想いの道 ~会長の独り言~ -18ページ目

会長の独り言『お節介』

 

 

 

楽しいよ、お節介って。やくのも、やかれるのも。だってその人が好きってことだろう。嫌いな人にお節介なんてやかないからね。だから私たちには、好きな人がいっぱいいるってことさ。

英語の質問で思わず腹を抱えて大笑いした解答をご披露致します。Q: I go to Tokyo. これを過去形に変えなさい。

          A: I go to Edo.

凄いセンスの持ち主ですね、この解答者は。

という事で、チョット江戸時代にタイムスリップしてみます。

ご存知のとおり、江戸の街は徳川家康によって築かれたその当時では世界一の大都会でした。今の皇居がある千代田城を中心に海岸を埋め立てて発展していった街です。お城の周りには譜代大名や有力旗本の屋敷を配置してその周辺に、江戸の市民が暮らす街が有りました。一般の町人はその町屋の中の長屋に住んでいました。

江戸っ子は宵越しの金を持たねえ、と見栄を張って居ましたが、それほど安い給金でその日暮らしを余儀なくされていたという事です。そんな訳で長屋の住人はお互いに助け合いながらの日常でした。お櫃の底が見えてご飯が炊けない時には、お隣から融通してもらう。思わぬ実入りがあった時には皆んなでお裾分けして喜ぶ。悩み事や諍い(いさかい)も寄ってたかって片ずける。今の世では、うるさいほっといてくれ!

と逆にトラブルになってしまうくらいのお節介が江戸っ子の生き様でした。

思い起こせば、私の子供時代も江戸時代程ではないが、これに似た暮らしがあったのです。私の子供時代は福岡市中央区白金、我々の時代は向田町と言って地勢的には福岡市のど真ん中です。道を挟んで両側に住宅が並んでいました。母方の曽祖父の借家が我々の住まい。これが今も残っているんです。築100年に近い古家。曽祖父は大百姓でしたから、その畑の一部を借りて親父が運送業を始めたのです。我が通りには、145軒の住まいがあったでしょうか。その端から端までが江戸時代の長屋の様な関係を維持していたのです。町内には我々4人兄弟を始め、年上年下とどの家庭にも大勢の子供たちがいて、一緒になって遊びまわっていました。男も女も関係なし。その中で人間関係の機微を学んでいたのでしょう。悪いことして、町内のオジちゃんオバちゃんに怒られる事なんか日常茶飯事。仲のいい子の家で、晩ご飯に呼ばれることぐらいしょっ中、お風呂に入ってそのままお泊りでした。マイカーなんて有る家庭なんかありゃしない。そもそも車が通る事さえ少ない時代でしたから、夏の夕方には道に縁台を出して夕涼み。古く良き時代でした。

割り当ての字数をオーバーしたようです。もっと続けたいがこれで締めます。会長の独り言でした。お粗末