アフリカ旅(5日目-その3)日本人の奴隷度は結構高い? 〈奴隷市場跡にて〉 | 西方見聞録(旧パリレポート)

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2015〜2020年パリ、2020年4月に本帰国しました。帰国後も”これは!”と思うものを探し、レポートしています!!

アフリカ旅5日目パート3。

セレンゲティからザンジバルに
飛行機で飛び、

この日はザンジバルの旧市街、
《ストーン・タウン》を色々見て
過ごすことに。

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前回は、
突っ込みどころ満載の
不思議な〈市営マーケット〉について
レポートしましたが、

このザンジバルで最も大事なのは
何と言っても、ここが
[奴隷貿易]で栄えた場所だと言うこと。

[奴隷貿易]とは、
その名の通り、[奴隷]を
売買する行為のことで

今では考えられない
非人道的なことですが

この商売は相当儲かったようで
その利益によってこのザンジバルは
東アフリカにおける
海洋帝国オマーンの首都となりました。

その中心地となったのが
現在は教会が建てられている場所にあった
[旧奴隷市場]
かつて[奴隷市場]があった場所に建つ教会

そして、その教会の横には
ここが[奴隷市場]だったことを示す
モニュメントがあります。

それが、こちら。
「Memory for the slaves」奴隷制の忌まわしい過去を忘れないために建てられたもの

こちらは1998年に
スウェーデンの彫刻家によって
造られたもの。
奴隷たちの表情が、その悲惨さを表しています

教会のすぐ横に建つ、
ザンジバルの奴隷貿易について
展示する資料館には

かつての奴隷収容所が
今も残されていて公開されています。

中に入ってみると、
階段を降りていきます

薄暗い地下室に入っていきます

ジメジメした空気が漂います、、、

不衛生な地下室に入ると
そこにあったのは、、、
奴隷収容所。狭い、とにかく狭い、、

天井が低く、屈まないと
移動できません。

暗くて狭くてジメジメしていて、、、

これはひどい、、、
ここに、売られる奴隷たちが
ギュッと閉じ込められていたそうです。
奴隷に括り付けるチェーンも残されていました

とても人間がする行為とは
思えません。

ほんとにひどいです。。。

ちなみに、奴隷収容所は
男女で分けられ、上の部屋は女性の部屋。

男性の収容所は
こちら。
もっと狭い気が、、、

ちなみに、写真では明るく見えますが
実際はかなり暗いです。

奥さんは部屋に一瞬入るなり
速攻退出。

「この部屋にいるなんて無理」
と言っていました。

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その奴隷収容所がある建物には
奴隷貿易の説明をする
展示室があります。
奴隷貿易について詳しく説明する展示室

奴隷貿易はどうやって始まり、
奴隷たちはどこから、なぜ連れてこられ
誰が、どこにどのように売ったかを解説。
移送される奴隷と、奴隷商人

奴隷を移送する船と、その内部構造

奴隷船に乗せられた奴隷たちは
船の中に押し込まれ

トイレも無く、
身動き取れない船底の収容所で
汚物にまみれながら

その多くが
目的地に到着する前に
奴隷船の中で亡くなったようです。

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《ここからは、奴隷について学んだことです》
※マニアックですが、共有させていただきたいので興味のある方は是非お読みください!

その奴隷はどこから来たのか。

展示室によると、
もともと東アフリカには
少数民族などマイノリティーを襲い、
奴隷にする文化があり

それを売買するマーケットが
存在していたとのこと。

8世紀にアラブのイスラム商人
(ムスリム商人)が
やって来てからは
彼らが奴隷売買の担い手となり

アフリカ大陸の内部で
獲得したアフリカ人奴隷を
主にアラブ社会やインドなどに
売っていたとのことです。
1500年から1900年における、奴隷貿易のルートです

上の図を見ても、
奴隷貿易の供給源は
ザンジバルにあることが分かります。

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ただ、〈奴隷の歴史〉という話では、
もともと奴隷売買は世界中にあり、

そもそも歴史的に活発だったのは
実はヨーロッパ人を中東世界に売る
奴隷貿易
ヨーロッパから中東社会などへの奴隷貿易のルートです

奴隷のことを英語で[スレイヴ]と
言いますが、
その語源は[スラヴ]。

[スラヴ(人)]とは
ざっくり言うとロシア人など。
(ウクライナ、ポーランド、セルビアなど)

つまり、
〈奴隷〉と言えば〈スラヴ人〉、
これが一般的な認識で、

このスラヴ人、それに加えて
ゲルマン人(ざっくりドイツ人)が
中世における奴隷貿易の
商品だったとのことです。

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このように奴隷と言えば
〈スラヴ人〉〈ゲルマン人〉
でしたが、

その後、それらに加えて
イングランド人、アイルランド人、オランダ人
なども奴隷として多く売買されるように。

と聞くと、
〈ヨーロッパ人が中東に奴隷として
売られていたなんて信じられない!〉
と言う声が聞こえてきそうですが、

実はルネッサンスが盛り上がる14世紀まで
ヨーロッパは自給自足の社会で
貨幣経済は発達しておらず、

それまでは文化、経済ともに
中東やアジアの方が
豊かで進んでおり、

(ルネッサンスはそもそもは11世紀からの十字軍遠征によって接触したイスラム文化の摂取、及び中東社会が研究、有していたギリシャ・ヘレニズム文化の取得)

ヨーロッパは中東やアジアから
〈香辛料、綿、絹、染料、砂糖、薬品〉など
大量な商品を購入する一方、

ヨーロッパには中東・アジアに
輸出できる商品がほとんどなかったので
(羊毛、銀、皮革、蜜蝋程度)

奴隷はヨーロッパにとって
中東・アジアに輸出できる
重要な商品だったわけです。

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やがて、このような
[奴隷貿易]の構造は、
ヨーロッパがアメリカ大陸で行った
〈大西洋奴隷貿易〉に受け継がれていきます。

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1400年代、
イスラム勢力を避ける形で
ヨーロッパがアジアとの交易を目指した
大航海時代が始まると
(warof.jpより画像拝借)

ヨーロッパ諸国は
たどり着いた土地どちで植民地獲得→
プランテーションを開始。

プランテーションとは
〈単一作物を大量に栽培する大規模農園〉
ですが、

そこで「安価な労働力」として
用いられたのが奴隷でした。
(最初は原住民。ただ、原住民はヨーロッパ人が侵略過程で虐殺しまくったことに加え、過酷な労働、そしてヨーロッパ人が持ち込んだ感染病などでほぼ絶滅)

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プランテーションは
1500年代のポルトガルによる
ブラジルでの〈砂糖〉生産が始まり。

元々〈砂糖〉はニューギニア原産で
(ニューギニアはインドネシアの横)
インドで加工技術が発達し、
イスラム商人によってヨーロッパに
輸出されていました。

砂糖は当時、高価な貴重品。

アジア産のものを
イスラム経由で買うより、
侵略・植民した土地で奴隷を使って
作った方が安上がりだし儲かる!

と言うわけで、
ブラジルでの生産を皮切りに
イギリスによるカリブ海での生産も
スタート。

次第に砂糖だけでなく
タバコ、コーヒー、ゴム、綿などの生産も
行われるようになり、

ポルトガル、イギリスだけでなく
オランダ、フランスの植民地でもスタート。

巨大なプランテーション産業に
多くの奴隷が必要とされました。

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それまで、奴隷貿易のメインは
前述したようにザンジバルからの
アフリカ東海岸でしたが、

アメリカ大陸への奴隷輸出で
メインはアフリカ西海岸へ。
矢印の太さが輸出量。西海岸の量は、東海岸と比較になりません

アフリカ東海岸と比較にならない
奴隷の数が南米やカリブ海に輸出されてますが

それらは、ヨーロッパ人が
アフリカを占領して、現地の黒人を
捕まえて連れて行ったわけではありません。

アフリカ西海岸には
数々のアフリカ人の王国が存在していて
その王がヨーロッパから武器を購入。

その武器で周りの国を攻めて
奴隷を獲得。

国の王様によって取引されたので
その数は莫大なものとなりました。

アフリカ西海岸の王は
武器が手に入るほどに戦争を拡大し
もっと奴隷を獲得。
奴隷を売って
ますます武器が手に入る
戦争を拡大。奴隷獲得
ますます奴隷を売りつける

このスパイラルと
アメリカでの奴隷需要が重なって
アフリカ西海岸の奴隷貿易は
拡大していったわけです。

(このスパイラルによってアフリカ社会は崩壊。今日の発展の遅れの原因となり、またヨーロッパの植民地政策による民族分断などがその後の紛争の元凶ともなっている)

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その奴隷制度を利用した
プランテーションで
イギリスは莫大な富を得て

その富を元手に
産業革命を推進。

産業革命→戦艦など軍事産業の進歩→
世界はヨーロッパが征服

となり、今日に至るわけです。

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話は戻って〈奴隷資料館〉ですが、
最後はどうやって奴隷制度がなくなったか、
についての説明で締めくくられています。

それによると、
[奴隷制度]の廃止を推進したのは
イギリスによるもの、

とのこと。

“奴隷制度はよくない”
という博愛的な精神から
紳士の国、イギリス様が立ちがって
奴隷制度の廃絶運動を開始。
どうやって黒人奴隷は自由を手に入れたのか、を説明

その推進者と言うのが、下の写真の
イギリス紳士。
この人、とのこと

その後、奴隷解放に加え
身体的なケアも行って
イギリス凄い、的な説明。
イギリス様が奴隷をケアしてる写真

嘘つけ!!!ムキームキームキームキー

出たな、
イギリスのプロパガンダめ!ムキームキー

そんな博愛精神で奴隷解放したん
ちゃうやろ!!!ムキー

騙されんぞ!ムキー

と、かなり疑って
その後よーーーーーく調べたところ、
やっぱりそんな博愛的な話じゃ
ないわけです。

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イギリスが奴隷解放したのは
間違いない事実です。

ただ理由は、
そんな博愛的なものではなく、
主に二つの要素が絡んでいます。

ざっくり言うと、
一つは、
《政治経済的な側面》
無賃労働者の奴隷を、賃金労働者にして、彼らに製品を買わせるため

奴隷貿易が禁止されたのは1807年。
この時期はイギリスで産業革命が進んでいて、
工場で製品が大量生産されるようになり
イギリスの新興資本家たちが必要だったのは
売り先! 買ってくれる人!

奴隷は無賃労働者なのでモノは売れない。
だったら、奴隷を賃金労働者にして
その賃金でモノを買わせる!

という、市場確保が最大の理由、
と言われています。

イギリスは王の浮気と借金問題で
カトリックから破門されたため
独自の国教会を作らざるを得ず、
ゆえにカトリック世界で活動が制限された
プロテスタントとユダヤの莫大な資本が集まり、
新興資本家が台頭。
彼らは強い勢力を持っていて、
その彼らの市場確保要求に応える形で
イギリスは奴隷制度の廃止に向かいました。

これが奴隷廃止の最大の理由です。

※イギリスがアフリカで奴隷を獲得し過ぎたため、アフリカ側からの供給量が激減。それに従い、奴隷価格が高騰。それに対応するため、奴隷を購入していたアメリカ南部では、奴隷に子供を産ませて、イギリスから奴隷を買わなくてよくなった。→イギリスに奴隷貿易の旨味がなくなり、奴隷貿易のビジネスモデルが解体。そこに、上の理由が重なり、イギリスは手のひらを返して奴隷制度を、倫理的に良くない、と否定。奴隷制度廃止に向かった。

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もう一つは
《宗教的な側面》
博愛主義のキリスト教勢力を利用し、
新興資本家は彼らの《人道主義》を
奴隷廃止の推進力として利用
この〈博愛による解放〉が、
一般的に奴隷廃止の理由として
今でも教科書に載っています。
(この展示室でもその話でした)

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イギリス発の奴隷解放の動きは
人道主義を建前にし
世界中に広まっていきました。

新興資本家の勢力は
何もイギリスだけでなく、
フランス革命(18世紀末)の推進力でも
あったわけですから、

啓蒙思想とセットで
もちろんフランスにも、
そしてアメリカにも広がっていきます。

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イスラム諸国での奴隷制の廃止は
ヨーロッパによる植民地化以降。

1854年に白人奴隷の解放、
その3年後に黒人奴隷の解放。

ザンジバルの奴隷貿易は
1873年、奴隷市場が閉鎖されたことで
廃止となりました。

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この〈奴隷市場の展示室〉は
かつてザンジバルを支配したイギリスの
プロパガンダ色が強くて

ちょっと辟易しましたが、
ただ、その展示の中には
考えさせられるものも。
上のパネルは、
黒人奴隷の子孫が、

愛し合っていた女性との結婚に際して、
彼女の親から

「あなたの両親は奴隷の出なのよ」
「あなたと私たちは違うの」

と言われ、彼はフィアンセを失った
と言うもの。

これは、
かなりリアルな話だと思います。
こうゆう問題が、まだ残っているのだろうと。

もちろん、かつて
ヨーロッパ人も奴隷として
アラブにたくさん売られたので

今でもアラブに白人奴隷の子孫は
たくさんいるはずですが、

白人は血が混ざると同化するので
見分けがつかなくなり
奴隷身分の子孫と分からなくなります。

一方で黒人は、
混血しても黒人の血が強く出るので、
アメリカにおいて
奴隷の出であることが
露呈してしまいます。

それが、上のような悲劇を
生んでいるのかもしれません。

悲しいことです。

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最後に、
もう一つ気になったパネル。

それは、《今日の奴隷状態》について
示したもの。
世界各国が、どれぐらい奴隷制を敷いた状態にあるか、を示した図です

え? この現代で
奴隷制を敷いてる国なんてあるの?

と、これは何も
昔のような奴隷制度具合ではなく、
どれほど人々が奴属状態を強いられているか、
をして示した図。

黒いほど自由がなく
強制的に働かされているわけですが、

やはり、アフリカは
かなり黒いですね、、、

と、日本はどうかと言うと、、、
あ、あれ? ちょっと黒い、、、

どうやら日本は
会社の奴隷となっている人が多く、
それも一つの奴隷状態、ということです。

確かに日本人は、
会社のために働きすぎかも、、、えーんえーん

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と、いろいろ考えさせられた
ザンジバルの〈奴隷市場〉。

かなり長くなりましたが、
今回はこの辺りで!

では!!