先日、ドッグトレーナーのシーザー・ミランの番組を久しぶりに見ました。
この番組のファンでした。BSのFOX無料放送が終了して以来のシーザーとの再会。
久しぶりのシーザー。
番組は以前よりエンターテインメント感がアップしてたように感じたけれど、シーザーの一貫した“リラックス”と“穏やかさ”への信念は変わらず。“やっぱりシーザーだ”と尊敬の念で満ちながらひとりごちてました。
リラックスは深淵な自分とリンクするパイプ。
精神的な有効性について(子供の頃から精神性な意味を知るのが好きだったので)実感を持っていました。
でも、その“リラックス”から生まれる物理的な効用性にわたしはあまり着目してこなかった…
久しぶりのシーザーの番組。
リラックスがもたらす物理的な効用について実証していました…いつも実証されていたのに、着目していなかった自分に気付いてハッとしました。
8月末に憩室炎で入院したわたしは、昨日、大腸の内視鏡検査を受けました。
病院が大の苦手で怖がりな自分。安定剤使用を希望したのだけど、緑内障があるためか、安定剤の量が少な目だったのかな?
検査の途中で目が覚めました。
それは、わたしがもっとも恐れていたことだったのに…検査を受けている感覚があったにもかかわらず、自分が寝ていたことに全く気づきませんでした。
自分が寝ていたことに気づきなかったこに物凄く驚いて…なんだか、ショックでした。
はじめての大腸内視鏡検査。
怖くてたまらなかった。
どんな感じなんだろう?
痛くない?
どんなことするの?
誰か詳しく説明してほしい
20年くらい前、
胃カメラをうけたときは、こんな思いをするなら、次は死を選ぶとさえ思っていたのです。
当時と今の自分の事情が随分変わりました。
息子という存在が出来、わたしの願いと夢が新たに生まれ、
今は、
“死”より“身体”になっているこの頃のわたし。
しかし、
怖いものは怖い。
順番を待ちながら、マック(愛犬)にもっと優しくしようとか…忘れかけてた大切なコトがらについて思い返し、考え、怖さと向き合っていました(?…これは向き合っていたといえるのかな?いささか謎でありますが)。
ついさっきまでそんな自分だったのに、
検査中、目が覚めたわたしは 至って穏やかでした。
本当に驚きでした。
まだ安定剤が効いていたのでしょう。
リラックスってこういうことなのかな?と思いました。
安定剤なしに受けていたら、力みやら痛みやらで、わたしの中から色んな恨み節が湧いていただろうな…
先生から「いま、終わりに向かっています。あと20センチです。もう少しで終わります。どうしますか?(安定剤を足すか)」と聞かれ
あ。この感じなら平気かも…
安定剤を足さず、先生の話を聞きながら検査を全うしました。
体にカメラが入っている感覚。
20センチ…意外と長い?
今の仕事で長さの感覚は随分身についたと感じていたのに…
丁寧に見てくれているんだなぁ…
などと考えている。
検査前の腸内洗浄で20回もトイレに行きました。
少しお尻にひりっと感があったのだけど、いま、しっかりそれをガードしてくれてるものを感じてる。
カメラが抜かれても…痛くない。
安定剤からの全身に力みがないと実感できたリラックス。
自分ではとうてい導けない。
目覚めと安定剤の狭間で実感した効用。
すごいなぁ…
シーザーが二言目には伝える“リラックス”
その意味を理解したような気分でした。
検査では、
特に注意すべき特別なものもはなく、綺麗な自分の腸と対面して、感動して、ホッして、嬉しくて…お腹ペコペコで…乾杯したい気分でした。
だって、一か月以上もこの日まで何気に緊張していたんだものね。
love & free せち
リラックスって、サラリとしてますね。
実感からのドラマチックの大きさは、力みに比例するのかもしれませんね。