福井旅行の話。明通寺・羽賀寺 | ヒハ ノボル

ヒハ ノボル

発達凹凸ありの小学生男子の母です。
生まれは関西、ほぼ東北育ちで、今は関東在住。
漫画好き。最近の趣味は、フラワーエッセンス。

去年のGWに、福井旅行に行ってきた話の続きです。

今回のGWが終わる前に記事にするはずだったんだけど…

ある意味、予定通り。(→書くのがすごく遅い)

 

福井県に行ってきた!…ただし、ちょうど1年前の話。

 

福井旅行の話。若狭彦神社・若狭姫神社

 

 

 

 

 

と、言いつつ、旅行と関係ない話から。

(全く関係ないわけじゃないけど)

 

 

 

 

 

福井に行く前に、「若狭」という言葉がすごく気になっていましたが

それよりも前、「アテルイ」が気になっていた時期がありました。

 

アテルイとは

 

日本の奈良時代末期から平安時代初期の古代東北の人物。
8世紀末から9世紀初頭に

陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長とされる

征夷大将軍 坂上田村麻呂の蝦夷征伐で対峙していたが

長期にわたる戦いの結果、おそらく和睦目的で自ら田村麻呂に降伏したものの

その後平安京で、田村麻呂の取り成しにもかかわらず、公卿達の判断で斬首される。

降伏の際、平安京に一緒に投降したモレと、同族500人も惨殺されたという話も…

 

 

 

最初に「アテルイ」を知ったのは、高校生のときだったか

父が民放テレビ番組の制作にかかわったことがきっかけでした。

 

『日の本将軍 もう一つの日本』

『日の本将軍 海人・安藤一族』

 

その時期、青森テレビ・青森放送・IBC岩手放送などで

東北の古代史に関する番組が集中的に作られていたようです。

アテルイが主人公のNHK大河ドラマ『炎立つ』が放映された前後のはずです。

タイトルには「アテルイ」出てませんが、番組の中で取り上げられています。

 

当時、父が「知り合いに配るから」という目的で

『日の本将軍』を何本もVHSにダビングしていたので

なんとな~く見ているうちに興味を持つようになっていました。

 

数年前、日本の古代史に興味を持つようになり父に聞いてみたら

思った通り、全部DVDに落として保管していました…。

そういう几帳面なところは、同じA型親子でも、私と全然違うところ…。

 

 

 

 

それで、アテルイのことが気になって番組を改めて見てみたのですが…

 

昔の番組、画像荒いし、テロップ少ないし、史料の読み上げ多いし

何回も巻き戻さないと、すっごいわかりにくかったァァァァァ!!!

 

…というのは、置いといて。

 

番組の中で、「福井県小浜市の羽賀寺」が出てきたんです。

津軽安東(安藤)氏の菩提寺である、と。

 

番組の中でも、なぜ津軽の氏族が、福井のお寺と関係あるのか…云々語られてましたが

それとは別に、福井県にはもう一つ

坂上田村麻呂がアテルイを偲ぶために建立した明通寺がある」

ということが、色々調べてたら出てきました。

確か、番組の中では明通寺は出てなかったと思う…。

 

 

それで、福井というと気になっていたのが、

今回のアテルイの明通寺と、津軽安東氏の羽賀寺なんです。

どちらも、東北と関連がある。

 

 

 

◎明通寺

明通寺(みょうつうじ)は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院。山号は棡山(ゆずりさん)。本尊は薬師如来。大同元年(806年)、坂上田村麻呂によって創建されたと伝えられる。本堂と三重塔は、建造物としては福井県内で唯一国宝に指定されている。

 

 

 

国宝の三十塔↑と、同じく国宝の本堂↓

 

 

延暦のむかし、この山中に一大棡樹(ゆずり木)あり、その下に世人に異なる不思議な老居士が住んでいた。たまたま坂上田村麻呂公、ある夜、霊夢を感じ老居士の命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため、大同元年(806)このところに堂塔を創建し、居士また棡の木をきって、薬師如来、降三世明王、深沙大将の3体を彫って安置したと伝う。
 
※蝦夷征討に功のあった征夷大将軍・坂上田村麻呂が若狭国明通寺の開創に願ったことは、それは戦勝祈願ではなく「多年征戮するところの狐魂窮鬼を救う(長年戦ってきた蝦夷たちの浮かばれない魂を弔う)」ためとされています。

(明通寺HPより)

 

 

とのこと。

 

では、なんで蝦夷の魂を弔うのに、若狭国なのか…というのは

田村麻呂が「国司として若狭に赴任して…」というように書かれてるところもありますが

田村麻呂の年表を見ても「若狭」を見つけられない…。

まあ、田村麻呂が明らかに行ってないであろう東北の各地でも

田村麻呂の伝説や由来する寺社がいっぱいあるようなので

もしかしたら、こちらもそうなのかもしれない…と思いつつ。

 

田村麻呂が蝦夷(アテルイ)たちの浮かばれない魂を弔うために

明通寺を創建した…と伝わってるというのが大事なんだな、と思っています。

 

 

結局、田村麻呂&アテルイと、若狭との関係が何なのか

いまいちわからないまま、とにかく気になってた場所に行けてよかった。

 

というお話です(←)

 

 

 

 

 

 

◎羽賀寺

 

 

 

「本浄山羽賀寺縁起」によれば、霊亀2年(716年)に、元正天皇の勅願によって行基が創建したとされる。(中略) 中世には守護細川氏などの庇護を受け、元弘の乱による焼失後、延文4年(1359年)に細川氏清が再興した。その後応永5年(1398年)にも焼失したが、永享8年(1436年)に奥州安倍氏後裔を称する安倍康季(安藤康季)が再興したという。

 

東北には行基さん由来のお寺が多い…というのが

inehapoさんのブログであったと思うのですが、こちらも行基なんですね。

 

そして、

奥州安倍氏後裔を称する安倍康季(安藤康季)が再興した」と。

 

 

 

「御食国(みけつくに)」として、朝廷に塩や海産物を治めていたという若狭国。

サバががたくさん運ばれたので、若狭と京都をつなぐルートを鯖街道と呼んで

最近では地域活性化の一環として

「鯖街道ウルトラマラソン大会」というイベントも行われているんだとか…。

 

「鯖街道」と呼ばれるようになったのはわりと最近のことらしいですが

平城京や明日香村から発見さらた木簡の記録から

若狭の海産物が運ばれたルートの存在は

飛鳥・奈良時代にまでさかのぼる…と言われています。

 

 

若狭と奈良…というと、気になっていたのが「お水送り」の行事。

元は、前回書いた「若狭彦神社」のご神事ですが

若狭の湧水を、東大寺二月堂のご本尊(十一面観音)にお供えするため

遠敷川中流の鵜の瀬から、二月堂の若狭井まで水を送る…というもの。

この行事があるため

古来より若狭と奈良は地下で結ばれていると信じられてきました。

 

 

その儀式というのがまた、荘厳で。

 

大護摩(おおごま)から松明にもらい受けた火を手に、二キロ余り上流の鵜の瀬へ向かう。
ホラ貝の音とともに、山伏姿の行者や白装 束の僧侶らを先頭に 三千人もの松たい明まつ行列が続く。
大護摩(おおごま)で最高潮に達した火は、ここで静かな流れに変わ り、一筋の糸を引く光の帯となる。
河原で大護摩(おおごま)が焚かれ、住職が送水文(そうすいもん)とともに御香水(おこうずい)を筒から遠敷(おにゅう)川に注ぎ込む。
悠久のロマンの中に一 瞬のきらめきを残して。
若狭の自然と、火と水は一体となりお水取りの行われる大和の国に至るのである。

若狭お水送り2020(3月2日)より)

 

若狭の「お水送り」は、奈良の側では「お水取り」になるわけですが、

奈良の県民だよりを載せたHPより↓

 

「お水取り」は、十二日の深夜から十三日の未明にかけて行われる。暗闇の中、練行衆らが二月堂の南の石段を降り、二月堂下にある閼伽井屋の中の井戸(若狭井)からお香水を汲み上げ、本尊にお供えする。この若狭井は、若狭国(わかさのくに)(福井県)の小浜と水脈がつながっているという。実は、この関係について奈良の昔話はこう伝えている。
 昔、実忠和尚が、修二会の行法中(ぎょうぼうちゅう)、「神名帳(じんみょうちょう)」に書かれた全国の一万七千余の神様の名を読み上げ、参集(さんしゅう)を求めた。神々はすぐに集まってこられたが、若狭国の遠敷明神だけが川で魚釣りをしていて遅刻された。
 それを他の神が口々に咎(とが)めた。そこで遠敷明神は「これは申し訳ない。お詫びとして、ご本尊にお供えする霊水を若狭からお送りしよう」といい、二月堂下の大岩の前で祈られた。すると、大岩が動いて二つに割れ、黒と白の鵜が飛び立ち、続いて霊水が湧き出た。和尚はこれをお供えの水とされた。これが今も二月堂下にある若狭井戸である。
 

 

東大寺の建立に尽力した良弁和尚、

東大寺二月堂を創建したインド僧・実忠和尚、
どちらも若狭にゆかりのある僧侶なので
そのご縁で若狭の鵜の瀬と
奈良東大寺の二月堂が地下水脈で通じている…
という伝説ができたのかもしれませんが、
なんとな~く、それだけではないんじゃないか。
そんな気がします。

 

 

遠敷=大丹生で、水銀ということもありますが
「丹生」というのは、
「生命を創る元のエネルギー」とする考え方もあるようで
それを突き詰めると日本の神様にとどまらず
シュメールの神様、エンキ・ニンフルサグが出てきて
ややこしくなるのでここまでにしますが、
冠島・沓島も含め、そうした壮大な話や、
時代が下ると「大本教」や艮の金神なんかにもかかわる
やっぱり、ややこしい話…になりそうです。
(↑単に自分が消化しきれてないだけ…ともいう(^-^;)

 

 

なんか、鯖街道から話が反れましたが。

 

津軽安東氏(奥州安倍氏)にまつわる、羽賀寺のこと。

 

↑これ、羽賀寺の本堂ですが、

さっき出てきた明通寺の本堂↓とよく似てて、

細かく見ないとどっちがどっちかわからなかった…。

 

 

 

 

それで、なんで若狭国で津軽安東氏の名前が出てくるのか。

 

津軽には、北陸出身者の末裔と思われる、若狭、加賀、能登、越前、越後、輪島、小嶋、柿崎などの姓が多くみられるというのも興味深い。
津軽には、「対馬」とか「津島」姓が多い。それは、蒙古襲来(1274年、1281年の2回)の際、十三湊を根拠地にする安東水軍が対馬海峡まで遠征し、難民となった対馬の住民多数を津軽に疎開移住させたからだそうだ。海人という同族意識が、彼らをそうさせたのであろうか?
海人の國、日本 より)
 
 
高校のころ青森県に住んでたことがありますが
確かに、「対馬」さんは多かったな~。
「若狭」さんは会ったことないけど、「越前」さんは同級生にいた。
その由来が、元寇までさかのぼるということか…。
 
ちなみに、津軽安東氏が対馬の難民を移住させたのは
「海人という同族意識から」というより、
元をたどればまんま同族、ということだったのかもしれません。
 
それについては、もっと古い時代。
「土器の伝播」によって、古代氏族の移動の様子がわかる、というもの。
九州~若狭~津軽ルートの存在を
inehapoさんのブログで教えてもらいました。
 
 
 
九州から海路若狭湾~津軽へと伝播した「遠賀川式土器」が
陸路で南下して東北の太平洋側に伝わった…。
そして、その土器が発掘されたという
宮城県名取市の十三塚遺跡。
十三という数字がまた何とも意味深な感じですが、
一番心惹かれたのは、
 
 
縄文と弥生が共存していた場所
 
 
ということでした。
 
 
 
安東氏(奥州安倍氏)といえば、アビヒコ・ナガスネヒコを祖としている。
 
ナガスネヒコは古代ヤマトの指導者の一人だったけど
神武天皇の東征に先立って大和に入った
ニギハヤヒによって討たれたといいます。
そのニギハヤヒの兄がアビヒコで、東北に落ちのびたといわれています。
(アビヒコだけでなくナガスネヒコも一緒に津軽に逃れたという説もあり)
 
そのアビヒコ・ニギハヤヒを祖とするのが奥州安倍氏で
その末裔が津軽安東氏や秋田氏といわれています。
 
ナガスネヒコは、トミのナガスネヒコ(またはトミビコ)ともいい
トミ→十三を連想させます。
大阪にある「十三(じゅうそう)」という地名は
ナガスネヒコに由来があるという説があるようです。
そして、津軽安東氏の本拠地は「十三湊(とさみなと)」。
そんなことを考えてたところへ、
名取の「十三塚遺跡」を知るというめぐり合わせ。
十三(トミ)は、ナガスネヒコだけでなく
ユダヤの失われた氏族とも関係しそうだし、
「出雲」との関係もありそうです。
そういえば、
出雲弁と津軽弁の類似について指摘する人もいるな…。

 

まあとにかく、

ユダヤとか神武東征とか、出雲とか、その辺の歴史を調べると、

なんていうか、ヤッタヤラレタの争いの歴史がいっぱいありますが

一方で、

 
 
 
縄文と弥生が共存していた場所
 
 
 
も、ある。
 
 

先祖の無念は無念として、

思い出して、目を向けて、鎮魂を意識するんだけど

「縄文と弥生の共存」でこんなに感動できるなんて

やはり、時代は「統合」に向かってるんだと

改めて思った次第です。

 

個人的にも、「両極端のエネルギーの統合」を促される機会があったりして

そんな時期に、ベストなタイミングでこの情報に行きついたことに感謝!です(^^)