はじめに

 みなさん、こんにちは。本野鳥子です。今回は、サリンジャーの「フラニーとゾーイー」の感想記事になりました。目を通していただけると嬉しいです。

 

「フラニーとゾーイー」J.D.サリンジャー(新潮文庫)

 若草色の小さな本。そこに主張される神への信仰の手段に、フラニーは取り憑かれた。体調まで崩しながら、自らの理想を追いかける彼女の姿に、ボーイフレンドのレーンや兄のゾーイーは心を傷める。何が、そこまで彼女を突き動かすのか。

 

 捉えどころのない感傷を、心に置いて行かれたような、そんな気分になった。

 

 自分の文章力に悔しさを覚えるのは、こういうときである。捉えどころのない、と書くところを、私の読んできた作家ならば、こういう気持ちも見事に文字に落とし込むのだろうに、私ではそれに到底及ばず、一言で片付けようとしてしまう。どんな気持ちも筆で描けるようになるのは、いったいいつのことだろうか。

 

 前回読んだ遠藤周作の「沈黙」に、こんな文章があった。

「違う。基督教の神は日本人の心情のなかで、いつか神としての実体を失っていった。」

 キリスト教の発展した欧米では、社会の根底にそれがあると思う。多分、そこで育った人々は、意識せずともキリスト教的価値観をすり込まれているのではなかろうか。

 

 だが、日本ではそういうわけにはいかなかった。日本には、八百万の神がいて、仏がいた。だから、キリスト教はそこに加わった、いわば異物だったのだと思う。現在はどうなのか、と考えてみると、当初に比べればキリスト教の価値観も入ってきているのかもしれないが、やはりそれは欧米には及ばないだろう。国がどうこう、ということで片付けたくはないのだが、歴史的背景に触れることは避けられない。

 

 そのような日本で育った私には、キリスト教の信仰が分からない。分からないから、知りたくなった。だから、キリスト教方面の文学を読んでみようと思ったのではないか、とこの「フラニーとゾーイー」を読んでいて気づいた。中世ヨーロッパを舞台とした歴史小説などを読んでいると、どうしてもキリスト教への信仰、という点で引っかかりを覚えてしまうのだ。

 

 なぜ、ここまで神に入れ込むのか。それが分からなくて、人物の重要な動機の一つにもなり得るものが、理解できなくなってしまう。それまでどんなに感情移入できていたとしても、その点で私は登場人物たちと心を共にできなくなってしまうのだ。だから、キリスト教の信仰とは何か、を理解したくなった。決して、キリスト教とは何か、ではないのだと思う。そこまでして人々を入れ込ませる何かを、私はキリスト教、ひいては宗教にたずねずにはいられない。

 

 この「フラニーとゾーイー」でも、やはり神をそこまで熱心に求める気持ちは分からなかった。分からない、というのとは少し異なるのかもしれない。何かがかすめていったような、そんな感覚だけは、心に残った。上手いたとえだ。どこかであなたの存在を心の支えにしている、「太っちょのオバサマ」。それがキリストだと、ゾーイーは、シーモアは言うのだ。分かるような、分からないような。でも結局、宗教というのはそのような、つかみ所のないものなのか。

 

 キリスト教の文学を読みたくなった、その理由だけは、自分の内面に発見することができた。

 

 積極的に、この作品を再び読むことは、あまりないかもしれない。でも、それは決してこの作品が嫌いだからではなく、むしろ、記憶に刻まれすぎて、読む必要を感じないからだと思う。人生の岐路に立ったとき、自然と心のどこかで、この作品が私の背中を押すかもしれない。それが良いことかどうかは、誰にも、私にすらも分からない。

 

おわりに

 改めて自分の書いた文章を読み返してみると、この文章も何を伝えたいのかよく分からないものにできあがってしまった、というのだけがよく分かるものですね。わからないから、分かろうとする。それは、決して道徳心でも何でもなく、自然の欲求なのだと思います。

 

 さて、次回は家にあるキリスト教系の文学がちょっと見つからないので、他の本を読むことになると思います。でも、また戻ってきますので、ぜひご覧ください。最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!