私は歴史と時代劇が好きで、普段はテレビを観ないのに唯一、大河ドラマだけは小学生の頃からずっと観てるんですね(笑)
今は幕末から明治、大正……と、少しずつ近代化していく日本が描かれています。
そして時代劇を観るにつけて、長らく、私たちの選択肢って、ほとんど幅がなかったんだな~と、つくづく思います。
8ハウスが象徴するものに集団圧力とか、前例に基づいた徹底的な支配というものがあります。私たちは地上のどこかに生まれ落ちると、その時代と地域の言語・文化・習慣・伝統等を「相続」して、染まる必要があります。
それは自分が存在する以前に作られた秩序やルールや道徳に、好むと好まざると関わらず、従わなければならないということであり、そこに自由意志が含まれる余地は微塵もないということです。
私たちが「自由になる」ということは、その余地のなかったところに、ほんの少しの選択肢の幅を広げることであり、依然として人生の大半は、世界に横たわる前例に従う必要があるということでもありますね。
私たちは勝手に路上で物を売ることはできないし、勝手にどこかに住みつくこともできないし、勝手に土地を耕すこともできないし、自由に乗り物を乗り回すこともできません。
秩序に則って、限定された範囲での多少のバリエーションのなかで、自由意志としての創造性を発揮することができるわけですね。
それでも、この自由意志の範疇が広がったのは、ここ数十年のことで、それまでは職業も生活も結婚も遊びも、もっともっと狭い範囲のなかでの選択しかなかったわけです。
時代劇を観ていると、生まれた場所と身分で、ほぼその人のとれる行動範囲が定まってしまい、そしてそのことに大半の人が「分をわきまえて」従うわけです。
そして、たまに渋沢栄一のように「お百姓というだけで、何もかも言いなりになるなんておかしい」と思う人がいて、その思いから行動する人が、集団の持っている前例をくつがえしにいくわけですね。
これも8ハウスの話です。
しかし、渋沢栄一はそんな自分を理解してくれる親兄弟や仲間に恵まれて、生まれつきの才覚と運のめぐり合わせもよく、苦難を乗り越えて大成しますが、これは失敗するとただの「変わり者」「はぐれ者」となってしまう可能性も非常に高いものです。
ヘタすると集団から孤立して、追放されてしまう危険もはらんでいるわけですね。8ハウスの象徴する、集団の圧力や支配は、おそろしいのです。