続・続 人間機雷 337
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (10)
これだけの強面の連中に囲まれてなお微塵も動揺しない秀敏に、不貞不貞しさを感じ取ったのだろう、その場の雰囲気が険悪さを帯びて張りつめた。
成り行きを見守っていた他の男達が、秀敏を取り囲むように詰め寄った。
その時である。
小津組の屋敷中からバラバラと駈けだしてきた。みな百足紋の法被を着ている小津組の若衆達である。これまた殺気だっている。
弔問に来てくれた客人や添え人に、万一にも悶着があったら小津組の恥である。どうケリをつけるにしてもおのれらの身体を張って始末をつけなければならない。
「どうぞあとは私どもにお任せ下さい」と、取り囲んだ男達と大井の間に立ちはだかった。
その時である。やや遅れて飛び出してきた一人の男が、素っ頓狂とも言える声で叫んだ。
「大井さん!大井さんじゃないですか」
「やあ、岡本さんか。この度は親分さんがとんだことでした。線香もあげないままに門前をお騒がせして申し訳ない」
「大井さん、よくおいで下さいました。小津の親分もさぞ喜んで下さると思います。どうぞ霊前にお通り下さい」
「こちらの方は私どものたいせつな客人です。こちらの配慮が行き届かずご心配お掛けしました。どうぞお引き取りをお願いします」と岡本は用心棒達に頭を下げると、百足紋の法被を着た舎弟達に「馬鹿野郎!テメエ達もがん首揃えてなに意気込んでんだ。なかに入って尾島さんの指図を受けねえか」と押し殺した声で指図した。
この岡本哲也についてはすでに述べたが、昭和26年に大井秀敏が横浜野毛に本拠を構える関東白神一家五代目木村京介の名代として、小津組を再興し五代目を襲名した小津政吉に祝儀を届けたときからの付き合いである。
浅草小津組の舎弟頭のような立場にいながらにして、至誠館の研修生として籍を置いたのは翌年のことである。
岡本拓也は戦前は弱冠19歳にして軍国少年団の親玉『菊水挺身隊』の隊長をしていた。
その彼が日本の敗戦が色濃くなったころ、『菊水挺身隊』の後ろ盾だった嶌田大佐の勧めによって、戦後の日本の国体護持という目的のもとに、小笠原月心が各界の人間を集めて主宰していた『護国誠心懇話会』の構成員になったという奇しき縁もある。
終戦の混乱のなかで“懇話会”の中核から離れ、軍属として「登戸研究所・秘密戦資材研究室」にいた彼は、戦争犯罪人としての捕縛を逃れるため、他の研究員と同様に混乱きわまる巷にまぎれ込んだ。
その中で知り合ったのが、当時、浅草明神一家の客分であった尾島義雄だった。
尾島義男は海兵66期出身の海軍青年将校出身でありながら、旅の途中で知り合った小津政吉という博徒が、江戸末期からの名跡“小津組”を再興するときめたとき、五分の兄弟分として、再興のために身命を捧げると誓った変わり種である事はすでに述べた。
尾島良雄が浅草の明神一家の縄張りに進出をもくろむ、渋谷を根城とする三国人との抗争、俗に言う“浅草戦争”のとき、義憤に駆られて参集した若者のなかに岡本哲也はいた。
日本刀や猟銃を持った三国人に囲まれながら、凄まじい働きをしていた岡本が尾島の目にとまり、抗争後は尾島に勧められるまま明神一家の食客となっていた。
明神一家が親戚筋に当たる小津組の再興に、肩入れをすると決まったとき、尾島は岡本を連れて小津組に宿替えをした。
大井秀敏が横浜白神一家の木村京介の使いとして小津組に来たのはそんな時であったのだ。小津政吉は数年前に、渋谷での三国人殺害事件の下手人として官憲に追われていた旅の途中で白神一家に草鞋を脱いだことがあり、復員したばかりの大井秀敏が、横浜・野毛の屋台で諍いを起こし、身を隠させてくれた関東白神一家に庇護されるような形で身を寄せていた大井秀敏と同宿となったことがある。行く末に悩んでいた大井が、任侠の世界に身を沈めひと花咲かせてやろうかとも考えていた気持ちを察したのか、無口だった政吉がこの稼業の掟や盃ごと、自分の修業時代の事、任俠道の事などを話してくれたのだ。
白神一家代貸の木村京介の不器用だが、情を感じる男気にも通じるところを感じ、「この渡世で生きるならこのような人になりたい」とこころ秘かに思ったことが、白神一家へのゲソづけのきっかけとなったのだ。
続
次回6月24日
続・続 人間機雷 336
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (9)
「いまは世帯もちいせえが、いまに浅草一帯どころではねえ、東京に、いんや関東に小津組在りってところまで上り詰めてみせる。それがオレの夢だ。なかには“片端もんの渡世人になにが出来るものか”と陰口をたたいているヤツラもいるらしいが、オレが戦争で失った左手に代わってあまりあるお前等がいるかぎり、百足の代紋にかけても微塵も後にはひかねえし、どんな連中にもなめた真似はさせねえ」
酒杯を重ねながら訥々として語る小津には、口元にかすかな笑みを浮かべても、眼は凄味を帯び、80年を越えた名跡を継ぐ者としての決意と激情があったものだ。
「笑うじゃあネエか、とっくに吹っ飛んで支那大陸の塵になっちまった左手が、いまでも泣きをするみてえにシクシクしやがる。おかしな話だろ。義足の指先が痒いから掻いてくれっていう傷痍軍人の話を聞いたことがあるが、戦争で失った手足じゃなくて魂がそうさせているんだろうな。だからオレはその魂を呼び戻すためにも、この道に命を賭けてやる」
その時の言葉を思い出しただけでも、大井秀敏のこころが熱くなってきた。
このごった返しは弔問客・・・・それも名だたる親分衆に違いない。
甲州の山寺から取るものも取りあえず、駆けつけてきたものの、秀敏はひどく場違いなところに来てしまったような気がした。
小津組の組長小津政吉が惨殺され、その下手人も挙がっていないのだ、慌ただしさの中に殺気めいたものが漂い、親分衆の付き人達の周囲への目配りも異常に鋭い。
その黒ずくめの人だかりの中を通り抜けて、小津組の玄関口に立つにはあまりにも不似合いな薄い水色の背広を着ている。
これは菅井組に身を寄せることになった時、社長の菅井欽一が“オレの気持ちだ”と、愚連隊御用達のような洋服店、伊勢佐木町“ロンジン”で作らせた春物の一着だった。
雲峰寺ではもっぱら作務衣で過ごしているが、帰京にさいして後先も考えずに大急ぎで着替えてきたのが悔やまれた。
ましてその仕立は洒落者の菅井が上着の丈から襟幅の広さ・ズボン丈、裾幅から折り返しの幅までいちいち注文をつけた、どことなくアメリカンギャング風で、ネクタイは濃紺で幅広のものである。どう見ても堅気の風体ではない。
変に見咎められても面倒だし、ここのところは出直そうと踵を返したその時である「おい、ちょっと待てよ」と、声をかけながらバラバラと駆けつけてきたのは、親分達に付き添ってきた付き人達であろう。
なかの一人は胸の裏ポケットに手を入れ、そこに隠し持った拳銃を抜き出せる構えを見せている。
この時代ヤクザの人数も抗争もひときわ高かったのだが、その中にあって浅草において起きた妙清寺事件ほど因果関係が分からない抗争はない。
それだけに浅草界隈に根を張るヤクザ組織の中では、いつどこで誰に拳銃を向けられるかと、疑心暗鬼になっていたとしても当然であろう。
用心棒達が場違いな風体で、ウロウロしている大井秀敏を見とがめ、不信感をもったとしても仕方ないかもしれない。もとよりこのての場数はイヤになるほどふんできた秀敏である。
そのなかのひとり年嵩の男にむかって名乗り、世話になった小津政吉さんの不幸を新聞で知り、山梨から駆けつけてきたが、あまりにも場違いな“なり”だから出直してこようと思ったことなどを話した。
「そうかい・・・・山梨からねえ。そりゃあご苦労さんでしたね。お前さんの話を信じねえわけじゃねえが、一応改めさせてもらっていいですか」
年嵩の男が秀敏の前に詰め寄ってきた。若造とみての舐めきった態度である。
その態度が少しばかり腹ただしくなった秀敏は、半歩ほどさがるとその男に目を据えて、
「改めるって、オレがなにかヤバイものでも持ってるとでも疑ってるんですか」と切り口上で応答した。
続
次回6月17日
続・続 人間機雷 335
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (8)
・・・これが浅草妙清寺事件といわれる博徒住吉一家の身内同士の抗争の概要であるが、場所が浅草という点を除いては、小津政吉惨殺事件を結びつける要因はありそうになかった。
しかし、秀敏にとっても他人事ではない。
「分かりました。自分が浅草まで行きことの詳細を確かめてきます」
「そうして頂けるかしら。本当なら私が行くべきなんでしょうが、前夫にも関わり合いがあることですし、蒔田さんには相談しづらいのです。本当に申し訳ありませんがよろしくお願いします」
貞子は冷たく震える手で秀敏の手を握ると深々と頭を下げた。
このところ体調がのすぐれず臥している月心老師の枕頭を伺い、しばらく下山することの許しを請うた。
一年半ぶりの帰京である。
秀敏はまっすぐ浅草・千束通りちかくの小津組の本拠を訪ねることにした。
5年前にいちど訪ねただけだったが、観光客のごった返す浅草寺参道を抜け、裏浅草に出て言問通りから“ひさご通り”至るこの辺りは少しも変わっていなかったが、小津組に近くになるにつれて、さして広くない通りの両側に黒塗りの車が連なり、人がごった返すなかを小津組の代紋“むかで”を染め抜いた法被を着た若い衆が走り回っている。
秀敏を酒席に招いてくれたときに、むかでの代紋のいわれを語ってくれた小津政吉の精悍な顔が浮かんできた。
「ところで大井さん、ウチの紋所を観て驚きなさっただろう。これには謂われがあってね初代小津政衛門の先祖は甲州軍団の“むかで衆”と呼ばれた使番衆・・・・まあ、合戦ともなれば最高司令官である“お館様”の命令を、各部隊長に伝えるいまでいう“伝令”みたいなものだが、馬を疾走させる使番衆の旗指物が“百足”の図柄だった。これが武田軍団の旗印のなかでもひときわ目立った“百足の旗指物”といわれるやつだ」
それを聞いて予科練時代の上官の話をした。
「予科練時代の上官に山梨出身の方がおられて、そんな話を聞かされたことがあります。百足の素早い動きや猛々しさから軍神の“毘沙門天”の使いだと言ってました。百足は後ろには歩かないので後退しないということは絶対に“負けない”という信仰があって戦国武将にも好まれてきたらしい。貴様等も胸んなかにでっかい“むかで”を飼い慣らして戦いにのぞめ・・・・そんな話を思い出しました」
その話を聞いた政吉は嬉しそうに笑いながら言った。
「へえ、海軍さんのなかにも古風な男がいたんだねえ。その“むかで衆”は武田武士のなかでも豪の者だけが選ばれたから、名誉の“百足の旗指物”を背負って戦場を駈け回ったウチのご先祖さんは、死ぬまで自慢してたという話が伝わっているんだよ。こから初代は命より大事な代紋を“百足紋”にしたというんだ。任侠の道も武士の道も命を賭けなきゃあなんにも出来ねえ。極道は武士道の継承者であれ、という教えもあるだろうな。全盛期には百足紋の法被を観ただけで町衆は安心し、食いつめ者や不良は路地に姿を消したというよ」
そんなやりとりをがつい昨日のように思い出された。
その時大井秀敏が「そのような謂われがあったんですか。良い話をお聞きしました。いまでもオレの胸んなかには、やりどころのない鬱憤に真っ赤に燃えた百足が一匹うごめいているのを思い出しました」といったことを嬉しそうに聞いていた小津政吉の笑顔が目に浮かぶ。
続
次回6月10日
続・続 人間機雷 334
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (7)
では、妙清寺で高橋輝男とともに相果てた、一方の“向後平”はといえばどうだろうか。
前述の菊岡久利によると「ヤクザという存在からして見れば、実力のあった、どちらかといえば力一方の勢力者」で、業界内においても「ヤクザらしいヤクザ」というのが、ほぼ通説となっているといと評している。
事実、芝浦から高円寺に移ってからの向後は、中央線沿線の新宿から八王子、また埼玉には大宮をもうかがうほどの勢力を仲張させていたといわれる。
向後平は、名古屋の出身で、阿部重作から盃を貰ったのは戦前のことだという。高橋より六歳上、高橋が阿部身内になったのが戦後だから、兄貴分の浦上信之とぼぼ同年配、いわゆるノレン兄弟にあたる。
終戦後、芝浦の阿部事務所を預かり、昭和二十四、五年ごろに高円寺に出た。
芝浦の事務所はその後、富岡香から高橋浅太郎へと引き継がれた。その中盆の名人といわれた高橋浅太郎が早死にしたため、青田富太郎が責任者になった。だから博徒の修業をしなかったといわれる銀座の高橋輝男に対して、向後はもとはといえば、住吉一家でも博徒の芝浦の系譜上に位置しているのである。
向後が高円寺へ出た昭和ニ十四、五年といえば、浦上一派が団規令による解散指定を受けたころではあるが、すでに述べたようにこれで消滅したのでは決してなかった。
というより、高橋輝男を含めた浦上一派はもとより、住吉一家全体が膨張をしていたのである。
「由来、阿部さんのもとには、古参として人望の厚い下谷の磧上義光君があり、相談役波木量次郎君があり、他にも多士済々の中にあって向後君は力第一主義に物をいわせて、芝浦の跡目をあまりにも性急に考えすぎたふしが看られないこともない」と、菊岡久利が言うように、こうした事情がこの事件の伏線になったかどうかはともかくとして、向後が住吉一家内でも抜きん出た勢力を持っていかのは確かなようだ。
しかし、この事件の原囚を、このような向後の権力志向のみによるとする見方は誤りであろう・・・・といってもこの事件の真相が奈辺にあるのか、今もって明確ではない。
何しろ当事者である二人とも死んでしまっているうえ、当時を知る関係者の話も、いずれも憶測の城をでない。
この事件の直接の発端は、若い者の暄嘩だったといわれている。もし、それが原囚だとしても、直ちに親分による襲撃とは、はなはだ異常である。
そこで、あえて原囚らしいものを求めるなら、二人の“ヤクザ”としての生き方、というより拭いかたい気質とか休質の違いといったところにあるのではないか。
ひらたく言えば、“旧博徒”と“近代ヤクザ”のそれだが、高橋の場合は明治大学出身の、いわゆる“インテリヤクザ″でもあったのだ。
繰り返すが、この事件の原囚、真相のほどははっきりしない。ただ、二人のヤクザとしての確執は、はたが考えるより以上に、不協和音を奏でていたといえそうだ。
ともかく戦後の混乱期から昭和三十年代初めごろまでは、旧来の博徒とかテキヤという稼業の区分けも不明確になり、それに愚連隊も加わり縄張りもショバ(場所)もない、力だけが幅をきかせていた。それにまた、この時期は組織形態やシノギの面から見ても一大転換期でもあったのだ。
・・・これが浅草妙清寺事件といわれる博徒住吉一家の身内同士の抗争の概要であるが、場所が浅草という点を除いては、小津政吉惨殺事件を結びつける要因はありそうになかった。
続
次回6月3日
続・続 人間機雷 333
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (6)
ヤクザは、義理を殊更に大切にするだから葬儀場を襲って目的を遂げることなど決してなかったし、あってはならないことだった。二人の問には、それほどまでのっぴきならぬ軋轢があったのだろうか。
当時の新聞記事によると、「向後氏と高橋氏は終戦直後は芝、銀座かいわいの博徒親分である阿部氏(住吉一家)の同列幹部であったが、高橋氏は4.5年前から独立、ボクシングなどの興業をおこなう『大日本興業会社』を経営していた。また高橋氏は殉国青年隊の黒幕として最近は羽振りがよく、阿部氏の世話もしていた」と特捜本部の調べはいう。
その他の妙清寺事件についての解説もほぼ警察発表の「住吉一家の貸元問における、プロレス、ボクシング等の興行の利権めぐって、貸元同士が身内の葬儀の席上でけん銃を発砲し……」に基づいているようだ。
だが、この事件は一家の大事である葬儀という場で、しかも親分の阿部重作にまでケガを負わせているのだ。従って原因もそう単純な問題ではなく、もっともっと深いところにあるに違いない。
住吉一家は、明治期に興された東京でも屈指の伝統派の博徒に属する。
その住吉一家が飛躍的に勢力を仲張させるのは、戦後、三代目阿部重作の時代である。
ところが、この伸長著しい住吉一家に昭和25年、GHQの団休等規制法令による解散指定が下るのだ。より正確にいえば、これは住吉一家浦上一派が対象であり、住吉一家全体に対してではないのだが、それは当時の同一家の勢威の証しにもなるだろう。
終戦後の治安状態が悪化していたとき、私設警察の役割を担ったので、通称『銀座警察』と称せられるようになった浦上一派は、表面上はともかく、実際はより確実に根を張っていったのだ。その浦上信之の舎弟が高橋輝男だったのである。
高橋輝男は、その卓抜した事業的手腕でもって銀座に着々と地歩を固めていた。
それも、銀座という一等地を活動基盤にしたせいか、そのシノギ(事業といってもいい)の方法は、いたって近代的で洗練されたものだった。
高檎は、戦後いちはやく、若い者にバーなどに卸すおつまみの工場や貸し植木業をさせていたという。もちろん、こうした背景には、用心棒料的な意味あいが含まれていだのは当然として、旧来の博徒にはほど遠い新しい感覚の持ち主だったことがうかがわれる。
実際のところ、高橋輝男には博徒とかヤクザとかいう意識は、あまりなかったらしい。 それはその後、これを手はじめに九州別府の硫黄鉱山、青果市場、映画製作さらには大日本興行株式会礼を設立して、次々に事業を広げていったことでも明らかだ。
あるいは高橋輝男と親交があり、直木賞候補にもなったことのある詩人の菊岡久利か指摘しているように、『殉国青年隊』を組織した若きナショナリストの姿でもあったかもしれない。
前述のように戦後の混乱期に都内一円で『銀座警察』と呼ばれた、住吉一家内“浦上一家”の最高幹部であった高橋輝男の舎弟分、豊田一夫が大物右翼である頭山秀三に師事した事を契機として設立されたものである。
ちなみに頭山秀三は自由民権運動に参加後、国家主義に転じ“玄洋社”を創立し、強硬外交と大陸進出を唱え、在野で右翼の中心人物として活躍した遠山満の三男である。
しかしながら、ここで強調しておきたいのは、当時の新聞記事にあるように高橋は、決して独立していたわけではなく、あくまでも住吉一家内、それも大幹部だったのである。 現在、こうした事業を営んだり、右翼活動に手を染めることなど珍しいことではない。
それどころか、これこそが現在のヤクザの平均像とさえいえる。つまり高橋輝男は、終戦直後の時点ででにいわば今日の“近代ヤクザ”的な生き方を先取りしていたと言えそうである。
続
次回5月27日
続・続 人間機雷 332
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (5)
復員した大井秀敏が、横浜・野毛の屋台で諍いを起こし、身を隠させてくれた関東白神一家で同宿したのが、渋谷での三国人殺害事件の下手人として官憲に追われていた小津政吉であった。
秀敏は見るからに筋金入りのヤクザという感じの、この小津政吉が好きになった。
それにすっかり世話になった白神一家代貸の木村京介の不器用だが情を感じる男気にも通じるところがある。
この世界にこの身を沈めてひと花咲かせてやろうかとも考えたた秀敏の気持ちを察したのか、無口だった政吉がこの稼業の掟や盃ごと、自分の修業時代の事、任俠道の事などを話してくれたのだ。
「大井さんと違い私は旅の途中で、こちらにの世話になっていますが、これもこの渡世の修業のうちなんですよ。ですから気持ちよくイビキをかいて寝るなんてことは出来ない。いつなん時家人に起こされてもすぐに身支度をして“御用がございましたら、ご命じください”と言えるだけの心構えを崩してはいけないんです。これは“武士は伏して死せず”といい、クツワの音に目を覚ますたしなみはヤクザも同じなんですよ。予科練時代も同じだったと思うが、いずれの男の道でも油断があってはならないということですよ」といい最後には「・・・・とはいっても昔の事だがね」と付け加えたのを覚えている。
それから6年後の昭和26年に小津政吉は小津組の再興を果たし、五代目を襲名した。
大井秀敏が横浜・白神一家の親分木村京介の名代で、五代目襲名の祝いを届けた時は一家総出で歓待してくれたのだ。
「秀敏さんは政吉さんとお知り合いと仰っていたからご存じだと思うけど、あんな稼業でも人から恨まれるような人ではないはずです。どちらかというと心根の優しい人だった・・・・この記事がなにかの間違いであってくれたらと願うばかりです」
声を振るわせながら話す貞子の顔は青ざめている。
その浅草妙清寺事件とは次のようなものだった。
戦後の“ヤクザ抗争”の大半が、博徒、テキ屋、愚連隊を含めいわゆる他家名間による争闘であったのに対して、この事件はそうした、一連の抗争とはいくぶん性格を異にしていた。
昭和31年3月6日午後2時ごろ住吉一家大日本興業会“高橋輝雄”(34)らが台東区北清島町72の妙清寺で、博徒仲間の顔役、箭内武治氏の葬儀を執行中、同じく住吉一家の“向後平”(40)が子分数名とともに自動車で乗りつけ焼香台に上がった。そしていきなり正面に座っていた高橋とその子分の同社専務“桑原優”(29)ら参列者側に向けピストルを乱射した。このため高橋側もピストルを持ち出して応戦、撃ち合いとなった。高橋は心臓部に1発、桑原は下腹部などに5発、向後は下腹に数発のタマを受け.高橋、桑原は文京区駒込千駄木町の日本医大付属病院に、向後は台東区浅草雷門鈴木外科に収容されたが3人とも死亡した。
この間、葬儀に参列していた泉海陸作業会社社長“阿部重作”(60)は、乱闘を止めようとして右中指を撃たれ、全治1ヶ月の負傷をしたというものだ。
住吉一家の筋内である大日本興業系の箭内武治氏の告別式の席上において、同一家の幹部同士が二派に分かれて激しい銃撃戦を演じたのだ。しかも相果てた向後平と高橋輝男は、ともに同一家の大幹部で、制止しようとして傷を負った阿部重作は、いうまでもなく住吉一家の三代目総長であった。
当時を知るある親分によれば、告別式が終わり、後片付けをしていたときに突然起こったことで、何がなんだかわからないうち銃撃戦が始まったという。わずか数分間ほどの出来事で、阿部総長のほかにやはり止めに入った某親分も頭を銃把で打たれて軽いケガをしたらしい。
続
次回5月20日
続・続 人間機雷 331
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (4)
明日か明後日には開花を告げられるだろうと思いながら、本堂に戻ろうとした秀敏のもとに貞子がただならぬ様相で駆け寄ってきた。手に新聞を持っている。
「秀敏さんチョットいいかしら」
「はい、何でしょう」
「ここを読んでみて」
三面記事の頁を三つ折りにした下段を指さした。細く白い指先が手が心もち震えているようだ。
『またしても浅草で抗争』『妙清寺事件の余波か』と見出しにある。
記事を読みすすめていた秀敏の目が釘付けになった。そこに思わぬ人の名前を見たからだった。
・・・・浅草を縄張りとする『浅草小津組』の五代目親分小津政吉さん(44)が、何者かに襲われ拳銃のようなもので撃たれたあげく、ずたずたに斬り殺された。その残忍さ殺し方からよほどの恨みをかったものと思われる。
先月(昭和31年3月6日)に浅草妙清寺での葬儀中にで起きた、ヤクザ住吉一家の身内同士による殺し合いは、双方が相撃ちで命を失いその真相は藪の中である。
その庶民にも衝撃を与えた事件から1ヶ月後、またしても妙清寺境内においての惨殺事件に、浅草警察署は捜査本部を置いて解明を急ぐことにした・・・・
と言う主旨の記事だった。
根津貞子が小津組四代目根津恭一郎と結婚したのは、昭和10年恭一郎が三代目若尾健一の後を継ぐ少し前のことであった。
その根津恭一郎が戦死したのは昭和17年のことである。戦火も激しくなった東京を離れ、恭一郎の故郷である山梨に疎開してきたのだが、そのごの紆余曲折のすえに雲峰寺に身を寄せ、やがて月心老師の高弟であり、秀敏の剣道の師でもある蒔田源一と結ばれいまに至るのだ。
この記事にある小津政吉は、夫で小津組四代目根津恭一郎の右腕とも言われる存在だったのだ。政吉は貞子と同年であるだけに、気心も通じ合っていたが、貞子の美貌と日本舞踊で鍛えられた所作に、秘かに心ひかれていた。しかし、そのことは政吉のこころに秘められたままであった。
終戦間際恭一郎と貞子の間に生まれた根津銀治郎が、芦沢閣下少将拝命祝賀少年剣道山梨大会に出場した際、人知れず応援に駆けつけ、貞子の安否をも気遣いながら帰っていた秘事は誰ひとりとして知らない。
政吉が義に駆られて三国人を殺し、旅に出てから数年後、浅草に戻った時に身を寄せた神明会七代目総長小金井肇から、「由緒ある小津組を再興するのは、初代の血筋である政吉さんの使命だよ。浅草小津組の金看板をもう一度揚げなくちゃあ男がすたる・・・・」と説得され心を決めたのが昭和26年である。
小金井総長から言われるまでもなく、曾祖父小津政衛門が看板を上げた小津組は、慶応4年から88年間連綿と続く名跡であり、その灯を消してはいけないという意地も強かったが、なにぶんにも無宿者のような暮らしを続けてきた政吉にとって、資金面からして肩の荷の重い難題でもあったのだ。再興を成し遂げられたのは小金井総長の口利きで、関東の親分衆からの後押しがあったからこそであった。
戦地で左手の肘下を失い義手をつけていたことから“隻手の政”と異名をとり、義手の先につけた金具を短い刃物に付け替えて暴れ、何人もの相手を切り払って死地をくぐり抜けたこともあるときいたが、仁義を重んじ任侠精神の塊のような政吉の生き様があっての支援であったろう。
続
次回5月13日
続・続 人間機雷 330
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (3)
それは貧民層からドロップアウトした者の吹きだまりでもあった裏社会にも通じることである。そのヤクザ社会では少しアタマにくるとすぐに「殺しちやえ!」という風潮に満ちていた。
これは一般社会にも見るこの時代の特徴であろう。戦争が終わって十数年、人心は荒廃し、モメごとを暴力で解決しようという風潮も強く、政治思想界においても男らしさや男性的な逞しさを重んじ、言説や主張の基調とする考え方で“強靱さ、逞しさ、勇敢さ、好戦性”といった性質を基礎とした思想や信条、行動をあらわすいわゆる『マッチョイズム』がもてはやされる下地はあったのだ。
高度経済成長のウラでは、そんな風潮を売り物にするヤクザが、急成長する要素があったのだ。彼らが大手を振って道のど真ん中を歩いていたのが昭和30年代である。当時は暴力団が次第に大型化、広域化を始めた時代であり、当然のように抗争事件も続出した。警察が抗争と認定した大きなものだけでも15件(昭和30~39年)あり、地方や局地的な小競り合いとなるとこの限りでなかったほどである。
右翼思想もこの風潮を受け要人へのテロは、後になって計画が明らかになったものを含めると10件以上があり、大問題になった事件としては、昭和35年10月の“浅沼稲次郎社会党委員長暗殺事件”にみるように、敵対思想を持つ者は「殺しちやえ!」と短絡的に行動に移すのだ。これは17歳の右翼団体構成員が、刃渡り30センチ以上の銃剣で斬りつけ、即死させたのである。社会的には暴力反対、子どもに刃物を持たせない運動のきっかけとなったこの事件だが、直前の同年6月には社会党顧問だった河上丈太郎も暗殺未遂の憂き目にあっている。
もちろん左翼の側も負けてはいない。
60年安保がようやく収束の様相を見せていた昭和35年6月には、岸信介首相も暴漢に襲われて重傷を負っている。
昭和36年には皇室を揶揄する小説に憤激した右翼少年が、出版社社長宅に押しかけ、夫人に重傷を負わせ、さらに家政婦を殺害するというテロを起こしている。
思想や信条が充分に殺人の動機だったのだ。
そんな背景の中で起きたのが“浅草妙清寺事件”であり、その余波は思いかけない衝撃を大井秀敏に運んできたのである。
朝稽古を終えた秀敏が井戸端で身体を清め、新しい肌着に着替えこのところ気になっている桜の古木の枝を見た。日増しに蕾の先が赤味を帯び出してくるのが、密かな楽しみになっている。
大菩薩峠から吹き下ろしてくる寒風に、襟元をかき合わせるかのように頑なだった桜のつぼみも、ここ数日の春風にこころ許したのかその先を綻ばしかけてきた。
昨年の今頃にはすでに一・二輪の桜花が咲き始め、それを一番に知ったのも朝稽古を追えた秀敏であったのだ。
その朝「桜の花が咲きましたよ」と知らせたときの、貞子の嬉しそうな顔を今年も見たかった。
春の遅い奥山の古寺では、ことさらに春の訪れを心待ちする。綻んだ桜の花を肩がふれ合うほどにして眺めた貞子から漂う香しさに、思わずこころがときめいたものである。
明日か明後日には開花を告げられるだろうと思いながら、本堂に戻ろうとした秀敏のもとに貞子がただならぬ様相で駆け寄ってきた。
手に新聞を持っている。
続
次回5月6日
続・続 人間機雷 329
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (2)
いずれにしても冷戦の激化をきっかけに、経済面では工業を発展させることによって経済を再建し、日本を反共の防波堤にする“ソフト・ピース”路線に変更されたのだ。その一環として、戦争による実物賠償は棚上げされ、さらに、1950年6月に勃発した朝鮮戦争が情勢を一変させることとなったのだ。
緊縮財政であるドッジ・ラインの下で需要不足に悩む経済は、朝鮮半島に出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負い、日本経済は大幅に拡大された。これが『朝鮮特需』である。
日本初代の天皇とされる神武天皇が即位した年(紀元前660年)以来、例を見ない好景気という意味で名づけられた“神武景気”という流行語を生んだ。
また、51年のサンフランシスコ条約の締結に伴い、東南アジアの国々が日本に要求した損害賠償がアメリカの圧力で大幅に減額され、あるいは日本企業の新たな利益獲得の準備の視点で実行されたことも、日本にとっては好都合であった。
しかし、この時代から際限のない対米従属を続ける状況に陥り、深い対米従属を続けていくことになったことを忘れてはならない。これを“永続敗戦”と呼ぶ識者も多くいる。
後年この30年代をさしてノスタルジィを込めて「あの頃は良かった」と述懐するようになるのだが、往時を知る人たちからすると“みんなびんぼうだったけど”“人情があって”“夢も希望もあった”といい、今の日本人が失ったもの大切゜なものが残った時代だったかのように述懐されている。
話はそれるが平成17年11月に公開された『ALWAYS 三丁目の夕日』は西岸良平の漫画『三丁目の夕日』を原作とした映画だが、舞台は 昭和33年(1958年)の東京の下町で、夕日町三丁目に暮らす人々の温かな交流を描くドラマに仕上がっている。
ストーリーは昭和33年春、東京の下町、夕日町三丁目にある鈴木オート。そこに集団就職列車に乗って青森から集団就職で六子(むつこ)がやってくる。六ちゃんと親しまれるが、実は大企業に就職できるかと期待していた六子は、小さくて古臭い下町工場の鈴木オートに内心がっかりしていた。
その向かいにある駄菓子屋「茶川商店」の主人・茶川竜之介は小説家。茶川は居酒屋「やまふじ」の美人店主・石崎ヒロミから見ず知らずの子供・古行淳之介を酔った勢いで預かってしまう。帰すに帰せず、二人の共同生活が始まるのだが、大人なら見える世の中の汚い部分や、社会問題は切捨てられ、夢と希望に満ちた物語となっている。
鑑賞の動機は「面白そうだから」をぬいて「昭和30年代が舞台だから」と答える観客が大多数で、「泣ける邦画の代表作」とも言われ、最終興行収入は32.3億円となったが、この時代へのノスタルジィが極端に美化されたものだという一面がある。
食うや食わずで過ごした戦中戦後から、10年あまりしか経っていないその当時の日本人は、まだ成長途中と言っていいだろう。明らかな非常識が常識としてまかり通り、モラルもへったくれもない時代であった。毎日がサバイバルであり、一歩外に出ればそこに広がるのは混沌とした世界であった。
高度経済成長を遂げ、世は神武景気といってもそれは資本家など富裕層に限られたことであり、所得倍増といっても調査対象は大企業や官公庁に勤めている人たちの統計であって、当時大多数人の勤務先であった例えば“夕日町三丁目の鈴木オート”のような中小零細企業の統計ではない。ほとんどの人は経済成長の恩恵を受ける以上に尋常ならざる物価上昇がつづく超インフレ社会の中で、貧困にのたうち回っていた時代でもあった。
この貧富の差を根源としたドロドロとした人間関係が人々をがんじがらめにしていた時代である。
続
次回 4月29日
再開 続・続 人間機雷328
【 前回までのあらすじ】
続・続 人間機雷 327 2018/10/22
16歳で志願した予科練習生大井秀敏は、終戦間際に創設された『人間機雷』とよばれる伏龍隊で訓練の日々を過ごしていた。しかし、日本は敗れ護国のために死ぬことだけを思い描いていた秀敏にとって、空虚で苦悶だけが纏わり付く日々となった。
そんな秀敏を見かねた“天啓同友会”を束ねる“秋山征志郎”の勧めに従って、山梨の大菩薩峠麓にある“雲峰寺”に修業にきて2年が経った。
雲峰寺の住職小笠原月心は、終戦間際に国体護持の為の結社とも言うべき“護国誠心懇話会”を主宰していた人物であるが、昭和最後の剣聖と崇められ、あらゆる武道を極めていた。陽明学に裏付けされた東洋政治哲学の権威であり、人間学にも造詣の深い師の人格の骨ともいうべき核心は「無我・至誠の愛国心に燃える思想家」としての一面である。
その月心老師に命じられたのが“四書五経”の素読である。
盟友でもある秋山征志郎から、予科練での人間機雷として御国のために死ぬことだけを覚悟としてきた大井秀敏が、いまでも後生大事に抱える人間機雷の雷管を取り除いてくれるようにと頼まれていたのだ。
その手始めとも言えるのが漢籍の素読であった。
予科練時代は飛行練習生となる前の教育を受ける所だったから、カリキュラムの殆どが、手旗信号とか、鉄砲の撃ち方とかの軍隊教育と航空学の初歩的な数学、機関学、爆薬学、弾道学といった座学だった。それに帝国軍人精神を鍛えるという目的のしごきにしごかれた体育科目が加わった程度であるから、漢籍を眼にしたことも無かったし、ましてや意味も分からず繰り返す素読などは思ってもみなかった苦行であった。
大井秀敏は昭和31年の初冬まで、約2年間を四書五経と剣の修練に明け暮れた。
すでに28歳になっている。論語で言うところの“三十而立”・・・・三十にして立つ年齢に近くなってしまった。焦燥感に似たこころのざわめきを感じながらの切磋である。
続・続 人間機雷 328
第六章 夢幻泡影
三 歳月
3 国士への道 2 (1)
大井秀敏が論語にいう“三十而立”にちかいおのれの歳を鑑み、焦燥感にとらわれた昭和31年(1956)に、経済企画庁は経済白書『日本経済の成長と近代化』の結びで「もはや戦後ではない」と記述し、この言葉は流行語になった。
それは、最もよく経済水準を示す指標である1人当りの実質国民総生産(GNP)が、昭和30年(1955)に戦前の水準を超えたという意味である。
この昭和30年は、高度経済成長の始まりとなった神武景気の幕開けの年でもあった。
翌31年には、家電を中心とする耐久消費財ブームが開始し、皇室の三種の神器にちなんで、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」と言われたものである。
但し、これらは庶民にはまだ高嶺の花であり、当時大人気だったプロレスラーの力道山を見るために、人々は街頭のテレビに群がったものだが、大井が仮寓する塩山奥の雲峰寺ではその世俗のさざ波すら寄せてこなかった。
ここで比較されている「戦前」とは、昭和9年の傀儡国家“満州国”の建国ごろから皇道派青年将校 による“二・二六事件”の起こった昭和11年の平均を言うのだが、これから考えると日本経済は、戦争のために20年間も足踏みしていたことになる。
この20年は長過ぎたという側面がある。
大きな原因として、日本が行った戦争は自国民の人命を軽視し、基礎的な生活条件を破壊したという特徴が考えられるのだ。
大井秀敏が御国のために命を捨てる覚悟でいた特攻隊員も、後に考えれば人名の軽視に他ならない。
また“欲しがりません勝までは”と、耐乏生活を強いられたのに比べ、ナチス・ドイツでさえ敗戦の瀬戸際まで開戦時の消費水準を保ったのと対照的である。日本は徹底して国民に生活を切り詰めさせ、戦略爆撃が始まり敗戦必至になってからも、天皇制の維持を事実上約束させるまで、戦い続けて住宅も約210万戸失った。
敗戦後、アメリカ政府・GHQは、日本の経済再建に関しては当初“ハード・ピース”路線、すなわち、日本から近代工業施設を撤去し、外国貿易も遮断して農業国にするという方針を採っていたのだ。
トルーマン大統領の個人的代表として来日した、日本派遣賠償視察団のE・ポーレー大使は、「われわれは日本経済の最低限度を維持するに必要でないすべての物を日本から取り除く方針である」と言明していたのだ。それについて日本政府は、鉄鋼業や石炭鉱業などに重点的に資金を配分する“傾斜生産方式”等を採用し経済の再建に努めたのだが、この期のインフレの昂進や技術の立ち遅れなどでなかなか成果は上がらなかった。
他方、焼跡の廃墟に住み飢餓に苦しんだ人々が、敗戦後10年で立ち直ったのは早かったという側面もある。事態が転換し始めたのは冷戦の激化がきっかけである。
前章でも触れたが、1948年のアメリカのロイヤル陸軍長官の文書などに示されるように、対日方針は転換されたのである。
日本経済の自立と安定とのために実施された、財政金融引き締め政策のためのGHQ経済顧問として訪日したデトロイト銀行頭取の“ジョゼフ・ドッジ”が、立案、勧告したのをベースとしてこの年12月に、GHQが示した経済安定9原則の実施策である。
これがドッジ・プランともドッジラインとも呼ばれるものだが、そのドッジが日本経済の状況を見て「日本の経済は両足を地につけていず、 竹馬にのっているようなものだ。 竹馬の片足は米国の援助、他方は国内的な補助金の機構である。 竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある」と述べたのだが、ドッジが指摘したこの状況はのちに「竹馬経済」と呼ばれる様になる。
続
次回4月22日









