どっちみち死んでしまうのなら小賢しく生きても致し方なし。
どうせならあれだね!
今は誰もがサバイバル中だから、もともと暇な人も、少々、お馬鹿なひとたちもやっぱり漂泊中…。
まったく馬鹿が生き辛い、バカな時代が来たもんだ。
ちなみに馬鹿は馬鹿であっても、これはやっぱり笑えてなんぼなのです。何れ、笑えないバカであっては困るんだ。
さて、今ようき、また奇特な感じのものを作ったよ。これ。
これすなわち、紙っぺらだけで組み立てた拳銃、というかビンテージ・ガン!Colt M1847Walker。
3Dプリンタで銃を製造するとお縄になるらしいんで、いっそ2Dプリンタでやっちゃったよ!みたいなね…(どうだ官憲!)。
今回、これの何が「馬鹿」かというと、紙だけでできているのに、実に、内部メカニズムや分解構造など、とにかく可能な限り実銃を再現してみたことなんです。だから一応これ、フル可動もするんです。嗚呼…。
私の知る限り、ここまでやった銃の紙模型は過去に存在しないと思う💛 💛
「しかしそもそもこれ、需要あんの?」
「無いかもしれませんね💛 」
「馬鹿野郎ぅ!!」
なんてな。
ところで、実はこのプロダクトは3年程前に完成していて、少々訳あって放しておいたものを(物好きにも)敢えてこの多難なご時世に蔵出しするものです(Why?)。
だから、これについてのブログ記事も密かに3年前に書いてたりして…。以下がそれです。チェキラ💛💛💛
僕は近頃また紙の模型を作って公開し始めたんです(一応言うと、これはオリジナルのペーパーモデルを設計し、展開図、説明書合わせて同人販売し始めたということです)。
今度はまたこれまでにない酔狂を極めたものになりました。
前回作った二十六年式拳銃に続いて拳銃第二弾です。
前回のは帝國陸軍採用の明治に作られたプロダクトですが、今回のはもっと古い!1847年にアメリカで作られた歴史的な銃「M1847 Walker(ウォーカー)」というものです。
これは軍のサミュエル・ウォーカー大尉がサミュエル・コルトに製作を依頼した銃で、いわゆるパーカッション・リボルバー(先込め式回転拳銃)というやつです。
この銃の特徴は、現在に至るまで史上最も大型の拳銃の一つだという点ですが、生産量が1000挺程であったため極端に希少価値が付き、当時の現物は一億で落札されたこともある程、史上最も高価な銃になっているようです。ちなみにこの銃の問題点を改善した後継モデルが、これも知られたM1848 Dragoon(ドラグーン)です。
僕が今回作ったペーパーモデルのM1847 Walkerは紙の模型としては(私の知る限り)世界的に見てもちょっと無いような常軌を逸した感じになりました。どういうことかというと、紙でありながら、(単に観賞用の張りぼてでなく)実銃同様のアクション、弾のローディング、分解手順を可能な限り再現したのです!!ばきゅーん。
もっとも、こうした感じの制作物にとんと疎い方にとっては、なんとなく面倒くさそうだな、くらいに思われるかもしれません。でもこれ作るのって実際、途方も無くシンドイ作業なんですね。もう考えるのも嫌だってくらい、ああ、もう嫌だーってくらい大変でムズいことだったんです(これホント!)。
更にそんな苦心をしたところでやっぱり素材が紙ですから、さすがにモデルガンほど円滑に動作するわけでもありません(実際、銃というのは結構な精密機械なのです)。それと、展開図から組み立てるという、言わずもがなユーザーに課せられる工程も、今回のモデルは通常モデルより難しい。型紙のカットにしろ、貼り合わせにしろ、それなりの精度を求められます(なんせ可動モデルですから)。いわば紙模型としては非常に上級者向けになるわけです。
ただ、そのようなことを考慮しても、(手前味噌ながら)今回のペーパーモデル「M1847 Walker(ウォーカー)」は〝紙で機械を作る″ことのこれまで無かった限界に挑戦しているとは思います(逆に言えば、そんな限界に誰が挑戦するものか!)。
ご興味のある方はこちらへどうぞ!
http://longtailscafe.com/papermodelworld/papermodelworld_charged_04.html
ところで、僕が何故このM1847 Walkerという古風な銃をモデルアップしようと考えたかというと、ある一本の忘れられない映画があるからなんです。もっとも、この銃の愛好家は皆、例外なく、口を揃えてその映画の名を挙げます。
その作品とは、クリント・イーストウッド監督、主演の西部劇『アウトロー』(原題=The Outlaw Josey Wales)です。
この映画の公開は1976年ですが、これは1980年代前半頃、僕が中高生当時に度々テレビで再放映されていて、僕は『アウトロー』がテレビでやっている度、欠かさず観ていました(もちろんそれは山田康雄の吹き替え版でね!)。
映画『アウトロー』は『恐怖のメロディ』に始まる監督としてのイーストウッドのフィルモグラフィ中、ごく初期作品ながら、あの『許されざる者』が作られるまで、個人的にはベスト1と思われる作品でした。
当時、僕はご多分に漏れず西部劇が大好きで、『駅馬車』『シェーン』『荒野の七人』なんかのアメリカ製西部劇を原風景として、やがてマカロニ・ウエスタンに心酔していったわけです(ちなみにこれらは全てテレビで鑑賞)。
こうした中でも、ジャンルとしての西部劇がすっかり下火になった70年代に製作された『アウトロー』は僕には衝撃でした。それまで観たどんな西部劇よりも、歴史ものとしてのリアリティ-を感じたからです。まず物語の背景が、単なるアクションのための説話的設定ではなく、実際の歴史や文化を織り込んだ重厚なものだった。例えば、主人公が一度、史実上の南北戦争に従軍して…なんて西部劇は他に無いし、また、民族的マイノリティーや弱者の視点を、ストーリー上の仕掛けとは切り離して真摯に描いた西部劇も当時は無かったと思う。
それともう一つは、当時、自分史上最大のガン・ヲタだった僕は『アウトロー』に登場する様々な種類の見慣れない銃に目を見張ったのです。それが南北戦争当時、まだコルト・ピースメーカーなど登場する前のパーカッション・リボルバーというものでした(それも生々しく使い込まれた鉄の、得も言われぬしずる感を纏って…)。
僕もパーカッション・リボルバーはモデルガンでほんの一、二種類は知っていたものの、映画で見たのはあれが初めてだった気がする。何れにせよ、パーカッション・リボルバーが主役として派手に登場する映画は初でした。
この映画では、主人公ジョージー・ウェールズは普通の西部劇と違って常に何挺もの銃を持っているんだけど、実はこれが当時、なんともリアルに思えましたね。それって何故だか解るでしょうか?パーカッション・リボルバー(先込め式回転拳銃)とは弾を込める時、現在のような火薬、弾頭、雷管がワンケースになったカートリッジなど無いですから、シリンダー先端からパウダー状の火薬を直接入れ、弾頭で蓋をし、最後に雷管をセットするという、とんでもなく面倒くさいローディング方式でした。したがって、いざとなったら予め弾を込めておいたシリンダーごと交換するしかないのですが、仮に『アウトロー』のような対複数とのガンファイトになった場合、これでもとても間に合わない。だからもう銃ごと沢山、馬にぶら下げていたんですね。
ジョージー・ウェールズが携行する銃の中でもはっきり主役として使われていた大型二挺拳銃が、かく言うM1847 Walkerだったわけです。
恐らくM1847 Walkerがピックアップされた理由は、先に大ヒットし、イーストウッドのイメージを格別なものにした『ダーティハリー』シリーズで主人公が使う銃が大型の44口径(S&W M-29)であったことから、やはり44口径のWalkerが選ばれたのでは、と思われます。その証拠に『アウトロー』のクライマックスで、仇敵に向かってWalker二挺をカチャカチャ、ロシアンルーレットするシーンって『ダーティハリー』のラスト「すっかり夢中になって何発撃ったか忘れちまった。お前の運を試してみるかい?」てのとそっくりです。
蛇足になりますが『アウトロー』は殊にリアルな映画ですから時代考証上ピースメーカーを出せないのは解るのですが、だいたい、40~60年代までの西部劇に、(史実に反して)拳銃はピースメーカー、カービンはウインチェスターしか登場しないというのは不自然で、あれって銃器メーカーの根回しによるものでは?と僕は疑ってさえいます(今日において作られる西部劇には個性的な銃が色々登場します)。
さて、ここで『アウトロー』の筋立てを一応、記しておきます(40年も前の映画ですからネタバレしちゃいます。もしも今週末借りてくるか、という人は決して読まないで下さいね)。
南北戦争当時のアメリカ。ミズーリの農民ジョージー・ウェールズは妻子と共に平和に暮らしていた。しかし映画の冒頭、突如「レッド・レッグス」と呼ばれる北軍の略奪集団に家族を惨殺される。自らの無力を痛感したジョージーは自宅の焼け跡から銃を掘り出し、射撃の訓練を始めた。するとそこへ「レッド・レッグス」を追うフレッチャーたち南軍の残党が現れる。ジョージーはこれに合流し、やがて南北戦争に身を投じていった。やがて南北戦争も終焉を迎え、今や凄腕銃使いとなったジョージーを残して南軍ゲリラ部隊の盟友たちは皆、北軍に投降してゆく。素直に投降すれば無罪放免という取り決めだったが、実はそれは罠だった。異変を察知したジョージーは仲間の救出に駆けつけたが、フレッチャー(ゲリラ部隊のリーダー)と深手を負いながらもジョージーに救われた若者ジェイミーを残して全員射殺された。その後、あろうことかフレッチャーはレーン上院議員の指示で、ジョージーの家族を殺した部隊の将テリル大尉と共に盟友ジョージーを追う羽目となる。ジョージーとジェイミーはおたずね者の反逆者(アウトロー)となって追われる身となるが、元北軍の追及をかわし、ひとまず先住民居留地に逃げ込もうと向かう。途中、ジェイミーは北軍に受けた弾傷が元で息を引き取り、とうとう独りになったジョージー・ウェールズだったが、今度はネイティブ・アメリカンの老人(元酋長)ローンと、やはり先住民族の娘リトル・ムーンライトを助けたことからなりゆき、旅路を同行するようになる。ジョージー達は立ち寄った町で追っ手をかわし、旅を続けたが、更に、ならず者商人に馬車を襲撃された移民の一家を救いに入り、大立ち回りとなる。そこで救い出した美しい娘ローラとその祖母サラ、彼女達の資産である牛たちをも加え、にわかに大所帯となった。徐々に打ち溶け合って、擬似家族的になった彼らは追って来たバウンティン・ハンター(賞金稼ぎ)の急襲を跳ね除けつつ、無事、目的の牧草地ブラッド・ビュートに辿り着いた。かつてサラの子息が建てた家屋で一心地ついた彼らだったが、今度はコマンチ族の襲撃に合う。しかしジョージーが単身、死を賭して酋長テン・ベアーズと交渉したことから和解し、事なきを得る。ジョージーはローラと恋に落ちかけるが、かつて殺された家族の情景がフラッシュバックし、自ら安息の地を去りゆこうとするその早朝、ついに仇敵、テリル大尉がジョージーの前に現れた。テリルの集団とジョージーが睨み合い「もう味方もいないか」とテリルが言うと、背後の家屋から銃口が一斉にのぞき「ここにいるぞ」とローンが言った。かくしてテリルの軍隊とジョージーの仲間達との総力戦が火蓋を切った。テリル軍はなんとか撃退され、ジョージーは瀕死を負って逃げるテリルを馬で追い、とうとう家族の仇を取った。その足でジョージーがサンタ・リオの町を訪れると、州警察官を伴ってあのフレッチャーがいた。警官はジョージーの顔を知らず、フレッチャーは見て見ぬ振りをした。ジョージーが深手を負っていることを認めたフレッチャーは「もしも何処かでジョージーに会っても、俺は先に撃たせる。奴にはそれだけの義理がある。そう思わないか?ウイルソンさん」と語りかけ、ジョージーは「みんな戦争の犠牲者なんだ」とひとこと残し、荒野に走り去った。
傷を負ったジョージー・ウェールズが何処とも知れぬ荒野に走り去るというラストは、言わずもがな『シェーン』から連なる普遍的形式なんでしょうが、しかしこれがやばいんですよね。どうしてもね(泣)。
それと『アウトロー』が出色なのは、秋に撮影されたという、枯れた自然の哀愁ですね。アメリカン・ニューシネマの『明日に向って撃て!』みたいな作品は別として、撮影に関しても、それまでの乾いた西部劇を見慣れた僕には新鮮だった。どしゃぶりのシーンや印象的な水辺のシーンなど、このテーマにしては物凄くウエットなのに、それがまた真実味に感じてしまう。実際ならばこんな感じだろうな…と。
またアクションに関しては、全般的にもっさりしていて、今観るとやや鈍くさい。イーストウッドの監督作って何かそういうところありますよね。イーストウッドは殆ど撮り直ししない物凄く早撮りの監督と聞いているから、小手先のちょこまか感が肌に無い人なのかもしれないけど、しかしそれが全然悪い感じじゃない。なんか微妙にワンテンポ遅れてくる感じが、実際、そこで見てたらこんなくらいじゃね?とか思わされてしまう素朴な真実味が妙にあるんです(『アメリカン・スナイパー』とか最近作は別ですよ)。そんな辺りがまたこの『アウトロー』には特に感じるな。
ちなみにイーストウッド自身が語っていたけど、『アウトロー』はお気に入りの一本だよと言われることがよくあって、実際、『許されざる者』より人気が高いくらいらしいです。ただ、僕は初めて『許されざる者』を観た時、これは『アウトロー』に最も近い空気を持った作品だなと感じたのを憶えています。
ところで、少し別の角度からこの作品に纏わる話をしますと、僕はこの作品の設定に関して、少し疑問に感じる点がありました。というのは、南北戦争において主人公ジョージー・ウェールズが参加するのは南軍側でしたよね。だからジョージーは仇討ちを目論む意味からも南軍の残党となって旧北軍から追われ、物語が展開する。僕はこの「敗残者」側からの視点というのがこの映画のこの映画たる所以だと思うし、奥深くて好きなんですが、一方、アメリカ人の感性でもこうした敗者の立ち位置に寄り添ったわびさびなんてものがあり得るんだなと若干、感心した気持ちがありました。ただですね、この作品の場合、敗者は敗者でも南北戦争における南部側ですよね。ご存知のように南部軍というのは奴隷制存続を強行に主張する側で、それこそがこの内戦勃発の原因なわけです。だとするならば、ジョージー・ウェールズの反逆の理由とは、一部の不良北軍分子への仇討ちという以外にも、実は黒人への差別感情がベースにあったのでは?と捉えられなくもない。しかしジョージーのキャラクター造形を考える限り、これはとても考え難い。なぜならこの作品では主人公とネイティブ・アメリカン(民族的マイノリティー)たちとの交流が、それまでの西部劇に無い生身の息吹をもって丁寧に描かれていたからです。それに当時、社会的弱者であった女性たちのことも、実に温かい眼差しで見つめている。うむ、やっぱりジョージーが人種差別主義者ってのはないんじゃないかな?あるいは、僕はアメリカ人の常識はよくわからないけれど、インディアンは良くても黒人はダメなんてのがあったのかな?もしくは全然そういう問題ではなく、南北戦争においても、すべからく北軍が善で南軍が悪というような単純な図式だけでは語れないと、ごく純粋に告発しているだけなのか?イーストウッド本人も「南北戦争は出身地のみで敵味方に分かれた特異な戦争」と解説していたしね。
実を言うと、この映画『アウトロー』には原作小説が存在します。フォレスト・カーター著『The Rebel Outlaw: Josey Wales』という作品です。
ある時イーストウッドの事務所にこの原作本が送られてきて(それはわずか75冊印刷されただけのもの)、しかしこれを読んでみると非常に感銘を受け、周囲に映画化を疑問視されながらもすぐに映画化権を取得したとのこと。
ところが、実はこの原作者フォレスト・カーターなる人物は、ちょうど映画『アウトロー』が公開された頃、その正体が「今ここで人種隔離を! 明日も人種隔離を! 永遠に人種隔離を! 」というスローガンを書いた元スピーチライターのアサ・アール・カーターであるとすっぱ抜かれたらしいのです。でも彼はいくつかの小説を書く頃になると、かつて自分が白人至上主義の人種差別を推し進めようとした政治的人物であることをひた隠し、しかも自らにはインディアンの血が流れているなどと主張し始めたのです。
これについて世の中ではちょっとした論争が巻き起こっていて、アサ・アール・カーターは過去の贖罪として博愛平等主義に目覚めたのだという説と、いやそうではなくて、単に金儲けのための欺瞞だという説が入り乱れているようです。
なるほど、これはまたシュールな展開になったわけですね。だとすると『アウトロー』で南部側の視点に立ったのも、やっぱり幾ばくかは過去の歪んだ思想の反映があったかも?と思わされます。フォレスト・カーターが既に死去した今となっては、これは永遠に藪の中ですが…。
ただ、僕が思うのは、元々人間の胸中に永久普遍の真実などというものがあるだろうか?ということです。
ある人間が、単に善であるか悪であるか断じられると思うことは少々、稚拙過ぎる。
きっとフォレスト・カーターの胸中にも(我々と同じように)思惑と衝動が流転し、入り乱れたのではないでしょうか?
また、そんな謎めいた不可解さも、いっそうこの作品に対する興味をそそられる点ではあります。
さてさて、少しもやもやしたお話の後で、最後にはもっとスカッとした話題で締めたいと思います。
実際、僕がこの作品を好きな一番の理由は、単純にもう、これぞ男の映画だ!と思えるからなんです。劇中でフレッチャーが言う「男の意地に気をつけろ」というセリフ通り、家族を殺されたジョージーが怒りの銃弾を発射する冒頭から、そのストレートな展開にぞくぞくさせられる。
多くの西部劇の無法者たちがその素性を詳しく語らないのに反しこの作品では、そもそもなぜ彼はアウトローになったのか?という部分をきちんと描いている。
家族を殺されたことによって動機付けられる物語展開は言うまでもなくアクション映画の典型ですが、こうした系譜のヒーロー譚、例えば『ダーティーハリー』や『狼よさらば』や『バットマン』や『マッドマックス』といった作品を考えた時、僕は『アウトロー』に最も近いのは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』もしくはそのベースとなった『マッドマックス2』だと思っています。
何故なら『ダーティーハリー』『狼よさらば』『バットマン』における主人公たちは「家族を守れなかった」痛みを、街のちんぴらを掃除するといったような、いわば「正義」という抽象概念に転化し乗り越えようとしますが、ジョージー・ウェールズやマックスは本質的に違う。
彼らは深い悲しみを背負ったまま、しかし何かによってトラウマを乗り越えようとはしない。
乗り越えることは生きようとする意志ですが、ジョージーもマックスも、その本質は唯、世捨て人となって荒野をさすらい、死に場所を求めているのです。
つまり、ジョージー・ウェールズの物語とはこうです。
家族を失った痛手と戦争の狂気によって生きることの意義を失ったジョージーは、戦場と荒野を流転の末、かつて守れなかった家族の代わりに、弱く名も無い人々のために躊躇無く命を張るようになる。
生きなければならない理由がないから恐れる理由もなく、見返りを求める必要も無かった。そして彼は力で弱いものを蹂躙する人間を仇敵のように憎んでいた。
行きがかり上そんなことを繰り返すうち、ジョージーの心を知らずに皆が彼を救世主か英雄のように感じてゆく。やがてジョージーに助けられた人々が集まって擬似家族のようなものが生まれ、次第にジョージーも家庭の安らぎを思い出しかけるが、結局は「失ったもの」が再び彼を呼び覚まし、荒野に引き戻すのだった。
これは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』にもほとんど通底するテーマです。どちらも典型的なロード・ムービーだし、最終的に擬似家族的集団が力を合わせて外敵を迎え撃つという構図も同じ。また、最後にはマックスも荒野の果てに消えてゆきます。
ところで、こうした「男の生き様映画」を考える時、僕がいつも思い出すのは1990年の映画『浪人街 RONINGAI』です。
虫けらのように殺された夜鷹たちの仇を討つため、よれよれの食い詰め浪人たちが権力相手に牙を剥く。絶対に勝ち目の無い戦いに挑むのです。要するに、あらかじめ生きる意義を失った男たちが行き着く果て、その死に場所として、誰にも顧みられることの無い弱い者の命や尊厳のために意地をみせる、この構図ですよ。
死んで生きる(死んでこそ生きられる命がある)。求めないから与えられる。恐れないから克てる。
なんて書くとまるで『葉隠』みたいな、武道の極意のようにも聞こえるけれど、結局『アウトロー』という映画が語っているのは、もしもそんな風に生きた男がいたならば、彼の背中はどんなにか悲しく、どんなにか凛々しく、どんなにか格好いいことだろう、ということに尽きると思う。
人はただ満たされているだけでは自己欺瞞にのみ走らざるを得まい。誰もが自分だけの幸福を求め追求することは人間の性だけれど、しかし、格好いいことや美しいこととは何だろう?
かつてこの映画は、中高生の僕にそんなことを問い掛けてくれた。そして「男の意地」を見せてくれた。
ジョージー・ウェールズが教えてくれた。