若者なら誰しも、という訳でもないだろうが、例えば高校生が進学先を選ぶ際に、「地元から出る」ことありきで考える者は少なくないのではなかろうかと思う。「都会への憧れ」というのも多分にあるであろうが、それ以上に「一人暮らしをしたいから」という者はきっと多いはずである。
一人暮らしは「自由を手にすること」であると同時に「自律という名の自己責任を負うこと」でもある。誰にも口喧しく言われないというのはすなわち、誰も口喧しく言ってくれる人がいないことを意味する。教科書的なつまらないことを言うと、自らを律することができないのであれば、一人暮らしをすることは許されないのだ。
私の勤務先の部下にかつて、中学校から大学院まで、一貫して女子校だったという徹頭徹尾のお嬢様がいた。具体的な家庭の事情を聞いた訳ではないので想像の域を出ないのだが、きっと、何重もの箱の中に入れられて、それは大切に育てられたのであろうと思う。しかし、こういう育てられ方をした人は得てして、「自由への希求」がマグマのように堆積し、どこかでそれが爆発するものである。彼女は、自宅から何の問題もなく通勤できるのに、わざわざ一人暮らしを始めた。こういう場合は会社からの補助はないので、新卒入社の薄給から、毎月の家賃を全額払っていた。そこまでしてでも手に入れたい「自由」であったのだろう。
それはそれこそ「本人の自由」であるから、上司である私がとやかく口を挟む筋合いもないのだが、とにかく困ったのが、遅刻が多いことなのだ。定時になっても出勤してこないので、電話をしてみる。「もじもじぃ~」と、明らかに今この電話で起きましたという寝ぼけ声。「始業時刻を過ぎておりますが」と押し殺した声で言うと、やっと目が覚めて「す、すみません……」と消え入るような声。「すっぴんでええから30分以内に出社せよ」とだけ言って電話を切る。30分経って、髪の毛を振り乱しながら指示通りにすっぴんで出社し、「二度とこのようなことのないよう、社会人として気を引き締めてまいります」と反省の弁を語る。この形式的なやり取りがそれから2か月の間に三度繰り返された。「『仏の顔も三度まで』って諺、知ってるか?」と凄んだのが効いたのか、それを最後に遅刻はなくなったのだが、どんな対策を講じているのか問うたところ、「お母さんにモーニングコールをしてもらってます!」とな。「君さあ、一人暮らしする資格ないから、実家に帰れよ」と、力なく説諭するのが精一杯だった。
と、尤もらしく部下に訓垂れを行う上司を装っていたのだが、自分の若かりし日を顧みるに、彼女を悪く言えた義理はなく、ドン引きされそうで、カミングアウトするのも憚られるが、学生時代は朝が起きられないので悉く単位を落とし、就職してからも現業時代は深夜の帰宅、爆睡の後、午後からの出勤であるため、朝のゴミ出しができず、そのうちゴミ屋敷の如き様相を呈して、大枚を叩いて業者を呼び、家の掃除を頼んだことさえあるのだ。管理してくれる人がいなければダメになる者は確かに存在する。そんな始末であるから、「一刻も早く一人暮らしを止めよ。さもなくば早晩廃人と化す」との各方面からのご諫言を飲む形で、今こうして所帯を持っているのである。
では、所帯を持つようになって、健全な生活を送っているかと言えばそうでもなく、何となれば家人もまた、家事というものがまあできない。仕事が大変で、帰宅が私より遅いこともしばしばであるから、疲れた体に鞭打って家のことをやれというのも無体とは思うので、それを責めたりもしないのであるが、結婚して以来、例えば彼女の作った料理を食したのはわずか5回であることを人に語るとさすがに驚かれる。しかし、できないものはできないのであるし、そういう能力を持ち合わせないのはお互い様であるから、仕方がないと諦念している。
随分前の話だが、家人と付き合い始めて暫く経って、一応ご両親にご挨拶くらいはしておきましょうということで、彼女の実家の近くの居酒屋で対面したときのことである。まだ結婚という具体的なことを語る段階にはなかった(実際に年貢を納めたのはそれから5年後のことである)が、お母さんが突然、「この子は箱にだけは入れて育ててしまいましたので……」と仰った。その意味するところを理解したのは正に5年後であったのだが、結婚の直前に今度は「返品不可ですので」と言われ、最早引き返せぬところにまで来て、今に至る。
勤務先に、私よりちょうど20歳上、来年には定年を迎える老壮の社員がいる。皆からは「爺」と呼ばれて慕われ、実際に休みの日は、孫と風呂に入るのが唯一の楽しみであるという。この方は、普段は植木等のような与太郎ぶりで、そのために出世や栄達といったこととは無縁に生きてきたのだが、ここぞというときには核心を突いた、あるいは含蓄に富んだことを仰り、それで窮地を切り抜けたことは数知れずである。その方があるとき、「『可愛い子には旅をさせよ』ではないんやけど、子どもは成長したら、家から叩き出して、一人暮らしさせなあかんのや」というようなことを仰った。娘さんの結婚が決まったとき、家のことが何一つできないことに思いを致し、嫁入りまでの1年間、自宅近くのアパートに一人住まわせ、自活させたそうなのだ。
それを聞いて、愚妹がそうであったことを思い出した。実家にいた頃は「座敷童子」の異名を取るほど何もしない子で、少しでも油断すると、ソファーに横たわりあられもない姿で寝ているのである。だから、大学進学時に家を出ることに、当初母は相当な懸念を示したのであるが、「人間たるもの一度は家を出て一人で生きてみるべき」との父の意見もあって、一人暮らしを始めた。半年ほどして、母が、妹のマンションに突撃訪問を行ったところ、部屋は綺麗に清掃され、自炊も行っており、早朝からのパン屋でのアルバイトと学業とクラブ活動を見事に両立していて、大層驚いたという。その後、日本企業の現地法人に就職して単身中国に渡り、そこで知り合った男性(日本人)と結婚し、出産して、今は横浜で暮らしている。あの「座敷童子」が真っ当に主婦や母親をやっているというのだから、「爺」の仰る一人暮らし推奨説は、当を得ているのだろう。
結局、人というものは必要に迫られなければこういうことはちゃんとできないのであろう。我が家もそれぞれが休みの日には、それぞれの分担を決めて、何とか家のことをこなしている。「一人暮らし×2」のような、どこかおかしな家庭ではあろうが、所詮不完全な者同士が住まいを一にしているのだから、互いに支え支えられて生きていく、それが「二人暮らし」の要諦であると、今更ながらに理解した次第である。
堺市で、だんじりの練習を休んだ高校生を監禁し、重傷を負わせて財布を奪ったとして、男5人が逮捕されたという。何でも、この高校生がしばかれて閉じ込められてカツアゲされたのは1年も前の話だとか。今頃になって逮捕されるのもどうかと思うが、よりによってこの時期、すなわち、1年のうちで泉州が一番熱い時期に、こういう事件が明るみに出るということに、恣意的なものを感じてしまうのは考え過ぎであろうか。
しかし、事件が起きたのは堺市だというのに、「だんじり(本当は『だんぢり』と書くのが正しいらしい)」と見たり聞いたりしただけで「岸和田でとんでもない事件が起きた」と早合点する愚か者の何と多いことか。同じ岸和田でも山手の方は10月に入ってからだし、そもそも、大阪の特に南部ではこの季節、そこら中でだんじり祭をやっているのだから、何でもかんでも岸和田の所為にしてやらないでほしい。
いや、それ以上に憤懣やる方ないのは、こういう事件があるとすぐに、やれ「大阪の民度は低い」だの「さすが大阪民國」だの、こぞって大阪叩きの論調がネット上で勃発することであるが、大阪府民886万人の全員が犯罪者とでも言わんばかりの極めて浅薄な暴論である。26年に亙って大阪に住んでいるが、この間酷い目に遭った経験は、地下鉄天六駅の階段ですれ違いざまに見知らぬ男に首を絞められたことと、当時住んでいた天満の自宅前で車上荒らしにあったことと、残業帰りの夜中にひったくりに遭いかけたけれど、たまたま鞄を右手から左手に持ち替えたために犯人はバランスを崩して転倒し、その場でどついてやったことの、3回だけである。全くもって、平穏な日々をこの大阪で過ごしているのだ。
数年前に『大阪がもし日本から独立したら』という本を読み、一流の専門家たちが大真面目に独立のシミュレーションをやっているのに爆笑したことがあるのだが、そこまでこうして大阪が罵られるのならいっそのこと、本当に独立してしまえばよいのではなかろうか。本書によると、「大阪国」には、兵庫県伊丹市および尼崎市南部が併合され、阪神甲子園球場とその周辺施設が飛び地となるそうであるから、今後、新大阪駅や、伊丹・関西の両空港に降り立った者には入国審査を行わねばならず、大阪を扱き下ろす者はここで全員捕縛してやればよい。新幹線で京都より新神戸以遠へ抜ける者からは通行税の徴収が必須である(嫌なら京都から和田山を経て姫路へ迂回すること)。そして、アンチタイガースの者たちは勿論、甲子園への入場は不可である――冗談です、すみません。
話が逸れてしまったが、このように、何か犯罪が起きれば、地域とか時代とか、世の中全体の問題であるかのように語られがちである。冒頭の一件でも、悪いのは犯人その個人なのであって、それをイコール大阪人などと括るのは何という乱暴な物言いよと思うのであるが、このようなおかしな一般化(?)は日常会話でもよく耳にするのであって、その度に何かおかしいよなと引っ掛かっている。とりわけ昔から気になっているのは、「私」の考えとして意見を言わないことの多さである。
例えば、「女の子に嫌われるよ」という“常套句”がある。自分で言うのも何であるが、そしてこういう臆面のないことを言うのも憚られるのだが、女性から生理的嫌悪感を示されることは殆どないという自負はある。ただ、人の好みは様々であるから、見た目なり言動なりがお気に召さないという向きも当然あるだろう。ならば「私はあなたが嫌いです」と言えばよいのに、なぜ「女の子に」とするのであろうか。お前は一体いつから「女の子」の代表になったというのだ。
大人が子どもを叱るときの“常套句”である「子どもなんだから大人の言うことを聞きなさい」というのにも、子ども心に疑問を持っていた。確かに子どもは親に養ってもらっているのだし、年長者のことばに傾聴せよというのも道徳的な理はあるのだろうが、だからといって、子どもは無条件に大人に服従せねばならないというのは、暴君が無辜の民衆を平伏させるのと同じではないだろうか。「お母さんはあなたが間違っていると思うの」と、なぜ言えないのだろうか。金科玉条よろしく「大人」を振り翳さないと子どもを躾けられないというのは、大人の力不足というものではないだろうか。
今となっては些か陳腐な気もするが、コーチングを学ぶときに出てくるものに、「Iメッセージ」というのがある。「よく頑張ったね」というのは相手が主語である「Youメッセージ」であるが、これを「あなたが頑張ってくれて私は嬉しい」のように表現すると、Iメッセージとなる。これが上手いのは小泉元首相で、これまた古い例で恐縮であるが、元横綱の貴乃花が、怪我を押して出場し、その場所で優勝したときに発した「痛みに耐えてよく頑張った。感動した!」というメッセージが好例であろう。そこには「承認」という評価が加わり、Youメッセージで語るよりも相手の心に響くとされる。
会社の世界でも政治の世界にしても、部下や次官に資料や答弁内容を用意させているようでは話を通すこともできないというのは周知のことであろう。「自分の言葉」で語るに勝るものはないのだ。しかるに何故、「私」で語ることを避けようとするのだろうか。無論、根拠や説得材料はあった方がよいとは思うし、自説に厚みや深みが出るというのも経験則として分かる。ただ、「虎の威を借る狐」という諺もあるのであって、「○○がこう言っているから」では、「じゃああなたはどう思うのよ」と、どうしてもツッコみたくなるのである。自信がないなら語るべきではないと思うのだ。
何の憚ることやあらん。「私」の思いを込めて、高らかに語ろうではないか。
でも、「嫌い」と言われるよりはやっぱり、「好き」と言ってもらえる方がいいかな。
しかし、事件が起きたのは堺市だというのに、「だんじり(本当は『だんぢり』と書くのが正しいらしい)」と見たり聞いたりしただけで「岸和田でとんでもない事件が起きた」と早合点する愚か者の何と多いことか。同じ岸和田でも山手の方は10月に入ってからだし、そもそも、大阪の特に南部ではこの季節、そこら中でだんじり祭をやっているのだから、何でもかんでも岸和田の所為にしてやらないでほしい。
いや、それ以上に憤懣やる方ないのは、こういう事件があるとすぐに、やれ「大阪の民度は低い」だの「さすが大阪民國」だの、こぞって大阪叩きの論調がネット上で勃発することであるが、大阪府民886万人の全員が犯罪者とでも言わんばかりの極めて浅薄な暴論である。26年に亙って大阪に住んでいるが、この間酷い目に遭った経験は、地下鉄天六駅の階段ですれ違いざまに見知らぬ男に首を絞められたことと、当時住んでいた天満の自宅前で車上荒らしにあったことと、残業帰りの夜中にひったくりに遭いかけたけれど、たまたま鞄を右手から左手に持ち替えたために犯人はバランスを崩して転倒し、その場でどついてやったことの、3回だけである。全くもって、平穏な日々をこの大阪で過ごしているのだ。
数年前に『大阪がもし日本から独立したら』という本を読み、一流の専門家たちが大真面目に独立のシミュレーションをやっているのに爆笑したことがあるのだが、そこまでこうして大阪が罵られるのならいっそのこと、本当に独立してしまえばよいのではなかろうか。本書によると、「大阪国」には、兵庫県伊丹市および尼崎市南部が併合され、阪神甲子園球場とその周辺施設が飛び地となるそうであるから、今後、新大阪駅や、伊丹・関西の両空港に降り立った者には入国審査を行わねばならず、大阪を扱き下ろす者はここで全員捕縛してやればよい。新幹線で京都より新神戸以遠へ抜ける者からは通行税の徴収が必須である(嫌なら京都から和田山を経て姫路へ迂回すること)。そして、アンチタイガースの者たちは勿論、甲子園への入場は不可である――冗談です、すみません。
話が逸れてしまったが、このように、何か犯罪が起きれば、地域とか時代とか、世の中全体の問題であるかのように語られがちである。冒頭の一件でも、悪いのは犯人その個人なのであって、それをイコール大阪人などと括るのは何という乱暴な物言いよと思うのであるが、このようなおかしな一般化(?)は日常会話でもよく耳にするのであって、その度に何かおかしいよなと引っ掛かっている。とりわけ昔から気になっているのは、「私」の考えとして意見を言わないことの多さである。
例えば、「女の子に嫌われるよ」という“常套句”がある。自分で言うのも何であるが、そしてこういう臆面のないことを言うのも憚られるのだが、女性から生理的嫌悪感を示されることは殆どないという自負はある。ただ、人の好みは様々であるから、見た目なり言動なりがお気に召さないという向きも当然あるだろう。ならば「私はあなたが嫌いです」と言えばよいのに、なぜ「女の子に」とするのであろうか。お前は一体いつから「女の子」の代表になったというのだ。
大人が子どもを叱るときの“常套句”である「子どもなんだから大人の言うことを聞きなさい」というのにも、子ども心に疑問を持っていた。確かに子どもは親に養ってもらっているのだし、年長者のことばに傾聴せよというのも道徳的な理はあるのだろうが、だからといって、子どもは無条件に大人に服従せねばならないというのは、暴君が無辜の民衆を平伏させるのと同じではないだろうか。「お母さんはあなたが間違っていると思うの」と、なぜ言えないのだろうか。金科玉条よろしく「大人」を振り翳さないと子どもを躾けられないというのは、大人の力不足というものではないだろうか。
今となっては些か陳腐な気もするが、コーチングを学ぶときに出てくるものに、「Iメッセージ」というのがある。「よく頑張ったね」というのは相手が主語である「Youメッセージ」であるが、これを「あなたが頑張ってくれて私は嬉しい」のように表現すると、Iメッセージとなる。これが上手いのは小泉元首相で、これまた古い例で恐縮であるが、元横綱の貴乃花が、怪我を押して出場し、その場所で優勝したときに発した「痛みに耐えてよく頑張った。感動した!」というメッセージが好例であろう。そこには「承認」という評価が加わり、Youメッセージで語るよりも相手の心に響くとされる。
会社の世界でも政治の世界にしても、部下や次官に資料や答弁内容を用意させているようでは話を通すこともできないというのは周知のことであろう。「自分の言葉」で語るに勝るものはないのだ。しかるに何故、「私」で語ることを避けようとするのだろうか。無論、根拠や説得材料はあった方がよいとは思うし、自説に厚みや深みが出るというのも経験則として分かる。ただ、「虎の威を借る狐」という諺もあるのであって、「○○がこう言っているから」では、「じゃああなたはどう思うのよ」と、どうしてもツッコみたくなるのである。自信がないなら語るべきではないと思うのだ。
何の憚ることやあらん。「私」の思いを込めて、高らかに語ろうではないか。
でも、「嫌い」と言われるよりはやっぱり、「好き」と言ってもらえる方がいいかな。
先日、梅田の阪神百貨店前を歩いていたときのことである。「阪神百貨店と言えば婦人服とデパ地下」と言われるだけのことはあって、地下の食料品売り場は、外の地下街にまで行列が延びるほどの人気店も多い。その行列の中に、1組のカップルがいた。列に並ぶことの何が楽しいのか分からないが、大層なテンションで2人はじゃれ合っていた。その横を私が通り過ぎようとしたそのとき、彼氏の方が急に後退してきた。そして、勿論故意ではないが私の足を踏んだ。私は素足にサンダル履きであったので、踏まれた際の激痛は尋常ではなく、恐らく盤若の如き形相でその彼氏を睨んだと思われる。それが余程恐ろしかったのか、彼氏は、やってはいけない相手に危害を加えてしまったとでも言わんばかりの恐怖に満ちた表情で、こちらに平謝りしてきた。私は見た目に反して、こういうことで人様にヤカラを言うような人間ではないので、「いえいえ、大丈夫ですよ」と言ったのだが、地獄に蜘蛛の糸を垂らすお釈迦様でも見るような安らかな眼差しを、その彼は向けてくるのであった。
そこまで私の人相は悪いですかねえ、という趣旨でこの話をある方にしたところ、「私らが子どもの頃は、デパートに行くというのはそらもう大変なことで、よそいきの格好をさせられたものです。それやのに素足にサンダルって……」と言われて、そこですかツッコミのポイントは、と思いつつも、そう言われれば確かにそうやったよなあと、しみじみ昔を回顧してしまったのである。
私が生まれ育った大阪府枚方市には、当時、枚方三越と、丸物(まるぶつ)百貨店(後の枚方近鉄百貨店)の2つのデパートがあった。地元密着のデパートではあったが、それでもそうそう日常的な買い物で行くようなところではなく、「大層なお出かけ」であったことは間違いない。もっと気合いを入れる場合は、心斎橋の大丸やそごう、あるいは四条河原町の髙島屋などまで遠征するが、こうなると殆ど海外旅行レベルの様相である。いずれも親の買い物に連れて行かれることが主ではあるけれども、近所の商店街やスーパーでは見ることのない高価で煌びやかな商品が並ぶデパートは、子どもの目にもそれは魅力的に映ったものである。中でもおもちゃ売り場は、幼い頃には、「ダダをこねる」という必殺技を以て、親の財布を強引に開けさせるという恐喝行為に及べる定番スポットであり、少し長じれば、お年玉という名の軍資金を握り締め、意中の商品に手を掛け、恐る恐るレジに持って行って、普段なら触ることさえ許されない大枚を店員に手渡す、そんな「大人の買い物」を体験できる貴重なステージであった。
昔のデパートには必ずあったものとして想起されるのが2つある。1つは上層階にある「ファミリー大食堂」。もう1つは「屋上遊園地」である。母親が買い物をしている間、父親が屋上へ子どもを連れてゆき、小さな観覧車やゴーカートといった乗り物で楽しみ、その後一家揃って大食堂で食事をする、というのが、当時のデパートでの過ごし方のセオリーであった。
大食堂は、今のような専門店が並ぶレストラン街ではなく、1つの広い店舗であらゆるメニューを網羅していた、文字通りの「大食堂」であった。ワンフロア全部が食堂であるから、窓からの眺望も良く、例えば枚方三越の大食堂からは、当時まだ地平を走っていた京阪電車の駅と線路が見下ろせ、そこを颯爽と駆け抜ける赤いボディの特急(当時は京橋から七条までノンストップ)は子どもの心を鷲掴みにした。レジで食券を買い求めるというのも、大食堂ならではのスタイルで、それを手にして、子どもにとっての大人気商品「お子さまランチ」を待つときの高揚感は、アラフォーの今でも思い出せるほどである。
そのお子さまランチ。大人になってしまった今となっては二度と口にすることのできない夢のキッズプレート。チキンライスの頂に聳え立つ日章旗は、その象徴であったと言えよう。紙で日の丸を作り、爪楊枝に巻き付けて、自宅で食すただの白御飯に挿して、「お子さまランチを食べている妄想」にも浸ったものだった。然るに、聞けば昨今のお子さまランチにはポケモンなどのキャラクターの旗が立つそうであるが、言語道断、以ての外である。そして食後のデザートなど、今で言えば新地の高級クラブで酒を飲むようなものであるが、それもまた、デパートでの食事ならではの贅沢であった。自分の記憶にはないのだが、生まれて初めてフルーツパフェなるものを食したとき、メロンを口にして発した一言は、「このキュウリ、めっちゃおいしい!」だったそうである。周囲の客は大爆笑だったそうであるが、母は舌を噛み切ってその場で果てたかったらしい。
そんな思い出のいっぱい詰まった枚方三越は2005年に閉店、跡地にはよりにもよって地元の大手進学塾が入った。そして今年(2012年)の2月には、近鉄百貨店も、丸物時代から36年続いた歴史に幕を閉じた。36年だから私の人生とほぼ同じ、この間ずっと枚方にいた訳ではないが、気持ちとしては自分の人生と共に歩んだと勝手に思っている、愛着のあるデパートであった。京阪電車で、枚方近鉄閉店の吊り広告を見たときは、人目も憚らず号泣するところであった。
大阪府内だけでも、心斎橋そごう、北浜三越、天満橋松坂屋と、次々と名門百貨店の灯が消えている。地下鉄の「次は、心斎橋、心斎橋、大丸・そごう前です」の車内放送を聞かなくなって久しいが、今なお、あれを言わないアナウンスはどうも間が抜けているように思えてならない。また、閉店の瞬間がよくニュースで取り上げられ、店長以下、従業員・スタッフが、シャッターが下りるまで深々と頭を下げたまま動かず、客からは「ありがとう!」の歓声と割れんばかりの拍手が鳴り響くという、お決まりと言えばお決まりの図が流れるのではあるが、どうしたものか、何度見ても泣けて泣けて仕方がない。
方や、梅田界隈では、三越伊勢丹を核とする「大阪ステーションシティ」が賑わいを見せ、大阪駅を挟んで南側の大丸もリニューアルして活況を呈している。梅田阪急も今秋には建て替えが完了し、次は阪神百貨店の改装に着手するという。難波の髙島屋も綺麗になった。阿倍野近鉄も、地上60階建て、300mの高さを誇る「あべのハルカス」として建設中である。そうした新しい百貨店は、仕事帰りにただ通り過ぎるだけでも楽しいものではあるが、しかし、かつてのように、年に数回、よそいきの格好をして、家庭の一大イベントよろしく、心して訪れるというような特別感は、どこにもない。扱う商品が低廉になった訳でもなく、店構えは往時よりむしろ洗練されているというのに、これはどうしたことであろうか。
誰にでも開かれ、「素足にサンダル」でも何ら違和感のない、大衆的な当世の百貨店であるが、自らの幼き日の記憶に残る「デパート」は、忘却の彼方へと消え行くばかりである。
そこまで私の人相は悪いですかねえ、という趣旨でこの話をある方にしたところ、「私らが子どもの頃は、デパートに行くというのはそらもう大変なことで、よそいきの格好をさせられたものです。それやのに素足にサンダルって……」と言われて、そこですかツッコミのポイントは、と思いつつも、そう言われれば確かにそうやったよなあと、しみじみ昔を回顧してしまったのである。
私が生まれ育った大阪府枚方市には、当時、枚方三越と、丸物(まるぶつ)百貨店(後の枚方近鉄百貨店)の2つのデパートがあった。地元密着のデパートではあったが、それでもそうそう日常的な買い物で行くようなところではなく、「大層なお出かけ」であったことは間違いない。もっと気合いを入れる場合は、心斎橋の大丸やそごう、あるいは四条河原町の髙島屋などまで遠征するが、こうなると殆ど海外旅行レベルの様相である。いずれも親の買い物に連れて行かれることが主ではあるけれども、近所の商店街やスーパーでは見ることのない高価で煌びやかな商品が並ぶデパートは、子どもの目にもそれは魅力的に映ったものである。中でもおもちゃ売り場は、幼い頃には、「ダダをこねる」という必殺技を以て、親の財布を強引に開けさせるという恐喝行為に及べる定番スポットであり、少し長じれば、お年玉という名の軍資金を握り締め、意中の商品に手を掛け、恐る恐るレジに持って行って、普段なら触ることさえ許されない大枚を店員に手渡す、そんな「大人の買い物」を体験できる貴重なステージであった。
昔のデパートには必ずあったものとして想起されるのが2つある。1つは上層階にある「ファミリー大食堂」。もう1つは「屋上遊園地」である。母親が買い物をしている間、父親が屋上へ子どもを連れてゆき、小さな観覧車やゴーカートといった乗り物で楽しみ、その後一家揃って大食堂で食事をする、というのが、当時のデパートでの過ごし方のセオリーであった。
大食堂は、今のような専門店が並ぶレストラン街ではなく、1つの広い店舗であらゆるメニューを網羅していた、文字通りの「大食堂」であった。ワンフロア全部が食堂であるから、窓からの眺望も良く、例えば枚方三越の大食堂からは、当時まだ地平を走っていた京阪電車の駅と線路が見下ろせ、そこを颯爽と駆け抜ける赤いボディの特急(当時は京橋から七条までノンストップ)は子どもの心を鷲掴みにした。レジで食券を買い求めるというのも、大食堂ならではのスタイルで、それを手にして、子どもにとっての大人気商品「お子さまランチ」を待つときの高揚感は、アラフォーの今でも思い出せるほどである。
そのお子さまランチ。大人になってしまった今となっては二度と口にすることのできない夢のキッズプレート。チキンライスの頂に聳え立つ日章旗は、その象徴であったと言えよう。紙で日の丸を作り、爪楊枝に巻き付けて、自宅で食すただの白御飯に挿して、「お子さまランチを食べている妄想」にも浸ったものだった。然るに、聞けば昨今のお子さまランチにはポケモンなどのキャラクターの旗が立つそうであるが、言語道断、以ての外である。そして食後のデザートなど、今で言えば新地の高級クラブで酒を飲むようなものであるが、それもまた、デパートでの食事ならではの贅沢であった。自分の記憶にはないのだが、生まれて初めてフルーツパフェなるものを食したとき、メロンを口にして発した一言は、「このキュウリ、めっちゃおいしい!」だったそうである。周囲の客は大爆笑だったそうであるが、母は舌を噛み切ってその場で果てたかったらしい。
そんな思い出のいっぱい詰まった枚方三越は2005年に閉店、跡地にはよりにもよって地元の大手進学塾が入った。そして今年(2012年)の2月には、近鉄百貨店も、丸物時代から36年続いた歴史に幕を閉じた。36年だから私の人生とほぼ同じ、この間ずっと枚方にいた訳ではないが、気持ちとしては自分の人生と共に歩んだと勝手に思っている、愛着のあるデパートであった。京阪電車で、枚方近鉄閉店の吊り広告を見たときは、人目も憚らず号泣するところであった。
大阪府内だけでも、心斎橋そごう、北浜三越、天満橋松坂屋と、次々と名門百貨店の灯が消えている。地下鉄の「次は、心斎橋、心斎橋、大丸・そごう前です」の車内放送を聞かなくなって久しいが、今なお、あれを言わないアナウンスはどうも間が抜けているように思えてならない。また、閉店の瞬間がよくニュースで取り上げられ、店長以下、従業員・スタッフが、シャッターが下りるまで深々と頭を下げたまま動かず、客からは「ありがとう!」の歓声と割れんばかりの拍手が鳴り響くという、お決まりと言えばお決まりの図が流れるのではあるが、どうしたものか、何度見ても泣けて泣けて仕方がない。
方や、梅田界隈では、三越伊勢丹を核とする「大阪ステーションシティ」が賑わいを見せ、大阪駅を挟んで南側の大丸もリニューアルして活況を呈している。梅田阪急も今秋には建て替えが完了し、次は阪神百貨店の改装に着手するという。難波の髙島屋も綺麗になった。阿倍野近鉄も、地上60階建て、300mの高さを誇る「あべのハルカス」として建設中である。そうした新しい百貨店は、仕事帰りにただ通り過ぎるだけでも楽しいものではあるが、しかし、かつてのように、年に数回、よそいきの格好をして、家庭の一大イベントよろしく、心して訪れるというような特別感は、どこにもない。扱う商品が低廉になった訳でもなく、店構えは往時よりむしろ洗練されているというのに、これはどうしたことであろうか。
誰にでも開かれ、「素足にサンダル」でも何ら違和感のない、大衆的な当世の百貨店であるが、自らの幼き日の記憶に残る「デパート」は、忘却の彼方へと消え行くばかりである。
先日、26年前まで暮らしていた岡山市の郊外にある西大寺という街を訪れ、最後の1年間だけ通った中学校の同窓会に参加した。きっかけは、第28回でも記した、当時の同級生との運命的な(?)再会であった。
とは申せ、たった1年間しか通っていなかったのだから参加しても浮いてしまわないだろうかという憂慮があったのも事実である。が、結果としては全くの杞憂。覚えてくれている人も多くて、当時と見た目はいろいろな点が変わっている(縦にも横にもボディが拡大した、髪の毛が伸びた=当時の男子は坊主頭必須、眼鏡を掛けた、そもそも視力が落ちたので目つきが悪い、等々)にも関わらず、一瞥しただけで私と判ってくれた人がいたのには感激した。参加者の全員が記憶にある人という訳ではなかったのだが、面識のない人とも、共通の話題で盛り上がれて、時空の隔たりなど無関係に、楽しい時間を過ごすことができた。
不思議と言えば不思議なものであるが、こうして互いに変な気を遣うことも、自らを飾ることもなく、ゆるい空気に身を委ねることのできる心地よさ。ああ、コミュニケーションとは本来かくあるべきであるなあと思ったものであり、例えば若い頃に合コンなどというものに気合を入れて参加していたのは一体何だったのかと、今更ながらに阿呆らしくなる。
そして、こうしたことをつらつら惟るに、人と人が分かり合えないというのは何とも不幸なことだと、思いを馳せてしまうのである。
折も折、日中・日韓関係が俄かに緊迫してきている。にも関わらず我が家の家人などは、「韓国に行ってエステしたい」などと実に悠長なことを抜かしているような始末であるが、もともと海外旅行になど興味が皆無であることを差し引いても、今の今、彼の地に渡航する勇気なんて、私にはないのである。
如何にも不勉強なもので、迂闊なことを申し上げてお叱りを受けるのが怖くて躊躇されるが、どっちが正義でどっちが不正義なのか、私には分からない。が、両国のそもそもの禍根は戦争にあったはずである。戦争の禍根を雪ぐのであれば、何故に再び「争う」という手段を選ぶのか、それがどうしても理解できない。話し合いで解決できるのならとっくにやってるわと言われそうだし、じゃあどんな方法を以てすれば平和的解決に至るのかと問われても、情けないが答えを持ち合わせていない。ただ、争うことによって傷つく人がいることだけは事実である。傷つき、悲しむ人を生んでさえも、国益を守るとの大義名分の下に戦争を行うことが、果たして許されるのであろうか。
たまたまこの夏、九州を訪れ、あちこちを巡ったのであるが、長崎の平和公園にも、中学校の修学旅行以来、24年ぶりに行ってみた。そこに、「あの日のある少女の手記から」と記された石碑があった。そこには、「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」と、こう綴られているのである。国同士の利害など知ったことではない無辜の人が、かかる痛切な叫びを上げているのに向き合ってもなお、争うことは避けられないのであろうか。
「れっきとした我が国の領土」を固守しようとすることに何ら異論はない。それによって領空や領海が狭まり、産業に影響を及ぼすことくらい、義務教育で学んだから知っている。それはそれで、守るべきものを守らなくては苦しむ人がいるということだ。だが、この間の諸々の報道だの評論だのを見ていても、そういうことへの言及が一切ないではないか。「弱腰外交」と叩かれるのも分からなくはないが、それが論点の中心だと言うのであれば、国家の対面だけで領土を守っているのだ、ということになる。それはあまりにあまりな話であろう。
私は「被爆3世」である。広島にいた母方の祖父(故人)が被爆している。幸い、祖父、母、私とも、直ちに生命の危機に瀕するような事態に陥っている訳ではないのだが、母は膠原病という難病を患っており、自分が一度思ったことは他人が意見しようとも決して聞き入れようとしない頑固者の祖父は、自分の被爆にその原因があると思い込み、死ぬまで心を痛めていたという。実際の因果関係は今も分からないのだけれども、墓場までその辛苦を持っていった祖父を思うと、その意味において、これは我が家に残る「戦争の傷跡」と言えなくもないかもしれない。
争うことで人が傷つき、苦しみ、悲しむのは、何も国家間の武力を交えた「戦争」だけではない。民事、刑事を問わず、裁判だってそうだし、個人レベルの喧嘩だってそうである。身近にも多くの争いや対立がある。自らの守るべき正当な利益や権利を主張することが悪い訳ではないし、道義的に許せないということだってあるだろう。しかし、怒りや憎しみだけで人を動かすことはできないのもまた、自明の理ではないだろうか。「勉強しないと親に叱られるから」「あいつに負けたくないから」と言う動機で勉強する子が伸び続けられる訳がないのと、また、「ノルマを達成しないと上司に恫喝されるから」と言って働く社員が安定した業績を挙げることができないのと、本質的には同じである。「学びたい」「世のため人のために貢献したい」と思えばこそ、人は頑張ることができるのである。そこに、争いや諍いの介入する余地などあるまい。
そうしたこと、つまり争うことが如何に愚かであるかを心から語れるのは、やはり「戦争を知る世代」なのであろう。それがどんどん少なくなっている今、この先、平和を追求し続けることができるのだろうかという不安は確かにあるのだが、冒頭に記したように、団塊ジュニアの世代の我々だって、争いのない、対等な関係がどれだけ楽しくて心地よくて幸せであるかを知っているのである。我々があの世に行く頃には、「戦争を知る世代」はいよいよ皆無になっているのだろうが、それでも今を生きる人々が考え、行動できることはあるに違いないと思う。
とは申せ、たった1年間しか通っていなかったのだから参加しても浮いてしまわないだろうかという憂慮があったのも事実である。が、結果としては全くの杞憂。覚えてくれている人も多くて、当時と見た目はいろいろな点が変わっている(縦にも横にもボディが拡大した、髪の毛が伸びた=当時の男子は坊主頭必須、眼鏡を掛けた、そもそも視力が落ちたので目つきが悪い、等々)にも関わらず、一瞥しただけで私と判ってくれた人がいたのには感激した。参加者の全員が記憶にある人という訳ではなかったのだが、面識のない人とも、共通の話題で盛り上がれて、時空の隔たりなど無関係に、楽しい時間を過ごすことができた。
不思議と言えば不思議なものであるが、こうして互いに変な気を遣うことも、自らを飾ることもなく、ゆるい空気に身を委ねることのできる心地よさ。ああ、コミュニケーションとは本来かくあるべきであるなあと思ったものであり、例えば若い頃に合コンなどというものに気合を入れて参加していたのは一体何だったのかと、今更ながらに阿呆らしくなる。
そして、こうしたことをつらつら惟るに、人と人が分かり合えないというのは何とも不幸なことだと、思いを馳せてしまうのである。
折も折、日中・日韓関係が俄かに緊迫してきている。にも関わらず我が家の家人などは、「韓国に行ってエステしたい」などと実に悠長なことを抜かしているような始末であるが、もともと海外旅行になど興味が皆無であることを差し引いても、今の今、彼の地に渡航する勇気なんて、私にはないのである。
如何にも不勉強なもので、迂闊なことを申し上げてお叱りを受けるのが怖くて躊躇されるが、どっちが正義でどっちが不正義なのか、私には分からない。が、両国のそもそもの禍根は戦争にあったはずである。戦争の禍根を雪ぐのであれば、何故に再び「争う」という手段を選ぶのか、それがどうしても理解できない。話し合いで解決できるのならとっくにやってるわと言われそうだし、じゃあどんな方法を以てすれば平和的解決に至るのかと問われても、情けないが答えを持ち合わせていない。ただ、争うことによって傷つく人がいることだけは事実である。傷つき、悲しむ人を生んでさえも、国益を守るとの大義名分の下に戦争を行うことが、果たして許されるのであろうか。
たまたまこの夏、九州を訪れ、あちこちを巡ったのであるが、長崎の平和公園にも、中学校の修学旅行以来、24年ぶりに行ってみた。そこに、「あの日のある少女の手記から」と記された石碑があった。そこには、「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」と、こう綴られているのである。国同士の利害など知ったことではない無辜の人が、かかる痛切な叫びを上げているのに向き合ってもなお、争うことは避けられないのであろうか。
「れっきとした我が国の領土」を固守しようとすることに何ら異論はない。それによって領空や領海が狭まり、産業に影響を及ぼすことくらい、義務教育で学んだから知っている。それはそれで、守るべきものを守らなくては苦しむ人がいるということだ。だが、この間の諸々の報道だの評論だのを見ていても、そういうことへの言及が一切ないではないか。「弱腰外交」と叩かれるのも分からなくはないが、それが論点の中心だと言うのであれば、国家の対面だけで領土を守っているのだ、ということになる。それはあまりにあまりな話であろう。
私は「被爆3世」である。広島にいた母方の祖父(故人)が被爆している。幸い、祖父、母、私とも、直ちに生命の危機に瀕するような事態に陥っている訳ではないのだが、母は膠原病という難病を患っており、自分が一度思ったことは他人が意見しようとも決して聞き入れようとしない頑固者の祖父は、自分の被爆にその原因があると思い込み、死ぬまで心を痛めていたという。実際の因果関係は今も分からないのだけれども、墓場までその辛苦を持っていった祖父を思うと、その意味において、これは我が家に残る「戦争の傷跡」と言えなくもないかもしれない。
争うことで人が傷つき、苦しみ、悲しむのは、何も国家間の武力を交えた「戦争」だけではない。民事、刑事を問わず、裁判だってそうだし、個人レベルの喧嘩だってそうである。身近にも多くの争いや対立がある。自らの守るべき正当な利益や権利を主張することが悪い訳ではないし、道義的に許せないということだってあるだろう。しかし、怒りや憎しみだけで人を動かすことはできないのもまた、自明の理ではないだろうか。「勉強しないと親に叱られるから」「あいつに負けたくないから」と言う動機で勉強する子が伸び続けられる訳がないのと、また、「ノルマを達成しないと上司に恫喝されるから」と言って働く社員が安定した業績を挙げることができないのと、本質的には同じである。「学びたい」「世のため人のために貢献したい」と思えばこそ、人は頑張ることができるのである。そこに、争いや諍いの介入する余地などあるまい。
そうしたこと、つまり争うことが如何に愚かであるかを心から語れるのは、やはり「戦争を知る世代」なのであろう。それがどんどん少なくなっている今、この先、平和を追求し続けることができるのだろうかという不安は確かにあるのだが、冒頭に記したように、団塊ジュニアの世代の我々だって、争いのない、対等な関係がどれだけ楽しくて心地よくて幸せであるかを知っているのである。我々があの世に行く頃には、「戦争を知る世代」はいよいよ皆無になっているのだろうが、それでも今を生きる人々が考え、行動できることはあるに違いないと思う。
人知れずゴーストライターの如くに書き散らしている拙文であるから、自らの実名を名乗るのは大いに憚られるのであるが、私の名前は「直木」という。今も昔も大層珍しがられる。そして、必ず由来を尋ねられる。大抵の人は、直木三十五、つまり「直木賞」を想起されるようである。確かに大学は国文学科ではあったが、別に「名前負けしないように」という理由で選んだ訳ではないし、専攻は中古文学であるから、現代の大衆文学とは全くの無縁である。それにそもそも、創作の能力など皆無である。
幼い頃、両親に、なぜ「木」にしたのかと問うたことがあるとは思うのだが、その回答があまり記憶にない。長じて、小学校のときに、担任の先生から「『樹』よりも『木』の方が、余計な枝葉がなく、真っ直ぐ伸びるという感じがあるね。ご両親もそういう願いを込めて名付けてくださったのではないかな」と言ってもらったことがあり、これで初めて得心が行ったのである。肉親ではなく赤の他人から自分の名前の解説を受けるなんて。
しかし、果たしてその通りに真っ直ぐ育ったかと自問すれば甚だ自信がないので、今では人から由来を尋ねられても、「画数の多い漢字を書くのが面倒臭かったから、『木』にしたんと違いますやろか」と答えることにしている。
何にせよ、変わった名前であることは確かなのであって、自署にも関わらず誤記と認識され、「直樹」と訂正されることもしばしばである。「直樹」なら読みは合っているからまだよいのだが、「真樹」と「直」まで正されたこともあり、一番酷かったのは、年賀状の宛名に「植木」と書かれたことである。さすがにこれには抗議をしたのだが、パソコンの宛名ソフトにそのように登録されているからか、今以て一向に直してもらえない。
さて、変わった名前と言えば、昨今何かと話題の「キラキラネーム」はやはり気になる。ネットで検索してみたら一覧のようなものがあったので、省くことなく、そっくりそのまま拾ってみると、「今鹿(なうしか)、金星(まぁず)、泡姫(ありえる)、美俺(びおれ)、黄熊(ぷう)、梨李愛乃(りりあの)、愛理(らぶり)、樹茶(きてぃちゃん)、阿弖流為(あてるい)、嗣音羽(つぉねぱ)、爆走蛇亜(ばくそうじゃあ)、世歩玲(せふれ)、亜菜瑠(あなる)、ララ桜桃(ららさくらんぼ)、幻の銀侍(まぼろしのぎんじ)、愛棒(らぼ)、光宙(ぴかちゅう)、輝宙(ぴかちゅう)、空海(ぶるう)、眠民(むーみん)、凱亜(がいあ)、純粋(ぴゅわ)、揺(はるか)、綺羅亜(きらあ)、汐朱(しあん)、王子(きんぐ)、金星(まあず)、磨王(まおう)、笑(わろた)、翔兎(とと)、桜愛(おうあ)、美空(みき)、奏空(かそ)、月煌(つきき)」と。
もう、絶句しかあるまい。これらは全て、実在する人名なのだそうだ。
決して放送で流せないようなものまで含まれていて、名付け親には正気の沙汰かと小一時間ほど問い詰めたいところである。そうしたものに較べればまだましと言えるのかもしれないが、しかし「田中ララ桜桃」とか「木村幻の銀侍」などと署名されれば、一体どこまでが名字なのか、あるいはミドルネームを含んでいるのかと頭を抱えてしまう。王子は「キング」ではなく「プリンス」だと思うし、「はるか」と読ませている「揺」は恐らく「遥」と書き違えた、あるいはそう思い込んでいるだけのことであろう。この辺りは単純に、基本的素養が欠損している親の下に生まれた子どもを哀れと思う他あるまい。逆に、「今鹿(なうしか)」などよく考え付くよなと、変に感心したりもするのである。
「キラキラネーム」の筆頭に上げられるのはやはり、音韻だけで決められた「当て字」の類であろう。思春期を昭和末期あたりに過ごした方々には、「夜露死苦」「仏血義理」「愛羅武勇」などが懐かしく思い出されるのではと存ずるが、こういう奇天烈な当て字というのは、かつてはヤンキー(当時の言い方なら「ツッパリ」)の専売特許であった。正視できぬほどに煌びやかな刺繍を施した学ランに、この「四字熟語」が大書してあったものである。その意味においてもこれらこそが由緒正しい「キラキラネーム」と言えるのではないかと思うが、ただ、これらはあくまで(方法として正しいかどうかはさて置き)自己主張なのであって、他人から与えられたものではない。
親から与えられた命名に抗うことは原則的には許されないのであるから、「キラキラネーム」を付けられた子どもがあまりに可哀相だという意見は必ず出てくる。「直木」ですら他人にやいのやいの言われるのだから、況んや「眠民(むーみん)」だの「凱亜(がいあ)」だの「綺羅亜(きらあ)」だのが虐めの標的になり得るというのも誤った憂慮ではあるまい。それはそれで正論だとは思うのだが所詮、他人の余計なお世話である。ことばに煩い者からすれば、そもそもの話として、親本人の「命名の思い」を問いたいのだ。
数年前、現業でマネージャーをしていたとき、部下に女の子が生まれることになり、彼は名前をどうするかで、仕事を半ば放棄して勤務時間中もずっとそのことを考えていたことがある。立場的には「ちゃんと仕事せえよ」と注意しなければならないのだろうが、まあ、初めての子どもであるし、それくらい大目に見ようと思い、「どんな名前を考えてんの?」と話を振ってみた。すると、第一候補として彼が上げたのが、「ららら」だった。この君の名字の最後の音は「ら」であるので、フルネームで呼ぶと、4文字連続で「ら」が並ぶことになるのだ。仰天して、思わず横山ホットブラザーズ張りに「お前はアホか」とツッコんでしまったのだが、いやしかし、何か思いがあるのであろうと思って、「何でその名前にしようと思うんや?」と問うてみた。すると、「『ら』が4つ並ぶからです」と答えるのである。こちらの心配というかツッコミの内容そのものが命名の理由だったとは。それ以上この話題を継続することを断念し、自分の仕事を続けることにした。
要は、「キラキラネーム」において第一に重んじられるのは、というか唯一それだけの理由は、「音の響き」ということなのであろう。ならば仮名の名前にすればよいではないかと思うのだが、なぜか漢字を当てようとする。しかるに漢字は表音文字であると同時に表意文字でもあるのであって、この点を外して命名などしてはならぬと思うのだ。
例えば「光宙(ぴかちゅう)」も、「この宇宙を広く光り照らす人になるように」という願いが込められているのなら、他人がとやかく口を挟む筋合いのものではないと思うのである。「命名」というのは文字通り、「名前に命を宿す」営みであるというのは、蓋し、この上なく重要なことであろう。これらの「キラキラネーム」の一つひとつに込められた思いというものを、一度聞いてみたいものである。
幼い頃、両親に、なぜ「木」にしたのかと問うたことがあるとは思うのだが、その回答があまり記憶にない。長じて、小学校のときに、担任の先生から「『樹』よりも『木』の方が、余計な枝葉がなく、真っ直ぐ伸びるという感じがあるね。ご両親もそういう願いを込めて名付けてくださったのではないかな」と言ってもらったことがあり、これで初めて得心が行ったのである。肉親ではなく赤の他人から自分の名前の解説を受けるなんて。
しかし、果たしてその通りに真っ直ぐ育ったかと自問すれば甚だ自信がないので、今では人から由来を尋ねられても、「画数の多い漢字を書くのが面倒臭かったから、『木』にしたんと違いますやろか」と答えることにしている。
何にせよ、変わった名前であることは確かなのであって、自署にも関わらず誤記と認識され、「直樹」と訂正されることもしばしばである。「直樹」なら読みは合っているからまだよいのだが、「真樹」と「直」まで正されたこともあり、一番酷かったのは、年賀状の宛名に「植木」と書かれたことである。さすがにこれには抗議をしたのだが、パソコンの宛名ソフトにそのように登録されているからか、今以て一向に直してもらえない。
さて、変わった名前と言えば、昨今何かと話題の「キラキラネーム」はやはり気になる。ネットで検索してみたら一覧のようなものがあったので、省くことなく、そっくりそのまま拾ってみると、「今鹿(なうしか)、金星(まぁず)、泡姫(ありえる)、美俺(びおれ)、黄熊(ぷう)、梨李愛乃(りりあの)、愛理(らぶり)、樹茶(きてぃちゃん)、阿弖流為(あてるい)、嗣音羽(つぉねぱ)、爆走蛇亜(ばくそうじゃあ)、世歩玲(せふれ)、亜菜瑠(あなる)、ララ桜桃(ららさくらんぼ)、幻の銀侍(まぼろしのぎんじ)、愛棒(らぼ)、光宙(ぴかちゅう)、輝宙(ぴかちゅう)、空海(ぶるう)、眠民(むーみん)、凱亜(がいあ)、純粋(ぴゅわ)、揺(はるか)、綺羅亜(きらあ)、汐朱(しあん)、王子(きんぐ)、金星(まあず)、磨王(まおう)、笑(わろた)、翔兎(とと)、桜愛(おうあ)、美空(みき)、奏空(かそ)、月煌(つきき)」と。
もう、絶句しかあるまい。これらは全て、実在する人名なのだそうだ。
決して放送で流せないようなものまで含まれていて、名付け親には正気の沙汰かと小一時間ほど問い詰めたいところである。そうしたものに較べればまだましと言えるのかもしれないが、しかし「田中ララ桜桃」とか「木村幻の銀侍」などと署名されれば、一体どこまでが名字なのか、あるいはミドルネームを含んでいるのかと頭を抱えてしまう。王子は「キング」ではなく「プリンス」だと思うし、「はるか」と読ませている「揺」は恐らく「遥」と書き違えた、あるいはそう思い込んでいるだけのことであろう。この辺りは単純に、基本的素養が欠損している親の下に生まれた子どもを哀れと思う他あるまい。逆に、「今鹿(なうしか)」などよく考え付くよなと、変に感心したりもするのである。
「キラキラネーム」の筆頭に上げられるのはやはり、音韻だけで決められた「当て字」の類であろう。思春期を昭和末期あたりに過ごした方々には、「夜露死苦」「仏血義理」「愛羅武勇」などが懐かしく思い出されるのではと存ずるが、こういう奇天烈な当て字というのは、かつてはヤンキー(当時の言い方なら「ツッパリ」)の専売特許であった。正視できぬほどに煌びやかな刺繍を施した学ランに、この「四字熟語」が大書してあったものである。その意味においてもこれらこそが由緒正しい「キラキラネーム」と言えるのではないかと思うが、ただ、これらはあくまで(方法として正しいかどうかはさて置き)自己主張なのであって、他人から与えられたものではない。
親から与えられた命名に抗うことは原則的には許されないのであるから、「キラキラネーム」を付けられた子どもがあまりに可哀相だという意見は必ず出てくる。「直木」ですら他人にやいのやいの言われるのだから、況んや「眠民(むーみん)」だの「凱亜(がいあ)」だの「綺羅亜(きらあ)」だのが虐めの標的になり得るというのも誤った憂慮ではあるまい。それはそれで正論だとは思うのだが所詮、他人の余計なお世話である。ことばに煩い者からすれば、そもそもの話として、親本人の「命名の思い」を問いたいのだ。
数年前、現業でマネージャーをしていたとき、部下に女の子が生まれることになり、彼は名前をどうするかで、仕事を半ば放棄して勤務時間中もずっとそのことを考えていたことがある。立場的には「ちゃんと仕事せえよ」と注意しなければならないのだろうが、まあ、初めての子どもであるし、それくらい大目に見ようと思い、「どんな名前を考えてんの?」と話を振ってみた。すると、第一候補として彼が上げたのが、「ららら」だった。この君の名字の最後の音は「ら」であるので、フルネームで呼ぶと、4文字連続で「ら」が並ぶことになるのだ。仰天して、思わず横山ホットブラザーズ張りに「お前はアホか」とツッコんでしまったのだが、いやしかし、何か思いがあるのであろうと思って、「何でその名前にしようと思うんや?」と問うてみた。すると、「『ら』が4つ並ぶからです」と答えるのである。こちらの心配というかツッコミの内容そのものが命名の理由だったとは。それ以上この話題を継続することを断念し、自分の仕事を続けることにした。
要は、「キラキラネーム」において第一に重んじられるのは、というか唯一それだけの理由は、「音の響き」ということなのであろう。ならば仮名の名前にすればよいではないかと思うのだが、なぜか漢字を当てようとする。しかるに漢字は表音文字であると同時に表意文字でもあるのであって、この点を外して命名などしてはならぬと思うのだ。
例えば「光宙(ぴかちゅう)」も、「この宇宙を広く光り照らす人になるように」という願いが込められているのなら、他人がとやかく口を挟む筋合いのものではないと思うのである。「命名」というのは文字通り、「名前に命を宿す」営みであるというのは、蓋し、この上なく重要なことであろう。これらの「キラキラネーム」の一つひとつに込められた思いというものを、一度聞いてみたいものである。