【真・皇統紀③】久田氏(尾張氏+賀茂氏)と案山子の謎 | 日本イルミナティ協会

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【真・皇統紀③】久田氏(尾張氏+賀茂氏)と案山子の謎
 
 
「天の岩戸開き」とは「出雲族の封印解除」だが、アリオン・メッセージの解読チーム「アートライン・プロジェクト」はこう言っている。
 
日向族によってかけられた封印を解くために必要なことは、まず「アマテラスの義弟たちが行った封印によって隠蔽された史実」と、「その後に形作られた歴史(時間)」を認識することが必要である。
 
そして、封印が解かれ、黄泉帰る出雲族の末裔の中に、神の力を受け継いだ天国の人にまで遡り、正史に基づいた新たな歴史を作り出す民人が必要である。
 
 
隠蔽された史実とは、神武天皇以前の「出雲系天皇族」の歴史である。
 
 
『日月神示』の次のメッセージはそのことを言い表している。
 
「神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。
 
神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸に隠して神ヤマトイワレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸閉めの一つであるぞ」
 
「いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇太神、日の大神、揃ふてお出まし近うなってきたぞ」
 
 
マコトの天照大神、天照皇大神、日の大神揃とは、「スサノオ」「ニギハヤヒ」「天津甕星」を指しているのかもしれない。
 
特に、ラストエンペラーとなった「天津甕星」は、日本神話に唯一登場する悪神として虐げられてきたのだ。
 
 
この本は「天津甕星」に関する唯一の書籍で、この本によると、天津甕星は「物部氏」だったそうだが、それは明らかに間違いで、正しくは「尾張氏」である。 
 
著者には申し訳ないが、タイトルからして検討外れなのに、それを前提にどれだけ研究しても全て的外れな推理である。
 
 
 
それはさておき、私が昔から頭を悩ませている問題があったのだが、今回の再研究で一応の結論が出たので発表しておきたい。
 
 
 
 
京都の丹後に「元伊勢 籠神社」があり、名前の通り、もともとはここが「伊勢神宮」だった。
 
 
主祭神は天照国照彦火明命」で、これは「ニギハヤヒ」のことである。
 
 
宮司家の「海部氏」はニギハヤヒを祖神とし、「海部氏系図」は国宝にもなっているが、海部氏は「尾張氏」の分家なので、直接的には「天村雲命=天津甕星」が祖神である。
 
 
だが、その海部氏は「鴨族(賀茂氏)」を名乗っているのだ。
 
 
これは一体、どういうことなのか!
 
 
そもそも、尾張大国霊神社の神主を代々務めてきた「久田(クタ)氏」は、天津甕星を祖神としているが、久田氏とは一体何者なのか。
 
 
岐阜県加茂郡久田見村の鴨神社から派遣され、尾張大国霊神社の宮司となった「中島直」が「久田」という姓に改名したとされている。
 
 
ということは、賀茂氏が尾張大国霊神社を乗っ取って、「天津甕星の子孫」を名乗っていることになる。
 
それ故に、海部氏は「鴨族(賀茂氏)」を名乗っていることになる。
 
 
だが、そう単純な話ではないからミステリーなのだ。
 
 
神社の乗っ取りは賀茂氏の常套手段だが、婿入りすることで男系継承を断絶させて家系を乗っ取るケースもある。
 
大和のニギハヤヒ政権もそのようにして乗っ取られたのだ。
 
 
その場合、賀茂氏である中島連は確かに「天津甕星の子孫」となるが、『先代旧事本紀』に「天背男命(天津甕星)は尾張中嶋海部直らの祖」と記されている。
 
 
尾張氏と海部氏の祖が「天津甕星」であることは分かっていて、系図は次の通りだが……
 
 
(鬼将軍制作画像)
 
尾張大国霊神社の宮司によると、尾張氏祖の天背男命(天津甕星)を祖神とし、その子孫が中島直と海部直に分家し、中島直は久田氏と名乗り、南北朝以降は野々部氏と改め、明治維新まで代々神主を務めたという。
 
『先代旧事本紀』の記述と一致している。
 
 
だが、私は賀茂氏である中嶋(中島)が、血統的に「尾張氏」を祖としているのが納得できない。
 
 
尾張氏が久田を名乗った理由は、「久田見村」を出身としているからだと思うが、「久田」という言葉に特別な意味があったようだ。
 
 
岐阜県には「天津甕星」を祀る神社が6社あるが、その内の3社が加茂郡にあり、「久田見神明神社」という神社がある。
 
つまり、「天津甕星=久田見神明神」ということになる。
 
 
そのルーツが諏訪大社の「御佐久田(ミシャクジ)」であることは間違いなく、実際に御佐久田と尾張大国霊神(天津甕星)は同一神だという説がある。
 
 
(2011/10/12 in 諏訪大社「御佐久田」社殿)
 
 
そうすると、諏訪大社に御佐久田(天津甕星)を祀ったのは「中島直」だった可能性が高い。
 
 
私の持論では中島直は確実に「賀茂氏」だが、彼らは「信濃(長野)→美濃(岐阜)→尾張(愛知)」へと南下してきたのだ。
 
 
これは、越国(新潟)に派遣された「タカクラジ一族(尾張氏)」が愛知県に移動したルートと同じである。
 
 
よく考えると、もともと尾張氏は、賀茂氏の発祥地である「葛城」に住んでいたではないか。
 
もしかすると、尾張氏の祖である「天津甕星」自身が、賀茂氏の娘と婚姻関係があったのかも知れない。
 
 
それを知る手掛かりは、『先代旧事本紀』の「尾張氏系図」しかない。
 
 
 
天村雲命(天津甕星)の妻は「阿俾良依姫(アイラヨリヒメ)」とされている。
 
アイラヨリヒメを調べても出自が不明だが、娘の名前が「角屋姫」で、別名が「葛木出石姫」となっている。
 
スサノオやタケツノミ(賀茂氏の祖)を象徴する「角」と、天津甕星を象徴する「石」が入っている。
 
 
そして「葛木」というからには、アイラヨリヒメも葛城出身だと考えるのが自然である。
 
ということは、アイラヨリヒメは「賀茂氏」だった可能性が高い。
 
しかも、男子には「天」の付く名前が多いことから、やはり天村雲命は「天津甕星」なのだ。
 
 
神武天皇の即位後、賀茂氏は忌部氏の中で最高権威を持つ一族となったが、話の舞台を出雲の国譲りの時代に戻して考察すると、何となく見えてくるものがある。
 
 
若くしてニギハヤヒ直系の皇位継承者となった「天津甕星」が、賀茂氏の娘を后にしたとなると、真の闇帝王の首領「タカミムスビ」にとって最大の脅威となる。
 
 
まさに「天にいる悪神」であり、出雲国に侵攻する前に抹殺しておきたい存在だったはずだが、出雲国への侵攻が先に行われ、イワレヒコの婿入りの交渉も成立したため、天津甕星抹殺計画が中止となったのだ。
 
 
その代わり、神武政権のもとで大和国から追放する作戦に変更となり、最終的に天津甕星率いる尾張氏は愛知県を拠点としたのだ。
 
 
だが、最後まで朝廷に従わなかった天津甕星は、東の果ての常陸国(茨城)まで追いやられたということである。
 
そう考えると、尾張氏は出雲族と賀茂氏の混血であり、賀茂氏である中島連が尾張氏であることにも納得できる。
 
ただ、賀茂氏といっても分家であり、「裏天皇」や「ヤタガラス」とは全く別系統として考える必要がある。
 
 
むしろ、現在の天皇家とは異なる系譜の「天皇家」と言っても過言ではない。
 
 
初代天皇 ニギハヤヒ→第2代天皇 天津甕星
 
この2代で終焉を迎えた出雲系の天皇の系譜である。
 
 
タカクラジが尾張氏の祖とされているが、厳密にはタカクラジの子「天津甕星」が尾張氏の祖で、天津甕星が賀茂氏の娘を皇后に迎え、その子孫を「尾張氏」というのだ。
 
 
故に、尾張氏は賀茂氏でもあり、真の皇統なのだ。
 
そこから海部氏が分家し、本家は「中島連」となり、中島直が「久田(クタ)」と改名し、後に「ヒサダ」という読み方が主流となった。
 
 
 
 
前述の通り、「久田」という名称のルーツは「御佐久田」で、天津甕星と同一神である。
 
御佐久田(ミシャクジ)は完全に当て字だが、ミシャクジは「石神」を意味し、おそらく縄文信仰と習合したものだと思われる。
 
 
では、なぜ天津甕星が石神と習合したのか。
 
天津甕星が「石」や「岩」を象徴する神でもあるからだろう。
 
 
『日本書紀』によると、フツヌシとタケミカヅチが「タケハヅチ」を派遣し、天津甕星を服従させたとのことだった。
 
天津甕星を祀る大甕神社の社殿によると、その舞台が常陸国(茨城)だったことが分かる。
 
 
常陸国を治めていた天津甕星のもとにタケハヅチの軍勢が攻め込み、天津甕星が天にも届く大岩に化身し、タケハヅチが蹴り飛ばすと太平洋にまで砕け飛んだという。
 
そして、その大岩の残った根元に「天津甕星の魂」を封印したと伝えられている。
 
 
服従させたというより抹殺したという印象を受けるが、その封印された岩山が大甕神社の「宿魂石」である。
 
 
タケハヅチはフツヌシの子で「忌部氏」なので、呪術によって天津甕星を封印したのだろう。
 
 
この事からも、天津甕星は「石」を象徴する神でもあるが、太平洋に飛び散った石の1つは神磯となり、1つは石神(現・那珂郡東海村 石神社)、石塚(現・東茨城郡城里町 風隼神社)、石井(現・笠間市 石井神社)になったとされる。
 
 
石神は「シャクジ」と読むが、天津甕星を象徴しているのだ。
 
もともとは縄文時代の土着信仰だが、天津甕星と習合して「御佐久田」となったのだろう。
 
 
天津甕星の祖先である「フツ(スサノオの父)」「フツシ(スサノオ)」「フル(ニギハヤヒ)」を祀る石上神宮も、「イシガミ」と読めば「石神」に通じる。
 
 
 
ついでに書いておくと、天津甕星は『日本書紀』にしか登場しないが、「久延毘古(クエビコ)」という名前で『古事記』に登場するという説がある。
 
クエヒコは悪神とはされておらず、山田のそほど(案山子)だったとされている。
 
 
天津甕星と同一神(同一人物)とは思えないが、案山子(かかし)の語源は「蛇姿(かかし)」とされているので、確かに天津甕星と共通点はある。
 
 
冒頭の船場俊昭氏によると、古今集の「足引の山田のそほづさえ我をほしといふ嬉ばしきこと」の、「そほづ」が「ほし」の掛詞になっていて、「山田のそほど」は「星」と結ばれる語だという。
 
 
本当に「クエビコ=天津甕星」なのか……。
 
 
案山子は十字架に笠(ピラミッド)で「イエス・キリスト」を象徴していることからも、確かに天津甕星との関連性は否定できない。
 
 
久田氏の一部は長崎に移住したが、天津甕星はキリシタンに信仰されていたという話もある。
 
 
 
天津甕星は三輪山麓の大神神社で生まれたと考えられるが、大神神社の末社に久延彦神社」がある。
 
 
大神神社は三輪山が御神体とされているが、拝殿から三輪山が拝めるのは「久延彦神社」だけらしい。
 
 
三輪山が御神体というのは、「三輪山=ニギハヤヒ」という意味である。
 
そう考えると、久延毘古は「特別な存在」ということになり、天津甕星が天皇だったという話と重なる。
 
 
主祭神の「久延毘古」は、天津甕星の強力な神力を封じるために、「久延毘古」や「天香香背男」などの神名に分解されたとも言われている。
 
 
やはり、久延毘古「天津甕星」なのだろうか。
 
 
久延毘古の「久」と田んぼの「田」で「久田」という名称になったのだろうか。
 
 
 
 

鎮魂の際に用いる祝詞で、出口王仁三郎が作った「神文」というものがある。

曾富戸の神、またの御名は、久延毘古の神、是の斎庭に仕へ奉れる。
正しき信人等に、御霊幸へまして、各自各自の御魂に、勝れたる神御魂懸らせ玉ひて、今日が日まで知らず知らずに犯せる罪穢過ちを見直し、聞き直し、怠りあるを許させ給はむことを、国の大御祖の大前に詔らせ玉へ』
 
 
明らかに久延毘古を特別視して、スサノオと同一神格と見なしている。
 
 
大本のwebサイトにも次のように書かれている↓
やはり、天津甕星(久延毘古)はスサノオ継承者にして、「艮の金神」であると同時に「贖罪神」でもあるのだ。
 
 
それは同時に、私の先祖は「案山子」だったということになるが、以前、こんな記事を書いた↓
 
 

 

 




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