『虹のかなたに』 -16ページ目

『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 勤務先のビルには共用の喫煙ルームがある。愛煙家には誠にありがたい施設ではあるが、如何せん、換気扇がある以外の空調設備は一切備わっていないので、この時期は正に灼熱地獄である。異様なまでに人の目を気にする私は、仕事を疎かにしているように見られるのが嫌なので、定時の勤務時間内は2時間に1度しか行かない(その代わり2~3本まとめて吸う)し、最低でもその時間分は残業をして帳尻を合わせているのだが、重篤なニコチン中毒の人は20~30分に一度は席を立つようで、汗だくになり、サボりのレッテルを張られてまでも命懸けで命を縮める行為に及ぶのは、ある意味見上げた根性である。
 
 さりとて私は、明確な意思を以て、たばこをやめようとは思わない。1年半ほど前、たばこの値段が一気に上げられたとき、これを契機として禁煙に及んだ御仁も多かったようであるが、周囲がどうであれ、そしてパッケージに如何なる脅迫文言が並べられようと、決して怯んだりなどしない。
 
 ただ、嫌煙者に副流煙の吸引を強制しようとはつゆも思わないのであって、禁煙と言われれば辛抱できるし、喫煙可の場所であっても、周りの空気を読んで遠慮するくらいの心得は持ち合わせている。自身も、例えば新幹線の喫煙車などは、開眼も困難なほど車内が白く霞み、また、服に臭いがつくのも嫌なので、必ず回避し、「喫煙コーナーの近くの禁煙車」を押さえるのが常である。自宅でも、家人は嫌煙者であるから、もとより室内では喫煙しないが、ベランダに出て吸う、いわゆる「ホタル族」の行為も、煙が隣戸に流れて室内に入ったり洗濯物を汚したりするといったリスクくらいは想像できるので、洗面所の換気扇の下が我が家の喫煙所になっている。
 
 喫煙者としては、何としても社会の完全な分煙化を推進してほしいと強く望むところであるが、それにも限界があるのは十分承知している。たとえホームの果ての屋根のない場所であっても、喫煙コーナーさえ設けていただけるのであればありがたいことだと思っていたが、空気の遮断をしない以上、煙はやはりそれを嫌う人の許へも流れるのであって、然らば即ち構内全面禁煙化というのは致し方のないことだと思う。繰り返すが、人に嫌がられてまで、公共の場で強いて喫煙したいとはさすがに思わないのであって、その意味で、最近、東京にできた「有料喫煙所」というのは実に画期的なことだと期待を寄せている。願わくば、我が関西にも店舗の展開をと考える。
 
 喫煙者が社会において糾弾される、それは甘受せねばなるまいとは思っている。吸ってはいけない場所で吸っている人を見ると、喫煙者ながら許せないとも思う。「お前らのような奴らがいてるから、ワシら真っ当な喫煙者までもが責められるんじゃ」と怒りも沸くのである。ただ、禁煙ファシズムが嵩じて、そういう人たちまで指弾の対象にするのは如何なものか、と思うことはある。その最たるものが、「たばこ屋」である。
 
 子どもの頃、家の近所にたばこ屋があった。「たばこ」「塩」の看板を掲げた、これぞ「純・たばこ屋」たる趣であった。 そして「純・たばこ屋」になくてはならない存在、座布団にちょこなんと座るおばあちゃんは、そこにもちゃんといたのだった。
 
 身内でも何でもなく、しかも大阪から引っ越してきた余所者なのに、ウチの母親が子どもを置いて出掛けるとき、決まってそのたばこ屋に預けていくのだった。当時は両親とも喫煙者だったので、面識があったのだろう。だだっ広い部屋には亡くなったおじいちゃんの遺影があった。おばあちゃんは一人で淋しくないんかなあと、子ども心に思ったものである。
 
 まだ「日本専売公社」なるものが存在した時代である。たばこを売っているところでは必ず塩も置いていたが、そこでは切手やはがきも扱っていた。「年賀状は予約しないと買えないもの」と思い込んでいた小学生時代、10月に「おばあちゃん、年賀状10枚予約な」と伝え、「はいはい」と答えるおばあちゃん。メモも取らずにすげえ記憶力やなあと思いながら2ヶ月後、200円(当時はがきは1枚20円)を握り締めてたばこ屋に行ったら、おばあちゃんにえらい剣幕で「あんた、早う買いに来んから他の人に売ってしもうたわ!」と叱られた。号泣しながら帰宅し、それきりたばこ屋には行かなくなった。
 
 あれから30年余の歳月が流れ、おばあちゃんは恐らくおじいちゃんのところへ行ってしまったのであろうが、長じて喫煙者になった私は、「たばこ屋」というところでたばこを購入したことがない。探せばどこかにまだあるのかもしれないが、タスポを紛失してからというもの、買うのは専らコンビニか駅の売店である。 そういう人は結構多いようで、コンビニのたばこの売り上げが伸びる一方で、昔ながらのたばこ屋はどんどんその数を減らしているそうだ。
 
 時代の流れとは申せ、国家による民業圧迫の犠牲になった「純・たばこ屋」は少なくあるまいと思う。「お前らがたばこなんぞ売ってるから、ヤンキーどもが白昼堂々とたばこを蒸すんじゃ」と筋違いの文句を言われることもあると言う。喫煙者には肩身の狭い時世であるが、もっと肩身を狭くするたばこ屋のおばあちゃんたちを思うと、胸が潰れそうでならない。
 
 「大阪でそんなことやったら商売上がったりですわ」と豪語していたはずの大阪のタクシーも全面禁煙に踏み切った。関西の私鉄も、今や軒並みホームから喫煙コーナーが消えた。そういう時代である。そういう時代ではあるのだが、時代に取り残されて哀しみに暮れる市井の人がいることにも、思いを致してほしいと思う。
 「大阪人は『いらち』だから、何でもことばを略したがる」と言われることがあるが、これには少しく異議を唱えたい。携帯電話を「ケータイ」と言うのも、あけましておめでとうございます今年もよろしくお願い申し上げますを「あけおめことよろ」と記すのも、ファミリーマートを「ファミマ」、セブンイレブンを「ブンブン」(これには「?」と思われる向きもあろうが、実際にそう言う人を見たことがある)と称するのも、木村拓哉を「キムタク」、高橋みなみを「タカミナ」、小嶋陽菜を「コジハル」、嵐寛寿郎を「アラカン」、榎本健一を「エノケン」、阪東妻三郎を「バンツマ」と呼ぶのも、いずれも全国区の話であって、大阪発祥であろうはずがない。「パソコン」や「ブログ」などは、最早原形が何であるかが解らぬほどに、来るところまで来てしまった。
 
 しかし、略語というのは一種の隠語のようなところがあって、一定のコミュニティの中で自然発生的に生じることが多い。だから、大阪オリジナルの略語は勿論あるのだが、別に大阪に限った話でもなくて、地域ごとに、その地域のみで通用する略語があるはずなのである。その好例が、「マクドナルド」に関わる「マック」「マクド」の東西2種の呼び方であろう。
 
 分けても地名は、公共性が高い分、それだけ共通言語として広く人口に膾炙されるので、略称もバラエティに富む。大阪では特に丁目の付く地名を略す傾向があり、天神橋筋六丁目を「天六」と言うのが恐らく最も有名で、谷町四丁目・六丁目・九丁目は「谷四・谷六・谷九」、上本町六丁目は「上六」、蒲生四丁目は「ガモ四」と略し、日本橋筋一丁目に至っては「日本一」という、何とも不遜な言い方をする。しかし、例えば長い駅名がこれでもかとばかりに連なる地下鉄谷町線において、これら以外に略称を聞いたことがない。「太子橋今市」「千林大宮」「関目高殿」「野江内代」「四天王寺前夕陽ヶ丘」「駒川中野」「喜連瓜破」と並べてみたが、どうだろう。聞くとすれば、「太子橋」「千林」「駒川」「喜連」などと、前半だけを取り出す言い方である。因みに、野江内代を「ノエチン」と略すことを提案したことがあるが、結局定着を見なかった。所詮そんなものである。
 
 かつて、阪急京都線に乗っていたとき、明らかにおかしな関西弁を操る大学生らしき男性2人が「ナンバラ」と連呼するのを耳にして、一体何を言っているのかと訝ったことがある。そのうち彼らは、南茨木で下車した。そう、「ナンバラ」とは「南茨木」のことだったのだ。疑義が生じたので早速茨木の土着民に問うてみたところ、「そんな呼び方聞いたことがない」とのこと。地元民以外が不用意に地名を略して称することは、何としても許されないのだ。
 
 その阪急電車では、長い駅名の行先表示を、字の大小で表現することがある。例えば「神橋筋丁目」(「天」と「六」を大きく書く)のような例がそれである。これは「テンロク」と略すのだと分かるが、同様の手法で表現される「雀丘屋敷」(「雲」と「花」を大きく書く)は、どう発音するのだろう。「ヒバハナ」?「クモハナ」? いずれも耳にしたことがない。ある人が「あれは、『ヒー!ハー!』と読むのですよ」と教えてくれたことがあり、なるほどと思ったが、地元民に訳知り顔にそれを語ると、「ヒバリを馬鹿にするな」と大層叱られた。そうか、「ヒバリ」と略すのか。間違っているのは阪急である。
 
 余談ながら、「野田阪神」も長たらしいから略したいと思う人がいるかもしれないがそれはとんでもない間違いであって、もともとは「野田阪神電車前」、つまり「阪神電車の野田駅の前」だったのが略されている、すなわち「野田阪神」が既に略称なのである。京都にも「三条京阪」というのがあってこれも成り立ちの経緯は同じであるが、もっと凄いのに「叡電前」がある。叡電というのは今の叡山電車のことであるが、これだけで元田中駅を表す(もしくは出町柳駅の場合もある)というのだから恐れ入る次第である。
 
 地名のことばかり長々と挙げ連ねたが、こうした「略語コミュニティ」は、地域ばかりではなく、それぞれの世代においても形成されるものである。
 
 少し前、台風が近畿地方をも襲った日のことである。結果的には大阪では痛くも痒くもなかったのだが、暴風警報が発令されたこともあり、仕事の切りがついたら早く帰りましょうということになった。電車はまだ問題なく動いていたが、「もし止まったらどうする?」という話になった。すると、国立大の大学院卒の部下(20歳代女性)がどや顔で一言、「たくればいいですやん」。
 
 一瞬、何のことかわからなかったが、程なく「タクる」、つまり「タクシーに乗る」の意味だと解した。なぜか悔しくなって、「あのな、阪神・淡路大震災て知ってるか? 生まれてたけど小っちゃ過ぎて知らんやて? ほな言うて聞かしたろ。災害時において、流しのタクシーなんか捕まる訳あるかいな。ましてや地震とかなったら道路も寸断されて、およそ車がまともに通れる状況やあらへんのや。あのときは皆、大阪から神戸まで、歩いたんやで。君住んでんの、天王寺やろ? 上町断層の真下やないかい。いざっちゅうときには自分の足しか頼れる移動手段はないんや。若いねんから、本町から天王寺くらい、いつでも歩けるように訓練しとかんかい」と大人気なく説教に及んでしまった。
 
 こういう略語の類は、意味は分かるのだが使う気にならないのであって、これが世代を超えてその略語が浸透しない所以であろう。それに、若者はいつまでも若者ではないのであって、その意味において「若者言葉」は実に刹那的である。今の若者に「マブい」とか「チョベリバ」などと語って、意味を解してもらえる訳がないのだが、にも拘わらず、かつて、「あのおねーちゃん、マブいやんけ」などと高笑いして語る上司に辟易したことがある。
 
 埒外のコミュニティに与することの何たるかを理解せねばなるまい。されど、それを習得することによって、その地域なり、世代なりのコミュニティへの真の意味での参画が許可されるのだろうと思う。そこまで頑張る必要があるのかどうかはさて措いての話であるが。
 先日、たまたまアメブロの新着記事か何かで目にした記事が面白かったので、「ペタ」をつけた。すると程なく、この方からメッセージが届いた。大阪暮らしと岡山暮らしという共通項があったということで意気投合(?)し、見も知らぬ人とのネット上のやり取りという馴れぬことをしながら、しかし大いに盛り上がった。

 やり取りが進むにつれて、恐ろしいほど互いの共通項が重なってくる。住んでいた街、年齢、通っていた学校、そしてクラスや担任教師……。これはどう考えても面識があるに違いないのであって、その方が先に、意を決してご自分の名前を名乗られた。それを見て、私はほとんど卒倒しかけたのだ。何と、第26回 で記した、「中学校時代の件(くだん)の女子」その方だったのである。偶然に偶然が重なり、自分の記憶にたまたま蘇ってきた方と、ネット上ではあるが、時を置かずして邂逅を果たす。こんなことが世の中にあるのだろうか。

 相互に名前を覚えていて、おぼろではあるが当時の印象も残っており、それより何より、当初の彼女と私の確執(?)も記憶にあって、「スンマセン時を超えてスンマセン」と丁重なるお言葉を頂戴した瞬間には、39年生きてきて、最大級の感慨を覚えて落涙しそうになったものである。

 けれどもやはり、26年の歳月というものは、人間の記憶に著しい誤謬を与えるようで、私が抒情的に綴った、転校する最後の日の思い出も、その方によると「申し訳ないですが当方まったく記憶にございません」とのこと。四半世紀に亙る壮大なジブリの物語は、「私の勝手な思い込み」というオチであえなく幕を閉じたのであった。ちゃんちゃん。

 まあ、それはそれとして、互いに四十歳の節目を目前に控え、恩讐を越えて実際の再会を果たすことができたら、一体、どんな気持ちになるだろうか。

 若かったときは尖っていて、人と対立することも多かったし、またそんな自分に酔っているようなところもあった。長じてからもそれは変わらず、社会人になったときにはむしろエスカレートして、「会議は戦場、怪気炎を上げて現業の意見を上に通すんや!」などと意気がり、何度となく、上司に諌められていたものである。管理部門に移って一転、今度は自分が吠えられ噛み付かれる立場になって、初めてその愚かなることに気付くのであったが、そろそろ壮年と呼ばれる齢となりつつある今から考えれば、実に赤面の至りである。

 さりとて、今はもう、仙人か隠者のように達観した境地に達し、慈愛に満ちた表情を常に浮かべているのかと言えばそんな訳もなく、自らの未熟なることを痛切に感ずるものではあるが、それでも「争う」ことにエネルギーが沸いてこないし、人がピリピリしているのを見るだけでこちらまで疲弊してくるのは確かである。怒りや憎しみが全く存在しない、桃源郷のような場所はどこかにないものだろうか。それを求めるのは間違っているのだろうか。

 激しく対立し、和解することのないまま、訣別してしまった人はたくさんいる。当時はお互いに、自分が正しいと思って、あるいは正しいとか正しくないとか、そんなことはどうでもよくて、相互の意地だけが理由で相容れなかったのだが、歳を経てみると、いろいろと反省することはあるのであって、できることなら、そういう人たちとお一人ずつお会いして、謝罪を申し上げたいと、最近とみに思うのである。

 それでもう一つ思い出すのが、随分前に亡くなった、祖父のことである。

 大学受験のとき、進路をどうするかで、当の本人である私を差し置いて、たまたま我が家に遊びに来ていた祖父母と母の3人(こういうときには、父は決まって黙っているのである)が議論を始めた。本命の大学の不合格は決まっており、もう一つの大学の結果待ちであったが、大人たちは、予備校をどうするとか、やっぱり公教育は頼りにならないとか(中学時代に、通っていた塾を不当な理由でクビになって以来、塾というものが大嫌いで、高校卒業に至るまで、そういうところに通ったことがなかった)、好き勝手なことを言い始めた。彼らは本命の大学へ行ってほしかったのだろうが、第二志望の学校も自分には十分魅力的だったし、何より高校のことを悪く言われたのが我慢ならなかった。そして、思い付く限りの罵詈雑言を並べ立て、部屋を飛び出した。発表待ちの大学も結局不合格で、浪人生活を過ごすことになった。

 それから、母方の祖父母とはすっかり疎遠になってしまった。1年後、何とか進学先が決まり、大阪での一人暮らしが始まった。数年経ったある日、母が電話をしてきて、「おじいちゃんがすっかり弱っている」と語った。理由はよく分からないが、あのとき、自分の暴言が傷になっているのではと思うと居た堪れなくなり、一人、祖父母の住む広島に向かった。同居する叔父夫妻とその子ども(つまり従兄妹)を含めた6人で歓待してくれ、晩餐は和やかに進んだ。祖父母や従兄弟が寝静まった後、酒豪の叔母が夜中に、「一緒に飲もう」と言うので、下戸の叔父を無理矢理付き合わせ、3人で痛飲した。泥酔状態で部屋へ戻ろうとしたとき、トイレに行こうとして起きてきた祖父と鉢合わせになった。入れ歯を外しているのもあったのだが、その顔が驚くほど老いていて、大変なショックを受けた。母の言うとおり、祖父は「すっかり弱ってい」た。翌日、大阪へ帰る私を、祖父はバス停まで見送ってくれた。動き出すバスに向かって手を振ってくれる祖父は、幼い日の記憶に残る厳格な姿ではなく、本当に、弱く、小さくなった姿だった。そしてついぞ、あのときの謝罪の言葉を伝えることはできなかった。

 さらに数年後、祖父はあの世へ旅立った。それからでも、既に10年が経つ。

 結婚したとき、祖母は祖父の遺影を持ってきた。直視できないので止めてほしかったのだが、初孫の結婚をあの世で喜んでくれているのなら、それで祖父との和解ということにさせてもらったら、と、勝手に思っている。直接ごめんなさいが言えなくて、申し訳ないとは思うけれど。
 しばしば雑誌などで、「住みたい街ランキング」という特集が組まれる。毎年連綿と続けられているものだから、不動の人気テーマの1つなのだろう。リクルートの住宅情報サイト『SUUMO』の、「2012年版・住みたい街ランキング(関西編)」によると、「1位:芦屋/2位:京都/3位:神戸/4位:三宮/5位:西宮/6位:梅田・西宮北口/8位:大阪/9位:天王寺/10位:岡本/11位:なんば/12位:高槻/13位:夙川/14位:宝塚/15位:千里中央/16位:御影/17位:豊中/18位:草津/19位:住吉/20位:箕面/21位:姫路/22位:茨木/23位:北山/24位:江坂/25位:六甲道/26位:学園前/27位:奈良/27位:甲子園/29位:福島/30位:尼崎・高槻市・桂」という結果だそうである。

 「いつかは芦屋」「夙川で夢のセレブ生活」「すみれの花に囲まれてヅカライフ」といった憧れなら理解できるのだが、こうしたランキングの上位に必ず、梅田だの難波だの三宮だの、そういうのが上がってくるのはどういう感覚なのだろう、と思ってしまう。最終電車を気にせず飲んだり遊んだりができる、というのが恐らくの理由だろうが、普通の生活を営む者は、そうそう毎晩遊び歩く訳にもいかないだろうし、何より生活臭がないだろうよ。夜中にトイレットペーパーが切れたからちょっとそこのコンビニにと、すっぴんにジャージで外を出歩けるかと考えてみたらよい。「住む」というのは、その街が自分にとっての「日常」になることなのだ。

 以前にも記したが、私はこれまでに7回、住まいを変えている。大阪だけでも5度目の住まいであるが、そのいずれも、件のランキングには出てこない。マイノリティなのかなあと思うが、しかしいずれにも、その時々における、ジプシーなりの思い入れがある。

 生まれて最初に住んだのは、京阪電車の宮之阪の駅前にある、「宮之阪ハウス」という文化住宅の2階だった。泣いてなかなか寝付かない私を、酔った父が抱いて外に連れていく。父が燻らせるハイライトの紫煙を浴びながら、行き交う電車を見ていると、泣き止んで眠りに落ちたそうである。「ポットン便所」も、この時代の文化住宅ではデフォルトであった。私は一度ここに嵌り、尻が大きいのが幸いして事無きを得たことがあるのだが、危うく、生を享けて僅か2年で、糞塗れという恥辱極まる状態で夭折するところであった。諸々全ては伝聞ではあるが、実像の如くに記憶に残っていて、今でもこの地に立つとその情景が思い起こされる。ただし、その文化住宅は跡形もなく、代わりに高層マンションが聳え立っている。

 次は、同じ枚方市内での引っ越しだったが、新築の府営住宅の抽選に当たり、「宮之阪ハウス」居住者の宿願であった“集団移住”が実現したのである。後にどの家庭もマイホームを持つようになるが、この連帯意識は相当なものらしく、今でも、親同士の年賀状のやり取りレベルの交流は続いているらしい。団地には小さな公園があり、そこに砂場があった。幼き日の私は、柿の種(酒のアテではなく、文字通りのもの)をその砂場に埋め、たわわに実が生(な)るのを楽しみにして、毎日の水遣りを欠かさなかった。しかし、そうこうしている内に父の岡山への転勤が決まり、発芽すら見ることもなく、生まれ育った枚方を離れることになった。後に訪れたとき、柿の木は当然ながら育っているはずもなく、思い出の砂場の前で、自嘲気味に笑うばかりだった。

 3つ目の住まいは、岡山市の郊外、西大寺という町である。川をこよなく愛する釣りバカの父は、吉井川という川の畔に立つ団地からの眺めを、大層気に入っていた。通っていた小学校には、「低学年は自宅の周囲、中学年は町域、高学年は校区域から子どもだけで外に出てはならぬ」という規則があった。ところがこの校区は、町の中心部からは離れた田舎にあり、友達と連れ立って遊びに行こうにも、校区内では、野球や虫取りといった健康的なこと以外では、老婆が営む駄菓子屋に屯(たむろ)するのがせいぜいで、ゲームセンターなどの娯楽施設は、中心部の大型スーパーに遠征せねばなかった。禁を破り、そんなときに限って、たまたま買い物に来ていた先生に摘発され、翌日学校で折檻を受けることもしばしばであった。中学校も1年間だけ通ったが、転校することになった経緯は前回記したとおりである。

 4つ目は、岡山市内の中心部、名勝後楽園の近くの分譲マンションである。風呂無し文化住宅から13年目にして、我が家は初めて「自分の家」を手にした。母はこのことに大層な感慨を覚えていた。校区内には名門の県立高校を2校も抱え、市内屈指の文教地区との触れ込みであったが、当の中学校は「市内御三家」と言われる札付きの荒廃した学校で、定期考査や卒業式には警察とPTAが物々しく校内を警邏し、街中でヤンキーに絡まれても、メンチを切りながら自分の中学校名を名乗るとそれだけで退散したほどである。そんなところだったが、家の近くを流れる旭川の土手が夕焼けに染まる様は実に美しい風景だった。好きだった女の子と話をしながら、ここをチャリンコで並び行くのは、それが全てと言っても過言ではない青春時代の思い出である。

 大学進学で大阪に戻ってきて、一人暮らしを始めた。その場所として選んだのが、西中島南方である。大学の近くだと友人に居座られる恐れがあるのが嫌だったのと、地下鉄・阪急の2路線が使える上、新大阪も徒歩圏内なので、京阪神のどこにでも行けるという利便性が決め手である。暮らすには本当に便利なところだったが、住まいに難があった。ワンルームマンションだったが壁が薄く、隣室の水商売の女性が夜な夜な男を連れ込み、大声を上げて事に及ぶのが、精神衛生上誠によろしくなかった。そして、ベランダ伝いに野良猫が侵入し、あろうことか私の部屋のベランダの段ボールを棲み家とした。様々な迎撃策を講じたが、敵も然る者引っ掛け者、遂に私が白旗を揚げ、3年で出ていくことにした。

 6つ目として選んだ場所は、天満である。このマンションが良かったのは、自室から天神祭の奉納花火が望めたことである。しかしその後、数々のマンションが建ち、帝国ホテルができたときには音しか聞こえなくなった。ベランダには今度は鳩が巣を作り、備え付けのエアコンが故障して真夏は氷枕を10個ほど敷き詰めて寝る羽目に遭う(管理人に言えばよかったのだが、不精故に半ばゴミ屋敷と化した自室に人を入れたくなかった)など、住環境は年々劣悪を極めたが、それでも13年、これまでの人生で最も長く暮らした場所である。この間、学生、フリーター、正社員と身分が変わり、遂には年貢の納め時とばかりに結婚にまで至った。自らの人生の縮図がここにはあった。出ていくとき、よく叱られた鬼瓦のような管理人のおばちゃんに「頑張ってや」と言われたときには、思わず落涙してしまった。

 そして今、再び淀川を越え、三国での暮らしも間もなく3年目を迎えようとしている。近所の行き付けの店を増やし、街に溶け込んで暮らしていくことが、ここでの生活の愉しみである。
 今宵は七夕である。しかし、空を見上げても、厚い雲が垂れ込めるばかりである。

 独身時代に住んでいた天満のマンションの前には大川(旧淀川)が流れ、そこに架かる源八橋という橋を渡ると、「桜ノ宮」という、大阪随一の、大人の男女の社交場がある。例年、天神祭、クリスマスイブ、年越しの3回は、どちらの施設も全室満室で、普段なら煌々と輝いているはずのネオンが悉く消え、一転、ゴーストタウンと化す。現業時代はよりにもよって、ここを通り抜けねば帰宅することができず、仕事に疲れた体を鞭打ち、男女のめくるめく営みを余所に、一人、漆黒の闇を自転車で駆け抜けていた。頭の中では、祇園精舎の鐘の声が響き、沙羅双樹の花が咲いていたものである。

 そうした「桜ノ宮三大イベント」も、落ち着いて考えれば、どれを取っても男女の愛欲とは全く無関係なことばかりが由来である。クリスマスイブなんて人様の生まれた日の前日というだけだし、天神祭に至ってはあろうことか人様の月命日だ。そんな日に、船渡御と称して派手に花火を打ち上げ、それが終われば今度は男女が愛欲の海に溺れて再びバンバン花火をぶっ放す。菅原道真公がこれをご覧になったら、一体どう思われるのであろうか。

 その点、七夕は、男女が互いの愛を確かめ合うというロマンスデーなのであり、この日こそ桜ノ宮は大いに盛り上がればよいのではないかと思うのだが、どういう訳か、ひっそりと通常営業である。やれと言われれば無欲となり、やるなと言われれば欲望の歯止めが利かなくなる。人間とは何と勝手な生き物であろうか。

 ところで、私が生まれた枚方市には、その名も「天の川(天野川)」という川が流れており、枚方市駅の近くにはご丁寧にも「かささぎ橋」なる橋まで架かっている徹底ぶりである。ただし、この橋を行き交うのは、赤い糸で結ばれた恋人同士ではなく、排ガスを撒き散らす車ばかりである。

 この川に並行して走る京阪交野線。朝のラッシュ時には通勤快急「おりひめ号」、帰宅ラッシュ時には快速急行「ひこぼし号」が走るのだが、年に一度の逢瀬を重ねるのだからこそ、牽牛織女伝説はロマンチックになるというのに、大量の通勤客を詰め込んで毎日ガシガシ走られたのでは興醒めではないのだろうか。いや、朝の「おりひめ号」と夜の「ひこぼし号」が途中ですれ違うことは決してないのだから、よくできた話と思わねばなるまい。

 こんなことを徒然に考えながら、ロマンチックな話というのは所詮、虚構の世界の絵空事やねんなあと、げんなりした気持ちになってしまうのである。

 昔、ある文具メーカーの広告に、「十歳にして、愛を知った」というコピーが載っていた。「愛」という漢字は小学4年生、すなわち「十歳」で学習するのだからというレトリックで、コピーの勉強をしていた当時、これは秀作と感心したものではあるが、翻って自身の若き日々を顧みるに、どうだっただろうか。

 幼稚園の年長に上がるとき、生まれ育った枚方を離れ、岡山市の郊外にある町に引っ越した。土地勘のない母親が、通わせるべき幼稚園を間違えたため、初めはなかなか友達ができなかった。そんな中、同じクラスに、優しく声を掛けてくれる女の子がいた。いずみちゃんという、医者の娘である。最早どんな顔だったか思い出すことはできないが、それでも清楚で可憐な女の子だったという印象だけは残っている。

 ある日、如何なるシチュエーションだったかは覚えていないが、突然、いずみちゃんがおんぶをしてくれて、大層萌えたことがある。恐らく、これが自分の初恋だったのだと思う。その後、幼稚園にもたくさん友達ができたが、小学校は指定の校区に従うため、せっかくできた友達とも、たった1年での別れとなった。これには深い悲しみを覚えた。その後風の便りで、いずみちゃんはどこか遠くへ引っ越していったと聞いた。

 6年後、通う中学校が同じになるため、多くの懐かしい人たちとの再会となった。その中に、ヤンキーに片足を突っ込んでいるような1人の女子がいた。何が気に障るのかわからないが、最初、私はこの女子に大層嫌われ、幾多の因縁をつけられた。それが、どういう心境の変化があったのかは知らないが、彼女は10月くらいに、急に話しかけてくれるようになった。名前は呼び捨てにされるし、力関係は明らかに向こうの方が上だったが、それでも、彼女と喋るのは楽しかった。

 2月、急に我が家の引っ越しが決まった。時はバブル景気前夜、市の中心部にマンションを購入、親たちだけで秘密裡に話を進めていた。子どもたちは猛然と反対したが、購入は完了しており後の祭り。家庭内で荒れに荒れる私に手を焼いた母親は、担任教諭に説得を要請したのだが、そのやり口に私はますます激昂し、ついに家を飛び出した。が、勇んで歩みを始めて僅か3分後、仕事帰りの父親の車と遭遇し、人生初の家出はあえなく幕引きとなった。

 終業式の日、クラスの皆から寄せ書きをもった。真ん中には「友愛」と書かれていた。幼稚園以来6年ぶりに再会した友達と、またしてもたった1年での別れとなった。最後に挨拶を求められたが、上手く言葉が出てこなかった。そして学校を出ようという段になって、例の女子が追い掛けてきて、「バイバイ」とだけ言って、去っていった。そのとき初めて、自分はこの子に恋をしていたのだと気付いた。しかし、思いを伝えることはできなかった。

 3月の末、いよいよ引っ越しの日がやってきた。出発する直前まで、部屋に籠もって号泣していた。6年後の、再びの深い悲しみであった。

 いずれも、ほろ苦い、遠い日の線香花火である。

 我が家には、笹の葉も短冊もない。だから、ここに願い事を記そうと思う。「皆から、厭われませんように」「多くの人に、愛されますように」。