はじめに

 みなさん、こんにちは。本野鳥子です。前回、次回は「ギリシア人の物語 Ⅲ」とお伝えしましたが、読み始めた三浦綾子さんの「塩狩峠」があんまり面白かったので、一気読みしてしまいました。ということで、予告とは異なりますが、三浦綾子さんの「塩狩峠」についてです。文明開化の波の中に生きた、一人の青年の生涯を追いかけます。

 

「塩狩峠」三浦綾子(新潮文庫)

 キリストを、ひいては神を、信仰することとは、どこに帰着するのかを、教えられた気がする。キリスト教の真髄が、詰まっている永野信夫の人生に、感銘を受けた。

 

 このブログを読んでくださっている方はご存じのことと思うが、私は今「背教者ユリアヌス」の途中である。キリストの教えを信じる者と、逆らう者。舞台は全く異なるが、主題が相反していて、この「塩狩峠」を読んでいる間、私は心のどこかでずっと、ユリアヌスを裏切っている……というようなおかしな罪悪感を抱えていた。

 

 

 しかし、読み終わってみると、キリスト教を信じる、信じないに関わらず、ユリアヌスにも信夫にも、共通するものがあるような気がした。それは、人を愛する、ということだ。まだ「背教者ユリアヌス」の方は全4巻のうち3巻の途中なので、何とも言えないが、二人とも人を信じるということにかけては、同じものを持っている気がする。

 

 では、そんな二人が、どうしてキリスト教に関しては全く異なる道を選んだのか。

 

 私はそれを、信仰として見るか、それとも哲学として見るか、の違いだと思う。信夫は、ただひたすらにキリスト教を信仰した。しかし、ユリアヌスは古代ギリシャなどの哲学を踏まえて、キリスト教を見たのだと思う。ユリアヌスであっても、貧しい人々にパンを配る修道士たちの姿には、心を動かされていた。ユリアヌスが嫌ったのは、キリスト教の制度であり、権力を争う司教たちだったのではないか。そう考えると、信夫とユリアヌスの間に同じものがあることも、何ら不思議ではなくなってくる。

 

 結局、人間は人間が善なることを信じたいのではないだろうか。それが真であるかは全く別の問題であるが、人間は所詮悪者なんだ、という認識で生きていけるほど、私は強くない。人を信じたいし、その信頼を裏切られれば悲しい。少なくとも私はそうだ。そのような自分の弱さを、どこにすがって支えるかが違うだけなのかもしれないと感じた。弱さを認めた上で、受け入れてくれるのがキリスト教なのだろう。

 

 神がいるのかいないのか、それは私には分からない。だが、人智を超えた存在を考え、謙虚になるという姿勢は、その如何に関わらず、忘れるべきではないと思った。

 

おわりに

 というわけで、「塩狩峠」についてでした。図書館の返却期限が迫っていたので、「背教者ユリアヌス」と併読する羽目に陥ったわけですが、思いがけない収穫だったと言えるかもしれません。

 

 キリスト教文学に最近興味を持って、ちょこちょこと読んでます。今のところ、以下の二つです。よろしければこちらもご覧ください。

「沈黙」遠藤周作

 

「フラニーとゾーイー」サリンジャー

 

 

 さて、次回こそは、「ギリシア人の物語 Ⅲ」になると思います。「背教者ユリアヌス」のほうもぼちぼち。それではまたお会いしましょう。最後までご覧くださり、ありがとうございました!