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日記じゃないのよブログは…(´・ε・`)

このブログは、「ロングテールズ・カフェ」のアメブロ支局でございます。
なんとなくうだうだしてゆきます!
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先日、ちょっと前に話題だった映画『凶悪』というのを観たんですね。日本○○賞を幾つも受賞みたいなこと書いてあったんで、へぇ~、これってそんなに良いのかな、なんてね。

しかし結論からいうと、どうもアレでしたね。
まるっきりダメとは思わないにせよ、内容の恐ろしさとは別に、これって映画だろ?映画ってこんなもんか?という感じで。 テレビドラマでもなく、Vシネでもなく、映画なんだろ?と…。

僕はどんなジャンルの映画も観るけれど、中でも犯罪もの、殊に実際の事件を扱ったものは好きで、『愛のコリーダ』や『水のないプール』『TATOOあり』、それに何と言っても『復讐するは我にあり』とか『死んでもいい』なんかは今でも忘れることのできない作品ですね。

『凶悪』がアカンのは、そもそも、映画の体裁として、あまりに芸が無さ過ぎる(僕に言わせればね)。
あんな安易な寄りの画ばかり撮ってちゃダメだ!画がシナリオを説明するだけの絵解きにしかなってないじゃないか、というのが感想です。

要するに僕は、映画ってのは、筋立てでもない、〝映像″というだけでもない、「映画」というほか言いようのない瞬間、いわば映画ならではの視点でそのテーマをぶった切ってしまうような強烈なビジョン(もしくはキラーカット)が無ければ駄目だと思うのですが、どうもこの作品にはそれが無い。いや、弱い、というか拙い。
やっていることは、単に事のあらましを説明するのが精一杯で、もういっちょう咀嚼されていない。ドラマではあっても、「映画」というところまでには至っていない気がします(まあ、僕の見解ではね。怒らないで下さいね)。

脚本にしても演出にしても、それは結局、この事件(テーマ)に対する作家の、独自の視点、バイアスが無いからですよ。 ほとんど紋切り型です。
主人公の家庭も介護問題で悩んでますから、ほら、何がテーマか馬鹿でもわかりますよね、なんて程度の着想でベタな映画作りして、これは評価できる、なんて言ってると、海外のこの手の秀作に太刀打ちできなくなりますよ(もうなってるのか知らないけどね)。

あと、リリー・フランキーは良いと思うけど、プロモーション的事情を抜きにすれば、純粋に映画として、やっぱりピエール瀧はちょっと甘かったなぁ。

そういえばリリー・フランキー出演作としては、前に観た『ぐるりのこと。』の方が断然、良かったな。なんせ映画的ですね。



まあ、それはそれとして、しかしこの映画『凶悪』が取り扱ってるテーマも、実に嫌な事件ではありましたね。

あー、いやだ、いやだ。

話は変わりますが、僕は人間の「良心」というのは、元から人間に備わっているものではないと考えてきたところがあります。
「良心」や「善意」というのは、人が社会や文明を形成する過程で便宜上編み出した高等な概念に過ぎないと…。
従ってそれは自然界に存在するわけがないと感じてきました。

ところが最近、YOUTUBEで何となくゴリラを映した動画を観ているうちに、これはもしかするとそうではなくて、むしろ純粋な「悪意」こそが文明が生み出した発明なのかも、と思うようになりました。
だとするならば、悪意を行動原理にしがちな人が、群(社会)の中で歪(いびつ)に見えることも説明がつくしね。

その辺、どう思われます?
















帝国海軍、最後の希望も打ち砕かれたか…。

何のことかというと、武蔵ですよ。
少し前の話題ですが、戦後70年目にして、とうとうあの大和型二番艦、武蔵が姿を現しましたね。
驚きと共に、少々がっかりもしました。武蔵の沈没状況を聞いたことのある人なら恐らく真っ先に、大和と違って非常に綺麗な状態で眠っているのを想像したかもしれません。

これまでの目撃証言では、海面で爆発せずに、艦首から徐々に没して行ったとされてきたので、そう思っても無理も無いのですが、しかし実際には、海中で水蒸気爆発、ないしは海底に到達するまでに回転した拍子に火薬庫が爆裂したようで、艦首、艦尾、艦橋、主砲塔がばらんばらんの有様で発見されました(大和とほぼ同じような状況)。

ああ、現実なんてそんなもんだよな。
帝国海軍、最後の希望=せめて武蔵がカッコイイ感じで発見される、なんてのも虚しい妄想に過ぎなかったわけです。
これは察するところ、日本の再軍備化なんて考えるなかれ、というメッセージかもしれませんね。


希望的残骸戦艦武蔵
ちょっと、こんなの想像してたでしょ?



そういえば、戦争の話に絡めて言うと、先日、例の『アメリカン•スナイパー』を観てきましてね。
イーストウッドもさすがに高齢なだけに、これが遺作になることも考えられなくないわけですから、そういう意味でも、劇場に足を運んだわけです。


ちなみに僕の場合、イーストウッドの監督作で特に好きなのは、『アウトロー』『バード』『許されざる者』、そしてなんといっても『ミリオンダラー・ベイビー』といったところですね。


今回の『アメリカン•スナイパー』はというと、これがまた、非常に良かった。
かつて『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』を撮った監督なだけに、とても良心的な戦争映画でありながら、同時に、今回もまたイーストウッドらしい〝純然たるアメリカ映画″に仕上がっていたと思います。


『アメリカン•スナイパー』のモデルはクリス・カイル(劇中でも実名)という狙撃の名手で、彼はイラク戦争において実に、公式160人、非公式255人もの敵を殺害したんだそうです(公式、非公式というくくりの意味は劇中でさらっと説明するくだりがあります)。


しかし彼は、除隊後の2013年に、戦場体験によるPTSDを病んだ同じ退役軍人によってあっさり射殺されてしまう。
つまりこの人も、結局は戦争によって殺されたわけで、しかも皮肉にも、完全に死角となった相手(仲間)から〝狙撃″されたわけです。


果たしてこの人物〝アメリカの英雄″クリス・カイルという人の人生をどのように解釈すべきなのでしょう?
如何なる大義があろうとも、200人からの命を奪うというのは、事の善悪を超えて、そりゃ因果応報の末路を辿るわな、なんて自然に思えてしまうのは、僕が仏教圏のメンタリティを持っている所以でしょうか?


僕がこの映画の中で殊に気に掛かったのは、クリス・カイルが彼の人生感とも言うべき信条を語る部分です。


人間には三つの種類しかいない。それは「羊」と「狼」と「番犬」だ。「羊」は自分を襲ってくる悪辣な外敵などいないと信じている連中。「狼」は悪辣な存在、そして自分たち「番犬」は「狼」から「羊」を守る者なのだ、という。


なるほど。これはまた一見、もっともらしいが、素晴らしく即物的で図式的な考え方ですね。正直、どうかと思います。
というのはこれは、現象としてのありがちな役割論を語っているだけで、実は人間というものの本質に、なんら触れていないからです。
例えば、犯罪者の数より警察官の方を増やせば幸せになれる、と本気で考えるような、脳天気な理論に過ぎません。
重要なことは、この意味の狼というのは、生まれながらに狼なのではなく、狼に〝なる″のだということです。もしくは狼に仕立て上げられる。
同じように、番犬は所詮、人間が番犬の役割をしているだけだから、いつまでも続けてはいられない。心が折れてしまうから(どのように折れてゆくのかはこの作品が上手に語っています)。


要するに最も重要なことは、そもそも狼を生み出さないこと、その努力に尽きるわけですが、これはもう戦場では何一つ解決されない。残念ながら手遅れです。これらを解決できるのは結局、「戦争」より遥かに前段階の、政治と教育しかないのです。


付け加えて言うなら、現実の世界においては、実はこの「番犬」と称する奴が「狼」を生み出すことに一枚も二枚も噛んでいて、一方で番犬の役割りもやっているわけです…。

まあ、そういう話でいうと、我が国も、頼まれもしないのに、きな臭いところに首を突っ込んで行って、自衛隊を政治カードに組み込もうなんて、考えが甘過ぎると思いますよ。
無敵の米軍さえが不用意に兵を出さない方向なんだから、まして実戦経験も無い自衛隊なんかがね…。

思い返してみましょう。かつて国家予算並みの建造費をかけた戦艦武蔵が、一体、何の役に立ったのか?
一番艦大和の末路は?もっと仕様もない例で言えば、三番艦信濃は?更には陸奥は?

実をいうと、僕が戦艦とかミリタリーを好きな本当の理由は、それが余りに荒唐無稽でバカバカしいものだからなのです。
僕は、盛大にバカバカしければバカバカしいほど好きなのです。

ただし…。
そうは言っても、人はそんなことのために、たった一度の人生を奪われてはいけません。絶対にっ!

今日はこれ憶えて帰ってください。








あ~あ。痛い痛い、歯が痛い。
まあ、本文に関係が無いので、これは割愛しますね。

僕がロバート・ロドリゲス作品の中で一番好きなのは、何と言っても『シン・シティ』ですね。これはもう、面白くて面白くて仕方が無いほどだと思っています。

映画『シン・シティ』を知らない人のために少し解説しておくと、これはフランク・ミラーのグラフィック・ノベルを原作とした2005年のアメリカ映画です。
監督には『フロム・ダスク・ティル・ドーン』や『グラインドハウス』なんかのロバート・ロドリゲスと、映画『300〈スリーハンドレッド〉』の原作者としても知られるフランク・ミラーがあたっていて、さらに一部のシークエンスをクエンティン・タランティーノが担当しているという具合です。

この作品の特徴は、いわゆるコミックの〝実写化″というのではなく、逆に実写を「モーション・グラフィック」化させるという発想の面白さにあります。
そして、墨ベタのみで構築された原作のクールな世界観を見事に再現しつつ、尚且つ、50年代60年代のフィルム・ノワール(暗黒街映画)の空気感をも蘇生させて見せた。

こうした、高度なデジタル処理によるエフェクタブルな劇映画としては他に、トゥーンレンダリングを使った『スキャナー・ダークリー』が印象的だったけれど、でも、僕はやっぱりこの『シン・シティ』が一番、好きです。というのは、単に技術的に目新しいというだけではなくて、何より非常に映画的だと思うからです。

それと、この映画を考える時に何となく思い出される作品としては、1990年の映画『ディック・トレイシー』があります。
これは案外、語られることの少ない作品ですが、往年の同名コミックを原作としたポップな暗黒街もので、これが『シン・シティ』と通底するのは、やはり、安易な実写化を拒否し、逆に、実写をコミック特有の虚構感に当て嵌めようとした点です。
この作品が素晴らしかったのは、『シン・シティ』とは対照的に、原色のアメコミ・カラーを再現した撮影でした。
当時、純アナログによるその意欲的な試みは、何と、あのヴィットリオ・ストラーロの手によるものだったのです(ストラーロはベルトルッチの作品や『地獄の黙示録』を撮った、世界屈指のカメラマンです)。

さて、話変わって『シン・シティ』の筋立てというのは大体、こうです。
犯罪者、サイコパス、邪悪な権力者、汚職警官、売春婦のみで構成されたような街〝ゴッサム・シティ″ならぬ「シン・シティ」(罪の街)を舞台に、アウトロー達の、巨悪や権力に対する凄まじい報復戦が開始される(正味、これだけ!)。
ほとんどの場合、アウトロー達は名も無き女達のためだけに命を張るが、僕はどうも、いつになってもこの手のシチュエーションは好きですね。何かあの『浪人街』みたいなパターン、あれ泣けます。

まあ、このようなごくシンプルな物語が、登場人物達の濃厚過ぎる性格描写と、練りこまれた物語の綾を織り交ぜながら、『パルプ・フィクション』のように、同時並行的にエピソード展開されるわけです。

あ~、痛い。あそこが痛い。


さてさて、前置きが長くなりましたが、この作品『シン・シティ』の続編が今回、10年ぶりに完成し、僕は早々に観に行ってきました。歯が痛いのに…。

何故そこまでして観に行ったかというと、僕はこの10年、それとなくこの『シン・シティ』の続編の完成を待ちわびていたからです(実際、続編の話は前作の公開直後から出ていましたからね。確か、ジェシカ・アルバ演ずるナンシーが復讐に行く話だってこともね)。

そして、10年間の期待を込めて観た感想はというと…、フム、面白かったです。ええ。
面白かった。
相変わらず、画づくりの精度において遜色は無かったし、惜しむらくは前作に比べればもうひとつ盛り上がりに欠けたことと、10年の時を経て、役者陣が確実に老化してしまったことくらいかな(だからロドリゲスは『マチェーテ』なんか撮ってる場合じゃなかったんだよ!)。

まあ、良かったんだけど、正直、想像の域を超えるものでもなかったわけで、こうなりゃもう一本くらいシン・シティを舞台に、まったく別の群像劇をつくっても、これくらいしっかり面白いフォーマットならばやれるんじゃね、なんて思いましたね。

まあね。そんなもんだよね。10年なんてね。
何が〝そんなもん″なのかわからないけどね。

私は歯医者に行きます。












昨日、映画『フューリー』というのを観てきました。

この作品は、恐らく、ミリタリー好きの人なら、かなりの確率で観たのではないかと思われますが、内容は、機甲師団(戦車部隊)を主人公にした、〝ほぼほぼ『プライベート・ライアン』″というようなものです。
実は観る前からそうに違いない!と思っていたらやはり図星でしたね。
ついでに言うと、宣伝文句の「アカデミー賞最有力」というのも、これが単に〝ほぼ『プライベート・ライアン』″だからそんな風に謳っているのでしょうが、しかし僕は、そうはならない気がするなあ。その理由は、むしろこの作品が〝ほぼほぼ『プライベート・ライアン』″だからです。

そういう意味では、逆にこの映画の特徴は、スピルバーグ系戦場ものとは違った独特の詩情を随所に持たせてある点と、これまでの戦場もので余り描かれてこなかった〝性処理″の問題に触れているあたりだと思います。

戦争映画における〝詩情″という意味で言うと、これは少し曲者で、僕は以前、件の『プライベート・ライアン』が初公開当時、時を同じくして少し後に公開された『シン・レッド・ライン』(テレンス・マリック監督)という戦争映画が描き出す『プライベート・ライアン』とは対照的な〝詩情″に、いたくいたく閉口させられた記憶があります。戦場にしては内省的だな、と…。
では『プライベート・ライアン』には詩情が無いのかというと、決してそんなことはなく、むしろ『プライベート・ライアン』ほど詩的な映画は無いというのが僕の考えです。
唯、戦場という真の生き地獄を描く場合に、作家の主観性、例えばナイーブさ、センチメンタルな部分なんかを前面に出してしまうと、かえって出来事の恐ろしさや重みそのものを曖昧化させてしまうことになります。
そういう意味では、只々、生々しい現実を極力客観的に積み上げた末に、ある種の詩情にさえ至るという『プライベート・ライアン』のさじ加減こそ、断然、本物だと僕は思っています。
その点、今回の『フューリー』は、まあ、鼻につかない程度の詩的表現ではあったように思われます(一応、言っておきますけど、ここで語っているのは『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』なんかの、大枠の戦争ものの話しではなく、あくまで〝戦場″をテーマにしたドンパチものについての所見です)。

話は変わって、『フューリー』の中で描かれる〝性処理″のくだりですが、こうした、戦場における大義とは離れた矮小で無残な側面こそ、どんどん描いて欲しいものです。そういう意味では、『フューリー』の描き方はまだまだ甘い気もしました。
また、これとは少し違うのですが、爆撃にあってお相手が死ぬところも、あんな見え見えの感じで死んでるんではなく、只、手首だけが落ちているのを横目でちらっと見て腰砕けになるのを、無言で仲間が押し戻すくらいの演出の方が怖い気がするがなあ。
更にそういう部分でいうと、激戦のさ中、仲間がやられて泣き叫ぶなんてのも絶対、嘘だと思います(実際は自分の身を守るのが精一杯で、もっと遥かに虚無的になるはず)。
それと、なんといってもクライマックス、300人の師団を前に退避せず、走行不能のシャーマン戦車に立て籠もって(正に鋼鉄の棺桶!)迎え撃つ動機付けが弱すぎる。「これが俺の家だから」という一言で済ますこの展開は、詩情なんてことよりむしろ安めのポエムを感じて、まあ、ナンセンスですね。
戦車なんて兵器は元々、恐ろしく燃費が悪く、一度、補給を断たれたら幾らも走れないから、いつでも放棄することを前提に運用すべきものなのに、「家」って…。

大体、『フューリー』に限らず、近頃のハリウッド大作って、必ず最後、特攻しますよね。西欧人は実際には決して特攻などしないくせに、やたらキリスト教的殉教と掛けて、ファンタジーの世界で遊びたがるんです。そんなにカミカゼ・アタックが好きなら、貿易センタービルに突っ込んだあいつを尊敬でもしてるんでしょうか?

批判ついでに、もう一つだけテクニカルな部分で言うと、これも『プライベート・ライアン』から始まったと思しき、弾丸の軌道を描くCGエフェクトですが、『フューリー』では一部のシーンでちとやり過ぎ、「スターウォーズ」ばりにファンタスティックになってました(残念)。


さてさて、それなりに細かな難点はあるものの、しかし結論から言うと、僕的にはこの映画は結構、良かった。明らかに及第点はいっていると思います。
中でも最も良かったのは、兵士達の性格描写。つまりこれまでのどんな戦場ものより明白に、そして暗に、最前線に送られるのがどんな社会的地位の人達なのか、それを語っている気がする。そのことが戦争というものの隠された構造を照らして、何とも不気味に見える点です。これは非常に重要なポイントだと思います。
それと、なんといっても見事な〝汚し″を施されたシャーマン戦車の存在感!そしてまた、博物館所蔵の本物のティーガーⅠ型がスクリーンに登場する驚き(実際、ほとんどのミリタリー好きはこのために劇場に足を運んだはずです)。

圧巻はやはり4台のシャーマンと一台のティーガーとの一騎打ちだけど、これはよく言われる、「ティーガーの恐ろしさ」を生々しく体感できるシーンに仕上がっていたと思います。
本当を言うと少し前に公開された、T-34と訳ありティーガーが激突するロシア製の戦争映画『ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火』ってやつと比べてみたかったんだけど、こっちは今のところ観れていません(この映画には本物のT-34が登場する)。
ミリタリーって意味で言うと、『フューリー』にはもういっちょう、自走砲なりパンターなりがちょろっとでも出て来てたら、言うことなしだったけどな。
また、細かい部分でいうと、印象的に登場する小火器が、通常、米軍ものだとどうしてもガバーメントになるところを、あえてM1917リボルバーにしてさりげなく差別化を図っているあたりはいいんじゃないかと思います。あのブラピ演ずる「ウォーダディー」には似合っているかもね。


映画『フューリー』は松本零士の「ザ・コクピット」を連想させるものでもあり、考えてみれば陸上でありながら密室劇の要素もあるという点では、どこか往年の傑作映画『U・ボート』に通底する怖さもあって、例えばこうした今日の技術を駆使して『パットン大戦車軍団』的なスペクタクルをやったらどうかみたいな、一ジャンルとしての可能性を感じるものでもあった。

それと蛇足ながら、この映画はエンディングのタイトルバックが非常にかっこよかったです。

大体以上です編集長!











僕は非常に寝つきが悪く、このところそれは最悪なレベルなのですが、そんな時、寝落ちするため、スマホで投稿怪談みたいなものを読むことがある。

なんせ目的が「寝落ち」なだけに、読むものを間違えるとこれは逆効果になるから、まあ、ネットに転がってるこのくらいのものがちょうど良いのですが、にしても、実話系怪談というのも最近、ほとほと食傷気味で、近頃、ぞくりとくるものに出会ったためしがない(まあ、単に趣味の問題ですが)。

と、思ってたら、昨日、ちょっと良いのを発見!ちょっと良いというのは程よく怖え~ということです。

出典元は「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?266」みたいですが、この話はシンプルでありながら、文体や状況描写に破綻がなく、妙~にリアリティを感じさせるところが怖い。あ~怖い。さようなら。


青いテント

私は野生動物の写真を撮って自然誌に寄稿するという仕事をしていました。

夜間に山中の獣道でテントを張り動物が通るのを待って撮影する。
また、赤外線センサーを用いて自動シャッターで撮影するなどです。
仕事柄、人気のない山中に一人でこもるのが怖いと思ったことはありませんでした。
あの時までは。

奥多摩秩父山地を沢沿いに登ったときのことです。
地図を見て想定していた付近には午後の1時頃に着きました。
河原に一人用のテントを貼って5時過ぎまで仮眠をするのがいつものルーティンです。
絶対に人のいるはずのない山奥ですので
都会のただ中よりは安全なはず…そう思っていました。
クマよけのラジカセを木の枝にかけ、眠りにつきました。

起きた時にはもう外はかなり暗くなっていました。
ランタンをテント内に吊し、機材を準備してヘッドランプを装着し撮影に出かけます。
期待と緊張の瞬間です。テントを出て、おかしなことに気づきました。
沢の上流に向かって10mほど離れたところにやはりテントが見えます。
青い色のようです。ここは釣り場ではないし、本当に人外の地です。
私の他に登山者がいるとはとても考えられませんでした。

テント内の明かりは透けて見えません。
だれかが眠っているのでしょうか?
それにしても、私がテントを張ったときにはなかったのは間違いありません。
私の仮眠の間に音もなく誰かがやってきた、ということなのでしょうか。
…とりあえず撮影の下見に出かけることにしました。
その時、青いテント内に明かりがつきました。
するとテントの色が急にまだらに変化しました。
テントの内側からそこかしこにどす黒い色がしみ出しています。
青い地でよくわからないのですが、その時に古い血の色を連想しました。

礼儀としてテントの人に一声かけるべきなのだろうか、そう思いましたが後からきた向こうがなんのあいさつもないのにそれも変かな、と考えました。
実はそれはいいわけで、何よりそのテントが不吉な感じがして怖かったのです。
…大変だけど場所を変えよう、と思いました。
そこでテントを撤収し、なるべくそのテントのほうを見ないようにしながらさらに1kmほど沢を登りました。これで今夜の撮影はできなくなってしまいました。

上流の河原でテントを張り直したら時刻は9時近くになってしまいました。
簡易食を食べて眠りにつきました。
まだ肌寒い五月のはずですが、びっしりと寝袋内に汗をかいて夜中に目を覚ましました。午前2時頃です。テント内の空気がこもっていたのでジッパーを開けて外の空気を入れようとして、愕然としました。
私のテントのすぐ目の前にさっきの青いテントがあったのです。
「えっ、嘘!」…するとテント内に明かりがつきました。
そしてまだらになったテント内から二つのてのひらが黒く浮かびあがりました。
テント内の人が私のほうに向かって手を突っ張っているのです。

私は一瞬気が遠くなりかけましたが、急いで反対側から外に出て横に回り込み、持っていた懐中電灯でそのテントを照らしました。そのテントの中のものはあちこち手探りをしていましたが、ジッパーを開けて外に出ようとしています。
私は後ろも見ずに沢に入り膝までぬらして駆け下りました。
途中真っ暗な中で何度も転びながら駆けて駆けて駆け下りました。
途中で懐中電灯も放り出してしまいました。
息が切れて走れなくなったところで、うずくまって震えながら朝を待ちました。

次の日ふもとから人を呼んで昨夜の場所に行ってみると、二つのテントがならんであり、一つは私のもの、一つは青いテントでしたが昨日見たよりもずっと朽ち果てていました。テントの中には10年以上経過したと思われる男性の人骨がありました。

私はそれ以来動物の撮影はやめ、山へも行っていません。
以上本当の話です。





写真は無断転載してしまいました。ごめんなさい。










近頃、その底知れぬセンスと才能に開いた口がふさがらない感じのタブレット純さん(ムード歌謡漫談の貴公子)ですが、この間、YouTube観てたらこのPV見つけて、タブレットさんを見る目が180度変わりました。

これはヤバイ!この曲、この歌詞、ムーディーで邪悪な映像とサックスが耳に残って、僕的にはドンピですよ。ヘビロしてま~す。さようなら。

ちなみにタブレット純さんは地元が近所みたいなので、妙に応援したい気持ちです。今こそ時代をまきもどせ、タブじゅん!さようなら。