始末。勿論タクシー会社にはクレームを入れたが、あれは何かの魔物に憑りつかれたのだ、そう思うしかない。
言葉が足らなくてもクレーム、言葉が過ぎてもクレーム。対人関係というのは実に難しいものである。
一時流行った「おばかキャラ」は、そう呼ばれていた人たちが歳を取って落ち着いてきた所為か、はたまたこれらの人たちを世に売り出した大物芸能人が引退してしまったからか、少々形(なり)を潜めてきたように感じる。
代わって台頭してきているのが「タメ口キャラ」ではないかと思う。その筆頭は何と言ってもモデルのローラであろう。名門番組『徹子の部屋』に出演した折も彼女の舌鋒は些かも揺るがず、流石の黒柳徹子も苦笑を浮かべるのみであったという。最近、普通の文章をこのローラの口振り風に変換する「ローラ語変換」というサイトの存在を知った。世の中にはいろんなことを考え付く人がいるものである。試みに、日本国憲法の前文を変換してみた。結果はかくの如しである。
「日本国民は~、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し~、われらとわれらの子孫のために~、諸国民との協和による成果と~、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し~、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し~、ここに主権が国民に存することを宣言し~、この憲法を確定するウフフ☆オッケー♪ そもそも国政は~、国民の厳粛な信託によるものであって~、その権威は国民に由来し~、その権力は国民の代表者がこれを行使し~、その福利は国民がこれを享受するウフフ☆オッケー♪ これは人類普遍の原理であり~、この憲法は~、かかる原理に基くものであるウフフ☆オッケー♪ われらは~、これに反する一切の憲法~、法令及び詔勅を排除するウフフ☆オッケー♪(……中略……)日本国民は~、国家の名誉にかけ~、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふウフフ☆オッケー♪」
何のことはない、読点の前に「~」、句点の前に「ウフフ☆オッケー♪」が入るだけではないか。苟も「語」を名乗るのなら、きちんと文法を体系化し、アルゴリズムを実装しなければなるまい。
それはさておき、このローラのタメ口振りが何故かくも人気を博するのであろうか。某ボクシング選手の三兄弟とその父親の例を挙げるまでもなく、公の場でのタメ口とはそれだけでアウトローとして指弾の対象となるのが常であった。敬語で物言えぬ無礼者は、取りも直さず社会性欠損の烙印を押されるのである。
私も学生時代にこんな経験がある。当時、大阪市内の大型書店にはどこにでも、英会話学校のセールスを行う女性が常駐していた。エスカレーター前などで待ち伏せし、「英会話学校のご案内でーす」と、通り過ぎようとする客にパンフレットを差し出す。それを受け取ろうとするとパンフレットを離さないで客ごと引っ張り、身柄を拘束してそこから延々と執拗な営業活動を行う、私に言わせれば悪徳商法の部類に入る極めて阿漕な営みであった。
そして客を捕まえるや一転、タメ口に変わり、「なあ、夏休みとか、海外に行きたいとか思わへんの?」などとトークを始めるのである。こちとら敢えて敬語で、「いえ、全く思いません」と返す。以下、「じゃあ、どこに行くのん?」「友達と舞鶴とか小浜とかの方面へキャンプに行く予定です」「マイヅル? どこなんそれ?」「日本海側ですよ」「あぁ、伊勢とかあるとこやんね?」「いや、それは南北が全く逆ですよ」「えー、そんなマイナーなとこ行って何が楽しいん? それよりやっぱ海外やって。それにはまず英語が喋られへんとアカンから、ウチの学校に来てもらって……」「ちょっとお待ちなされよ。舞鶴とか伊勢とかをマイナー呼ばわりして、関西人として恥ずかしくないんですか。海外云々言う前に、まずは我が国のことを、せめて義務教育程度にはきちんと勉強されたらどうですか。それに、もう少し正しい日本語をマスターしてから英会話のセールスしなさいよ」とまあ、こんな応酬を繰り広げたのである。このお姉ちゃんの苦虫を潰したような顔と言ったらなかった。
ところで、一つ気になっていることがある。それは、ニュース番組などで、外国人へのインタビューを流す際、表示される和訳の字幕は決まってタメ口である、ということだ。前述のお姉ちゃんは英会話学校の営業だからわざわざタメ口だった訳ではよもやあるまいが、これは一体何としたことであろう。勿論、喋っている外国人がぞんざいな物言いをしている訳ではなく、あくまで訳者の判断でそのような表記がなされているだけのことである。
敬語というのは日本語独特のものであって、そもそも外国語には敬語という概念自体が存在しないのだから仕方のないことだという意見もあるかもしれない。しかし、それは果たして正しいことであろうか。確かに、尊敬語・謙譲語・丁寧語などという複雑かつ厳格な敬語の文法体系を有するのは我が国特有のものなのかもしれないが、例えば英語の「Please」や、「Can you ~?」「May I ~?」などは一種の敬語と言えるものではなかろうか。某社会主義国家の元首が身罷られた折に、国民が「将軍様が死んじゃったよ~ウフフ☆オッケー♪」などと口走るなんてことはゆめゆめあるまい。
つまり、どの国にも、大なり小なりの敬意というものは存在して然るべきなのに、それを翻訳する日本人が勝手にタメ口に変換しているのである。これは考えようによっては外国人蔑視と言えなくもないと思うのだが、厳然とした敬語の存在するこの日本の上下関係というものに対するアンチテーゼであるとは考え過ぎであろうか。気兼ねのない、自由闊達な喋りができたらいいのにという願望くらいはあるのかもしれない。
そう言えば、日本には「慇懃無礼」ということばが昔からあるくらいで、過ぎたる敬語の使用は忌み嫌われる傾向がどこかにあった。「無礼講」という、本来敬意を持って接すべき人へ無礼を働くことが許される場面もある。かつて、「……でございます」が主流であった関西の私鉄や地下鉄の駅や車内の放送は、いつしかどこでも「……です」に改まっている。これらはもしかすると、相手との心理的距離を縮めようとする「敬語からの解放」を望む潜在的な民意の表れなのかもしれない。
そのように考えると、ローラのタメ口が絶大な支持を得られるのも得心がゆく。そもそも敬語にしてもタメ口にしても、ポライトネス(円滑な人間関係を確立・維持するための言語行動)を実現するための手段なのであり、そこにおいては「敬語を使うのが一番無難で楽」という場合もあろうし、「タメ口で話し合える信頼関係」ということもあろう。健全な人間関係の中で、適宜相応しいことばを使うようにしたいものである。
尤も、ローラの場合はキャラそのもので救われている部分が多分にあるのであって、社会人が会社で同じように「ローラ語」で上司に物を言って明日があるかどうかは、無論別の話である。
代わって台頭してきているのが「タメ口キャラ」ではないかと思う。その筆頭は何と言ってもモデルのローラであろう。名門番組『徹子の部屋』に出演した折も彼女の舌鋒は些かも揺るがず、流石の黒柳徹子も苦笑を浮かべるのみであったという。最近、普通の文章をこのローラの口振り風に変換する「ローラ語変換」というサイトの存在を知った。世の中にはいろんなことを考え付く人がいるものである。試みに、日本国憲法の前文を変換してみた。結果はかくの如しである。
「日本国民は~、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し~、われらとわれらの子孫のために~、諸国民との協和による成果と~、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し~、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し~、ここに主権が国民に存することを宣言し~、この憲法を確定するウフフ☆オッケー♪ そもそも国政は~、国民の厳粛な信託によるものであって~、その権威は国民に由来し~、その権力は国民の代表者がこれを行使し~、その福利は国民がこれを享受するウフフ☆オッケー♪ これは人類普遍の原理であり~、この憲法は~、かかる原理に基くものであるウフフ☆オッケー♪ われらは~、これに反する一切の憲法~、法令及び詔勅を排除するウフフ☆オッケー♪(……中略……)日本国民は~、国家の名誉にかけ~、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふウフフ☆オッケー♪」
何のことはない、読点の前に「~」、句点の前に「ウフフ☆オッケー♪」が入るだけではないか。苟も「語」を名乗るのなら、きちんと文法を体系化し、アルゴリズムを実装しなければなるまい。
それはさておき、このローラのタメ口振りが何故かくも人気を博するのであろうか。某ボクシング選手の三兄弟とその父親の例を挙げるまでもなく、公の場でのタメ口とはそれだけでアウトローとして指弾の対象となるのが常であった。敬語で物言えぬ無礼者は、取りも直さず社会性欠損の烙印を押されるのである。
私も学生時代にこんな経験がある。当時、大阪市内の大型書店にはどこにでも、英会話学校のセールスを行う女性が常駐していた。エスカレーター前などで待ち伏せし、「英会話学校のご案内でーす」と、通り過ぎようとする客にパンフレットを差し出す。それを受け取ろうとするとパンフレットを離さないで客ごと引っ張り、身柄を拘束してそこから延々と執拗な営業活動を行う、私に言わせれば悪徳商法の部類に入る極めて阿漕な営みであった。
そして客を捕まえるや一転、タメ口に変わり、「なあ、夏休みとか、海外に行きたいとか思わへんの?」などとトークを始めるのである。こちとら敢えて敬語で、「いえ、全く思いません」と返す。以下、「じゃあ、どこに行くのん?」「友達と舞鶴とか小浜とかの方面へキャンプに行く予定です」「マイヅル? どこなんそれ?」「日本海側ですよ」「あぁ、伊勢とかあるとこやんね?」「いや、それは南北が全く逆ですよ」「えー、そんなマイナーなとこ行って何が楽しいん? それよりやっぱ海外やって。それにはまず英語が喋られへんとアカンから、ウチの学校に来てもらって……」「ちょっとお待ちなされよ。舞鶴とか伊勢とかをマイナー呼ばわりして、関西人として恥ずかしくないんですか。海外云々言う前に、まずは我が国のことを、せめて義務教育程度にはきちんと勉強されたらどうですか。それに、もう少し正しい日本語をマスターしてから英会話のセールスしなさいよ」とまあ、こんな応酬を繰り広げたのである。このお姉ちゃんの苦虫を潰したような顔と言ったらなかった。
ところで、一つ気になっていることがある。それは、ニュース番組などで、外国人へのインタビューを流す際、表示される和訳の字幕は決まってタメ口である、ということだ。前述のお姉ちゃんは英会話学校の営業だからわざわざタメ口だった訳ではよもやあるまいが、これは一体何としたことであろう。勿論、喋っている外国人がぞんざいな物言いをしている訳ではなく、あくまで訳者の判断でそのような表記がなされているだけのことである。
敬語というのは日本語独特のものであって、そもそも外国語には敬語という概念自体が存在しないのだから仕方のないことだという意見もあるかもしれない。しかし、それは果たして正しいことであろうか。確かに、尊敬語・謙譲語・丁寧語などという複雑かつ厳格な敬語の文法体系を有するのは我が国特有のものなのかもしれないが、例えば英語の「Please」や、「Can you ~?」「May I ~?」などは一種の敬語と言えるものではなかろうか。某社会主義国家の元首が身罷られた折に、国民が「将軍様が死んじゃったよ~ウフフ☆オッケー♪」などと口走るなんてことはゆめゆめあるまい。
つまり、どの国にも、大なり小なりの敬意というものは存在して然るべきなのに、それを翻訳する日本人が勝手にタメ口に変換しているのである。これは考えようによっては外国人蔑視と言えなくもないと思うのだが、厳然とした敬語の存在するこの日本の上下関係というものに対するアンチテーゼであるとは考え過ぎであろうか。気兼ねのない、自由闊達な喋りができたらいいのにという願望くらいはあるのかもしれない。
そう言えば、日本には「慇懃無礼」ということばが昔からあるくらいで、過ぎたる敬語の使用は忌み嫌われる傾向がどこかにあった。「無礼講」という、本来敬意を持って接すべき人へ無礼を働くことが許される場面もある。かつて、「……でございます」が主流であった関西の私鉄や地下鉄の駅や車内の放送は、いつしかどこでも「……です」に改まっている。これらはもしかすると、相手との心理的距離を縮めようとする「敬語からの解放」を望む潜在的な民意の表れなのかもしれない。
そのように考えると、ローラのタメ口が絶大な支持を得られるのも得心がゆく。そもそも敬語にしてもタメ口にしても、ポライトネス(円滑な人間関係を確立・維持するための言語行動)を実現するための手段なのであり、そこにおいては「敬語を使うのが一番無難で楽」という場合もあろうし、「タメ口で話し合える信頼関係」ということもあろう。健全な人間関係の中で、適宜相応しいことばを使うようにしたいものである。
尤も、ローラの場合はキャラそのもので救われている部分が多分にあるのであって、社会人が会社で同じように「ローラ語」で上司に物を言って明日があるかどうかは、無論別の話である。