日記じゃないのよブログは…(´・ε・`)

日記じゃないのよブログは…(´・ε・`)

このブログは、「ロングテールズ・カフェ」のアメブロ支局でございます。
なんとなくうだうだしてゆきます!
本殿→ http://longtailscafe.com

どっちみち死んでしまうのなら小賢しく生きても致し方なし。
どうせならあれだね!
 

 

今は誰もがサバイバル中だから、もともと暇な人も、少々、お馬鹿なひとたちもやっぱり漂泊中…。

まったく馬鹿が生き辛い、バカな時代が来たもんだ。
ちなみに馬鹿は馬鹿であっても、これはやっぱり笑えてなんぼなのです。何れ、笑えないバカであっては困るんだ。
 

 

さて、今ようき、また奇特な感じのものを作ったよ。これ。

 

 

 

 

これすなわち、紙っぺらだけで組み立てた拳銃、というかビンテージ・ガン!Colt M1847Walker。
3Dプリンタで銃を製造するとお縄になるらしいんで、いっそ2Dプリンタでやっちゃったよ!みたいなね…(どうだ官憲!)。

今回、これの何が「馬鹿」かというと、紙だけでできているのに、実に、内部メカニズムや分解構造など、とにかく可能な限り実銃を再現してみたことなんです。だから一応これ、フル可動もするんです。嗚呼…。
私の知る限り、ここまでやった銃の紙模型は過去に存在しないと思う💛 💛

「しかしそもそもこれ、需要あんの?」
「無いかもしれませんね💛 」
「馬鹿野郎ぅ!!」
なんてな。

ところで、実はこのプロダクトは3年程前に完成していて、少々訳あって放しておいたものを(物好きにも)敢えてこの多難なご時世に蔵出しするものです(Why?)。
だから、これについてのブログ記事も密かに3年前に書いてたりして…。以下がそれです。チェキラ💛💛💛
 

 

僕は近頃また紙の模型を作って公開し始めたんです(一応言うと、これはオリジナルのペーパーモデルを設計し、展開図、説明書合わせて同人販売し始めたということです)。
今度はまたこれまでにない酔狂を極めたものになりました。
前回作った二十六年式拳銃に続いて拳銃第二弾です。
前回のは帝國陸軍採用の明治に作られたプロダクトですが、今回のはもっと古い!1847年にアメリカで作られた歴史的な銃「M1847 Walker(ウォーカー)」というものです。

これは軍のサミュエル・ウォーカー大尉がサミュエル・コルトに製作を依頼した銃で、いわゆるパーカッション・リボルバー(先込め式回転拳銃)というやつです。
この銃の特徴は、現在に至るまで史上最も大型の拳銃の一つだという点ですが、生産量が1000挺程であったため極端に希少価値が付き、当時の現物は一億で落札されたこともある程、史上最も高価な銃になっているようです。ちなみにこの銃の問題点を改善した後継モデルが、これも知られたM1848 Dragoon(ドラグーン)です。

僕が今回作ったペーパーモデルのM1847 Walkerは紙の模型としては(私の知る限り)世界的に見てもちょっと無いような常軌を逸した感じになりました。どういうことかというと、紙でありながら、(単に観賞用の張りぼてでなく)実銃同様のアクション、弾のローディング、分解手順を可能な限り再現したのです!!ばきゅーん。

もっとも、こうした感じの制作物にとんと疎い方にとっては、なんとなく面倒くさそうだな、くらいに思われるかもしれません。でもこれ作るのって実際、途方も無くシンドイ作業なんですね。もう考えるのも嫌だってくらい、ああ、もう嫌だーってくらい大変でムズいことだったんです(これホント!)。
更にそんな苦心をしたところでやっぱり素材が紙ですから、さすがにモデルガンほど円滑に動作するわけでもありません(実際、銃というのは結構な精密機械なのです)。それと、展開図から組み立てるという、言わずもがなユーザーに課せられる工程も、今回のモデルは通常モデルより難しい。型紙のカットにしろ、貼り合わせにしろ、それなりの精度を求められます(なんせ可動モデルですから)。いわば紙模型としては非常に上級者向けになるわけです。
ただ、そのようなことを考慮しても、(手前味噌ながら)今回のペーパーモデル「M1847 Walker(ウォーカー)」は〝紙で機械を作る″ことのこれまで無かった限界に挑戦しているとは思います(逆に言えば、そんな限界に誰が挑戦するものか!)。

 

ご興味のある方はこちらへどうぞ!

http://longtailscafe.com/papermodelworld/papermodelworld_charged_04.html

 

 

 

 

ところで、僕が何故このM1847 Walkerという古風な銃をモデルアップしようと考えたかというと、ある一本の忘れられない映画があるからなんです。もっとも、この銃の愛好家は皆、例外なく、口を揃えてその映画の名を挙げます。
その作品とは、クリント・イーストウッド監督、主演の西部劇『アウトロー』(原題=The Outlaw Josey Wales)です。
この映画の公開は1976年ですが、これは1980年代前半頃、僕が中高生当時に度々テレビで再放映されていて、僕は『アウトロー』がテレビでやっている度、欠かさず観ていました(もちろんそれは山田康雄の吹き替え版でね!)。
映画『アウトロー』は『恐怖のメロディ』に始まる監督としてのイーストウッドのフィルモグラフィ中、ごく初期作品ながら、あの『許されざる者』が作られるまで、個人的にはベスト1と思われる作品でした。

当時、僕はご多分に漏れず西部劇が大好きで、『駅馬車』『シェーン』『荒野の七人』なんかのアメリカ製西部劇を原風景として、やがてマカロニ・ウエスタンに心酔していったわけです(ちなみにこれらは全てテレビで鑑賞)。
こうした中でも、ジャンルとしての西部劇がすっかり下火になった70年代に製作された『アウトロー』は僕には衝撃でした。それまで観たどんな西部劇よりも、歴史ものとしてのリアリティ-を感じたからです。まず物語の背景が、単なるアクションのための説話的設定ではなく、実際の歴史や文化を織り込んだ重厚なものだった。例えば、主人公が一度、史実上の南北戦争に従軍して…なんて西部劇は他に無いし、また、民族的マイノリティーや弱者の視点を、ストーリー上の仕掛けとは切り離して真摯に描いた西部劇も当時は無かったと思う。
それともう一つは、当時、自分史上最大のガン・ヲタだった僕は『アウトロー』に登場する様々な種類の見慣れない銃に目を見張ったのです。それが南北戦争当時、まだコルト・ピースメーカーなど登場する前のパーカッション・リボルバーというものでした(それも生々しく使い込まれた鉄の、得も言われぬしずる感を纏って…)。
僕もパーカッション・リボルバーはモデルガンでほんの一、二種類は知っていたものの、映画で見たのはあれが初めてだった気がする。何れにせよ、パーカッション・リボルバーが主役として派手に登場する映画は初でした。
この映画では、主人公ジョージー・ウェールズは普通の西部劇と違って常に何挺もの銃を持っているんだけど、実はこれが当時、なんともリアルに思えましたね。それって何故だか解るでしょうか?パーカッション・リボルバー(先込め式回転拳銃)とは弾を込める時、現在のような火薬、弾頭、雷管がワンケースになったカートリッジなど無いですから、シリンダー先端からパウダー状の火薬を直接入れ、弾頭で蓋をし、最後に雷管をセットするという、とんでもなく面倒くさいローディング方式でした。したがって、いざとなったら予め弾を込めておいたシリンダーごと交換するしかないのですが、仮に『アウトロー』のような対複数とのガンファイトになった場合、これでもとても間に合わない。だからもう銃ごと沢山、馬にぶら下げていたんですね。
ジョージー・ウェールズが携行する銃の中でもはっきり主役として使われていた大型二挺拳銃が、かく言うM1847 Walkerだったわけです。
恐らくM1847 Walkerがピックアップされた理由は、先に大ヒットし、イーストウッドのイメージを格別なものにした『ダーティハリー』シリーズで主人公が使う銃が大型の44口径(S&W M-29)であったことから、やはり44口径のWalkerが選ばれたのでは、と思われます。その証拠に『アウトロー』のクライマックスで、仇敵に向かってWalker二挺をカチャカチャ、ロシアンルーレットするシーンって『ダーティハリー』のラスト「すっかり夢中になって何発撃ったか忘れちまった。お前の運を試してみるかい?」てのとそっくりです。

蛇足になりますが『アウトロー』は殊にリアルな映画ですから時代考証上ピースメーカーを出せないのは解るのですが、だいたい、40~60年代までの西部劇に、(史実に反して)拳銃はピースメーカー、カービンはウインチェスターしか登場しないというのは不自然で、あれって銃器メーカーの根回しによるものでは?と僕は疑ってさえいます(今日において作られる西部劇には個性的な銃が色々登場します)。


さて、ここで『アウトロー』の筋立てを一応、記しておきます(40年も前の映画ですからネタバレしちゃいます。もしも今週末借りてくるか、という人は決して読まないで下さいね)。

南北戦争当時のアメリカ。ミズーリの農民ジョージー・ウェールズは妻子と共に平和に暮らしていた。しかし映画の冒頭、突如「レッド・レッグス」と呼ばれる北軍の略奪集団に家族を惨殺される。自らの無力を痛感したジョージーは自宅の焼け跡から銃を掘り出し、射撃の訓練を始めた。するとそこへ「レッド・レッグス」を追うフレッチャーたち南軍の残党が現れる。ジョージーはこれに合流し、やがて南北戦争に身を投じていった。やがて南北戦争も終焉を迎え、今や凄腕銃使いとなったジョージーを残して南軍ゲリラ部隊の盟友たちは皆、北軍に投降してゆく。素直に投降すれば無罪放免という取り決めだったが、実はそれは罠だった。異変を察知したジョージーは仲間の救出に駆けつけたが、フレッチャー(ゲリラ部隊のリーダー)と深手を負いながらもジョージーに救われた若者ジェイミーを残して全員射殺された。その後、あろうことかフレッチャーはレーン上院議員の指示で、ジョージーの家族を殺した部隊の将テリル大尉と共に盟友ジョージーを追う羽目となる。ジョージーとジェイミーはおたずね者の反逆者(アウトロー)となって追われる身となるが、元北軍の追及をかわし、ひとまず先住民居留地に逃げ込もうと向かう。途中、ジェイミーは北軍に受けた弾傷が元で息を引き取り、とうとう独りになったジョージー・ウェールズだったが、今度はネイティブ・アメリカンの老人(元酋長)ローンと、やはり先住民族の娘リトル・ムーンライトを助けたことからなりゆき、旅路を同行するようになる。ジョージー達は立ち寄った町で追っ手をかわし、旅を続けたが、更に、ならず者商人に馬車を襲撃された移民の一家を救いに入り、大立ち回りとなる。そこで救い出した美しい娘ローラとその祖母サラ、彼女達の資産である牛たちをも加え、にわかに大所帯となった。徐々に打ち溶け合って、擬似家族的になった彼らは追って来たバウンティン・ハンター(賞金稼ぎ)の急襲を跳ね除けつつ、無事、目的の牧草地ブラッド・ビュートに辿り着いた。かつてサラの子息が建てた家屋で一心地ついた彼らだったが、今度はコマンチ族の襲撃に合う。しかしジョージーが単身、死を賭して酋長テン・ベアーズと交渉したことから和解し、事なきを得る。ジョージーはローラと恋に落ちかけるが、かつて殺された家族の情景がフラッシュバックし、自ら安息の地を去りゆこうとするその早朝、ついに仇敵、テリル大尉がジョージーの前に現れた。テリルの集団とジョージーが睨み合い「もう味方もいないか」とテリルが言うと、背後の家屋から銃口が一斉にのぞき「ここにいるぞ」とローンが言った。かくしてテリルの軍隊とジョージーの仲間達との総力戦が火蓋を切った。テリル軍はなんとか撃退され、ジョージーは瀕死を負って逃げるテリルを馬で追い、とうとう家族の仇を取った。その足でジョージーがサンタ・リオの町を訪れると、州警察官を伴ってあのフレッチャーがいた。警官はジョージーの顔を知らず、フレッチャーは見て見ぬ振りをした。ジョージーが深手を負っていることを認めたフレッチャーは「もしも何処かでジョージーに会っても、俺は先に撃たせる。奴にはそれだけの義理がある。そう思わないか?ウイルソンさん」と語りかけ、ジョージーは「みんな戦争の犠牲者なんだ」とひとこと残し、荒野に走り去った。


傷を負ったジョージー・ウェールズが何処とも知れぬ荒野に走り去るというラストは、言わずもがな『シェーン』から連なる普遍的形式なんでしょうが、しかしこれがやばいんですよね。どうしてもね(泣)。
それと『アウトロー』が出色なのは、秋に撮影されたという、枯れた自然の哀愁ですね。アメリカン・ニューシネマの『明日に向って撃て!』みたいな作品は別として、撮影に関しても、それまでの乾いた西部劇を見慣れた僕には新鮮だった。どしゃぶりのシーンや印象的な水辺のシーンなど、このテーマにしては物凄くウエットなのに、それがまた真実味に感じてしまう。実際ならばこんな感じだろうな…と。
またアクションに関しては、全般的にもっさりしていて、今観るとやや鈍くさい。イーストウッドの監督作って何かそういうところありますよね。イーストウッドは殆ど撮り直ししない物凄く早撮りの監督と聞いているから、小手先のちょこまか感が肌に無い人なのかもしれないけど、しかしそれが全然悪い感じじゃない。なんか微妙にワンテンポ遅れてくる感じが、実際、そこで見てたらこんなくらいじゃね?とか思わされてしまう素朴な真実味が妙にあるんです(『アメリカン・スナイパー』とか最近作は別ですよ)。そんな辺りがまたこの『アウトロー』には特に感じるな。
ちなみにイーストウッド自身が語っていたけど、『アウトロー』はお気に入りの一本だよと言われることがよくあって、実際、『許されざる者』より人気が高いくらいらしいです。ただ、僕は初めて『許されざる者』を観た時、これは『アウトロー』に最も近い空気を持った作品だなと感じたのを憶えています。

ところで、少し別の角度からこの作品に纏わる話をしますと、僕はこの作品の設定に関して、少し疑問に感じる点がありました。というのは、南北戦争において主人公ジョージー・ウェールズが参加するのは南軍側でしたよね。だからジョージーは仇討ちを目論む意味からも南軍の残党となって旧北軍から追われ、物語が展開する。僕はこの「敗残者」側からの視点というのがこの映画のこの映画たる所以だと思うし、奥深くて好きなんですが、一方、アメリカ人の感性でもこうした敗者の立ち位置に寄り添ったわびさびなんてものがあり得るんだなと若干、感心した気持ちがありました。ただですね、この作品の場合、敗者は敗者でも南北戦争における南部側ですよね。ご存知のように南部軍というのは奴隷制存続を強行に主張する側で、それこそがこの内戦勃発の原因なわけです。だとするならば、ジョージー・ウェールズの反逆の理由とは、一部の不良北軍分子への仇討ちという以外にも、実は黒人への差別感情がベースにあったのでは?と捉えられなくもない。しかしジョージーのキャラクター造形を考える限り、これはとても考え難い。なぜならこの作品では主人公とネイティブ・アメリカン(民族的マイノリティー)たちとの交流が、それまでの西部劇に無い生身の息吹をもって丁寧に描かれていたからです。それに当時、社会的弱者であった女性たちのことも、実に温かい眼差しで見つめている。うむ、やっぱりジョージーが人種差別主義者ってのはないんじゃないかな?あるいは、僕はアメリカ人の常識はよくわからないけれど、インディアンは良くても黒人はダメなんてのがあったのかな?もしくは全然そういう問題ではなく、南北戦争においても、すべからく北軍が善で南軍が悪というような単純な図式だけでは語れないと、ごく純粋に告発しているだけなのか?イーストウッド本人も「南北戦争は出身地のみで敵味方に分かれた特異な戦争」と解説していたしね。

実を言うと、この映画『アウトロー』には原作小説が存在します。フォレスト・カーター著『The Rebel Outlaw: Josey Wales』という作品です。
ある時イーストウッドの事務所にこの原作本が送られてきて(それはわずか75冊印刷されただけのもの)、しかしこれを読んでみると非常に感銘を受け、周囲に映画化を疑問視されながらもすぐに映画化権を取得したとのこと。
ところが、実はこの原作者フォレスト・カーターなる人物は、ちょうど映画『アウトロー』が公開された頃、その正体が「今ここで人種隔離を! 明日も人種隔離を! 永遠に人種隔離を! 」というスローガンを書いた元スピーチライターのアサ・アール・カーターであるとすっぱ抜かれたらしいのです。でも彼はいくつかの小説を書く頃になると、かつて自分が白人至上主義の人種差別を推し進めようとした政治的人物であることをひた隠し、しかも自らにはインディアンの血が流れているなどと主張し始めたのです。
これについて世の中ではちょっとした論争が巻き起こっていて、アサ・アール・カーターは過去の贖罪として博愛平等主義に目覚めたのだという説と、いやそうではなくて、単に金儲けのための欺瞞だという説が入り乱れているようです。
なるほど、これはまたシュールな展開になったわけですね。だとすると『アウトロー』で南部側の視点に立ったのも、やっぱり幾ばくかは過去の歪んだ思想の反映があったかも?と思わされます。フォレスト・カーターが既に死去した今となっては、これは永遠に藪の中ですが…。
ただ、僕が思うのは、元々人間の胸中に永久普遍の真実などというものがあるだろうか?ということです。
ある人間が、単に善であるか悪であるか断じられると思うことは少々、稚拙過ぎる。
きっとフォレスト・カーターの胸中にも(我々と同じように)思惑と衝動が流転し、入り乱れたのではないでしょうか?
また、そんな謎めいた不可解さも、いっそうこの作品に対する興味をそそられる点ではあります。


さてさて、少しもやもやしたお話の後で、最後にはもっとスカッとした話題で締めたいと思います。
実際、僕がこの作品を好きな一番の理由は、単純にもう、これぞ男の映画だ!と思えるからなんです。劇中でフレッチャーが言う「男の意地に気をつけろ」というセリフ通り、家族を殺されたジョージーが怒りの銃弾を発射する冒頭から、そのストレートな展開にぞくぞくさせられる。
多くの西部劇の無法者たちがその素性を詳しく語らないのに反しこの作品では、そもそもなぜ彼はアウトローになったのか?という部分をきちんと描いている。
家族を殺されたことによって動機付けられる物語展開は言うまでもなくアクション映画の典型ですが、こうした系譜のヒーロー譚、例えば『ダーティーハリー』や『狼よさらば』や『バットマン』や『マッドマックス』といった作品を考えた時、僕は『アウトロー』に最も近いのは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』もしくはそのベースとなった『マッドマックス2』だと思っています。
何故なら『ダーティーハリー』『狼よさらば』『バットマン』における主人公たちは「家族を守れなかった」痛みを、街のちんぴらを掃除するといったような、いわば「正義」という抽象概念に転化し乗り越えようとしますが、ジョージー・ウェールズやマックスは本質的に違う。
彼らは深い悲しみを背負ったまま、しかし何かによってトラウマを乗り越えようとはしない。
乗り越えることは生きようとする意志ですが、ジョージーもマックスも、その本質は唯、世捨て人となって荒野をさすらい、死に場所を求めているのです。

つまり、ジョージー・ウェールズの物語とはこうです。
家族を失った痛手と戦争の狂気によって生きることの意義を失ったジョージーは、戦場と荒野を流転の末、かつて守れなかった家族の代わりに、弱く名も無い人々のために躊躇無く命を張るようになる。
生きなければならない理由がないから恐れる理由もなく、見返りを求める必要も無かった。そして彼は力で弱いものを蹂躙する人間を仇敵のように憎んでいた。
行きがかり上そんなことを繰り返すうち、ジョージーの心を知らずに皆が彼を救世主か英雄のように感じてゆく。やがてジョージーに助けられた人々が集まって擬似家族のようなものが生まれ、次第にジョージーも家庭の安らぎを思い出しかけるが、結局は「失ったもの」が再び彼を呼び覚まし、荒野に引き戻すのだった。

これは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』にもほとんど通底するテーマです。どちらも典型的なロード・ムービーだし、最終的に擬似家族的集団が力を合わせて外敵を迎え撃つという構図も同じ。また、最後にはマックスも荒野の果てに消えてゆきます。

ところで、こうした「男の生き様映画」を考える時、僕がいつも思い出すのは1990年の映画『浪人街 RONINGAI』です。
虫けらのように殺された夜鷹たちの仇を討つため、よれよれの食い詰め浪人たちが権力相手に牙を剥く。絶対に勝ち目の無い戦いに挑むのです。要するに、あらかじめ生きる意義を失った男たちが行き着く果て、その死に場所として、誰にも顧みられることの無い弱い者の命や尊厳のために意地をみせる、この構図ですよ。

死んで生きる(死んでこそ生きられる命がある)。求めないから与えられる。恐れないから勝てる。

なんて書くとまるで『葉隠』みたいな、武道の極意のようにも聞こえるけれど、結局『アウトロー』という映画が語っているのは、もしもそんな風に生きた男がいたならば、彼の背中はどんなにか悲しく、どんなにか凛々しく、どんなにか格好いいことだろう、ということに尽きると思う。

人はただ満たされているだけでは自己欺瞞にのみ走らざるを得まい。誰もが自分だけの幸福を求め追求することは人間の性だけれど、しかし、格好いいことや美しいこととは何だろう?

かつてこの映画は、中高生の僕にそんなことを問い掛けてくれた。そして「男の意地」を見せてくれた。

ジョージー・ウェールズが教えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

知り合いがとある場所で発見したというんだけど、確かに結構、バンクシーっぽいな。これ「用心棒」か「羅生門」の三船敏郎だろ?

 

最近、テレビを観てたらびっくりした。

 

「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人、植松聖は今でも反省の色が無く、知的障害者は生きる価値が無い、という考えを変えていないらしい。

それとこれも最近、自民党の杉田水脈とかいう女性議員が、LGBT(同性愛者)は子作りをせず生産性が無いから彼らのために条例策定したり税金投入するのは如何なものか?と発言し、炎上してる模様。

要するにこのお二人、植松聖と杉田水脈の主張というのは全く同様のことを言っているわけです。
つまり、ある特定の人たちを役に立たない、無価値な存在と(勝手に)断じている。

言うまでも無く、彼らのような発言をすると「ナチスの優生学思想に通じる危険思想だ!」と叩かれること必至です。
ただですね、我々庶民にとって優生学云々なんてこと以前に、もっと素朴に考えてみた方がいいと思いますよ。彼らが言っている「無価値な存在」というのは誰にとっての「無価値な存在」なのか?ということ。

そもそも「お前は無価値な存在だ!」と断じられる主体とは何なのか?

すると植松・杉田タッグは(勝手に)即答する筈です。その主体は「社会」だ!「国家」だ!と…。
ん?社会や国家にとって知的障害者やLGBTは無価値な存在?

ただこれはおかしな言い草です。だって社会も国家も、別に意志を持った人格ではないですよね。実は私が「社会」でした「お前らは無価値だ!」なんて言って判断するわけがない(馬鹿みたいな話ですが)。

 

では「社会」や「国家」とは何かというと、各人各様のばらばらな個人がその時々の必要にせまられ策定した、最小公約数の「合意事項」、またはルールなのです(そしてこの大枠の「合意事項」に包括される運用上の方法論として、良くも悪くも「多数決制民主主義」がある)。

例えて言うなら「野球」と同じです。野球は野球という特定の主体が存在するわけではなく、プレーヤーが一時的に集まって「野球」という合意事項を遂行している状況を指す言葉です。

 

ですから本当は知的障害者やLGBTの人たちを無価値と見なしているのは、社会でも国家でもなく、あくまで特定の個人なのです(少なくとも植松聖、杉田水脈、アドルフ・ヒトラー)。

 

その証拠に、私も一応、合意事項としての「社会」や「国家」を構成する一人ですが、私の視点からいけば、知的障害者とかLGBTなどのマイノリティーを「無価値」だと考えたことは無いし、私の知る限り、多くの個人はこのような考えを持っていない筈です。

そしてそれより何より、植松や杉田に無価値と断じられた知的障害者やLGBTの人たち当の本人は、自分を無価値とは考えていない。

彼らを主体に置けば、植松や杉田の方こそ「無価値」となるだけのことです。

 

ごく基本的な「社会性」の能力として、相手の立場に立って考えられる、相手の視点を想像できるというスキルのことを「共感性」と呼びますが、少なくとも植松・杉田という人たちはこの能力に著しく欠ける点で、社会にとって価値が低い、あるいは優生学的にも劣性と言えるかもしれませんね(まあ、冗談ですが)。

 

さて、このように植松・杉田コネクションに代表されるタイプの人たちは、何かというとまず「社会」が「国家」がと唱えて、これらを隠れ蓑に、実は単なる個人的主張を展開したがるものですが、彼らがまず稚拙なのは、知的障害者やLGBTを納税面で生産性が無いなどと称して、つまり、この世の価値を経済としてしか換算できていない点です(もちろん経済面ですら知的障害者やLGBTに生産性が無いというのはあからさまな誤りですが)。

つまり、ここではいつのまにか経済のみを目的化するという錯誤が起こっている。

 

言わずもがな、経済は我々が生きるための重要な手段ではあっても、人生の最終目的ではないのです。もちろん、誰も金のために生まれてきたわけではない。
全ての各個人は所詮、一人で生まれて一人で死んでゆくわけですが、そこでは一時、かりそめの時間を共有しながら、実に様々な幸福を求めて皆が過ごしている。人生の価値も膨大な、めくるめくような広がりをみせている。

 

しかし、ほとんどの人の人生の視界にすら触れていない筈の矮小な個人としての植松・杉田の主張によれば、人生という生命の価値を十派一絡げに「経済」や「生産性」に換算できるとし、しかもそれを断じる主体は「社会」であり「国家」だという。まるでそこに神でもいるかのように。

すでにお判りのことと思いますが、彼らの思考の根底には、国家主義、全体主義というものがあります。

そしてその行動のためのテンプレートは、必ずナチズムです。

 

まず大概、こうした排外主義、差別主義に走る人間というのは感情的で合理性に欠ける面が散見されるので、おのずと独創性にも欠ける。だから何のことはない、彼らの考えはいまだに70年前のナチスや大日本帝国を寸分違わずパクっているだけなのです。

 

事実、マイノリティーに対する排外主義という植松・杉田の思想に彼らのアイデアは何一つ入っていない。彼らは何一つ考えていない。ただ70年も前に、ホロコーストの前段としてナチスが行った、精神病者や知的障害者を「社会的に無益な存在」として虐殺した歴史をテレビか何かで観て、自分のアイデアであるかのように摩り替えているだけです(しかし奇妙なのは彼らが、ナチスや大日本帝国が結局壊滅し、惨めに白旗を振った未曾有の敗者である事実に思い至れていない点です。かつて完膚なきまでに叩き潰された歴史を今更トレースしたがる心理があるとすれば、これはもう一種の変態心理としか考えられないでしょうね)。

既に記したように、実際には単なる「合意事項」でしかない器としての「国家」を誇大に権威付けし、神格化し、果ては個人よりも優先されるが如き矛盾に満ちた全体主義思想は、かつて我が国の場合、天皇とそれにまつわる古代神話を利用するかたちで根拠付けされました。ここに国家神道、つまり宗教がひとつの象徴として機能し、素晴らしく奇想天外なオカルト洗脳国家を編み出していたわけです(つくづく我々の爺ちゃん達っておもろいですよね!今では北朝鮮の一番のお手本になってます)。

 

しかし今はもう天皇陛下は人間宣言しちゃったし、かつての反省から政教分離の原則もあります。

少なくとも大日本帝国のスタイルは復権不可能に思われる。

だからこそ今ようきのファシストがテンプレートにしたがるのはナチズムなのでは?と私は思うのです。

 

例えば以前、石原慎太郎が大日本帝国について語っているのを聞くと、怖い反面、どこかお間抜けな感じがして笑えたものです。それは全くの懐古趣味にしか感じられず、大日本帝国の復権など想像できなかったから。

しかし今日、麻生太郎が性懲りも無くナチス、ナチスと発言しているのを聞くと、これは底知れぬ不気味さを感じます。

さて、植松・杉田コネクションに話を戻しますが、彼らがもう一つ根本的に解っていないのは、何故、我々が福祉に金を出すかということです。
何故、我々は必ずしも健常者と同じように働けない障害者であっても保護しようとするのか?また条例を整備してでもLGBTの人の尊厳を守ろうとするのか?

 

それは、平たく庶民的に言えば、お互い様だからです。

すべての人々が等しく、障害者や同性愛傾向の肉親、身内を持つ可能性がある。もちろん自分がそうであるかもしれない。

 

あたり前ですが、福祉というのは利を得るためにやっているわけではない。他者に起こる出来事も自分の問題として共有するという思想なのです。これを支えているのが、それこそ社会的合意事項としての「共感性」。

 

もしも、植松・杉田両名がこの「共感性」を司る知覚脳に欠損があるなど、一種の「障害者」(サイコパス)であった場合、既にこの時点でこの理屈を理解できないかもしれないけれど、つまりはこういうことです。

 

例えば、植松聖がもし犯罪を起こさず、普通に結婚していれば、あるいは障害を持つ子供を授かった可能性もある。

 

例えば、杉田水脈の子供や親族がLGBTであったり、どこかでLGBTに目覚めないという保障はない。杉田水脈は以前、ネットテレビに出演した折、同性愛者の自殺率が高いことを笑いながら語っていたというが、もしも自分の子供がLGBTであることに悩んで自殺した場合は、まあ、爆笑しても良いか(自分の子供ならね…)。

 

例えば、植松聖は社会にとって生きる価値の無い人間がいると言うが、実際にはその社会が下した「生きる価値の無い人間」とは植松聖の方であって、このため、滞りなく処刑されるであろう。但し、植松聖は今、我々の税金で運営される刑務所施設の世話になることで、紛れも無く社会・国家の負担になってもいる。

 

例えば、杉田水脈の子供が将来、子供をもうけないなどということがあれば、その時は例に倣って、「生産性の無い人間」と断じざるを得なくなるだろう。

 

例えば、杉田水脈が子供のいない安倍晋三、昭恵夫婦を、生産性の無い人間と見なしていることは明らかだが、しかしその生産性の無い人物が総理総裁を努める自民党のやっかいにはなっている(ちゃっかり)。

 

例えば、杉田水脈と同じ自民党の野田聖子議員の子息は気の毒にも重度の障害を持っているが、杉田とは「レイシズム・優生学思想」において志を共にする植松聖がこの子息と出会っていたら、おそらく無価値な人間として殺されていただろう。仮に杉田水脈自身の子供が障害者として生まれていても同様。

例えば、麻生太郎のようなファシスト達がおしなべて敬愛するヒトラー総統は、皮肉にもこの「ファシスト・レイシスト」であるが故に内心、黄色人種を蔑んでいる。もちろん三国同盟など名ばかりで、どちらかといえば我々は、アウシュビッツに送られる側なのである。

以上、噛んで含めるような話は終わりです。

 

 

 

 

 

 

 

先日、5月14日にBSで放送されたNNNドキュメント『南京事件Ⅱ~歴史修正主義を検証せよ~』は驚きでした。

 

以前、放送されたNHKスペシャル『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』と合わせて、例のネトウヨ的陰謀史観「南京大虐殺も731部隊の人体実験も中共・朝鮮の捏造だ!」という主張を無慈悲にも封殺する説得力だった。

 

おまけによく言われてる稲田元防衛大臣のこの辺りとの関連にも言及されてたし、言わずもがな昨今の虚偽・隠蔽・捏造・改竄ブームにきっちり物申してるわけで、そもそもあの人たちの思想的よすがに対する強烈なカウンターにはなったわけです。

 

思えば、この南京大虐殺・731部隊論争というのはその昔、森村誠一の『悪魔の飽食』に使われた写真がヤラセだったことと、中国が公表してる「被害者三十万人説」が幾ら何でもあれな誇大プロパガンダであったことから変に拗れてきた議論に思えます。というか、一部の日本人の歪な自己肯定妄想に詭弁の余地を与えてしまった。

 

僕にしたってこの問題は何が本当なのか割り切れない気分を抱えてきたわけで、あったにはあったろうが、実態がどの程度の誤差なのか計り知れない事にかえって安堵してきた。しかし、もう終わりにしようと思います。

 

昔、古本屋で買って読んだ、あの本に書かれてあったことは真実だったんだ。南京攻略戦に参加した元陸軍兵士が書いた戦時体験記『南京虐殺と戦争』曽根一夫著。

しかしこれは決して「自虐史観」云々といった心境ではありません。そもそも「自虐史観」などというもの自体、ありもしない捏造された概念なのです。世界の何処にも自虐史観を普遍的に持つ民族など存在しないし、第一、人間は自虐史観を抱えて生きられるほど強くもないし、また弱くもなれない、所詮、等身大の生き物なのです。

「ポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだカルモチンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一卜仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」 三島由紀夫著『金閣寺』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上の写真は最近『The Japan Times ST』の一面に掲載されていたものです。
僕はこの写真に何かしら惹きつけられるものがあって、しみじみ眺め入ってしまったのでした。

これは今、全米で巻き起こっている、学生による銃規制を求めるデモの様子を納めた一枚です。

既にご存知の通り、アメリカでは国民の「武装権」を認めた憲法の存在に加え、全米ライフル協会と政治の癒着という要因も相まって、銃規制は一向進まず、その被害は増え続けるばかり…、これはつまりそんな現状に業を煮やした末の行動であります。例のコロンバイン事件以降、学校を舞台に銃乱射事件が発生するケースも度々あったしね。
もちろん我々日本人からすれば、銃所持など野放しにしておけばこうなることは火を見るよりも明らかなわけで、さりとて銃を持つことを権利の象徴とも見なすアメリカ社会がこの問題にどんな収束点を見出すのか、ほとんど気が遠くなる思いで眺めているしかないわけです。

さて、さて、確かにそういうこともそうなんですが、しかし僕がこの写真に注目したのは実はそれだけではないんです。つまり、このノリですよ。図らずも醸し出される『ライ麦畑でつかまえて』感。
銃のために亡くなった学生を描いた似顔絵のタッチがもろホックニーやアレックス・カッツなんかの現代美術絵画を連想させるではないか!それらの肖像画を一まとめに額に納めてハートマークがあしらわれてるセンスも良い。この額に『ナイン・ストーリーズ』とタイトルを書き込みたくなるくらいだ。

 

アメリカというところは、クールで過激でとことん乾いていて、それでいながら救い難いほど病んだ悲しみを湛えている。よく我が文化圏を礼賛したいばかりに「なんだかんだ言ってもアメリカはたかだか300~400年くらいの歴史しかない」みたいなことを言う人がいるけれどそれは単なる詭弁で、アメリカというのはそもそもヨーロッパ文化を下地にした上で先鋭化された「現代」の雛形のような場所なのです。

 

僕の場合、今でも最も心の琴線に触れる好きな表現というのは1950~1980年代に見られた、ネオ・ダダやポップ・アートやニュー・ペインティングやシミュレーショニズムという芸術運動で、これらはアメリカの象徴ともいうべきものなんです。日本で言えば浮世絵みたいなものかな…。

まあ、何というわけではないにしろ、僕は先述の写真を眺めてふと思い出したのでした。だいたい俺はウォーホルが好きだったんだ!とね。

 

 

Andy Warhol

 

Alex Katz

 

Georgia O'Keeffe

 

James Rosenquist

 

David Hockney

 

Alex Katz

 

Andy Warhol

 

Georgia O'Keeffe

 

David Hockney

 

David Hockney

 

James Rosenquist

 

Andy Warhol

 

Andy Warhol

 

Alex Katz

 

Georgia O'Keeffe

 

James Rosenquist

 

Alex Katz

 

David Hockney

 

Andy Warhol

 

James Rosenquist

 

David Hockney

 

James Rosenquist

 

Alex Katz

 

James Rosenquist

 

Andy Warhol

 

David Hockney

 

Andy Warhol


Georgia O'Keeffe

 

 

James Rosenquist

 

 

 

 

 

 

2017の正月ももう終わりですね。

 

僕が子供の頃は正月には凧揚げなんかした思い出があります。ゲイラカイトなんてのも非常に流行ってたな。それが今やドローンですか…。あれもなかなか楽しそうなもので、一度はやってみたい気がするけどね。

 

とにかく人は何かを空に飛ばしてみたいもののようで、かのユーミン御大もかつて「あの子は昇ってゆく 何もおそれない そして舞い上がる 空に憧れて 空をかけてゆく あの子の命はひこうき雲 」などと唄った程です。

 

しかし僕にはこれといって飛ばすべきものが無いなぁと考えると、いや、ひとつだけあった。本来、飛ぶべきものが。
それは以前作った戦闘機のペーパーモデルだ!

http://longtailscafe.com/papermodelworld/papermodelworld_charged_02.html

 

 

 

この前後逆さまな感じの変な飛行機は、終戦間際にB-29を迎撃する目的で開発中だった試作機です。海軍がこれを発注する際、ゆくゆくはジェットエンジンに換装できるよう注文をつけたとかつけなかったとかで、今でもなんとな~く人気の機体なのです。

 

おおこれだ!いっそこれを飛ばしたい。しかし言うまでも無く、これは紙飛行機じゃないから実際、飛ぶわけもない。
でも、飛ばしたいなあ。自分でつくった飛行機が大空を縦横無尽にかけてゆく姿を一ぺん見てみたい。

 

さて、こんな場合の奥の手としてどうするかというと、これを糸でぶらさげて青空をバックに撮影すればいいのである(というのは以前、そのように模型飛行機を撮影していて非常に素晴らしいものを見たことがあったのだ)。もちろん、映り込んだ糸は後からレタッチでちゃちゃっと消してやればよい。

 

と、いうわけでさっそくベランダへ出て、物干しに模型を糸で吊って撮影してみた。
紙製の軽い機体は良い感じに風になびいて、撮影しているとまるで実機を狙っているような楽しさを憶える。固定した状態で撮影するのと違って、あちこちがリアルにぶれるのも素晴らしい!
こんなこと、プラスチックモデルなら破損が怖くてなかなか大胆にできないが、紙の場合、落としてもまず大破なんてことはないし、パーツが取れたくらい簡単に直せるので安心安心。紙模型にこんな遊び方があったなんて、と、ひょんなことから知った気がしたな。

 

が、しか~し。結論から言うとこれの最大の目的だった、青空をバックに一発撮りする、というのは僕の場合、ちと無理だった。環境的に僕には空がちと足りない。背景に360度空が望める屋上のような場所に行くと通報されそうなのでこれは断念。

しゃあないな。背景はレタッチ合成でいくか。僕の場合、そういうのはエキスパートなんだけど、普通に仕事の延長みたいになっちゃってみもふたもない気もするが、こうなったらやむを得ず。

 

そんなわけで↓になりました。

 

 

本土上空にB-29編隊が接近中!震電特別迎撃隊、緊急発進します!ブ~ン

 

 

雷電、紫電改以下、護衛機を残してB-29の飛行高度に到達!敵発見!

 

 

敵前に廻って必殺の30ミリ機銃4門で攻撃開始!パッキューン、パッキューン

 

 

ボカーン!なんとか撃破。まだ幼い石原慎太郎もこれを知ったら大喜びだ!

 

 

只今より帰投します。とりあえず無事で良かったなー。護衛機は結構やられたみたいだぞ。

 

 

任務は遂行したけどなんとなくたそがれる…。もうすぐ終戦だ。それまでは達者でな!

 

 

跳べ震電!大空に駆けあがれ!

そして願わくばB-29を殲滅セヨ!
さらに願わくば戦争はやめて、愛と平和を謳歌サレタシ!ロケンロール!!






これもまた随分と昔の話になりますが、僕が10代の頃、寺山修司という人にたいそうはまっていた時期がありました。
僕の場合、彼の著作もそうですが、殊に映画に夢中だったんです。

当時、一番好きな寺山映画は『草迷宮』という短編作品でしたが、僕の中でこれと双璧を成していたのが、何と言っても『田園に死す』でした。
これはもう、どこかの上映会でかかる度、何度となく出かけて観たものです。

寺山修司の一連の劇映画作品というのは、劇団「天井桟敷」の演劇的手法の延長上にあって、非常に〝アングラ″なものです。その中では大抵、怨嗟、呪詛というテーマが好んで使われていました。
ですから端的に言うと、こういう手のものを見慣れない向きには、少々、刺激が過剰で、後味が悪いものなのです。

この映画『田園に死す』の中で、ててなし子(私生児)を生んだ娘がそのことで村人から虐められ、泣く泣く赤子を川に流して間引きするシーンがあります。
子供が流されてゆくと上手の上流からは雛壇が流れてきて「惜春鳥」という強烈な恨み節が奏でられる。
「姉が血を吐く 妹が火吐く 謎の暗黒壜を吐く…」

ある上映会ではこの陰惨過ぎるシーンの時、女性客の「いやーっ」という小さな悲鳴が響いて、僕は笑いをこらえるのに一苦労した思い出があります。

それにしてもTERAYAMAって凄いなー!と、このシーンを観る度、当時の僕は感じていました。
「姉が血を吐く 妹が火吐く」というフレーズはどうだ!初めて観た時からこれが強烈に耳に残って忘れられなかったのです。凄まじい言語感覚、言葉のエッジだと思いました。

「惜春鳥」の歌詞全編は次のようなものです。



惜春鳥

姉が血を吐く妹が火吐く 謎の暗黒壜を吐く 

壜の中味の三日月青く 指でさわれば身もほそる 

ひとり地獄をさまようあなた 戸籍謄本ぬすまれて 

血よりも赤き花ふりながら 人のうらみをめじるしに 

影を失くした天文学は まっくらくらの家なき子 

銀の羊とうぐいす連れて あたしゃ死ぬまであとつける



ところがですね、実はこの詩の中の最も印象的な一説「姉が血を吐く 妹が火吐く」という、かつて僕が最も衝撃を覚えたフレーズというのは、何と何と寺山修司が一人の先輩詩人に対するオマージュとして、そのまま拝借した既存の詩の一説だったのです(ガーン。しかしこれをそのまま持ってくるTERAYAMAのセンスもやっぱりどてらい!)。

その詩人というのは作詞家として殊に著名な西條八十であり、このフレーズは彼が1919年に自費出版した処女詩集『砂金』の中の「トミノの地獄」という詩の冒頭部分でした。

寺山修司が西條八十をどのくらい敬愛していたのか僕はよく知りませんが、相当リスペクトしていたのは間違い無いことで、例えば、寺山修司の『誰か故郷を想はざる』という著作のタイトルはやはり西條八十作詞のヒット曲からとられていますし、『誰か故郷を想はざる』という言葉の意味は、誰が故郷を想わないことなどあるだろうか?(そんな人はいない)という、いわゆる反語表現なのですが、このまた〝反語″を成す有名な句が寺山修司にはあります。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」というやつで、これは(在日の人の心境を詠ったものとも昔どこかで読んだ気がしますが)煙草に火を点けようとすると港が霧に霞んでいて、祖国など何処にも感じられない。そもそも身を呈して想い続ける程の故郷などあるだろうか?(いや、無いかもしれない)という意味です。西條八十に対する寺山修司の気骨が表れた一品といえるでしょう。

さて、それでは件の西條八十作「トミノの地獄」というのは一体どんな詩なのか?それはこんなものです。



トミノの地獄

姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。

ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。

鞭で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。

叩けや叩けやれ叩かずとても、無間地獄はひとつみち。

暗い地獄へ案内をたのむ、金の羊に、鶯に。

皮の嚢(ふくろ)にゃいくらほど入れよ、無間地獄の旅支度。

春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、くらい地獄谷七曲り。

籠にや鶯、車にゃ羊、可愛いトミノの眼にや涙。

啼けよ、鶯、林の雨に妹恋しと声かぎり。

啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、狐牡丹の花がさく。

地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅。

地獄ござらばもて来てたもれ、針の御山の留針(とめばり)を。

赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに。



ところで、最近知ったところによるとこの「トミノの地獄」には、何だかこじつけめいた解釈や、近頃ありがちな都市伝説やらが語られているらしく、それもこれもこの作品についての、その解釈に至るヒントを作者自身が殆ど語っていないかららしいのです(もっとも、本当に西條八十自身がこの作品について核心を語っていないのか、それ自体、僕には知る由もありませんが、語っていない方が断然面白いので、これは信じることにします)。

ネットで検索してみると、「トミノ」という変な名前の主人公はそもそも男なのか女なのか?という部分に端を発し、これはきっと少年が泣く泣く戦争に行かされる悲哀を詠っているのだ、とか、いやいや、姉に虐待される妹が地獄をさまよう詩なのだ、とか、「妹恋し」なんていうからいっそ兄と妹の近親相姦(!?)をテーマにしたものだろう、とか、いろいろ言われているみたいです(おまけに地獄、地獄なんて物騒なフレーズが続くから、これきっと呪われますよ!音読なんかしたら絶対ヤバイ!みたいな噂まで…)。

う~む。まあ、いいけどね。でも、元々、西條八十ってそんな感じの詩人だったのかな?これって大正8年以前の作品だろ?なんてことを考えると、これら諸説はどうも解せない気がします(「トミノの地獄」が収録された第一詩集『砂金』の序文には「明治四十五年頃から今日(大正八年)に至る約八年間の仕事」とあり、この中で「トミノの地獄」がいつ頃書かれたかは不明)。
殊に昨今においては、例えば丸尾末広版『トミノの地獄』とかにインスパイアされちゃうのか、むしょ~に漫画チックな、猟奇めいた感じに解釈したくなるみたいですが、そもそも大正8年当時というのはまだ江戸川乱歩も夢野久作も登場前だし、妖しく倒錯的な谷崎文学が開花するのもこれより後のことです(関東大震災の4年前。そんな時代の詩のテーマが「虐待」とか「近親相姦」なんてね…)。
加えて僕には、この詩というのは、一見、難解に見えるけれどもよくよく読み込んでみるうち、どうもこういうことでは、という辻褄が見えてくる気もするのです。そして、その僕の解釈が大枠で外れていなければ、この詩は特段、難解なものでも、高度に観念的なものでもない筈なんです。

まあ、そんなわけで、僕もひとつ僕なりの解釈でこの詩を読み解いてみたいと思うわけですが、但し断っておくと、そもそも詩というのは必ずこう解釈しなければならないというようなものではありません。例えそれが誤訳、意訳であっても、あくまで自分にとってしっくりきたり、面白いと思うなら、それはそれで結構というものなのです。ですから〝解釈″も所詮、一つの遊びという余地を踏まえて、これを自由に考えてみたいと思います。

まず初めに消去法で行くと、少なくともネット上で見かけた「戦争テーマ説」てのは、僕的には考え難い。
この説を唱える誰かはこの詩が〝可愛い″トミノ少年が徴兵されることを憂いて泣いているのだ、というのですが、何度も言うように、この詩集が発表されたのは1919年(大正8年)です。ご存知のように、最も熾烈な激戦だった日中戦争が勃発するのはだいぶ後の1937年(昭和12年)で、太平洋戦争が1941年(昭和16年)からです。さらにそれ以前の日露戦争が終わったのは1905年(明治38年)。
「トミノの地獄」が書かれたと思しき時代には第一次世界大戦が4年程重なっていますが、これは世界的にはとんでもない数の犠牲者を出しているものの、今日、日本で語られることはほとんどありません。何故なら、一応、日本も連合国として参戦していますが、戦没者は500人以下で、他の戦争とは比較ができないからです。
確かに当時は国民皆兵制でしたから、西條八十だって徴兵にとられる可能性はあり、兵役なんてまっぴらだと思っていたかもしれませんが、それにしてもこの頃はまだ、誰彼構わず(西條八十みたいななまっちょろい文学青年までもを)最前戦に送るなんていう切羽詰った状況ではなかった筈です(徴兵は太平洋戦争末期の極限状況を省いて、甲・乙・丙と体格差を吟味の上、強い者順に出兵したのです)。あるいは西條八十のようなボンボンのインテリなんかは、兵役逃れすら可能だったかもしれない。
にもかかわらず「戦争テーマ説」では、姉に出兵をけしかけられてトミノ少年が泣きべそまでかくという解釈を与えていますが、当時、富国強兵下の国民感情から考えても、また女性に参政権すら無く、強烈な男尊女卑の時代の価値観、倫理観から考えても、これはかなり飛躍に思えます(この頃既に一部の傑出した左翼文化人は「君死にたまふことなかれ」と書いていますが、後に西條八十という人は、自ら軍歌を作詞し、大成功すら納めるのですから)。
おそらく厭戦的な「戦争テーマ説」は戦後ならではのこじつけ的発想ですね。
そしてそもそも「戦争テーマ説」が弱過ぎるのは、「赤い留針だてにはささぬ」というのが「千人針」のことだとする具体的解釈以外は、ほぼ全くの無根拠だという点です(ちなみに千人針が広く行われるようになったのも、日中戦争・太平洋戦争になってからみたいですよ)。


この他にも、僕がどうもしっくりこない、疑問に思う説というのは、そもそも「トミノ」というのが少年の名で、この少年が「地獄めぐり」をする筋書きだ、とする説ですね。
これこそ如何にも漫画チックなイメージで、あたかも丸尾末広先生の作品なんかを彷彿とします。
「地獄めぐり」と言われても、この場合の地獄とは果たしてどんなものなのでしょう(ぐっとオカルティックに鬼やら閻魔様やら登場するのかな?なんだかそれも楽しそう)。
確かに「トミノの地獄」の中には「無間地獄」みたいなショッキングな言葉が乱舞しますから、昨今の人々にとっては、ビジュアル・エフェクト満載の映画化決定!みたいな方向に妄想が膨らむのかもしれませんが、大体、西條八十という人は寺山修司や丸尾末広のようなはちゃめちゃにイマジネーティブな作家性ではなく、「象徴性」ではあっても、イメージのためのイメージに遊ぶような性分ではないというのが僕の見方です(まあ、時代を考えてもね)。ですからこの詩には何かきっと、暗示されるべき具体的なテーマが存在する筈なんです(きっとそうだ)。

そういう意味でも、まず何より重要な手掛かりは、「トミノ」というのがどんな人物を指しているのかという部分ですよね。少なくとも僕は「少年」ではないと思う。苗字(富野とか)じゃあるまいし「ノ」で終わる男子の名前なんてものがあの時代といえども存在したと思えないからです(全然、無いこともないだろうけどね…)。
勿論、これは女子の名前であれば普通に、今日でも存在します。その場合「ノ」は「乃」と表記し、尻上がりに発音します。
例えば「十美乃」とか「富乃」とか。
が、しかーし。この名前はどことなく、大正時代のその辺の女の子にしてはゴージャス過ぎると思いませんか?まるで料亭の名前とか池波志乃とか、はたまた風俗嬢の源氏名じゃあるまいし…。

さて、もうお解かりのことと思いますが、僕はこの詩作の主人公である「トミノ」の名は、遊女の源氏名ではないかと考えているのです。この裏付けとして、試しに下記URLの「舞妓・芸妓さんの名前によく使われる文字まとめ」というサイトを眺めてみたら、花街では「トミ」も「乃」も、今でも非常に好んで使われていることがわかりました。ここにはドンピのは無いにせよ、割と近いのは色々ありますね。例えば、「市十美(いちとみ)」「富美芳(とみよし)」「富鶴(とみづる)」「富多愛(とみたえ)」「章乃(ふみの)」真希乃(まきの)「市乃(いちの)」「琴乃(ことの)」といった具合です。

http://hanamachitimes.jp/popular-character-of-geisha-name/

大体、僕は、この「トミノの地獄」という詩の中に、一片の男性的な臭いも感じないのです。
思い返してみると、かつて寺山修司がこの詩の一節をどんなシーンで使っていたか?ということです。
前にも書いたけれどそれは、ててなし子を宿した娘が村人に追われ、泣く泣く赤子を間引きするシーンであり、それはつまり、土俗的な因習社会の中の女性の「地獄」を描いた一節でした(ちなみにこの娘はその後、村を出て、ずっと経ってから、見るからに都会の娼婦となって戻って来るのです)。
そもそも何故、寺山修司はこの詩を「惜春鳥」と名づけたのでしょう?また「惜春鳥」の「春を惜(お)しむ」とはどういう意味なのか?
実はここに、僕は、いかにも寺山修司らしい詩人としての直観と嗅覚を感じるのです(実際に寺山が「トミノの地獄」をどんなふうに読んでいたか、知る由もありませんが…)。


やれやれ、ここまで語ったところでようやく核心に触れることにします。
僕の場合、「トミノの地獄」という作品は、ある一人の遊女が、まだ幼い頃に廓に売られた、その日の記憶を詠っているのでは?と思っています。

と、いうわけで、以下に具体的な解釈をしてみます。



トミノの地獄

姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。
→「姉は血を吐く」というのは普通に考えればこの時代、労咳(結核)のことであろうと思います。戦前までは結核というのは中・低所得者層を中心に、国民病とも呼ばれ、死の病でしたから「血を吐く」=「結核」というキーワ-ドは、そこが不衛生な貧しい家庭、例えば貧農のような場所であることをも暗示している筈です。更に、吐血する程病気が進行しているのでしょう。姉が病弱で労働力にならず、薬さえ必要な状況となれば、家計は火の車となる。後の「妹は火吐く」というのは韻を踏んだ表現ながら、妹がその火をかぶるというほどの意味ではないでしょうか?「火の車」という言葉の由来は元々、燃え盛る車に乗せられ地獄へ運ばれる、という故事来歴によるもので、どこかこの妹の行く末を暗示しているようでもあります。更に、妹(後の源氏名「トミノ」)の場合はたまたま器量が良かったばかりに価値が付き、人買いに売られることになった。「宝玉(たま)を吐く」というのは値段が付くこと、と考えるとしっくりきますし、ここで強調されている「可愛い」というのは大正当時、子供のように年若い娘に対してでなければ使われない言葉の気がします。ですからトミノはこの時、12~14才くらいの生娘ではなかったかと思われます。


ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。
→トミノは誰の祝福も受けることなく(花も無き)、たった一人でこの辺境の村からさらに社会の底辺へと旅立たなければならず、心細さがつのるばかりです。


鞭で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。
→トミノが身売りさせられる原因のひとつは姉の病気かもしれないけれど、それにしてもトミノは姉の容態(鞭の朱総=急き立てるものの元凶)が気にかかっている。


叩けや叩けやれ叩かずとても、無間地獄はひとつみち。
→そんなこともあって、兎に角、働いて、少しでも多く稼がなければならないが、元から、そうでなくとも希望は無いのだ。


暗い地獄へ案内をたのむ、金の羊に、鶯に。
→暗い地獄へ案内をたのむ(身請け先を取り持ってもらう)ということは「金の羊」とは明らかに人買いの意味でしょう(文字通り、金銭を持つ者の意で「金の羊」となると考えられる)。しかし、あるいは「金の羊」自身がパトロンで、その情婦におさまる意味とも取れます。「鶯」はこの後出てくるトミノの兄としかとれない人物ですが、ここがこの「トミノの地獄」の中でも最も不可解な点に思われます。普通に解釈すれば、トミノの兄が自分のつてで人買い(あるいはパトロン)を連れて来た、というようにも読めます…。


皮の嚢(ふくろ)にゃいくらほど入れよ、無間地獄の旅支度。
→トミノの身請け料は幾らほどになるだろう?これが奈落に向かうための支度金となるのだ。


春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、くらい地獄谷七曲り。
→僕の解釈でいけば、この一節の「春が来て候」という言葉がこの詩を理解する上で非常に重要な示唆になっていると思います。まだ幼い生娘のトミノは、性に目覚める思春期と同時に、その同じ春を略取され、穢される(春が来て候林に谿に=ひとつの春が林にも来れば谿にも来る)。この引き裂かれるような理不尽さ、無情さを「くらい地獄谷七曲り」と表しているのでしょう。さながら本来、待ち望まれるべき春はトミノの場合、〝惜しむべき春″であったというのでしょう。


籠にや鶯、車にゃ羊、可愛いトミノの眼にや涙。
→兄(鶯)は籠で、人買い(身請け人)は車で、その日、トミノを迎えに来た。まだ幼いトミノの瞳に涙が浮かんだ。
大正当時に「籠」というのは、単なる詩的比喩でなければ何なのでしょう?明らかに「籠」と「車」を対置させていますが、ひょっとするとこの詩はもっと昔の、例えば明治初期頃の何らかの逸話を題材にしているという可能性も否定できない気がします。



啼けよ、鶯、林の雨に妹恋しと声かぎり。
→トミノの兄(鶯)は可愛い妹を売らなければならない境遇を呪って泣く。
兄が鶯で妹は「春を惜しむ鳥」というのならば、もしもこの『トミノの地獄』に別のタイトルを与える場合、例えば『惜春鳥』でぴったりなわけです…。



啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、狐牡丹の花がさく。

地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅。

地獄ござらばもて来てたもれ、針の御山の留針(とめばり)を。
→この世の本当の地獄を知らない(不幸を知らない)人があるならば、針山の留針を持ってきてごらん。
言うまでもなく、針仕事というのは女性労働の象徴です。小さな留針の中に、その地獄のような歴史が込められている。人買いに連れられてゆく少女の情景を軸に、当時の、余りに苛酷な女性達の境遇を訴えているのでしょう。



赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに。
→魂のように赤い留め針を刺すのは女である証だ。あの可憐なトミノの思い出とともに…。



と、まあ、こんな感じです。もしも実際に「トミノの地獄」がこんな意味の作品であったならば、西條八十がこれについてあまり語りたがらなかった真意も、おおよそわかるような気がします。大体、「トミノ」という名があまり生々しいというか、どうも実在した女性の名ではないか?と思わせる点ですね(だからこそ「十美乃の地獄」ではあんまりだというので「トミノの地獄」としたというのはどうでしょう?)。何しろ西條八十という人は出自も富裕層のスーパーインテリですから、あまり明け透けに「いやぁ、実は私も二十代の頃はいっぱしに廓通いもしましてね、その中である歳若い遊女に入れあげたこともあります。しかしこの女の身の上話には心底、心打たれましたな。なんでも、労咳で寝たきりの姉がいて、年端も行かない時分に村から売りに出されたんだそうですが、あんまり不憫で、私はこの話を以前、詩の題材に使ったこともあるのです」とかなんとか、話すのも憚られたんじゃないだろうか?

ちなみに、「トミノの地獄」が書かれてからだいぶ後になりますが、昭和11年(1936年)に起こった二・二六事件というのは、陸軍青年将校達が政治腐敗などを直接、天皇陛下に奏上する目的で起こしたクーデター未遂事件ですが、当時の陸軍は東北の農村出身者が多く、事件の決起理由の一つが、飢饉によって寒村では娘が売りに出されている、ということを憂う旨があったと言われています(ついでに言うと、ネットを見てたら、ある全集の解説には「もうこんな苦しみはトミノで終わらせて下さい」とトミノは言っている」との記述があったそうです。これが本当だとするなら、前記の僕の解釈もあながち良い線いってるかもしれませんね)。


最後になりますが、僕はもう一つだけ、この「トミノの地獄」を正確に理解する上で重要な点があると思っています。それは、何処となくこの詩が、かつてあった浪花節調の体裁で書かれてあることです。(これは僕の場合、先に節(ふし)付きの「惜春鳥」を聴いていたから明白に感じることですが)この詩は自由詩でありながら非常に韻律を踏んでいて、ある意味では、西條八十の後の作詞家としての指向を感じなくもないものです(初刊本を極力再現した日本図書センター版でも、例えば「妹」の箇所に「いもと」とルビがある)。
つまりこの点からも、僕は今日、流布されている「トミノの地獄」をめぐる諸説が腑に落ちないし、どうもノリが違うだろと感じてしまうのです。
残念ながら「トミノの地獄」という作品本来の姿は、昨今、都市伝説ファンが期待するような虚無的でホラーな「地獄」などではなく、かつての人情ものの浪曲が奏でる、泣きの「地獄」に近いものであろうことは間違い無いと思いますよ。






既に少し前の話題になりますが、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、ご覧になりましたでしょうか?
僕は勿論、ご覧になりました。2D字幕版で二度、3Dで一度、計三度程、劇場に足を運ばせて頂きました。
何せ、企画立ち上げの噂からかれこれ10年以上も待たされた作品ですからね、これは。

そもそも、かつての『マッドマックス』というのは、僕の映画体験の中でも最も衝撃を受けたものの一つです。というより、トラウマですね。それは暴力に対する恐怖という意味でのトラウマだったと思います。
例えば、映画が持つ潜在的な機能として、人間の理性の深層を呼び覚まし、より本能に近いもう一つの人生を疑似体験させる、ということがあるとすれば、この『マッドマックス』というのも、全くもって傑出した作品だったわけです。

僕が始めて『マッドマックス』を観た日のことは今でもはっきり憶えています。それは小学六年生の頃、同級生の藤井君と映画の梯子をしようということになり、新宿へ行った時のこと。
僕の勧めでまず『戦国自衛隊』を観て(因みにこのとき僕は既に『戦国自衛隊』を一、二度観ていた筈です)、次に何を観るかということになって、僕は『男はつらいよ』でも観ようぜと主張したのですが、藤井君が、マッドマックスとかいう映画がそこでやってるけど、あれって凄いらしいぜ、というのです。
僕は、そんなわけのわからない映画観るの嫌だな、どうせ『戦国自衛隊』よりはつまらないに決まってるし、と思いながらも、その時は藤井君が妙に強く主張するので、やむなく承諾し、そのマッド何とかとやらを鑑賞したわけです。
言うまでもなくですが、劇場を出る頃には僕の中には、全く新しい〝スーパー・バイオレンス・カー・アクション″という形式の映画言語が生まれていました。僕はマッド何とかに完全にやられてしまったのです。

当時、カー・チェイスものというのは一つの映画ジャンルを形成していましたが、それらは全てアメリカ産で、すべからく能天気で、どこかユーモラスな風合いのものばかりでしたから、あのオーストラリア産の、陰鬱でシリアスなハードボイルド感は新鮮でした。
より厳密に言えば『マッドマックス』は、アメリカのカー・チェイスものとはジャンル自体、別物だと思います。『マッドマックス』というのはマカロニ・ウエスタンのガン・ファイトを車に置き換えた感じ、といった方が近いでしょうね。

要するに、あれは車同士が追っかけ合う従来の〝カー・チェイスもの″ではなく、ガン・マンよろしく車同士が一騎打ちし合う、〝カー・バトル映画″というスタイルの発明だったのです。
それと、表現手法的にも、疾走する車を路面すれすれから捉えるカメラ・アングル、劇映画中では観たこともなかった実車のスピード感、車というより戦闘機を思わせるスーパーチャージャーの嘶き、自主映画のせいか、一般劇映画には無い、どこかドキュメンタリー風の生々しさ、そして、余りに容赦ない暴力描写の真実味を伴った手応え等、『マッドマックス』という映画は兎にも角にも、それまでのどんな映画にもあてはまらない、限りなく未曾有の形式であったわけです。

さて、更に僕個人の『マッドマックス』に纏わる記憶を振り返ってみると、その後、僕の親父が『エイリアン』だったか何だかの映画を観に行った折、マッドマックスの続編の予告がやっていたけど、これがとんでもなく凄そうだった、というではありませんか。
あの『マッドマックス』の続編?
僕は再び有頂天になりました。
そして公開を待ちに待って、とうとう劇場に足を運んでみると、これがまた今考えても映画史に残る〝事件″と呼べる程の凄まじい出来で、前作を別の意味で10倍くらいにちゅーんなっぷし、更にニトロをぶっかけたような代物でした。
これが伝説の『マッドマックス2』(アメリカ題は『ロード・ウォリアー』)であり、今回の第4作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のベースとなった作品でした(厳密に言えば今作には若干、第3作の要素も含まれておりますが)。

こうして僕は、この『マッドマックス』シリーズと、加えて、ほぼ同時期に公開された日本の伝説的自主映画『狂い咲きサンダーロード』(この両作は何かと類似点が指摘されたものです)の影響により、免許が取れる齢になると、やおらGSX-400FSインパルスというバイクを購入し、ところ構わずぶっ飛ばすようになったのでした(そういえば町山さんもラジオで似たようなことを言っておられましたね)。

蛇足ながら、僕は未だかつて『北斗の拳』という漫画をまともに読んだことがありません。この漫画の連載開始当初から僕は、『マッドマックス2』をまるパクりし、ブルース・リーをミックスさせたようなメル・ギブソンに拳法で戦わせる(しかも主人公は日本名)という、脳が炸裂しそうな恥知らずな設定に耐えられなかったのです。
ですから今だに僕の中では、そんなものは金輪際、存在しなかったことになっています。
それは例えば、『北斗の拳』をまるパクリした変な設定の漫画を中国で作って、大人気になれば、この気持ち、解ってもらえるかもしれませんね。いや、わからないかなぁ…。

まあ、そんなことはいいとしても、何しろ時代は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ですよ。
いやぁ~、色々あったなー、ここまで。
最も、この本編については何も申すことはありません。この作品についてはとやかく言っても始まらない。これは断然、観て、感じて〝MADに染まれ″ばいいだけの映画ですから。
僕的には勿論、期待以上に大満足させて頂きました。

そういうわけで、内容に細かく言及するわけではないにしろ、少しだけ、感じた点を以下に記しておきたいと思います。

今回、リブートされた『マッドマックス』が過去作と趣を異にする最大のポイントは、何と言っても文明崩壊後のデテールのリアリティにあると思います。
今作のベースとなった『マッドマックス2』では、世界が終末に至った具体的な要因はぼかされていましたが、今作でははっきり核戦争と明かされています。しかも特筆すべきは、元々、医者であった監督ジョージ・ミラーの洞察を通し、これまでどんな終末映画でも描かなかったほど生々しく放射能汚染された人々の姿を描き、これがこの世界の決定的に救われない元凶だと暗示している点です。
人間の寿命は半分になり、人々の体は腫瘍や染色体異常に蝕まれ、生まれてくる子供は五体満足なことが稀になる。
また、あちこちの土地に種を植えてみたけれど、結局、一つも発芽することはなかった。

言うまでもなく、この設定こそがこの作品が伝えようとする裏の(真の?)メッセージでありながら、同時に、この部分こそ、今日の日本の表立ったマスコミが、この作品の解説に当たっても極力触れたがらないであろうことの要諦なのでしょう(現に僕は、この作品の良さを熱く語っている媒体は見受けても、この点を掘り下げているものに今のところ出会えていません)。
実際、原発を持たないオーストラリア出身監督が持つ放射能に対する恐怖のイメージとはこれ程のものかと、密かに慄いた日本人は僕だけではなかった筈です。
最も、逆に言えば、あれ程までに絶望的状況にありながらも、どうして人はあれ程までに生き抜こうとするのか?その理屈を超えたMADな姿こそが、実のところ、この映画が語りかけることの全てであろうとも思うのですが。

さて、それともう一つ、今回、僕的に気にかかった点は、実は、この映画が、かつて無いほどあの異形の未来像をリアルに、緻密に再現しているのにもかかわらず、何故か、かつて感じた程の驚き、つまり、『マッドマックス2』を観た当時ほどの異質な感覚を覚えなかったことです。
というより、所々に、ある種の微かな既視感すらフラッシュバックし、これは今や、途方もなく飛躍した世界の話ではなくなったことを感じたわけです(そしてその原因は直ぐに見出されました)。
何のことは無い、それらは僕らが普段、見ているニュース映像やYouTubeの中に氾濫する中東の戦場、また、イスラム国がアフリカの砂漠を車で行進する様子などにダブっていたわけです。
おまけに、この作品に登場する「ウォー・ボーイ」などは現実の自爆テロ部隊を露骨に連想させるわけで、僕はふと、砂漠を舞台に人間同士が熾烈に殺し合う以上、その道具立てが、奇想を凝らした改造車であろうが、単に現代兵器であろうが、本質的に何の違いがあるだろう?と、一瞬、醒めた気持ちにもなりました。
もっとも、映画を含む全ての表現とは、単なる現実の雛形ではなく、また根も葉もない虚構というのでもない、いわば一つの〝象徴″を編み出すものですから、今度の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』にしても、過去作とは違った今日ならではの現実とダブったり、時にダブらなかったりすること自体、本来、表現というものの醍醐味であり、また、非常に興味深いことではあると思っています。

ところで、最後に少し軽妙な話題になりますが、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』には日本版オリジナル・テーマソングが使われていて、これはMAN WITH A MISSION×Zebraheadの 『Out of Control』というものですが、これは中々良かったですね。曲も良かったし、何より、マッドマックスのオールド・ファンには日本配給側の粋な計らいだった気がします。
何故なら、『マッドマックス』第1作には日本版初公開時のみ、オリジナル・テーマ曲が使われていたからなんです。
それは『Rollin' into The Night』という曲で、唄ったのは後にサンライズ系ロボットアニメ「ザブングル」なんかの主題歌を唄う、串田アキラという人です(因みにこの「ザブングル」というのも典型的に『マッドマックス2』にインスパイアされた作品の一つでした)。
こちらの方も日本で勝手に作ったものの割には非常に本編に合う曲で、当時、僕はソッコーでレコード店に走って購入し、ヘビーローテーションで聴いていたのを憶えています。

確かに、本来『マッドマックス』シリーズの音楽は(異色の第3作を省いて)ブライアン・メイによる歌もの無しのシリアスなオーケストレーションのみであり、そのテイストが、安易なヒロイズムを導入する物語とは一線を画すのに一役買ってもいました。
こうした音楽の使い方は、主人公マックスが決して完全無欠のヒーローではなく、心の闇を抱えた、いわばアンチ・ヒーローであることをよく印象付けたし、このシリーズの奥行きをも物語る重要な特徴であったとも思います。
しかしながら、こうしたことを基本として重々承知していれば、時に、かっこいいプレミアム・バージョンをスカッと楽しむのもまた、一興というものですよね。








先日、ちょっと前に話題だった映画『凶悪』というのを観たんですね。日本○○賞を幾つも受賞みたいなこと書いてあったんで、へぇ~、これってそんなに良いのかな、なんてね。

しかし結論からいうと、どうもアレでしたね。
まるっきりダメとは思わないにせよ、内容の恐ろしさとは別に、これって映画だろ?映画ってこんなもんか?という感じで。 テレビドラマでもなく、Vシネでもなく、映画なんだろ?と…。

僕はどんなジャンルの映画も観るけれど、中でも犯罪もの、殊に実際の事件を扱ったものは好きで、『愛のコリーダ』や『水のないプール』『TATOOあり』、それに何と言っても『復讐するは我にあり』とか『死んでもいい』なんかは今でも忘れることのできない作品ですね。

『凶悪』がアカンのは、そもそも、映画の体裁として、あまりに芸が無さ過ぎる(僕に言わせればね)。
あんな安易な寄りの画ばかり撮ってちゃダメだ!画がシナリオを説明するだけの絵解きにしかなってないじゃないか、というのが感想です。

要するに僕は、映画ってのは、筋立てでもない、〝映像″というだけでもない、「映画」というほか言いようのない瞬間、いわば映画ならではの視点でそのテーマをぶった切ってしまうような強烈なビジョン(もしくはキラーカット)が無ければ駄目だと思うのですが、どうもこの作品にはそれが無い。いや、弱い、というか拙い。
やっていることは、単に事のあらましを説明するのが精一杯で、もういっちょう咀嚼されていない。ドラマではあっても、「映画」というところまでには至っていない気がします(まあ、僕の見解ではね。怒らないで下さいね)。

脚本にしても演出にしても、それは結局、この事件(テーマ)に対する作家の、独自の視点、バイアスが無いからですよ。 ほとんど紋切り型です。
主人公の家庭も介護問題で悩んでますから、ほら、何がテーマか馬鹿でもわかりますよね、なんて程度の着想でベタな映画作りして、これは評価できる、なんて言ってると、海外のこの手の秀作に太刀打ちできなくなりますよ(もうなってるのか知らないけどね)。

あと、リリー・フランキーは良いと思うけど、プロモーション的事情を抜きにすれば、純粋に映画として、やっぱりピエール瀧はちょっと甘かったなぁ。

そういえばリリー・フランキー出演作としては、前に観た『ぐるりのこと。』の方が断然、良かったな。なんせ映画的ですね。



まあ、それはそれとして、しかしこの映画『凶悪』が取り扱ってるテーマも、実に嫌な事件ではありましたね。

あー、いやだ、いやだ。

話は変わりますが、僕は人間の「良心」というのは、元から人間に備わっているものではないと考えてきたところがあります。
「良心」や「善意」というのは、人が社会や文明を形成する過程で便宜上編み出した高等な概念に過ぎないと…。
従ってそれは自然界に存在するわけがないと感じてきました。

ところが最近、YOUTUBEで何となくゴリラを映した動画を観ているうちに、これはもしかするとそうではなくて、むしろ純粋な「悪意」こそが文明が生み出した発明なのかも、と思うようになりました。
だとするならば、悪意を行動原理にしがちな人が、群(社会)の中で歪(いびつ)に見えることも説明がつくしね。

その辺、どう思われます?