酒場人生覚え書き -7ページ目

こころ絵 『十大弟子』 ◆夢◆

ゆ め

 

沢庵禅師の辞世は『』だったそうです。


大書した『』の横に

是亦夢 非亦夢 弥勒夢観音亦夢 仏云応作如是観矣

(是もまた夢、非もまた夢、弥勒もまた夢、観音もまた夢、仏云く、正に是〈かく〉のごとき観を作〈な〉すべし)と書き遷化したといわれます。

 

私たちの観る『』には理想や、希望や空想みたいな非現実的ものから、実感そのもののような夢などがあります。

 

心理学的にも、宗教的にも『』の分析はされていますが、沢庵禅師が

残した夢には、単に無常のはかなさを嘆くものではありません。


』の横に書かれた四句にみるように、この世にある一切のものを、

仮相なることの真理を悟った境地から、悟りの世界に至れば、もはやはかない夢をみることもなく、現象の仮相の世界に惑わされ、酔いしれることもないという安らかな心境だったのでしょうね。


醒めない『』はありません。

そして跡形もなく消えていきます。

たった一度の人生もそれに似て『』のようなものなのですね。
だからこそ真剣に生きなければいけないのです。


富も栄華も限りを尽くした、豊臣秀吉の辞世は「露と落ち 露と消え

にしが身 かな 浪花のことは夢の又夢」だったといわれますが、

こちらの『』には大悟することなく死にゆく者のはかなさを感じます。

 


                酒場人生覚え書き

 

 

              版画は『こころ絵』のために創作してくれた友人の柏木智也氏の作品です。

 

                 【十大弟子のこと】

 

                阿難陀(あなんだ)


サンスクリット語でアーナンダといいますが、意味は慶喜・歓喜だといいます。
釈迦の甥っ子で誕生した時の容姿の美しさに、人々が歓喜したためにこ

の名前になったと言われています。

釈迦に25年仕えたことから、釈迦の説法をもっとも多く聞いたことにより

多聞第一」と称されました。

釈迦の入滅後は教典をまとめた中心人物であったと言われています。

 

■柏木智也氏が『こころ絵』の主旨に興味を持たれて、精魂込めて彫り上げてくれた『十大弟子』の版画に禅語を添えて描いてきました。

版画家として世に出ることを生涯の“夢”としている柏木智也君に沢庵禅師が好きだったという『夢』をこのシリーズ最後の言葉として贈りたいと思います。

 

 

 

 

             

こころ絵『十大弟子』◆空◆

くう

 

感じるもの、想うもの、更には知ったり判断したりする精神の 働きなどすべてのものには実体が無いということ、それが「」だといいます。


般若心経の中に出てくる『色即是空 空即是色』はそれを教えてくれているのです。

」とは実体のないものと本当に認識できれば、苦しみの元凶である煩悩や妄想などは自然に消失されます。

それが禅語でいう大愚・大拙ということで、 いつも心を安らかにし煩悩などに振り回されず、無我・無心の状態になることです。


・・・・との教義は頭で理解できても、それを実生活のなかでの心構えとして生きていくことのなんと難しい事でしょう(苦笑)。

『十大弟子』シリーズの終わりに近くなったいま取り上げてみました。

 


                        酒場人生覚え書き

 

 

            版画は『こころ絵』のために創作してくれた友人の柏木智也氏の作品です。

                 

               【十大弟子のこと】


                羅喉羅(らごら)

釈迦の実の息子で、釈迦の教えや戒めを厳しく綿密に怠ることなく精進し、解脱したことから、「密行第一」と称せられました。

釈迦の故郷で出家して最初の沙弥(少年僧)となったのですが、そこから、日本では寺院の子弟のことを仏教用語で 羅子(らご)と言います。

 

 

 

こころ絵 『十大弟子』 ◆知足◆

知足

 ちそく

 

「“知足”のものは貧しいといえども富めり“不知足”のものは富めりといえども貧しい」という釈尊の教えを釈迦十大弟子の版画に書き添えました。

 

足る”ことを知る人は心は穏やかであり、足ることを知らない人は心はいつも乱れている・・・・という意味です。

欲望を無限にふくらませ、華美な生活を求めて生きているような現代人にとって、すごく大切な言葉ではないでしょうか。

 

日本の古い言葉に「起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半」というのがあります。

“どんなに立派で広大な家に住もうとも、立って必要な面積は畳半畳であり、寝て必要なのは畳一畳もあれば足りる。また、どんなに栄華を極めても一人の人間が一日に食す米は、たかだか二合半に過ぎない”という『知足』(足るを知る)を教えている言葉です。

これは“あるものでがまんする”という禁欲や節約精神を言うのではなく“今”に喜びや幸福を積極的に見いだすことだと考えたいですね。


昔から人はややもすれば欲が深く、それがもとになって人を妬んだり、より多くのものをほしがったりするものです。

それこそが心が貧しくなる原因となり、ついには不幸を背負うことになるのでしょう。
いまの時代ようにモノが豊かであればあるほど『知足』の心を持つことは難しいのでしょうが、こころ豊かに生きたいのなら“取りあえず今日食べるものがあって、今夜眠る場所がある。それでじゅうぶん幸せではないか”ということを、こころの中で呟いてみることではないでしょうか。


              酒場人生覚え書き

 

       版画は『こころ絵』のために創作してくれた友人の柏木智也氏の作品です。

 

               【十大弟子のこと】

                

                優婆離(うばり)


釈迦族に仕える理髪師でカーストの最下位、奴隷でした。 

階級制度を否定する釈迦により出家した順番に従って、王族出身の阿那律(あなりつ)や阿難陀(あなんだ)の兄弟子とされました。

戒律をとにかく守ったので「持律第一」といわれました。

 

 

 

 

 

こころ絵 『十大弟子』 ◆黙◆

もく

 

』とは普通“だまる・無言”という意味ですが、禅の世界では問われて答えに窮しての“無言”ではありません。

禅者は「語黙動静」といって、語るも黙するも、動くのも静かなるのも分けてはうけとらずに一如(二つであって二つでないもの)として見ます・・・・沈黙でも通じない、 語ってもなお通じないその一点を凝視しなさい・・・・ということは、語ること、黙ること、そのいずれをも超越しなさいと言うことですか。


凡人にはなかなか理解しがたいことですね。


多くの言葉で語っても伝わらないことを「沈黙」をもって真実を伝えることを禅の世界では「黙如 雷」(黙すこと雷のごとし)と言うのだそうですが、 黙っていても伝わることもあれば、黙らなければ伝えられないこともあるのでしょう。

たしかに沈黙に載せて何かを語る事が出来れば、言葉は言葉以上のものになり、表現は比較にならないくらい広がるものなのでしょうね。


また禅語には『一黙価金』と言う言葉もありますが、あれこれ他人のことを噂すれば却って自分の首を締める事になるという戒めでの『』でしょうか。

西洋の諺の“雄弁は銀,沈黙は金”などもその類なのでしょうけど、それにしても禅の思想によく似ています。

だけど“沈黙を語れる人間”には到底なれそうもないな(苦笑)

 


               酒場人生覚え書き

 

    版画は『こころ絵』のために創作してくれた友人の柏木智也氏の作品です             

                

                【十大弟子のこと


                  阿那律(あなりつ)

サンスクリット語でアニルッダ(aniruddhaで如意、無滅、善意などを意味するのだそうです。
 
●釈迦の従弟ということで釈迦族出身だったと思われています。

 

●釈迦族出身という高い身分での出家でしたが、出家後、カースト制 度では下層であるス ードラ出身で調髪師だった優波離(ウパーリ)が、諸国の王子を差し置いて釈迦より先 に出家を許されていたので、阿那律ら諸国の王子たちは先に弟子になった人に礼拝し挨拶しなければならないという儀礼を受け入れ、優波離に礼拝すると釈迦から「よくぞ釈迦族の高慢な心を滅した!」とほめられたといいます。  


●『天眼第一』といわれた阿那津は、コーサラ国の舎衛城にあった、 祇園精舎での釈迦の説法中に眠ってしまい、釈迦より叱責されると、不眠不休の誓いをたて、常坐不臥の修行をしました。

 これには釈迦仏も心配され、眠ってもよいと諭されたが、彼はその誓いを全うしついに失明 してしまうのです。
しかしその失明により天眼を得たとされています。
 釈迦仏が最後の布教の旅にも同行し、釈迦仏入滅において慟哭し
悲嘆する弟子たちを慰め励ましたのがこの阿那律だったと言われています。

 

 

 

 

こころ絵 『十大弟子』 ◆阿吽◆

阿吽

あうん
 

梵字の最初の一字が“”で、最後の“”ですが、声に出すと“”は口を開いて出し“”は口を閉じて出すさなければいえません。

密教ではこの二字を、万物の初めと終わりを象徴するものとしているのだそうです。
すなわち悟りを求める菩薩心が“”であり、そこに到達する涅槃のこと“”としているのです。


また“”は万物の根源であり、一切が帰着する知徳が“”ですか

ら、そこからものごとの始まりと終わりのことをあらわしています。

私たちが『阿吽の呼吸』などと使うのは、その間に何も邪魔が入らず説明もいらない「ひとつになった呼吸」のことで、スポーツのペアマッチなどはまさにこの呼吸が必要なのでしょうね。


仁王様や狛犬なども、それが一対になっていますが、夫婦喧嘩もかたや口を開けて吼えるのなら、こちらは口を閉じてダンマリで通すのが良いのかも知れません。

もっともこれは『阿吽の呼吸』にはほど遠いですがね。

 

 …………………  酒場人生覚え書き

 

      版画は『こころ絵』のために創作してくれた友人の柏木智也氏の作品です。

 

                【十大弟子のこと

 
                 迦旃延 かせんねん

 

●『論議第一』の迦旃延といわれます。

 

●子供の頃から聡明で、一度聞いた講義の内容は忘れず良く理解したと言われます。お釈迦様の教えを、いかに良く理解していたかを伝える話が多く残されているそうです。
迦旃延の兄も優秀で、父親は兄の嫉妬を心配して、迦旃延をア
ジタ仙人に預けます。

アジタ仙人は、お釈迦様はいずれは仏陀となる、と予言をした人といわれています。
ある時、難解な文をどうしても解明できず、お釈迦様に教えを請
うことなり、これがきっかけで弟子となったのだそうです。

 

 

             
 

こころ絵 『十大弟子』 ◆襤褸◆

襤褸

 らんる

 

襤褸」(ランル)とは、つぎはぎだらけの衣服のことで、“ボロ”のことです。

 ♪ぼろは着てても こころの錦 どんなな花より きれいだぜ・・・・

なんて歌が流行ったことがありますが、『襤褸(ボロ)を纏(まと)えど心は錦』という言葉は、たとえ見た目はみすぼらしくても、胸に潜めた思いまでは落ちぶれていない・・・・という矜持と心意気を謳った言葉で、ずーっと昔から言い古されてきました。

 

この「襤褸」は良寛さんの詩で有名です。

襤褸又襤褸 蘭留是生涯

・・・ 破れ果てた衣、ぼろ衣は自分の生涯のよう。
食歳乞路邉 家実委藁莢

・・・ 食は乞食をして間に合わせ、家はじつに雑草だらけ。
看月終夜嘯 迷花言不帰

・・・ 月を見ては夜通し詩を口ずさみ、花に迷うて家にも帰らず。
自一出保社 錯為箇駑駘

・・・ ひとたび昔の寺を出てからは、あやまってこんな愚者となる。

 

何ももたない、執着しない境地がここあります。
寺とは無縁な生き方をしながらも、自分のあるがままを生き、風流な心の豊かさのなかで生涯を終えた良寛さんに、現代人は学ぶべきものがあるような気がします。

 

生活のレベルが少し下がっても、心の豊かさがもう一段だけ向上れば失うものは何もない。
余分な富を持つと、余分なものしか購入しない。
魂が必要としているものを購入するのに、金銭など必要ないもの
ある              ヘンリー・D・ソロー(アメリカの作家・思想家)

 

とは言え俗人なるが故、何も執着しないこころを持ちつづけることは大変だな。
とりあえず、不必要な物を捨てる事をしてみようかな・・・・ついでに心に付いた不純物も。

            酒場人生覚え書き

            版画は『こころ絵』のために創作してくれた友人の柏木智也氏の作品です。

 

                 【十大弟子のこと

 

                  富楼那(ふるな)
 
「説法第一」と謂われている富楼那は十大弟子中で最古参で、大勢
いた弟子達の中でも、弁舌にすぐれていたとされていました。


ほとんど知られていないその生涯ですが、釈迦とは生年月が同じだったといいます。
一説には富楼那は貿易商を営み巨万の富を得ていたのに、彼の商
船に乗り合わせた商人から釈迦の説法を聞き、即座に出家を決め自身の財産を整理し釈迦の元へ行き弟子になったのだそうです。


後に悟りを得て各地に赴き、よく説伏の実を挙げ、99000人の人々を弟子にしたといいます。

富楼那の説法は教えを求めてやってくる人へ、対機説法(教えをきく人の能力・素質にふさわしく法を説くこと)の釈迦のように自由自在の語り口で分かりやすく説いたことにより多数の人を教下し慕われたと謂われます。

 

 

 

 

             

こころ絵 『十大弟子』 ◆両忘◆

両忘

りょうぼう

 

両忘(りょうぼう)は二つのことを忘れることを意味しますが、世の中には相対することは沢山あります。

是と非、善と悪、愛と憎、美と醜、生と死、貧と富、苦と楽など数え上げればきりがありません。

そのような“二元的な考え方をやめなさい”ということを諭す言葉がこの両忘です。


でも日常生活において“あれかこれか”と自問自答しながら生きていくのが人間ですから、なかなか難しいことです。

時としてのっぴきならない事態に直面することもありますますし、是とすべきか非とすべきか、進むべきか退くべきか、進退窮まる事態は多いですよね。

その局面において判断を誤ったら、生存の根幹をも揺がしかねない状況を引き起こすことだってあるでしょう。

ただ、いまを生きているのに「死んだらどうしょう」と考えるようなことはやめ、ひたすら生きる事に徹すると、死を忘れる事ができるのではないでしょうか。

さらに突き詰めて“死ぬことも、生きていることも、両方とも忘れる”と、心に静寂が得られますよという教えです。


「幸せになりたい・・・・」と誰もが願います。


でも、そう願っているあなたは本当に不幸なのでしょうか?

賢者は言います

不幸の数を数えるよりも、幸せの数を数えなさい。きっと幸せな気分になれるはずです

 


             酒場人生覚え書き

 

 

             版画は『こころ絵』のために創作してくれた友人の柏木智也氏の作品です。

 

                【十大弟子のこと】


               「須菩提(しゅぼだい)」
 
須菩提は、叔父の“須達多長者”による祇園精舎が完成して奉献する
記念の日に、 釈迦の説法を聞き出家したといわれます。


彼はもとは粗暴で短気な性格だったのですが、修業の後は外道から非難や中傷、 迫害を受けても決して言い争うことなく円満柔和を心がけたために、弟子中で“無諍第一”といわれ、また多くの人々から尊敬せられ限りなく供養を受けたので“被供養第一”ともいわれています。

 

 

 

 

 


              

 

こころ絵 『十大弟子』 ◆喝◆

かつ

 

』は本来、禅宗の大声で叱り付ける“叱咤の声”で、相手が言い訳や反論を差しはさむ余地を与えないために用いられた言葉です。

坐禅で瞑想が妄想になりそうなとき“ガツン!”と叱りつける時や、迷いを断ち切らせるためなどに使われますが、大喝一声は音の迫力で「ごちゃごちゃ考えてないでさっさとやれ!!」とこころを蹴っ飛ばす感じですかね。


理屈を振り回しても何も解決されず、ますます混沌とするばかりの時に、自分に向かって「喝!!」と言い放ち、それで自分を見つめ直すことが大事なのかもしれません。


十の禅語を十大弟子の版画に書き添えました。

今日はその一番目の作品ですが、次回からの作品に自分に向かって

喝!!」でもあります。


             酒場人生覚え書き

 

           版画は『こころ絵』のために創作してくれた友人の柏木智也氏の作品です。

 

                 【十大弟子のこと

                     

              摩訶迦葉(まかかしょう)
 

迦葉は執着がなく、頭陀第一とされました。

釈迦の信頼が厚く、釈迦滅後の教団の指導者となり、王舎城で第一回結集を行ないました。

 釈迦が霊鷲山で弟子に説法しようとした時、梵王が金波羅華(こんぴらげ)を献じました。釈迦は一言もいわずその花をひねっただけなので、弟子たちはその意を解せなかったのですが、迦葉だけがにっこりと笑ったのです

それを見て釈迦は、仏法のすべてを迦葉に授けたと語ったといとます
 

禅語の拈華微笑は摩訶迦葉が釈迦から奥義を授けられたという故事を示すことばで す。

 

 

 

 

 


 

こころ絵 『十大弟子』 ◆一期一会◆

一期一会

 いちごいちえ

 

今日の素晴らしい出会いも、この一回こっきりかもしれない、もう一生会えないかも知れないと思って接するのが「一期一会」です。

この出会いは二度とないと思えば、出会いを大切に心からもてなしたいと言うこころになるのです。


たとえ同じ人に再び会えたとしても、同じシチュエーションや同じ関係、同じ心境で会えることなどないですものね。

だから厳密には毎日が「一期一会」なのです。

人とだけでなく、今日の自分との出会いとか、今日の景色、今日という日との出会いも置き換えることが出来ます。


人との出会いというのはこのくらい精神を集中して丁寧に、大切に誠意で接すると実は日常でも喜びと充実感が充ちてくるから不思議です。

茶道から出た人生の名訓ですが、出会いは只一度きりという刹那的な意味でなく、今日の出会いの大切さ、今という時にめぐり合ったという因縁を大切にする心なのですね。


毎日顔を付き合わせる夫婦でも、親と子も、互いに「おはよう」と言葉を交わすその時も「一期一会」なのですから、前日までの夫婦間・親子間の葛藤は別にして・・・・ですね。

               
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           版画は『こころ絵』のために創作してくれた友人の柏木智也氏の作品です。

 

                 【十大弟子のこと


               摩訶目連(まかもくれん)

神通第一といわれた目連は後に証果(悟り)を得て、長老といわれる

上足の弟子に数えられ、各地に赴き釈迦の教下を扶助しました。  
彼は神通によって釈迦の説法を邪魔する鬼神や竜を降伏させたり、

異端者や外道を追放したため、多く恨みをかったこともあり、逆に迫害

される事も多かったといいますが、のちに外道に殺されて業を滅したと

いわれています。
   
逸話として今日の≪盂蘭盆会≫の起源は目連に始まるとされていま

す。
目連がある日、先に亡くなった実母が天上界に生まれ変わっているか

を確認すべく、母の居場所を天眼で観察したところ、母は天上界どころ

か餓鬼界に堕し地獄のような逆さ吊りの責め苦に遭っていたのです。

驚いて母を救うために供物を捧げたところ供物は炎を上げて燃え尽き

てしまい、困り果てた目連は釈迦に相談したところ、亡者救済の教えを

目連に伝授し、目連は教えに従って法を施すと、たちまちのうちに母親

は地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りな がら昇天し、母を救った

と説かれています。

   
※民間伝承の世界では、現在行われる盆踊りは目連の母親が天へ昇

 る姿を象形したものであるともいわれています。

 

 

 

 

 

こころ絵『十大弟子』◆一心◆

一心

いっしん

 

人間のこころは、コロコロと変わるから“こころ”と言われるますが、まことにあてにならないもの、頼りにならないものなのかもしれません。

日頃は温厚な人がいきなり人柄が変わったりします。

とくに天変地異の時など、隠されていた人間の姿が醜くあらわれてきたりするといいます。

この悲しい人間の姿を、親鸞聖人は『さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし』と言いきりますが、人間の持つ本性を鋭く見通しているのではないでしょうか。

 

そう考えると人間同士で社会を構成し、こころが繋がっているつもりであっても、実はそれだけでは、本当の人間社会を作っていくことはできない言えます。


そういった自分の都合だけでコロコロと変わってしまう“こころ”を頼りにせず『仏心とは、大慈悲これなり』 (観無量寿経より) のなかにこそ本当の人間としての生き方があると思います。

人に信頼され道を踏み外さず生きるのも、醜さをさらけ出して生きるのも、すべてのことは“こころ”からはじまります。


そう言い聞かせながら自戒の“こころ”で描きました。

 

            酒場人生覚え書き

 

            版画は友人の柏木智也氏の作品です。


                【十大弟子のこと】


               舎利弗」(しゃりほつ)

 「舎利弗」はサンスクリット語でシャーリプトラというのだそうです。
シャーリーは母親の名前で「鷺」を意味し、 プトラは「子供」を意味

るので、漢訳では舎利子とも表されることもあるといいます。

つまり直訳すると「鷺家の子」という意味です。


● 仏説の真意をよく理解したので『智慧第一』と称されました。  
  この舎利弗と目連を特に釈迦の二大弟子と呼びます。
● マガダ国の出身で裕福なバラモンの家に生まれました。
  長じて釈迦の弟子のアッサジと出会い、彼を通じて釈迦の教えの

一部を聞いたとたんに、悟りの最初の段階に達したのだそうです。
● 釈尊の説法が正しいことを証明するために舎利弗・目連が先に

入滅して成仏の実相を示したと言われます。

 

 

業縁:「業」とは行為、「縁」とは間接的な原因で人間がその全貌を知る術はない。
自分で理解できる因果関係が必然と映るのに対して、縁はただ偶然としか
いいよう

のない因果関係である。人の行為はこうした偶然によって左右される。
                             「社会をつくる仏教」より