そう思わせてくれる一方で、
それに傾倒した発信をする違和感
を僕に同時にもたらしたアドラー心理学。
(詳細は前回の記事にて)
違和感があるがゆえに、
真正面から
教えて~~~~:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
と飛び込むことのできないもどかしさ・・・。
近づきたいんだけど近づきたくない・・・( ´ー`)
でもそれはね、
全部自分の考え方の問題なのでしたσ(^_^;)
その違和感の正体についての
自分なりの答えがとうとうみつかったという、
今回はそこからのお話。
◆◇◆超重要◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その正体ってなんなのよ!!と、
結論をお急ぎの方は、
キーワードは「課題の分離」による「距離感調整力」|あ~びっくりした~~!!!③〈終〉
こちらへどうぞ(*^ー^)ノ
いやいや、ゆっくりと結論に至るまでを
聴いてみようじゃないの( ̄▽ ̄)
という、物好き!?な方は、
このまま読み進めてみてください 笑
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
さて、以前にも
なんらかの「表現」にした瞬間に、
少なくともどこか一部は(多くは大部分が)
削り落とされてしまう。
そんなことを憂いていたと書きましたが、
これはやはり僕の思考のクセなのでしょう。
「嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え」
を読み、
感じたこともそれと似通っていて、
青年
対人関係の「ゴール」はどこにあるのですか?
哲人
結論だけを答えよというのなら、「共同体感覚」です。
〔中略〕
哲人
もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。このように、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。
対人関係の「ゴール」はどこにあるのですか?
哲人
結論だけを答えよというのなら、「共同体感覚」です。
〔中略〕
哲人
もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。このように、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。
(「嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え」より引用)
例えば、このような部分からも察することができるように、
アドラー心理学の目的として設定されている
“共同体感覚”や、
また、その目的へと向かう手段として重要な
(自己や他者からの)“勇気づけ”においては、
ひとり一人が意識をして「できる」のではなく、
無意識で「やっている」ことが重要なのではないか
言いかえるなら、
ひとり一人が言葉としてその状態を知るのではなく、
アドラー心理学を学んだ者から
自然とにじみ出てくる態度や雰囲気に触れることで
感じることが重要なんじゃないの???
と、こんな思いが渦巻き始めました。
・・・・・・・・
ここまでは良いと思うんです。
現在アドラー心理学を教え広めている方々も、
同様の考えをお持ちだと思いますし、
なにより、
“勇気づけ” は 言葉ではなく態度
と、実際にアドラー心理学を学び始めた当初から、
至る所で耳にするからです。
ただ、ここから僕の思考はこのように飛躍していたのです。
(これがまずかった・・・)
“勇気づけ” や “共同体感覚” って、
もしかすると、
言葉にすればするほど逆効果なんじゃないの???
だって知らなくても
無意識で「やっている」(風な)人も
たくさんいるでしょ。
その人たちにはかえって思考のジャマにならない??
(僕がもしそうだったらジャマだもん)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
キーワードは「課題の分離」と「距離感調整力」|あ~びっくりした~~!!!③〈終〉
へつづく。