今朝、
朝ドラの主人公の末っこの妹、
歌子ちゃんの歌う場面をみて
あぁ、
わたしの書くときは
歌子ちゃんが歌うときと
同じ。
そう思った朝でした。
はいり先生…もとい、
下地先生が歌子ちゃんに、
どんな時にも歌いなさいと伝えた力強い言葉。
わたしは、
子供の時、
自分の気持ちを話すことが苦手で
でも、感受性が強かったから、
溢れてくる色んな感情のやり場にいつも困ってて。
唯一助けてくれたのは
ノートと鉛筆だった。
わたしのノートは子供の時から
自分の感じたことがわんさか書かれててw
そう思うと…
ちゃんと自分の気持ちに
寄り添ってあげていたではないかって
今なら思えます
でも、人って
自分以外のひとから
優しい言葉を欲するときもあります。
昨日、息子の宿題の音読で、
聞き手が「ハイ!」と言ってください!と指示されて、ちょっと…めんどくさい音読ね…と思いつつ、ふざけて、違う場面で「ハイ!」とか言いながら、彼の音読に付き合っていたら
息子がわたしの「ハイ!」に
ふいに「かわいい」と言って。
わたしの「ハイ!」言い方が、(その時だけw)かわいかったらしく、言葉にして伝えくれました。
親って、
子供にしてあげられることを
いつも考えている気がします。
子供って
親がしてくれることを
当たり前に思っているところがあると思います。
それで…ちゃんと
両者の思いが通い合ってるw
時々、
余裕がなくなると
怒ったり、悲しくなったりしちゃうけど
もし、子供が、受け取るのが家族の仕事なら
ちゃんと役目を果たしてくれてて。
子供の言葉に
わたし、いまの…かわいかったんだ
(by息子にとって…w)
なんというか、ハッとして
間を空けてもらったような感覚を感じてしまった。
家族の中にあって、
親や子供としての役割だけでなく、
ひとりの個として存在してることを
大切にしたいと思っているけど
息子のそんな言葉によって、
キューと締まってた感覚が緩んで
なんとなくいつも“あれやった?これやった?”みたいな、見守るより、見張ってるんじゃないのか?という自問に罪悪感を少なからず感じながら、日常の中にそんな思いを隠してたのが、息子の言葉で顕になって…同時に癒されている。
近しい家族から気付けたけど、
家族だけに関わらず、
仕事や学校や…いろんな場面で
人の数だけ、自分以外の誰かのふとした言葉やしぐさや優しさで、自分を取り戻しているんだろうなぁって、考えさせられました。
昨日の息子のことでいえば、
わたしは、“親として、してあげるのが当たり前”の眼差しが大きかったなぁ…
こんな風に、息子から“してもらってること”っていっぱいあるんだなぁ…
暗黙にある“お母さんはこれをして当たり前”をこの頃、家族の中にそれぞれあるのを感じてて、
お母さんは、“彼らのためにしてあげよう”という気持ちなんだけど、
パパや子供は、“してくれるから、してもらって当たり前”な感覚が当たり前なんだろうなぁって感じてた。
そんな中で、
子供が、わたしに“その言葉、よかったよ”みたいな感覚で言ってくれたとき、
小学生になると、子供が親にそんなこと言わない・感じてないと思ってたわたしの親としての思い込みがあって、
なんかですね…
変えたいと思いました。
そんな、自分の親から継がれてきたような暗黙の当たり前を少し壊して、互いがちゃんと寄り添い合っていることをもっと自覚しようって思いました。