誕生日の直前に伯父が亡くなって、先週末は急遽、岩手で過ごしていました。
岩手の葬送は関東の形式とすこし違っていて、親族で旅立ちの準備をして、入棺し、先に火葬があり、それから通夜と告別式、初七日、納骨と続きます。
27年前に祖母が亡くなったときは、もっと長くさまざまな儀式があって、5日ぐらいやっていたのですが、いまは随分と簡略化されたようでした。それでも3日のあいだ、伯父を囲んで濃密な時間を親族たちと過ごしました。
すこし前にちょうど、終わらせることと手放しの儀式について、木星の動きと共に書いたところでした。
儀式における、ひとつひとつの手順やプロセスは6ハウスの象徴です。そしてそのひとつひとつに意味があり、物語があるのは12ハウスの象徴でもありますね。
葬送の儀式では、ひとつずつ、どのように旅立っていくのか、それはどんな旅路なのか、そしてこれから何が始まっていくのかという物語が、語られました。
決して割りきることのできない思いに落としどころを見つけるために、物語で補完する。誰もがそのように折り合いのつかない気持ちに、自分なりの物語を持つことで、置き所を見つけるのかもしれないなと思います。
物語や神話や伝説を語る能力……「虚構を語る」この能力を手に入れたことが人間にとっての認知革命であり、そこから歴史が始まります。
物語を持たない時代の人間にとっては、動物のように生も死もただの現実であり、それ以上でも以下でもありませんでした。
しかし虚構を語る能力を有して、物語を語り始めたことによって、一族の謂れや歴史や神や象徴が語り継がれるようになり、時を超えた継承が始まります。
私がどこからきて、どこへいくのかは、個人の歴史のみならず、一族の物語の一部となり、ファミリーツリーの中で語られ、受け継がれるものとなったのです。
4ハウスという、ある土地、ある家、ある一族に個人は生まれ育ちます。やがて子どもは成熟し、その生まれ落ちたバックグラウンドを背負いながら、8ハウスという葛藤に満ちた世界との関わりを生き抜くことになるでしょう。
終焉のとき、私たちは12ハウスに行き着きます。そこではこれまで個人がやってきたこと、残してきたものが明らかになり、社会や土地や血筋の中に一粒の種を残して、再び4ハウスの大地へと還ります。それがまた次の時代を生きるものの中で再び蘇り、歴史のなかで継承されるのでしょう。
愛によって生まれ、継承し、葛藤しながら生きて、その痕跡を何らかの形で残して、去っていく。それが歴史となり、物語となり、連綿と生が続いていくのでしょう。
その美しい生の営みに、サイクルの中に息づく物語に、心をふるわせながら迎える誕生日です。