他者と一緒にいると、相手が特に表現していないのに、その人が内側で感じているであろう不快さや苛立ちや不満足感がわかってしまい、それをどうにかしてフォローしなければ…と、気を使い過ぎて疲れてしまうという人がいると思います。
それを打ち明けてみると「そんなに気にする必要ない」「気にしすぎだよ」「それよりも、もっと自分を優先して大事にしなよ」といったアドバイスを受けて、「うんうん、そうだよね。気にしすぎだよね。もっと自分を大事にしよう」と思いながらも、そうするためには物理的に相手と離れる必要があり、そして実際に離れるとラクにはなるものの、何もやる気が起きなくて、ひたすらダラダラしてしまう……。
すると、今度はそんな自分に罪悪感や自己嫌悪を感じて、また誰かの感情や欲求を満たすことで、自己存在を確立しようとする……。
いつも自分より相手が優先であり、相手とひとつであるときに力を得るけれど、ひとりだと自分が何をしたいのか、本当にしたいのかがわからなくなってしまう。
こういう感じになりやすい傾向の人は、他者との境界線が薄いうえ、水や地のエレメントが内向的に働いているタイプかもしれません。この内向タイプは感情や感覚を内側で感じる性質を持ちますが、境界が曖昧だと、自分の感情(感覚)なのか、相手のものであるのか、混同してしまうんですね。
いつも相手を優先して、自分を後回しにする人でもあります。
団塊世代や更にその上の世代には多いかもしれません。いつも家族のため、社会のためを優先して、たまに好きなことをすればいいといわれても、自分のためにお金や時間を使うことに罪悪感や後ろめたさを感じたりします。
そして境界線が薄いゆえに、家族にも同じ行為を強要したり、干渉したり、コントロールしたり、依存したりといったことも容易に起こるでしょう。
ここには境界線の問題があります。ある種、共依存のような一体の関係は、母子や夫婦やカップル、女性の知人同士などでも生じることがあるでしょう。
いつも一緒にいるように見えるけれど、彼らが直接的に抱き合ったり、触れ合ったりすることはあまりないのかもしれません。
なぜなら、触覚を通して、私たちは境界線を認知するからです。ここからこちらがわたし。こちらは、あなた。
触覚というのは、天秤座の象徴する感覚であり、まさに私とあなたを分かち、そしてバランスをとる感覚でもあるでしょう。
触れ合い、抱き合うことで、心地よい距離、柔らかさ、強さを学びます。いつもそばにいるのではなく、それぞれに独立しているからこそ、一緒にいる心地よさも感じます。
子どもの頃にたくさん抱っこされる経験、触れられる経験を通して、私たちは「自分」を認識することを覚えます。自分を感じるためには触れられる必要があるのですね。
それを思うとすこし、かなしく、さみしい気持ちにもなります。
10年ぐらい前に、ひとりでインドの瞑想施設に滞在していたとき、ひとりでいると自己存在を感じることがむずかしくて「自分を感じる感覚が希薄なんだな」と、ものすごく実感したことがありました。
ひとりでいると、自分が希薄なんですね。感情も感覚も思考も働いてはいるんだけど、存在感がないというか、自分がペラペラの薄い紙のような、透明のような感じなんです。
いまはひとりでいても、肉体の感覚をみっしりと感じられるようになりました。時々、感情は希薄になって、自分と誰かや集合的なものが混濁します。でも、それを感じながらも、それを無視できるようにもなりました。
相対する感覚を鍛えることで、バランスを取り戻すことはできます。すべての性質を成熟させる必要は、こういうところにもあるのだと感じます。