はじめに
みなさん、こんにちは。本野鳥子です。今回は、遠藤周作の「沈黙」を読んだので、それについて書いていきたいと思います。どうぞ、お楽しみください。
「沈黙」遠藤周作(新潮文庫)
江戸時代、キリスト教への厳しい迫害の中にあって、日本を訪れたポルトガル宣教師、ロドリゴ。かつての師フェレイラを探し、役人から追われ、逃げ惑う生活を送る中で、彼は自分自身の信仰を見いだしていく。
どうしてこの本を手に取ろうと思ったのかというと、単純にキリスト教への興味が出てきたからである。塩野七生さんの作品をいくつか読む中で、これほどまでにヨーロッパ世界に影響を与えるキリスト教とは、いったい何なのか、を改めて知りたくなったからだ。それも、キリストそのものではなく、キリスト教、と称される団体についてだ。
そもそも、私はあまりキリスト教に対して良い印象を抱いていなかった。なぜなら、私が一番最初に触れた外国の神は、ギリシアの神々だったからだ。偕成社文庫の「ギリシア神話」を読んで、その解説かどこかに、ギリシア神話を信じる者は、キリスト教の台頭により姿を消していった、とあったような気がする。私は、そのギリシア神話を心から楽しんで読んでいたから、自然とキリスト教に対しては、敵愾心のようなものを持っていた。
だが、その後紆余曲折あって、今はもうそれほどまでの嫌悪はない。とはいえ、ローマ帝国における多神教と一神教の対立などでは、まだ多神教の味方をしてしまう。ちなみに日本の神道や仏教に関しては、ギリシア神話ほどの思い入れはないから、我ながら首尾一貫からはほど遠い性格である。
さて、前置きが長くなったが、そんな中でこの「沈黙」を読んだのである。
まずは、主人公ロドリゴの信仰心の強さに心を打たれた。キリストへの信仰はなくとも、それをどこまでも追いかける人の姿には、感銘を受けることだと思う。そこまで人を惹きつけるキリストとは誰なのか、一層興味が湧いた。
キリストへの愛ゆえに、その愛を裏切る、という選択。それと戦うロドリゴの姿には、改めて私自身も、神とは何か、を思うきっかけになった。私はいわゆる、無神論者というのか、神がいるかどうかにさして真剣に向き合ったこともなく、日々、目の前のことを解決するのに精一杯で、超越者の存在など、ほとんど気にかけない。天照大御神がいると言われれば、首をかしげるだろうが、かといってキリストの実在を主張されても、同意する気にはなれない。
そんな私だが、いざというときに頼る存在があるのは心強いことなのは間違いないだろう。その重要性は、この本からとても感じた。自分を完全に預けられる存在があるならば、人はこんなにも強くなれるのか、と感心する。どこの世界においても、宗教というのは良い側面と悪い側面を併せ持つものなのだと、改めて認識した。
どんな法律も制度も、人の自由な思考を妨げることはできない。自由な思考こそ、人間がもっとも得意とすることなのだから。
おわりに
ということで、次回もちょっとキリスト教関係を読みたいと思います。中国の歴史のほうも手をつけたくなってきました。もっとも、私にとって歴史というのは、いまいち実感を伴わない、物語のうちの一つのような感じが拭えないのですが……。それでも、一番壮大で、一番作り込まれたのは、現実の歴史であるのでしょう。
では、また次回。最後までお読みくださり、ありがとうございました!