あるお人柄のとても良い方が

鑑定のお仕事を始められました。


その方と久しぶりにお話をさせていただきま

したが、人間嫌いになった とおっしゃって

いました。


「違う鑑定士の方から別のことを言われた」と

いう言葉を度々耳にし、自分が労力を使って

セッションをしていることに価値を見出せなくなっ

ようでした。

自分は只のツールでしかないのか と感じられた

ようです。


このことは多くの課題を提示しています。


まず明確にする必要があるのは


決断は全て個人がする(している)ということです。


鑑定士の意見やビジョンを参考にしたとしても

決定とその後の結果には 個人が責任を取らな

ければいけないということです。


それを双方が自覚しなければ

セッション自体が崩れて行きます。


私たちの人生には大小さまざまな選択肢が

張り巡らせられてあります。

その選択肢について全てを網羅出来る人が

ほとんどいない という現実があります。


一歩先に障害があったとしても

乗り越える辛さ と受け止めるか

乗り越えた後の楽しさ と受け止めるか


の違いでしかありません。














悩みの解決の為に思索し


友人に訊ね

家族に訊ね 

本に訊ね


そして鑑定者に訊ねます


訊ねれば訊ねるほど

浮き上がってくるのは


どうしたら?

何故?

では無く

自分が言って欲しい事を聞きたい為の


代弁者や肯定者求めている

という事実です。


先日テレビで観たダイエットに関する

番組ですが

半年間で8割り位の方が大幅な減量に成功

したようです。


その方法は


最初の一週間だけチェックシートを使い

いつ、何を、どれだけ食べているのか

食生活の把握をし

時間をかけて食べるということでした。


そこから見えてくるのは{客観的に捉える}という

ことで自覚が生まれるということではないでしょう


その「一口」が自分にとって必要なのかを問うの

は他の問題についても同じだと思います。


何を考え

どう行動しているか

自分の思考と行動を把握する習慣を持つことが

まずは基本だと思います。

























多分…


多分と表現しないと角が立つかも知れません。。


99%の方が

幸せの捉え方や 不幸というものについて

論じ合っても 満足しないと思います。


極端に言えば

自分の満足について論じ合っているだけです。


そしてその満足には 際限が無い。


解決策の一つとして スビリチュアル

と称されるドアを叩きますが

満足出来ない…


足ることを知る こそが スピリチュアル

なものの本質ですが

それでは 誰も集まらない …


集まって欲しければ 無理をしなければ

なりません。


これをすれば望みが叶う!…ならば


地球は各人の願望の果てに

すでに消滅してしまっていたのではないで

しょうかはてなマーク


創造性の真価が問われている時代だと思い

ますが、如何でしょうか

















旧約聖書は

モーセによるイスラム人のエジプト脱出と

キングソロモンによるイスラエルの統一、

ユダ王国の滅亡とその後の預言者が神から

受けた預言を中心に神との交流が記されている

書です。


再度に渡る侵攻と異国の支配による圧政で

混迷していたユダヤの人々は預言者によって伝

られていた救世主の誕生を待ちわびるように

なりました。


イエス・キリストの誕生は旧約聖書の中で謳われ

ていましたが、イエス・キリストをその人物とみな

か否かによってユダヤ教とキリスト教は分離して

行きます。


イエス・キリストの誕生と布教、

磔と復活

弟子による福音書が

神との新たな契約= 新約聖書 として

独自性を持つようになりました。


そして今また

キリスト教では

「私はまたやって来る」と残した言葉を元に

キリストの到来を待ちわびています。








創世記は

世界に最も大きな影響を与えた

イスラム教、ユダヤ教、キリスト教

聖典(信徒が従う基準として確立されたもの)

として扱っているものです


地球誕生からノアの箱舟~

アブラハムが神からイスラム民族の繁栄を約束

されカナンの地を目指すものの長い飢饉が続き

アブラハムの子孫でありエジプトで宰相をして

いたヨセフを頼ってエジプトへと移住した部分が

記録されている文章です。


      ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

その後ヨセフが亡くなるとイスラム民族は奴隷の

扱いを受け、救世主を待ちわびる中誕生したの

がモーセです。

モーセはイスラム民族をエジプトから脱出させ、

神から十戒を受けた後 再びカノンの地を目指

ます。

モーセの死後、神からの加護を受けカノンの地

へ定住するものの部族間で争いが起こりダビデ

息子のソロモンがイスラエルを統一しました。

ソロモンの死後、王位を巡っての争いが起こり

北のイスラエル王国と南のユダ王国と分裂

ました。


イスラエル王国はその後アッシリアの侵攻を受

滅亡し、民族はアッシリアへと連行されます。


ユダ王国もその後バビロニア王国にエルサレ

の地を陥落され1万人がバビロニアへと連行

されます。

半世紀後バビロニアがペルシアによって滅ぼさ

れると、ペルシアの王がバビロニアへ連行され

されたユダヤ人へエルサレムへの帰還を許し

ます。

数万人がエレサレムへと帰還し破壊された

エルサレムの神殿(ソロモンが建設した神殿)の
再建を図り、街と神殿の一部が復興されました

異国の風習に馴染んだ人々は律法として

モーセが神から受けた十戒などを守らなくなって

いました。






モナリザの絵 補足です
アイルワース版のモナリザが(正)と記述

しましたが それでは誤解が生じやすいので。


対比により表現される一対の絵と表現すべき

でした。


ついでに。

ある書物の中に

モナリザは人類史上初めて

内なる自由を見出した人物 とありました。


人類史上初めて内なる自由に達した人物は

ヘルメス・トリスメギストス だと私は思います。


ついでに。

ある方がマイトレーヤがテレビ放映の中で

思念で大宣言をするとおっしゃってますが…


そのお話から裸の王様の童話を連想します。


衣装を纏っていないのに、

権威に追随するように

見えない自分が恥ずかしいと感じてしまうように

大きな危険を秘めていると思います。


「大宣言は果たされた」と誰かが言ったとしたら


感じられなくても

…同じ轍を踏むのではないでしょうか。


そんな不確かな事なのでしょうか。















2012年


隠された真実の扉が開く年


符合するかのように

ダ・ヴィンチのもう一枚のモナリザの絵が日本で

世界初公開されています。


アイルワース版のモナリザ

作者不明の絵とされ個人が所有しスイスの

地下金庫で保管されきました。


ダ・ヴィンチは多くを知っていた為

最後の晩餐など数枚の絵にメッセージを残しま

した。

弟子のラファエロも全てではないにしろそれを

知っいた為、関連する作品を残しています。


アイルワース版のモナリザが (正) で

以前から知られているモナリザは知って欲しい

部分に関心行くように仕上げられました。


私が何かを知っていたとしても

期が熟さなければ陳腐なものとなってしまいます。


ダ・ヴィンチの絵もまた時を待っていたのです。




2012年12月22日


古代マヤ文明のカレンダーがこの日で閉じて

いることから、映画やメディアで取り上げられ

様々な解釈があります。


①隕石などの衝突や地殻変動により地球の

 人口が激減する(または消滅する)

②新たな時代へとシフトする


近年急速に広まったスピリチュアルブーム

と呼ばれているものも地球の変化に対しの

関心が大きく関係しています。


多くの信徒を抱えるキリスト教の聖典に収めら

れている「ヨハネの黙示録」の中で未来に対す

る預言がありますが、地球を襲う転変地異と

キリストの再臨について信じられて来ました。


1800年代神智学協会を設立した

ブラバァツキー夫人は肉眼では得られない

エネルギー体の存在についての理解を紐解く

ことに尽力し、多大な影響を与えました。

ブラバァツキー夫人の影響を受けた

アリス・ベイリーは秘教と呼ばれている書物

を残しその中で指導霊からの情報として

キリスト・マイトレーヤの出現という説を唱え、

ベンジャミン・クレーム氏がその説を書物や

講演を通じて更に広めてきました。


肉眼では認知しえないことを多くの方が信じる

要はどこにあるのでしょうか?


(続く)



平和は戦いを通して

得られるものではありません


それは歴史からも明らかです


もし戦う相手がいるとすれば

自分自身です


何故ならば

個人個人の中にある怒りが闘争となるからです

怒りが軽率さや悪意へと導きます


そして その怒りは嘘や真実を知らないことによ

る妄想、欲望、妬みなどが積み上げられた結果

として起こります。


仏陀が八正道を説いたのも、その連鎖を断ち切

るということにあると思います


咎とは、そのような善意から離れてしまう人間の

中にある性質のことを言いますが

理解を通してそれらの性質を超えることが出来

ます


自分と向き合い、波紋の波を沈めて行くことに

より 社会の空気が 変化して行くのではない

でしようか


個人が自分と向き合うことにより、社会もまた

変化します


私たちが賢くなることにより

社会もまた健全になって行く

それが高次での社会貢献ではないでしょうか



同じ体験をしていても視点によって

理解と決断が違ってきます


視点 とはどのようなものでしょうか


それらは元々の気質や成長の過程で身に纏っ

ている、フィルターであり壁であり色でもあります


ある人には見えている、一目瞭然と思える事が

壁を持つ人には壁越しに見ている為、当然見え

せん。

良い景色や音楽を体験していても

灰色のフィルターが美しさや楽しさを味気無くし

しまいます


自分の中に退屈さや閉塞感をかんじてしまう部

分があるのですが気づかずに原因を外に求めて

しまいます


走り廻りエネルギーを消失したり、閉じこもり

枯渇するということを繰り返す為、進展しません。


奇跡や祈りやマジックは一時的に問題を癒した

解決へと導きますが

壁やフィルターが時間と共に問題を引寄せ

いつものパターンが始まります


自分が求めているものは何であるのか


肉体は牢獄と例えられますが

魂が求めるものと肉体が求めるものには相違

があります

肉体に主導権を与えると口や目や様々な器官

が主張します。賞賛という冠まで自分に与えよう

とします


自分は今どんな視点をもって対応しているのか

を知ることが必要なのではないでしょうか