「日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題」を読んで・・・! | マンボウのブログ

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こんな本を図書館から借りてきた。チョキ

 

 

   中公選書<br> 日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題―文化の架橋者たちがみた「あいだ」

 

本片岡真伊「日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題―文化の架橋者たちがみた「あいだ」」(中央公論新社 2024)

 

 

<内容>

メモ日本文学は「どうしても翻訳できない言葉」で書かれてきた、と大江健三郎は言う。事実、谷崎も川端も三島も、英訳時に改変され、省略され、時に誤読もされてきた。なぜそのまま翻訳することができないのか。どのような経緯で改変され、その結果、刊行された作品はどう受け止められたのか。米クノップフ社のアーカイヴズ資料等をつぶさに検証し、一九五〇~七〇年代の作家、翻訳者、編集者の異文化間の葛藤の根源を初めて明らかにする。

 

<目次>

序章 日本文学翻訳プログラムの始まり―ハロルド・シュトラウスとクノップフ社
第1章 日本文学の異質性とは何か―大佛次郎『帰郷』
第2章 それは「誰が」話したのか―谷崎潤一郎『蓼喰ふ虫』
第3章 結末はなぜ書き換えられたのか―大岡昇平『野火』
第4章 入り乱れる時間軸―谷崎潤一郎『細雪』
第5章 比喩という落とし穴―三島由紀夫『金閣寺』
第6章 三つのメタモルフォーゼ―『細雪』、「千羽鶴」、川端康成
第7章 囲碁という神秘―川端康成『名人』
終章 日本文学は世界文学に何をもたらしたのか―『細雪』の最後の二行

 

<著者>

 

  片岡 真伊|国際日本文化研究センター(日文研)

 

指輪片岡真伊[カタオカマイ]
国際日本文化研究センター准教授、総合研究大学院大学准教授(併任)。1987年栃木県生まれ。ロンドン大学ロイヤルホロウェイ(英文学)卒業、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン修士課程(比較文学)修了。総合研究大学院大学(国際日本研究)博士後期課程修了。博士(学術)。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院シニア・ティーチング・フェロー、東京大学東アジア藝文書院(EAA)特任研究員を経て、2023年より現職。

 

 

著者による「あとがき」の最後は、こう締めくくられている。

 

   メモ・・・本書で取り上げてきた戦後直後の日本文学の英訳に携わった翻訳者や編集者たちが経験した諸問題や葛藤の領域は、越境を経験したことのある人ならば、誰しもがどこかで直面したことのあるものだろう。越境の現場、あるいは言語・文化のあいだに身を置く人たちにとって、本書でみてきたような懸隔を乗り越えようとした人たちがその昔在ったこと、そして彼らの試みから様々な可能性が拓かれたという事実そのものが支えとなってくれればと思う。そして、その隔たりを乗り越えた先に、さらなる創造の連鎖や移植先で新たな命が芽吹き、かつてのゲーテがそうだったように、その瑞々しさを味わう悦びに繋がることを切に願いつつ----。・・・(p.360)

 

 

   メモ・・・これらの小説の英訳は、いずれもクノップフ社というアメリカの出版社から刊行され、カワバタ、タニザキ、ミシマ、いわゆる「ザ・ビッグ・スリー」(御三家)が世界的に認知される契機にもなった。1968年に川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞したのも、また谷崎や三島が幾度かノーベル文学賞候補に挙げられたのも、このクノップフ社の英訳によるところが大きいといわれている。・・・(p.iv)

 

「はじめに」では、こう語られている。

 

 

目次のなかから、この章が興味深かったなあ。。。

 

キラキラ第七章 囲碁という神秘----川端康成『名人』

 

 

      The Master of Go 川端康成 1972年 アメリカ初版 第3版 - 画像1/6

 

 

川端康成が自分の作品の中で、最も気に入っていたのが、この「名人」であり、囲碁の名人戦観戦記ノンフィクションをフィクション化したものである。ところが、この作品の英訳については、英語圏では囲碁がそれほど盛んではないということで、後回しになっていた由。ところが、川端康成が自害した年に刊行されると増刷をするほどの人気を得たのだ。それには、さまざまな要因が重なったにしても、予想外の結果であった。

 

当時の状況では、チェス世界選手権が行われて、ソ連のお家芸と言われたチェスの王座をアメリカ人のボビー・フィッシャーが奪還したことなどが挙げられている。

 

興味深いのは、サイデンステッカー訳での、囲碁における「残りの一分間」で、持ち時間を使い果たすと、一分間で打たないと負けになるというルールで、"in the final minute" という訳語で百手も百五十手も打つというところを、一分間でそれだけ多くの手を打つというふうに訳してしまったので、それは勘違いも甚だしい・・・つまり、囲碁や将棋では、残りの一分間で一手を打てば(将棋では指す)次々と更新されるので、いくらでも手数は伸びるのだ。

 

  in the final minute make a hundred plays and a hundred fifty plays, with (後略)

 

この英文を読めば、明らかにサイデンステッカーは囲碁のルールを知らなかったのではないかという疑問が湧いてくるのだ!ニヤリ

 

 

   メモ・・・実のところ、この箇所は、秒読みの最後の一分間のことを指しており(川端は、時間内に次の一手を打てば[ 対局時間が ]長く更新される}[ 意味合いでの ]「残りの一分間」と正確に書いている)、こうした手を百手以上も繰り出すこと、つまりそのような打ち合いが数時間も続くことがあると言っているのだ。・・・(p.310)

 

 

キラキラ第六章 三つのメタモルフォーゼ

 

   メモ・・・異なる文化環境への移入を迫られる翻訳文学には、新たな環境で生き永らえるため、それまで身につけたことのない衣服や姿かたちが与えられることになる。例えばそれは、『細雪』から The Makioka Sisters (『蒔岡姉妹』)へと改変されたタイトルであり、新たに付与された英訳版タイトルは、「雪子の物語」から「姉妹たち、あるいは一族年代記」へと話の主軸を移し替え、移植先に先行する文学との新たな結びつきや反応を引き出す促進剤となった。また、移植先で新たに作製されるカヴァーは、原著とは異なる読書環境、文化背景のもとに形作られた出版業の体質に応じて、その姿かたちを変え、さらに、移行過程に携わる人物によるテクストの読みや編集者やデザイン担当者による想定読者たちの趣味判断など、さまざまな諸要因が交錯した結果、原著者の想像の限界を超えるようなものが生み出されることになる。だが、原著からかけ離れた様相を見せるのは、装幀の場合に限らない。英訳される小説、特に個々の作品よりも、特定の著者の出版リストを増やし、著者像を確立することが求められる英語圏の出版環境では、著者像を構築する基礎となる著者の視覚イメージもまた、その紹介の段階や認知度に応じて、様相が徐々に変化することになる。・・・(p.270-1)

 

 

ふむふむ。出版業界もそれぞれのお国柄があるのだわい!口笛

 

 

キラキラ終章 日本文学は世界文学に何をもたらしたのか

 

   メモ・・・ウィルソンの出席した第二十九回国際ペン大会では、アジアでの初開催ということもあり、「東西文学の相互影響」というテーマが掲げられていた。そのため、この大会では、東洋における西洋文学と西洋における東洋文学を比較した際に浮き彫りとなる認知度の不均衡、そしてその問題と切り離すことのできない、文学作品の翻訳の輸出入にまつわる課題について議論が集中することとなった。翻訳に関する論議が重ねられるなか、会期中の討論でウィルソンが提案したのは、西洋側のペン・センターで、英語圏の出版社がまだ英訳していない著作のリストを作成・提供すること、そして、アジア諸国の著作の翻訳を促すための書評システムを構築することであった。・・・(p.333)

 

 

   メモ・・・このように、小説を翻訳するということは、単なる言語の置き換えではなく、言語と言語、文化と文化、小説とノヴェルをも含む、様々な「あいだ」でのせめぎ合いを通じて訳文を練り上げることを意味する。さらに、そのせめぎ合いでなされる判断には、各文化圏における「現実感」(リアリティ)のあり方の違いや、作為的・無作為的なものがどこまで求められ、許容されるのかなどの、比較文化論までも関わってくる。・・・(p.354)

 

 

このように翻訳論が比較文化論にまで視野を拡げるところが興味深いわ!グラサン