罪と罰について掘り下げる
法的になにかしら触れた
その場合の罪は
法によって罰せられる
これが現実だ
悪行に自らを染めてしまった
ゆえの報いというのだろうか
法によって罰せられた、
裁かれた後に
法にのったやり方で、
服役等、なにかしら準じた行いを終わらせた
その時点で、
法による罪の罰は償った形にはなる
法による裁き、罪と罰云々とは別に
良心とされるもの
その立ち位置、アングルからはどうだろうか
判断能力、責任能力に支障がない限り
なにかしらの思い、
罪悪感は引きずり、背負いながら、
人生を歩んでいくのかもしれない
その視点観点から捉えた際に
そのひとは既に
罪を償ったとは言えないだろうか
罰を引き受けたとは言えないだろうか
永久に苦しみ続けろと
誰が言えるのだろうか
そうでなくても
なにかしらの曇った空が
そのひとの周りを覆ってはいないだろうか
深い部分で
癒し、赦しが起こるのは
当事者とされる側だけではなく
加害者とされる側、双方が
その事を深いところで知って
受け入れていく事で
物理的な肉体レベルでの困惑を越えた
深い癒し、赦しというもんが
成立していくかのように
僕は 感じ思う
それはまるで
明け方に散歩しながら出会した
湖で発生する
水面と融合する霧のような
そんなかんじがする
激しさと静寂な中で
互いに
恥部は充分に深く味わった
+
blog久しぶりになります
日頃は、twitterの方で
朝のおはようございますも兼ねた
ちょっとしたお喋りと
関心のある動画や記事を
シェアさせて頂いています
また
気付き絵日記のようなかんじで
instagramの方で
写真を添えながら
思いを綴っています
よかったら 触れられてください
気が付けばというのか
前回の投稿から
2ヶ月経過していました
これから追々 そのあいだに
twitter + instagramでシェアした
思いたちを組み込みながら
現在進行形の気付きも加えて
blogの方に
触れていこうと思っています
twitter
比嘉 要 ( Kaname Higa )
instagram
Kaname Higa(@kanamentama7353)



信仰心というもんを
自身のなかで維持していく事は
むずかったりもする
他者を眺めて
そう感じ思う
ある宗教者が自身が信仰している宗教の
存在維持を訴える為に
他宗教を否定する事は
健全とは言い難い
むしろ
信仰からズレている
その事を認識された方がいい
僕はそう感じ思い
みている
他者を眺めても、です
脱字ちらほら在るねぇ
Salvation その意味を知ると
深いよなぁと
特に痛みや苦しみの中にいるひとにとっては
救われるfactorでは在るし
実際に僕も気持ちは軽くなったけど
それを強要する事はまた別で
強要は支配になってしまうし
カルト化の始まりでもあるから
+
あくまでも僕にとっては
痛みや苦しみを和らげてく
その効果は高かったです
それは僕が
キリスト教の3年保育の幼稚園に
通園していた事
その頃に洗礼の儀式もうけさせて頂き
クリスチャンになったという事
その影響が大きかった
という事もまた
大きなfactorだったと感じ思います
現在の僕はユタの道に進む
その選択をしたので
教会からはユタは異端として扱われる為、
特定の教会には属していませんが
現在も聖書を読んだり
Youtubeで発信されている
牧師さんたちの聖書研究等
参考にさせて頂きながら
聖書に触れさせて頂いています
洗礼の儀式をうけさせて頂いたという
信仰への気持ちというのか
失礼な言い方に捉えられちゃうかもですが
儀式を受けたからといって
どうのこうのだとは
僕は思いません
あくまでも僕にとっては
洗礼をうけさせて頂く事で
神さまをみるという行為
信仰が
シンボル化されたというのか
それは在ったなと
強い印象は残り続けているし
その意識の影響というのか
まだこどもだった時代という事も在り
それも大きかっただろうなと
そう感じ思ったりもしています
あくまでも僕の場合です
神さまをみるという表現をしたけど
霊視とかそんな事を言っているのではなく
いつでも どんなときでも
神さまは僕をみている
だから
僕も神さまをみるように
意識する
その行為、信仰の事です
それが難しくもなったり
そんな時もある
+
十字架にかかったイエスの絵では
腰に衣がかかっているものがほとんどですが、
本当は、イエスは真っ裸で十字架につけられたのでした。
人につばをはかれ、バカにされ、私たちの恥じの一切を
ご自身の体で負ってくださったのです。
イエスが人類の一切の恥を背負ってくださったので、
私たちは恥から解放されることができます。
十字架で起こる、罪悪感・恥・拒絶感からの解放
デリック・プリンス
2025. 11. 23. Sun twitter
このような時代になったとはいえ
パートナーの対称が同じ性のひとに対する
偏見ゆえの差別は
在るよりかは、ないにこした事はないけど、
そのような思いを抱く事に関しては
個人の思いもあるので、
仮に力ずくでそう思うなと言っても
内心まではforce出来ないからなぁと
ある宗教に属しているひと
自称、牧師が
同性愛、同性婚は認めないと、
聖書のフレーズを引用しながら
自身の思いを綴られていて
認めている教会に行けばいいと、
綴られていたが
それもありだと、僕は感じ思う
実際に目の前で そのような行為をみたら
かなりドン引きはするが
ああ、場違いでした、
ここ去ります、さようならと
僕は告げて、
受け入れてくれる教会に行くなぁ
聖書では罪だとか云々
いろんな解釈が在るので
そう解釈するならば、したいならば
それも在りだろうなぁと
ちなみに イエス様が
同性愛、同性婚について
なにかしら 言った
綴りはない
そのひとにとって
得体の知れないなにかは、
確かにコワイかとは
感じ思うけど
認めない、という姿勢というのか、
その在り方が、勝手な依存状態だから
いずれ、そのひとの思いが
重苦しく感じ思うかと、
僕は感じ思う
ゆえに さよならだなぁと
そんな事を感じ思っている時に
不思議なもんで
以前、通わせて頂いていた教会で
この度 新しく牧師に就くことになりましたと、
new 牧師さんが
我が家に 挨拶にこられた
もう20年近く、
その教会からは遠のいていたので、
通わせて頂いていた当時の牧師さんや、
教会に通われていた方たちの近況を
聞く事が出来て、よかった
僕たち家族がお世話になっていた牧師さんは
既に引退されて、
現在は教会の高齢者施設で
暮らされているとの事
認知症になられて
意志疎通は難しくなっているけど、
面会は可能だから
会いに行かれるといいよ~と
こちら側の一方的な思いだが、
もし可能ならば、お会いしたい
その牧師さんは
教会に属する牧師さんではあったが、
キリスト教だけが全て
とは言い切らない方で
霊的存在の研究とかも
独自でされていて
琉球のシャーマニズムに関しても、
否定される事はなく、
むしろ肯定されていて
教会本部から出ていけと
圧もかけられたりもして
1度追い出されたが、
周りの信徒さんたちの強い反発で
教会本部側が折れて、
その牧師さんをまた招き入れたという、
かなり筋金入りの方ではあった
本来は ユタの道に進まされるようなひとだったけど
本人がキリスト教を選択した
というながれで
かなり葛藤はあったんじゃないのかなぁと
勝手にだけど、
憶測したりしている
僕もユタの道に進むという事には、
かなりの抵抗があったし
お寺に通わせて頂いていた頃に
ありがたいことに、
出家の話も頂いたりもして
正直、物凄く考えていた時期もある
最終的には、
この道に進む選択をしたのは僕自身で、
そこから現在に至る
そんなかんじで
教会に通わせて頂いた頃も
お寺に通わせて頂いていた頃も
あの時代で吸収した事たちは、
現在もかなり役立っているし、
やっぱり、この道だったんだよなぁと
昨日、僕の琉球歴史の師の亀島靖先生と
話をさせて頂きながら
頑なにそう思い込ませるのではなく、
静かにやわらかく
そのような思いがわき上がってきて
包み込まれるというのかさ
そんな状態になった
ありがとうございます
2025. 12. 19. Fri
+
ひとがなにかしら現在の自分以上に
大きな姿をみせようとする
いわゆる虚栄の背景には
紙一重で
なにかが崩れさろうとしている
その危うさを
知られていく事への恐怖が入り交じり
本人自身もうまく呑み込んでいない
府に落としきれない状態で
口から言葉を発したりしてしまいますが
仕草をはじめ、顔つき、
また話があちらこちらへと飛んで、
一貫性がないというのか
+激しい言葉のサウンドゆえに
痛々しさをも
僕は感じ思ったりもします
そのようなひとたちの姿を目にする度に
過去の自分と照らし合わせたり
重ねたりしながら
自分自身を振り返る、
そのような機会を与えてくれたりもして、
無駄というのか、
無意味な場面だけとは言い切れないなぁと
そんな事もまた
感じ思ったりもしています
ひとは誰しも自惚れや
ついつい調子に乗っちゃう事がある、
そのような未熟な部分もあり、
それゆえ、
自分自身への戒めと
他者に対しての愛情の眼差しと共に
みられるようになっていく、
その訓練もまたさせて頂いているなぁと
自分自身の中にいまだ在り続けている未熟さを、
出来る限りコントロール、改善しながら、
日々過ごしていきたいもんです
改めてそう感じ思った次第
2025. 12. 18 Thur
+
おはようございます
立冬
今日から暦の上では
冬にはいっていくとの事
1年というサイクル
季節の循環を
ひしひしと感じ思う
去年から率先してよく歩くようになって
煮詰まってるなと感じ思う時など
仕事から帰ってきて疲れていても
ウォ~キングに行ったりするようになった
以前だったら疲れたと
ワイン飲んでくつろぐという
選択をしていたんだけれども
ちと煮詰まってるなと
そう感じ思う時は
仕事から帰って来て遅い時間でも
ウォ~キングに行ったりして
頭すっきりさせたりする
そんな時間を持つようにしている
(その選択をしない時もある)
ウォ~キングしながら
湖の底から
浮かび上がってくるような
思い出す事すらなかった記憶を
両手ですくいあげていく
そのような瞬間, 場面を持つ
ああ、そうだったのかと
それまでの記憶と
浮かび上がって来た記憶が
結びつき
謎解きではないが
ぼんやりとしていて
なにかしら しっくりこなく
モヤモヤしていた事柄の打開に向けての
きっかけにもなったりして
記憶が紡ぐ
人生の愛おしさを
感じ思ったりしている
目を覆いたくなる
そのような記憶が浮かび上がって来ても
一旦保留にしたりする事も在るが
僕はすくいあげていくようにしている
いまの僕に繋がっている
重要な僕自身でも在るから
これから先の人生も
その繰り返しのような気がしている
その繰り返しの作業の過程のなかで
現在よりも多く深くなっていくだろう
皴と共に
より やさしい目になって
より やさしい眼差しと共に
物事を観て感じ思い
捉えられるように
なっていくのかもしれない
なっていけたらいいなぁと
そう感じ思い
願う朝
2025 11. 7. Fri
twitter
一部 加筆しました
写真 ↑ は 片割れが旅立ってしばらくした頃
11年前
いま、ここに
在り続けていられていることに
ありがとう
2025. 11. 23. Sun
+
数日前までは
そうでもなかったのですが
今朝は冷えるなぁと
雨も降っているせいか
ひんやりした空気を感じます
夏の時期は
陽が落ちるのもゆっくりで
うがみの際の
御嶽やお墓等での取り組み中は
ああ、陽が落ちたなぁという
そんなかんじなのですが
寒い季節の時期は
陽が落ちるのもはやく
夏の暗さとはまた違った暗さで
+気温も下がっているなかでの
取り組みになるので
そういった面では
夏の時期より
気合というのか
よっしゃという思いにも
なったりします
北部でのうがみが在る時など
帰り道は58号線を通るのですが
各リゾートホテルのイルミネーションが
鮮やかに浮かび 綺麗で
また
海岸沿いから観える
遠くの街並みの灯りも
澄んだ空気のなかで
クリアに観る事が出来て
ちょっとした御褒美を頂いている
そんな気持ちになります
外での取り組み うがみは
肉体労働になるので
ぐったりと疲れますが
全日程を終えた後の
清々しさというのか 爽快感は
ひとしおです
依頼者さんとも 終わった~と
互いに仲間意識のようなものもまた
生まれてきます
大変さは在りますが
これからの季節もまた
いいかんじで取り組んでいこう
ファイティン✨
要
2025. 10. 29. Wed

すきなうた
1, 3, 8, 10 Pinterest
6 Yukiko
取り組まさせて頂いている仕事の内容・詳細、
問い合わせ先です
協力のお願いがあります
にほんblog村さんの方に
参加させて頂いています
去年の秋頃からかな
クリックボタンの使用が出来なくなり
しばらく様子をみていましたら
にほんblog村さんサイドの方で
記事内に添付可能に仕様してくださり
今回再びボタンを添付出来る
運びになりました
ありがたいです
参加させて頂いている
各カテゴリーのボタンを
クリックして貰うと
ランキング集計に+されて
各カテゴリー別に表示されている
ランク内に入る
可能性が大きくなり、
目に留まりやすくなります
そうすると
必要とされている方にも
届く可能性が高く、拡がっていくかと
僕は思っています
よかったら協力のほど
よろしくお願いします ↓

主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くから私の計らいを
悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
私の道にことごとく
通じておられる。
わたしの舌がまだ
ひと言も語らぬさきに
主よ、あなたは
すべてを知っておられる。
前からも後ろからも
わたしを囲み
御手を
わたしの上に
置いてくださる。
その驚くべき知識は
わたしを超え
あまりにも高くて
到達できない。
詩編139
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