先日実家に帰る途中で家族とばあちゃんと合流し、墓参りをして昼食を食べた。
ばあちゃんの家についてほぼ一年半ぶりに会って最初に「あんたは〇〇ちゃんよね?」と言われた。〇〇ちゃんは同居してるいとこの名前。覚悟はしてたし、分かってたけど、やっぱり少しびっくりした。その後話をしていて、ばあちゃんが俺のことを忘れてるのではなく、いとこと俺の顔が似ている、そして久しぶりに会ったことも重なって間違ったことが分かった。決して俺の名前を忘れてるわけではなかった。少し安心した。
そう、ばあちゃんは認知症。
それを知ったのが2年前。初めに知った時は「認知症」という言葉に驚き戸惑い涙が出た。まさか、あのばあちゃんが?と思った。
じいちゃんは二人とも成人する以前に亡くなっていて、どちらかというとばあちゃんっ子だと思う。
塾に通ってたころは帰りが遅くなるので、ばあちゃんの家によく泊まってた。いろんな料理を作ってくれ、決まって言う言葉は「野菜をたくさん食べんさい」。その当時はいろんなことで反抗することもあった。
何でその気づかいや優しさをその時に気付けないんだろう。風呂に入ってる間に部屋を暖めてくれ、布団をしき、時にはこっちが一方的に話すことを不満も言わずに聞いてくれた。でも、それが当たり前だと思ってた。
あの頃と同じようにはもうできないかもしれない。でも、ばあちゃんは生きている。それだけで十分嬉しい。
ときに聞く「~をしてあげる」という言葉は嫌いである。一つ間違えるとそれは単なる自己満足になり、おせっかいになってしまう。そういう時、「してあげてる側」は自己満足をしているから「される側」がおせっかいだと思っているということを気付かない可能性が高くなる。
ただ決して全ての人がそうたとは思わない。要はバランスが大事なのだ。「してあげる」ではなく、「する」「手伝う」「サポートする」。そう思うようにしている。言葉だけでは意味がないが、まずは言葉からでも考えていくことに意味があると思う。
今、ばあちゃんは例えば遠くに1人で行くことはできない。だからできない部分を「サポート」している。
そして「サポート」することに満足するのではなく、ばあちゃんとそういう時間を過ごすことを楽しんでいる。
その時間の中で、ばあちゃんに今までの感謝を伝えてるつもり。
最後は名前すら分からなくなるかもしれない。
科学的には認知症は定義があり、様々な研究、証明がされている。
でも思うのだ。認知症とは、「記憶が消える」のではなく、「記憶をしまった場所の扉が開かなくなる」だけだと。
ばあちゃんが認知症だから、そう思いたいのかもしれない。
大切なのは俺がどう思うかではなく、ばあちゃんがどう生きるか、そして自身もどう生きるかであると思う。
今度一緒に神戸に行く予定。
ばあちゃんの家についてほぼ一年半ぶりに会って最初に「あんたは〇〇ちゃんよね?」と言われた。〇〇ちゃんは同居してるいとこの名前。覚悟はしてたし、分かってたけど、やっぱり少しびっくりした。その後話をしていて、ばあちゃんが俺のことを忘れてるのではなく、いとこと俺の顔が似ている、そして久しぶりに会ったことも重なって間違ったことが分かった。決して俺の名前を忘れてるわけではなかった。少し安心した。
そう、ばあちゃんは認知症。
それを知ったのが2年前。初めに知った時は「認知症」という言葉に驚き戸惑い涙が出た。まさか、あのばあちゃんが?と思った。
じいちゃんは二人とも成人する以前に亡くなっていて、どちらかというとばあちゃんっ子だと思う。
塾に通ってたころは帰りが遅くなるので、ばあちゃんの家によく泊まってた。いろんな料理を作ってくれ、決まって言う言葉は「野菜をたくさん食べんさい」。その当時はいろんなことで反抗することもあった。
何でその気づかいや優しさをその時に気付けないんだろう。風呂に入ってる間に部屋を暖めてくれ、布団をしき、時にはこっちが一方的に話すことを不満も言わずに聞いてくれた。でも、それが当たり前だと思ってた。
あの頃と同じようにはもうできないかもしれない。でも、ばあちゃんは生きている。それだけで十分嬉しい。
ときに聞く「~をしてあげる」という言葉は嫌いである。一つ間違えるとそれは単なる自己満足になり、おせっかいになってしまう。そういう時、「してあげてる側」は自己満足をしているから「される側」がおせっかいだと思っているということを気付かない可能性が高くなる。
ただ決して全ての人がそうたとは思わない。要はバランスが大事なのだ。「してあげる」ではなく、「する」「手伝う」「サポートする」。そう思うようにしている。言葉だけでは意味がないが、まずは言葉からでも考えていくことに意味があると思う。
今、ばあちゃんは例えば遠くに1人で行くことはできない。だからできない部分を「サポート」している。
そして「サポート」することに満足するのではなく、ばあちゃんとそういう時間を過ごすことを楽しんでいる。
その時間の中で、ばあちゃんに今までの感謝を伝えてるつもり。
最後は名前すら分からなくなるかもしれない。
科学的には認知症は定義があり、様々な研究、証明がされている。
でも思うのだ。認知症とは、「記憶が消える」のではなく、「記憶をしまった場所の扉が開かなくなる」だけだと。
ばあちゃんが認知症だから、そう思いたいのかもしれない。
大切なのは俺がどう思うかではなく、ばあちゃんがどう生きるか、そして自身もどう生きるかであると思う。
今度一緒に神戸に行く予定。