アフリカ旅(5日目-その4)世界が震えた音楽、クイーンの原点で見た《驚愕の事実》! | 西方見聞録(旧パリレポート)

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2015〜2020年パリ、2020年4月に本帰国しました。帰国後も”これは!”と思うものを探し、レポートしています!!

アフリカ旅5日目パート4。

と、このアフリカ旅5日目、
パート4までとかなり
長くなってますが、

この日を書いてる間に
パリに戻ってきてしまいました💦

なので既にパリにおりますが
引き続きアフリカ旅の話を
書いて参ります!

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この5日目は
ザンジバル島のストーン・タウンに
昼過ぎぐらいに到着し、

不思議な市営マーケットを見て
旧奴隷市場で学び、

夕方お土産を買って、店の方に
お勧めのレストランを聞くと、

「あー、それなら
海辺にシーフードの屋台が出てるから
行ったらいいさ」

とのこと。

で、早速向かった
フォロダニ公園の屋台村。
真ん中の木をぐるっと囲むように、四角形の形で屋台が並んでます

こちらの屋台村、
お客さんは外国人ばかり。

特に白人、お金持ちそうなアラブ人の
姿が目立ちます。

完全に外国人向けの
屋台村です。

売っているのは
主にシーフードの串焼き。
どこの店も同じようなものが売ってます

えび、貝などの魚介類に加え、肉の串刺しもたくさん売ってます

美味しそうーラブ
いくらぐらいするんだろう。

やっぱりアフリカだから、
安いのかなーウインク

と、お店の人に値段を聞くと、
ビックリ!!

ほぼ日本で食べるのと
同じぐらいの価格!!

え! 高くない??

と、奥さん、ここでもまた
値段交渉。

屋台村一周回って、
「あっちの店は、同じやつ
●●シリングだったよ」

「これとこれセットにしたら
いくらになる?」

など、
お店の人もタジタジ。

白人の方やお金持ちアラブは
ほんと気前がいいので

お金のことなど気にする様子もなく
注文しています。

奥さんはお金にシビアなので
交渉を結構頑張りましたが
そもそもベースが高いので
結局高い、、、
値段交渉中の奥さん。イスラム圏で見かけるいつもの風景、、、

高いけど、折角だから
買いますか、、、

と、ロブスター、イカやエビ、タコ、
魚などの串刺しをオーダー。
注文したシーフードなどを、食べやすいようにカットしてくれます

奥さんとの2人分でこの量。
注文した串焼き。食べにくいので、一部の串は取ってもらいました

これで大体4万シリングぐらい。
日本円だと、約2000円。

んー、どーだろう、
日本の屋台でも、2000円ぐらいで
食べれるのでは?えー?えー?

タンザニアの物価は
恐ろしく安いのですが、
外国人旅行者向けの料金は
それに比べるとかなり高いです。

現地の人と同じものを食べるのも
旅の楽しみなのですが

今回は一度お腹を壊した経緯もあり
現地の方が食べているものに
トライしませんでした、、、

残念、、、

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お腹が一杯になり
どこかでお茶しよう、
と立ち寄ったのが

ほとんど外国人観光客が
お客さんだった
〈ストーンタウン カフェ〉という
ちょっとお洒落なカフェ。
(値段は一杯150円ぐらい)

こちらのカフェで出てきたコーヒーが
こちら。
独特の入れ物に入って出てきました

こちらの入れ物は
中東エリアを旅行すると出てくる
“ジェズヴェ(イブリクとも)”というもの。

コーヒー豆は
アフリカ・エチオピアが原産ですが、
コーヒーを飲んで楽しみ始めたのは
中東エリアから。

《コーヒーが世界に広まったルート》
コーヒーはエチオピアからイエメン→トルコ→イタリア→イギリス→フランスと伝わっていきました
※visual.ly参照

アフリカから中東に伝わったコーヒー豆は
最初はすり潰して熱湯をかけて
飲まれていましたが、

やがて焙煎され、香りを楽しみながら
飲まれるようになり
中東のイスラム社会で広く浸透。

その後トルコに伝わったコーヒーは
上の写真の”ジェズヴェ”を用いて、
水から煮立たせて
上澄みだけ飲まれるように。

これが「トルココーヒー」と言われ、
今でも中東、北アフリカ、バルカン半島では
伝統的にこの方法で飲用されている、
てなことです。

以前ボスニア・ヘルツェゴビナで
お土産に購入しましたが、
結局何回かしか使わず、、、

やっぱり、粉っぽく
なってしまうんですよねー、、、えー?
(今では行方不明、、、)
こんな感じでカップに注ぎます

久しぶりに飲みましたが、
やっぱり粉っぽい、、、

でも、ジェズヴェがお洒落で
いい雰囲気を醸し出していたので
美味しい気がしましたウインク

(ドリップコーヒーはフランス発祥で1800年ごろから)
(エスプレッソの原型はフランス人の考案で1819年。エスプレッソマシンはイタリア発で1901年から)
(インスタントコーヒーは日本発祥で1899年から)
※UCCのHPより

そして、こちらのカフェで
頂いたケーキが、
下の〈デーツ〉のケーキ。
日本ではあまり聞かない(と思いますが)〈デーツ〉のケーキ

〈デーツ〉は”ナツメヤシ”の実で
味は干し柿をもう少し甘くしたもの
といった感じ。

中東や北アフリカで
よく見かける果物ですが、
パリでもたくさん売ってます。

そのデーツのケーキ、
お味は?

めっちゃうまい!!
ラブラブラブラブラブ

しつこくない甘さで
これは最高です!
日本でも売り出したら人気出そう!
(デーツのソースも絶品でした!)

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と、えらい長い1日となった
5日目。

最後はからゆきさんの家と
クイーンのボーカル、
フレディー・マキュリーの生家を
チラッと見てホテルへ。
ストーンタウンにある〈からゆきさんの家〉

〈からゆきさん〉とは
日本からやってきた娼婦さんたち。

1894年から彼女達はやってきて
最盛期には10数人を数え、
わずか50年ほど前まで
ここで生活していたとのことです。

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そして最後に
クイーンのボーカル、
フレディ・マーキュリーの生家へ。
クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの生家(写真は翌日明るい時に撮ったもの)

こちらの建物は、今はホテルになっていて
入口にフレディの写真とストーリーが
書かれたパネルが展示されています。
ホテルの入口。〈フレディ・マーキュリー ハウス〉と書いてあります

フレディとその家族がここに住んでいた、と書いてあります

“クイーン”と聞いて
ピンと来ない方ももしかして
いるかも知れません。

“クイーン”はイギリスが生んだ
偉大なロックグループ。

1973年にデビューし、
アルバムとシングルセールは
世界第5位の5億枚。

「世界で最も売れたアーティスト」に
名を連ねています。
(ウィキペディアより)

1991年にボーカルのフレディが
HIV感染合併症により45歳で死去。

以後も断続的に活動は
続けられていますが、

クイーンとはすなわち
ほぼフレディと言っていいと思います。

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私は高校時代、洋楽ばかり
聴いていましたが、

高校時代はクイーンに対し
古いイメージを持っていて
(クイーンの全盛期は70年代〜80年代)
全く関心がなくて聴いておらず

大学一年のサークルの合宿で
先輩の車から流れてくる
クイーンの曲を初めてちゃんと聴き
ショック!!

後部座席で聴いていたのですが
初めて聴く壮大な世界観、
自分の中にずっしりと入ってくる
ボーカルの力強い歌声、

変化に激しく
強く訴えかけてくるような
メロディー。

私「すいません! これ、誰の曲ですか!?」
先輩「え? クイーンだけど。え、なに? 知らないの?」

もうこの頃には
フレディはすでに亡くなっていて
先輩からすると
〈なんで知らないの?〉といった感じでしたが、

衝撃を受けた私は
合宿から帰った次の日に
CDショップに走り速攻購入。

以来、大ファンとなったわけです。

クイーンの曲は
テレビのCMでもよく使われているし
どこでもよくかかっているので
知っている方が多いと思いますが

(ファンの方も多いと思いますが)

もし、〈知らない〉という方が
いらっしゃいましたら、

騙されたと思って
ベスト盤を聴いてみることをお勧めします。

今聴いても、
やっぱり凄い曲だらけです。

『ボヘミアン・ラプソディ』
『キラー・クイーン』
『ウィ・ウィル・ロック・ユー』
『伝説のチャンピオン』
『ドント・ストップ・ミー・ナウ』
『バイシクル・レース』
『ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』

と言った代表曲をはじめ、
彼らの曲はおそらく今後もずっと
人々に愛され続けることでしょう。

聴いたことのない方は
騙されたと思って一度
下の2曲を聴いてみてください!!おーっ!

『ボヘミアン・ラプソディ』再生回数6億回、、、


『ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』愛する気持ちをしょうもないほど直球的に情熱的に歌う歌です
→(日本語訳付き)https://youtu.be/TDj3PMAW6yY

なお、たまたまですが、
このクイーンの伝説を描いた映画、
『ボヘミアン・ラプソディ』が
今年の秋11月に公開されるそうです!

伝説のバンド〈クイーン〉のボーカル、フレディ・マーキュリーの物語です

超見たい!爆笑爆笑

日本に帰ったら
絶対見ます!!

映画のホームページ貼り付けておくので
興味のある方は是非チェックしてみてください!

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ちょっとしつこいですが、
上のボヘミアン・ラプソディ、
聴いたら歌詞がとても変わっているので、

「何が言いたいんだ、この歌?えー?
と思われた方も多いと思います。

(分かりやすいように、
英語の歌詞と日本語字幕が入ったバージョンも
添付しておきます)

とても不思議な歌詞ですが、実は深い意味が、、、

母さん、たった今、
僕は人を殺してきたんだよ。

奴に銃を突きつけて、
引き金を引いたら死んじまった。

母さん、僕の人生は
今始まったばかりなのに。

僕は自分の手で
それを捨てちまったんだ。

母さんを悲しませるつもりは
なかったんだ。

明日の今頃、
僕が戻らなくても

そのままでいて、
いつものようにしていて。

まるで何もなかったかのように。

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これは、フレディーの
告白な訳です。

何の告白かって、

それは、自分が
同性愛者であることの告白。

「たった今、僕は ”人” を殺してきたんだよ」

ここでいう ”人” とは
自分の中に押し込めてきた
同性愛を封じる気持ち。

おそらくフレディの中に
“人” とは、異性を愛する生き物である
という観念があり、

それを殺した、ということ。

つまり、同性愛のカミングアウト
なわけです。

自分がゲイであることを
世界に告白した歌。
※細かく言うとバイセクシャル

そして、フレディは
45歳という若さで
HIV感染(エイズ)による
合併症で死んでいきました。

フレディにとったら
この「ボヘミアン・ラプソディ」は
とても大切な歌だったわけです。

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と、このぶっ飛んだパフォーマンスの
ボーカル、フレディが生まれた家ですが、

え!? フレディって
イギリス人じゃないの?

と私は思っていて
今回彼がザンジバル出身と聞いて、

「あー、ザンジバルって
イギリス領だったから、
だからイギリス人なんだ」

と知り、さらに
この説明板を読んで

なんと、
フレディの両親は
ペルシャ系のインド人!

え! フレディって
じゃーインド人!?!?!?

ザンジバル生まれのインド人ですが、
民族的にはイラン人なわけです。

イギリス統治下のインドにおいて
パールシー(※)はイギリスによって
保護されたため、

(※イランからやってきたゾロアスター教の人々)

イギリスのインド統治の本拠地ボンベイで
強い経済力と支配的な地位を有することとなり

よって、フレディの親(パールシー)は
ボンベイ(現ムンバイ)で生まれた後、
イギリス植民地のザンジバルに
植民地会計官としてやってきました。

その息子としてザンジバルに生まれた
フレディですが、
8歳の時単身でインドの全寮制
英国式スクールに入学。
(お金持ち!)

日本でいう小中学生時代はインドで過ごし、
17歳のとき
再びザンジバルへ。

つまり、フレディは
ザンジバルで生まれるものの
ほぼインドで育った、

英国式教育を受けた
リッチなイラン人
だったわけです。


しかし、
ザンジバルに戻って1年足らずで
ザンジバル革命という
武装した黒人による
支配層のアラブ系・インド系の
少数民族に対する虐殺が発生。

1万人以上がこの時虐殺されましたが
生き残った人は財産を没収されながら出国。

フレディを含め家族は
ザンジバルからイギリスに逃亡しました。

と、そんな理由で
フレディはイギリスで17歳から過ごし、

学校を卒業後バンドを組んで
23歳の頃にクイーンの元バンドに加入し
その後バンド名をクイーンに変え、

世界に名を残す曲を
次々と世に送り出したわけです。
ホテルの入口に飾られていたフレディの写真

確かに、そう言われればイラン人に見えてきた

あー、確かにイラン人かも

その写真たちに混じっていたのが
フレディの幼少期の写真。
これはインド人っぽい!

インド人にも、イラン人にも見える、、

フレディは自分が
インド出身であることを
あまり言いたがらなかったようです。

やっぱりイギリスにおいては
インド人って言ったら
差別されたのかもしれません。

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でも、
何かフレディがインド人だった
と聞くと、

クイーンの曲とか
フレディの踊り、

インドの影響、ある気がしてきた!

あのボリウッドの踊りと
フレディのダンス、、、

何か共通点が、、、

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と、だらだら書いていたら
またまた長くなりましたが!(>_<)!

と言うわけで、
今回はこの辺で!

では!!
最後にフレディの家の周りの風景。フレディはこの道を走り回っていたんでしょうね!