新版の改変箇所の紹介です。
岸に上がってからの描写はしばらく旧版の通りで、「城主!ヤりたいんですね!お手伝いしますよ!俺たちが押さえときますから!p99」が「城主!お手伝いしますよ!」に改変され、「失せろ」に繋がります。
p99下段の「あの一瞬の出来事は謝憐にとってあまりにも衝撃的だった」から始まる12行が省略されています。
花城が針を取り出して握りつぶしたあと、「その様子を見ていた謝憐は、不安はひとまず脇に置いて真剣に言った。『なんて強い怨念なんだ。普通、胎霊がここまで強い法力を持つことはないのに』『うん。きっと、単に流産で死んだ胎霊じゃないんだろう』花城が立ち上がって言う。(p101)」が省略されています。
p102下段の「どうやらこの胎霊はまさにそういう邪物の産物で、・・・」のあたりが省略されている代わりに、花城が謝憐に「(胎霊)にこれがあったよ」と仙楽太子のお守りを差し出す場面があります。
前回紹介した胎霊を捕まえるシーンで、謝憐は幻像を見ていないので、仙楽太子のお守りはここで出てきます。
「前にも一度与君山で出くわしたことがあってね。偶然なのか何か関連があるのか、私の前に現れたのはこれで二度目なんだ」が削られています。
p103の下段で、謝憐の女装が非常に人目を引くため、花城に服を借りることにして、清潔感のある白衣に着替える描写がありました。新版では、
「謝憐は彼に清潔な服を借りることにしました。不思議なことに、花城の方が身長は高いはずなのに、借りてきた紅い服はちょうど身の丈に合っていました。出る時、花城も着替えていて、紅い紐が細い三つ編みに編み込まれています。
花城は広間で何か考えていたようでしたが、謝憐が手で珠簾をかき分けて出てきたのを見て、少し息をのみます。謝憐はそんな表情を見て、もしかして着方がおかしかったのかと心配して、無意識に珠簾を少し下げて、珠簾の真ん中から覗きながら「おかしいかな?」と尋ねます。
花城の表情はすぐに普通に戻り、笑いながら言います。
「何でもない。何もおかしくない。とても良いよ」
このあたりの追加は甘いですね。旧版では謝憐は白い服を借りていたのが、新版では紅い服になっています。花城も紅い服なので、二人で並んで歩けば、きっとまるで婚礼のようです。
それに、紅い服を着る謝憐、とても珍しくて、素敵じゃないですか?
花城も一瞬息を呑んで、見惚れていたのではないでしょうか。そして、恥ずかしがる謝憐も、花嫁のようで可愛いです。尊いです。
p104で「謝憐の脳裏に思わず『虎の威を借る狐』と言う言葉が浮かんだ」という一文がありますが、新版では、
謝憐が思わずぷっと吹き出し、花城がどうしたの?と尋ねる描写になっています。
謝憐「何でもない。ある言葉が浮かんだだけだ」
花城「どんな言葉?」
謝憐「虎の威を借る狐」
花城は半分真面目で半分ふざけながら言います。「哥哥ひどいね、俺のことを狐だなんて」
謝憐はそれを聞いて言葉に詰まります。
p107の「あら!あんた・・・この前蘭菖に自分は勃たないって言ってたあの道士の兄さんじゃないのかい?」の場面が、「あら!あんた・・この前蘭菖に自分はダメだって言ってたあの道士の兄さんじゃないのかい?」に変わっています。
それに伴って、花城が意味深な視線で「勃たない」と言う言葉と謝憐を結びつけているような様子が、「ダメだ」言う言葉と謝憐を結びつけている様子、に変わっています。
その後の「まさか兄さんに人に言えないような病があったなんて、知らなかったな(p108)」はそのまま残されています。
千灯観のあたりは改変が少なく、p115「花城の手は冷たいのだが、手の中に包み込んでいると何故か熱い鉄の塊を握っているように感じて、それ以上力を入れることができなくなる」が削除されています。
その後の一輪の花を見つけるあたりは、p116の冒頭「謝憐は少しばかり呆然とした。遥か昔の記憶は埃に塗れた絵のようで、・・・」の文が削除され、
代わりに、少し後方の「宮観に花を供えるのは特に珍しいことではない。ただ、一般的には色鮮やかな生花の花束か、色褪せることのない手作りの造花を供えるものだ」が前に来ています。
そして、「火事だ!」「火事だ!」「極楽坊が火事だぞ!」でこの章が終わります。
このあたりは、大きな改変はないものの、いくつか加筆された部分があり、甘さが増しているように感じます。
次回からは新しい章、「怀鬼胎啼笑皆不当」の紹介です。
-----
余談です。
最近ドラマや小説で寝不足が続いて、寝不足になると次の日は頭が回らず調子が悪いのは鉄板なのですが、それを堪えて数日寝不足が続くと、もはや憂鬱になってきます。(自業自得)
睡眠欲以外の全ての欲が空っぽになって、心なしかブルーになってきます。(大袈裟)
ブルーになると、無意識に頭の中で、色々反省会が開かれます。
唐突ですが、一番キラキラしていた時期、皆さんはいつ頃ですか?
「いつでも今が一番!」と言える生き方が理想ですが、残念ながらそんなことはなく、自分の場合は間違いなく20歳頃です。
それからライフステージが変わり、月日が経っても、その頃のキラキラに優っていると思えることはありません。
希望や情熱に溢れていて、自分は何でもできると思っていた無敵の時期。
こんな仕事について、こんなところに住んで、こんなパートナーがいて、こんな生活をして...
事細かに理想を掲げていたけれど、振り返ってみると実現したのは二割あるかないか。
どこで何の選択を間違えたのか。分岐点は、思い返すと2、3あります。
もしあそこで別の選択をしていたら...と思わずにはいられない時もあります。
でもその選択をした時には、それが間違いなく最良の選択だと思っていたのです。
仮に、別の選択肢を取っていたとしても、理想の自分になれていた保証はありません。
何も選択を誤らないで人生を過ごし切るなんてできないだろうし、人と関わって生きていくということ自体、大きな変数を含んでいるので、自分の気持ちや意志だけではどうにもならないこともたくさんあります。
人生は思い通りにならないことが大半なのかもしれません。
何が正しかったかなんて、結局最後までいかないと誰にも分かりません。
それなら、当時の自分の判断を尊重して、自分だけは常に自分の味方で、自分の選択を肯定してあげたい。
色々悲観して、流されるままに生きることもできるけれど、
間違った(と今は思うような)選択を、この先振り返った時にどう「正しかった選択」に持っていけるのかが肝だと思います。
今は「間違った選択」と思えることでも、十年後に振り返って「なんだかんだあったけれど、あれが一番良い選択だった」と思いたいのです。
何でもすぐに思い通りになる世界があったとしたら、それは「呪い」みたいなものだという話を聞いたことがあります。
何の苦労も、努力もせずに、全てが思い通りになる世界は、何の張り合いも、充実感もないそうです。
道が険しいからこそ、たどり着いた時に景色が綺麗に感じられるものなのかもしれません。
「幸福というのは、最後の目的地のことではなく、旅の仕方のことなのである。Margaret Lee Runbeck」
自分の目的地にたどり着いた人は、その過程が一番楽しかった、と思うそうです。
目的地に辿り着く喜びよりもありますが、その過程を楽しむ幸せをより大事にしてみたいです。
真っ只中にいるとなかなか楽しむ余裕がありませんが、時折楽しむ気持ちを思い出しながら過ごしたいと思います。