から続き、さらに聖句の検証をしてみたいと思います。
では、排斥者への「避け」について書かれた日々の聖句を取り上げました。
ここに挙げられた参照聖句についてみていきます。
まず
「絶えず彼らを厳しく戒めなさい。彼らが信仰の点で健全にな(るためです)。」
の参照聖句としてテト1:13が挙げられています。
ここには
「この証は真実です。それゆえにこそ,絶えず彼らを厳しく戒めなさい。彼らが信仰の点で健全になり」
と書かれていますが、この前後の文脈から考えると、ここで言う
「彼ら」
はクレタ人のことであり、クレタ人は次のように評されていたことがわかります。
「12彼らのうちのある者,彼ら自身の預言者が言いました,「クレタ人は常に偽り者,害をもたらす野獣,無為に過ごす大食家」と。」
ちなみに、面白いのはこのクレタ人のことを同じクレタ人の預言者がこのように言った矛盾について、wikiに
「エピデミネスのパラドックス」
というものが挙げられておりました☆
それは置いといて、ここでパウロが語っているのは、決して排斥者のことではなく、このような評判のあるクレタ人に宣教するうえでの注意点として考えた方が自然ではないでしょうか。
つまり、悪評が高い地域での宣教の注意点です。
続いて
「与えられる懲らしめは,「それによって訓練された人」にとって,霊的な回復の助けとなってきました。」
ここではヘブ12:11が挙げられています。
「確かに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず,かえってつらいことに[思えます]。しかし後には,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです。」
ここは、忍耐が鍛錬であり、実の子であるがゆえに厳しい態度に出る、という話の流れですので、いたってマトモな参照聖句です。
そして、問題の
「エホバは,どんな排斥者とも接触を持ってはならないという命令にわたしたちが従うかどうか,注意深く見ておられます。」
ここの参照聖句はコリ一5:11-13。
「11 しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめそのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。
12 というのは,わたしは外部の人々を裁くことと何のかかわりがあるでしょうか。
あなた方は内部の人々を裁き,13 外部の人々は神が裁かれるのではありませんか。
「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」とあります。」
ここには、どこにも神が
「どんな排斥者とも接触を持ってはならない」
という命令を出しているとも、また
「その命令に従うかどうか、注意深く見ている」
とも書かれてはいません。
ここに書かれていることは、非常にシンプルに、
「内部の人々を裁き、自分たちの中から除く」
ということと
「外部の人々は神が裁くので、自分たちにはかかわりがない」
という
「パウロの主張」
だけです。
自分たちの中から除いた人たちのことを、
「いつまでも裁き続けて無視せよ。」
という
「神の命令」
ではありません。
つまり、実際の聖句の意味からすると、神は
「どんな排斥者とも接触を持ってはならない。」
と、しつこく見張る存在ではなかったんですね☆
ちょっと、ホッとしました♪
こんなに聖句を捻じ曲げて解釈していたのでは、そのうちに神も怒りそうなものですね。
日々の聖句、最後の参照聖句は
「あなた方が証人であり,また神も証人となってくださることですが,わたしたちはあなた方信者に対し,忠節で,義にかない,責められるところのない者となりました」
のテサ一2:10です。
この聖句は、そこにそのまま書かれているとおりですが、ここでなぜ、パウロが
「あなた方信者に対し、忠節で、義にかない、責められるところのない者」
として、神もあなた方も証人になると言ってくれているかと言うと。。。
その理由は、その前のテサ一2:9に書かれています。
「9兄弟たち,あなた方は,わたしたちの労と刻苦とを覚えているはずです。
わたしたちは神の良いたよりをあなた方に宣べ伝えましたが,それは,あなた方のだれにも費用の面で重荷を負わせないようにするために,夜昼働きながらのことでした。」
つまり、パウロがテサロニケの信者たちに言いたかったのは、パウロたちが
「あなた方のだれにも費用の面で重荷を負わせないようにするために、夜昼働きながら」
宣教したことによって、
「あなた方信者に対し、忠節で、義にかない、責められるところのない者」
であることの証人になってくれるであろう。。。と、いうことなんですね。
これまでのパウロの手紙から考えても、パウロは宣教者が自らの権限をかさに着て、他の信者たちに対して、費用の面で重荷を背負わせることを何よりも嫌っていたことがうかがわれます。
その見本となるために、どんなに大変でも、きちんと自ら働いた上で宣教することの大切さを説いたのでしょう。
まずは自らがしっかりと働き、自活し、他人の財産を当てにすることなく、宗教活動をする。
それがパウロにとって、他の信者たちに対する
「忠節」
であり
「義」
であったことがわかります。
寄付金を当てにした生活を行なっているような宗教幹部は、パウロから見れば唾棄すべき人種かもしれませんね。