“いまのわたし”を楽しみながら積み重ねていく | 【東京・吉祥寺】“しなやかに強く” 生きていく(#マルチポテンシャライト #アドラー心理学 #HSP)|たかのかた

【東京・吉祥寺】“しなやかに強く” 生きていく(#マルチポテンシャライト #アドラー心理学 #HSP)|たかのかた

「アドラー心理学」を軸に、誰もが自分らしさを取り戻し、また特に僕自身がそうでもあることから、HSP(人一倍敏感な人)の方が、自分自身の肯定的な言葉からセルフイメージを育てていき、“しなやかに強く” 生きていくためのお手伝いをしています。

こんにちは。山田 鷹です。


何日かぶりの更新です。


前回の記事を書いた後、

次をどんな風に書こうか考えていたら
今日になっていました(^▽^;)



それと、やっぱり今まで

長らく黙りこくっていたこともあり、


二日連続での発信で、

自分の中の受信と発信のバランスが
早くも崩れてしまい、


日常生活リズムの乱れが

想定していたよりも大きかったので、


早めの休息…

能動的な情報摂取をせっせとしておりました。



その甲斐あって無事回復( ̄▽+ ̄*)


ブログと自分との距離感が
少しつかめてきた気がするので、

あらためてここからまた。


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さて、


今日は「言葉」(やその集合体としての「意見」)について

僕が日頃抱いている思い、というか

違和感というか

なんだかモヤモヤっとしている感じのものを

文章にしてみようと思います。


もしかすると人によっては、

イライラしてしまうような部類の文章になるかもしれないので、

お気をつけください(;^_^A


そして、読み進めていただける場合でも、

ゆるやかにお付き合いいただけるといいのかなと思います。


長いですよ~ヾ( ´ー`)


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「なにをどんな風に書こうか(発信しようか)?」

を考えていると、


「どうして今まで書かなかったのか(発信しなかったのか)?」


という疑問にたどり着きました。




素朴でありながらも、


視界の外から飛んできたボールが

突如として顔面に衝撃をもたらすような、

(実際僕は、高校時代に三度ほど、
左頬から鼻にかけての狭い範囲に、

野球の硬球による文字通りの衝撃を経験し、そのうち一度、

鼻骨を骨折したこともあります。

いやぁ、あれは大変だった…( ̄_ ̄ i)

ほっぺたが腫れ上がって
「宍戸錠か!」と何度イジられたことか…





…違う違う、今はそんな話をしているのではないのでした。笑)




そんな感覚に襲われ、


この疑問に向き合うことが、


必要不可欠なことのように感じられてきました。




「どうして今まで書かなかったのか(発信しなかったのか)?」





“いまのわたし”の答えとして

出てきたものは二つ





一つ目は、

(その人なりの)「正解」という強力な武器で切りつけてくる
人々の中に

物心ついた頃から身を置いていたことで、

(アドラー心理学を学んだ今となっては、
自分が周りをそんな人ばかりと決めつけていたんだね、
と思い直しましたが)




(周囲の人が思う)「不正解」を過剰に恐れ、

自信を持って、
(無邪気に、と言ってもいいかもしれません)


言葉を発することが徐々にできなくなっていったから、
なのではないかということです。


だから、今まで書かなかった(発信しなかった)



これによるコミュニケーション上の弊害はかなり大きなもので、

言葉を発しないと言いつつも、

全く発しないわけでは当然なく、

やはり何かしら自分を表現しないと気が済まないから、


何か(自分なりの)「不正解」を耳にするにつけ、
その相手の「人格否定」。

自らも(自分なりの)「正解」でズバズバと
相手を切りつけることが生業へと。。。



「議論」というスタンスなど露ほどもなく、

自分のすがりついている心の支えが危うくなる雰囲気を

察するや否や「人格否定」。


必殺「勇気くじき」乱れ打ち爆弾爆弾爆弾  という有様でした。






そして二つ目は、


一つの「言葉」が含む範囲の、

個々人による違いの幅広さを知っていくにつれ、

(例えば「痛みがある」という「言葉」であれば、

その特徴(ズキズキ・ジンジン・ズーンなど)の

違いがあることを想像することは、
比較的容易かなと思いますが、

多くの場合はネガティブな「言葉」として発していると

考えるのではないでしょうか。


でもそれが、筋トレ中の人にとってはどうでしょうか?

または、病気や事故で痛みを感じることが
できなくなってしまった人にとっては?

そのような場合には、「痛みがある」ということは、

トレーニング効果や回復の兆しを見出す

ポジティブな「言葉」として発されていることも

少なくないように思います。)




“その瞬間から”、


あらたなその「言葉」の範囲を知ってしまった“その瞬間から”、


自分がその「言葉」をどのような範囲までのものとして

使っていくのかという基盤がグラついてしまうから。




また、そのように個人的に基盤のグラついている
「言葉」の多くを、

保留の状態のままで自分の中に溜め込んでいくことを、

(自分が)選択したいから、なのではないかということです。




だから、今まで書かなかった(発信しなかった)





これは、そのような保留状態にある「言葉」を含む、

集合体としての僕自身の「意見」にも

当然反映されてしまいます。




保留状態のものが、常時なだれ込んでくるし、

やっとのことで決められたかと思うと、

すぐにまた保留状態へ戻ってしまうことも少なくありません。



うまく伝わってほしい!!

という強すぎる思いが、


このようなあまりに鈍臭い思考を選択させるのでしょう。




だから、



すぐにはなかなか「意見」にできないから、



「意見」にするまでの
アイドリングタイムを許してくれる人との、


表情や間、声のトーンなどを同時に届けることができる
直接でのコミュニケーションしか、


僕は好まなかったのだと気づきました。





当然ながら、

都度都度において、ノンバーバルな情報量の少ない
(ゆえに頼りないと感じてしまっていた)

ブログやSNSなどによる
面と向かわない形のコミュニケーションにおいて

積極的に情報発信を望むわけがなかったのでした。




こんな調子で、

徐々に僕は社会的に口を閉ざしてきたんだろうな、と

思うに至りました。


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何かを感じた時、

それを自分の中だけで留めておくのであれば、

特に明確な「言葉」にする必要は

あまりないのかもしれません。




でも、


それを自分以外の誰かに伝えようとした時には、

「言葉」や「音」、「声」、「絵」、「表情」などの

なんらかの身体「表現」を通す必要が出てくる。



だけど、そのようにしてなんらかの「表現」にした瞬間に、

少なくともどこか一部は(多くは大部分が)

削り落とされてしまう。





僕はいままで、

「言葉」を発するということに関しては、

その削り落とされた部分への、

主観的な不満や嘆きの方に、

強烈にフォーカスを当ててきたのだと思います。


うまくいかないなぁ( ̄ー ̄;。。。やめとこう、と。



でも、削り落とされることなく

なんとか無事に拾い上げられた部分もあるわけだし、


それを“いまのわたし”の、
(その瞬間の)


ひとつの「意見」として、「表現」として、

取り出してあげるのもいいんじゃないか、

と思えるようになってきた。



だからそうやって、



“いまのわたし”



を積み重ねることで、


その質量感(みたいなもの)で、伝えようとする道を
選びなおしてみようかなと思います。



それはまるで、


一曲に対する思い入れが強すぎて、

「これは自分の全部を出し切れていない!!」

と思い悩み、

けっきょく一曲も完成させない

(自称)苦悩のミュージシャンが、



たとえどこか削り落とされてしまっていると

自分が感じるものであっても、

“いまのわたし”としての

シングル曲を一曲ずつコンスタントに完成させ続け、

その集合体としてのアルバムをもって、

その世界観を表現することを選びなおすように。


僕もここから、


“いまのわたし”を積み重ねる道を選びなおそうかな。


その質量感で伝える道をね。


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というわけで、

森に集合!!~子どもはのびのび自然の中で、ママはゆったりハッピー子育てしませんか?~

のブログを書かれている

勇気づけ森のようちえんELM園長・勇気づけリーダー 齋藤洋子さんと話していた、


来年の僕の目標は、

“いまのわたし”を楽しみながら積み重ねていく

に、しようと思います!!




最後までお付き合いいただきありがとうございました。