久しぶりの更新です。全然更新していないにも関わらず、ぺたして頂いたり本当にありがとうございます。



ペタ自体も確かに嬉しいのですが、たびたびペタして頂く方の中には医療や福祉方面で働いている方もおり、そのような方が自分のブログに興味を持って頂いているのは本当に嬉しく思います。稚拙な内容かもしれませんが、今後とも宜しくお願いします。




さて今回は食事の話について。




私が知ってる夫婦に、共に医師の方がいらっしゃいます。二人とも救急医であり、大学病院勤務でもあるので多忙を極めています。




その夫婦は今年結婚したのですが、その時1つの約束事をしたそうです。




その約束とは「1日最低1食、ハンバーガーでも何でもいいので一緒に食事をすること」だそうです。




「食事」というのは確かに人間の体を作る重要なものであります。しかし、身体的に重要なだけでなく精神的にも重要なのです。




この夫婦は食事は何でもいいが、食事を一緒にするという精神的な部分を大切にしているということです。



「食事」がもたらす精神的なものの重要性は、夫婦だけでなく、家族や友達などあらゆる集団に当てはまることではないのでしょうか?




近頃は夜の10時頃に塾から帰っている小学生を見ることも珍しくなくなってきました。そのような家庭では、もしかしたらお弁当を持たせてるのかもしれません。




でも、時には遅めの食事を家族みんなでとるのも悪くないのではと思います。
以前、朝日放送系の番組「マチャアキJAPAN」を見た。



日本から派遣したスタッフが発展途上国に井戸を掘り、泥水を飲んでいた住民が綺麗な水を飲めるようになるといったような番組。




このような番組は過去いろいろあったと思う。




他の番組を批判するわけではない。どの番組でも井戸を掘り、綺麗な水を出したことは重要である。




今回の番組で素晴らしいと思ったのは、現地のものでシンプルな構造の機会で井戸を掘っていたこと。




これはかなり重要である。



つまり、いくら日本から高度な機会を持ち込み短時間で井戸を掘っても、井戸は一基しか残らないし、例えば井戸がでなくなったら、その井戸は使えなくなる。確かに修理すれば、また使えるかもしれないが、番組がそこまで面倒を見てくれることは決してないだろう。




しかし、その番組では「上総掘り」という実にシンプルな手法を使っていた。唯一入手が難しいかもしれないのが長い鉄パイプ。テレビを見る限りでは他の物は全て現地の物。鉄パイプも1つの発掘作業が終わればまた使える。




つまり、この方法だと「上総掘り」の技術さえ現地の人が習得すれば番組企画が終わっても、井戸が何基も掘れることになる。




果たしてどちらがより効果的で持続的なものであろうか?




発展途上国に必要なのは持続可能な支援だけでなく、持続可能な技術の支援である。
先日実家に帰る途中で家族とばあちゃんと合流し、墓参りをして昼食を食べた。



ばあちゃんの家についてほぼ一年半ぶりに会って最初に「あんたは〇〇ちゃんよね?」と言われた。〇〇ちゃんは同居してるいとこの名前。覚悟はしてたし、分かってたけど、やっぱり少しびっくりした。その後話をしていて、ばあちゃんが俺のことを忘れてるのではなく、いとこと俺の顔が似ている、そして久しぶりに会ったことも重なって間違ったことが分かった。決して俺の名前を忘れてるわけではなかった。少し安心した。




そう、ばあちゃんは認知症。




それを知ったのが2年前。初めに知った時は「認知症」という言葉に驚き戸惑い涙が出た。まさか、あのばあちゃんが?と思った。




じいちゃんは二人とも成人する以前に亡くなっていて、どちらかというとばあちゃんっ子だと思う。




塾に通ってたころは帰りが遅くなるので、ばあちゃんの家によく泊まってた。いろんな料理を作ってくれ、決まって言う言葉は「野菜をたくさん食べんさい」。その当時はいろんなことで反抗することもあった。




何でその気づかいや優しさをその時に気付けないんだろう。風呂に入ってる間に部屋を暖めてくれ、布団をしき、時にはこっちが一方的に話すことを不満も言わずに聞いてくれた。でも、それが当たり前だと思ってた。




あの頃と同じようにはもうできないかもしれない。でも、ばあちゃんは生きている。それだけで十分嬉しい。




ときに聞く「~をしてあげる」という言葉は嫌いである。一つ間違えるとそれは単なる自己満足になり、おせっかいになってしまう。そういう時、「してあげてる側」は自己満足をしているから「される側」がおせっかいだと思っているということを気付かない可能性が高くなる。




ただ決して全ての人がそうたとは思わない。要はバランスが大事なのだ。「してあげる」ではなく、「する」「手伝う」「サポートする」。そう思うようにしている。言葉だけでは意味がないが、まずは言葉からでも考えていくことに意味があると思う。




今、ばあちゃんは例えば遠くに1人で行くことはできない。だからできない部分を「サポート」している。



そして「サポート」することに満足するのではなく、ばあちゃんとそういう時間を過ごすことを楽しんでいる。




その時間の中で、ばあちゃんに今までの感謝を伝えてるつもり。




最後は名前すら分からなくなるかもしれない。




科学的には認知症は定義があり、様々な研究、証明がされている。




でも思うのだ。認知症とは、「記憶が消える」のではなく、「記憶をしまった場所の扉が開かなくなる」だけだと。




ばあちゃんが認知症だから、そう思いたいのかもしれない。




大切なのは俺がどう思うかではなく、ばあちゃんがどう生きるか、そして自身もどう生きるかであると思う。




今度一緒に神戸に行く予定。