- 大崎 善生
- ドナウよ、静かに流れよ
ノンフィクションを書く、という場合の書き手の目線や気持ちのありよう、というのを考えた。
私は小説家としての大崎氏の作品を読み続け(つまりファン)、今まで何故か読むのを避けていた氏のノンフィクション作品で初めて読んだのがコレ。
残念ながら、気持ちいい読後感ではなかった。
ドナウで心中した邦人カップル、33歳の自称指揮者と19歳の女子大生を追いかけているノンフィクションなんだけど、一年かけて取材して書き上げた作品にもかかわらず、最後まで焦点が定まらないような曖昧さがある。
曖昧なのは、大崎氏自身の目線だ。
書き上げるために取材を続けた、という気がしてならない。
つくづく感じたのは、ノンフィクション・ドキュメンタリーと呼ばれるものの「目線」と「取り上げられる主人公」の関係、だ。
私も実は、ドキュメンタリーを撮ってもらったことがあるので、その時も感じたんだけど、主役と撮り手(つまり目線)、どちらがその作品自体の主導者なんだろう?って。
当たり前だけど、作品としての主役は当然、登場している主人公そのもの、だと思う。
だけど、そこに貫いている目線の強さがあって初めて、それは作品となっていく。 事実の積み重ねは、当事者にしか感じられない。 それをなんらかの形で伝えよう、という意思があって、事実の継続を何らかの形で切り取る作業が作品づくりだと思う。 「何らかの形で切り取る」…コレが書き手の目線だ。
事実はひたすら淡々と継続していくから、結果それが凄みになるけれど、継続している事実をピックアップしていくには、どんなに事実に翻弄されても揺るがない強さが必要だと思う。
その強さってのは、取材対象者への思い入れであっても、使命感であっても、別個の自分自身の課題であってもいいけれど、ただそれは第三者へのメッセージになってないといけないと思う。
今回のこの作品は、気持ちがぶれているのを感じちゃったんだよなぁ。
ノンフィクションであっても、書き手の目線に興味をもって、目線で切り取られる世界を感じたくで読む人も多いと思う。主役そのものの強烈さに惹かれて読む場合(私の直近例では『白洲次郎』もの)、書き手の切り取る世界から一人の生き様を見たいと思って読む場合、どちらにあったにせよ、切り取りは明快でなくちゃ、と思う。
取材が中途半端なのもそうだし、主観の形容詞があまりにも頻繁なのも曖昧さを増長してる。
身の程知らずにも私個人的に、いつかノンフィクションを書いてみたいなぁ、などと常々思ってるから尚のこと、書き手の視線について考えてしまうのよね。 書き手、表現者としてどんな風に立ち位置を持っていくのか。
事実って、大胆な出来事であっても、ごく普通の日常生活でも、積み重ねの圧倒的な量があるのは間違いないことで、その中で色んな感情やら意思やらがぐちゃぐちゃに交差して、その事実になっているもんだと思う。その当事者には意識できない何かに、第三者として強烈に感じるものがあって、きっと取材に至るんじゃないかと思う。逆の流れを辿ることもあるかもしれないけど、第三者としての意思があるから表現が始まるはず。
…なんか読んでて物足りなくて、とても残念だったのです。
で、私自身の過去の出来事の痛恨みたいな感情も一杯湧きだしてきて、イターイ気分にぐったりしてたの。 モノを書いたとかではないけれど、それがビジネスであっても、イベント企画であっても共通することで、意思が明瞭でないところで表現したものは、同じように物足りなくて不完全燃焼で、歯軋りしたい痛恨を残す。
「ノンフィクション読んでて、何でこんなこと考えてるのさっ!」と自分でもイヤになっちゃうけど、私にとって大切にしなきゃいけないことを、大切に出来なかったことが、悔やんでも悔やんでも悔やみきれないぐらい気持ちにシコリを残してしまっているんだよなぁ。シコリをほぐしてしまうには、もう一度、強い意思で表現者をやらなきゃしょうもないんだよな、ブツブツ…。
何だかわけわかんないけど、、愚痴だわね。
何書いているんでしょ(;^_^A
主題はずれてるけど、とにかく、読みながらいろんなこと考えちゃった本だったのでした。おわり! (^^ゞ