昭和28年(1953年)


小生が中学2年生の夏であった。


当時庭球部で活動して


放課後練習に励んでいた。


今から思えば栄養状態が


格段に悪かったせいか、


朝起きると背中にぐっしょりの汗であった。


夏でも毛布をかける位の


気候の地方であった。


体がだるくぐったりの状態が続いた、


医者にかかったら、


軽い結核、肺逡巡とのことだ。


当時結核は不治の病であり恐れられていた。


家中びっくりであった、


薬もなく一日中横になって


いなければならなかった、


生活も楽ではないのに


母親は栄養を取らせることに苦心していた。


お陰で夏休みが終わるときには


ほぼ普通状態に戻り休校することもなかった、


悔しかったのは庭球の群馬県大会で


準決勝まで行ったのに


決勝戦に出られなかった事だ、


しばらく落胆と病で放心状態であった、


今思えば良かったのは


本を沢がたくさん読めて自分の教養の


基礎になったことである、


暑くなると思いだす。

小学校の同窓会の案内が来た、



卒業60年目だ。



1945年昭和20年に入学



26年に卒業である。



入学して通学し始めたが



毎日のように空襲で途中下校である、



防空頭巾をかぶり集団下校、



群馬県安中市(疎開先)でさえそうであった。



皆継ぎの当たったズボンやシャツでカバンもなく



風呂敷の子も何人もいた、



教科書は先輩が使い古した



国定教科書である。



それでも元気で仲良く



喧嘩しながら卒業した。



60年たった今でも



200人近くいた同級生の



顔が頭に入っている(人の名前と顔を覚えるのが得意)



自分は東京に帰ってしまったが



何年に一度かは逢っていて



現在の顔も覚えている、



今あっても何の変哲もなく



当時のままの気分である。



同時に育ち、付き合ってくるとそういうものだ。



まだまだ元気で同窓付き合いをしたいものだ。

パラオに家内の父の弔問に行ってきた事を



まだ自分で動ける母親に報告に柏崎まで



行ってきた、



厚さ5センチくらいの写真を見せたら



あまりにも綺麗な景色と海の色に



頷くばかりであった。



同じことを何回も聞く位の意識なのだが、



どんな思いで見ているのか、



ただ可愛そうでした。



慰めとしてはこんなに美しいところで眠っている



事くらいしかない、



義父が36歳で戦死しているので



57年前の出来事だが



一日も忘れたことは無いでしょう。



その子供の家内も69歳で足が悪くて思うように



動けなくなっている、



時代の流れには逆らえない。



これからの生活をより良いように心がけなくては。