ご訪問くださいまして、有り難うございます。

 

このブログをご覧になっている方には、

カウンセラー、コーチ、セラピストの方もいらっしゃると思います。

 

今回は、カウンセリング関係の本、

傾聴術―ひとりで磨ける“聴く”技術

を紹介します。

 

著者の古宮昇さん

(前大阪経済大学教授・公認心理師・臨床心理士)

には、私、お世話になっておりまして、

直接、お会いしたこともあります。

 

外国でも活躍されている、すごい経歴の先生なのですが、

とっても気さくで、あたたかい方です(^^)

 

数多くのすばらしいカウンセリング関連の本も執筆されていますが、

中でも、この本はとても「実践的」です。

 

豊富なカウンセリング(心理療法)や指導のご経験がないと、

こんな本は書けないと思います。

 

ちなみに、私が、

プロコーチ(カウンセラー)の資格を取得する際に、

実技試験がありました。

 

学びの同期の皆さんと、

練習(ロールプレイング)を重ねたのですが、

それでも不安だったので、

この本を読んで、

話し手の発言に対して、実際に応答を書き出してみて、

ひとりでトレーニングしました。

 

そうです。

この本のすごいところは、

ただ読むだけではなく、書き込めるところ。

 

悩み事を相談するために来た話し手の発言に対して、

応答を自分なりに考えて、実際に「書き込む」んですね。

そして、代表的な応答例と比べます。

 

傾聴の実践力がつく、すごい本なんです!

 

で、具体的な例を紹介する前に、

まずは、

「傾聴」がなぜ悩み苦しむ人の支えになるかを紹介します。

 

私たちは誰もが、

自分を表現したい、

自分のことをわかってほしい、

という欲求があります。

 

それができないと、

こころが窒息したり、

深い孤独感を感じたり、

すごく腹が立ったりしますよね。

 

ですから私たちは、

悩みを抱えて苦しんでいるときや

こころが弱っているとき、

心配事や気になっていることを

自分のペースで話し表現することが、

特に大切になります。

そして、

それを親身になって分かってもらえると、

さらに自由に話すことができます。

それとともに、

もともと私たちの内にあった強さ、

たくましさが少しずつよみがえってくるのです。

植物が、環境さえ整えればすくすく成長するように、

私たちも、自分のことをわかってくれる人間関係があれば、

自然に成長していくといいます。

傾聴の基本には、

「人は、適切な環境さえあれば

その人らしく成長していくのだ」

という、人間の成長力への信頼があります。

私は日々カウンセラーとして来談者の方々と対話をするなかで、

人間にその成長力があることを感じています。

古宮先生は、人間の成長力への信頼をお持ちなんですね。

共感します(^^)

その姿勢は、確実に相手(話し手)にも伝わると思います。

 

では、その傾聴に大切なことは何でしょうか。

4つのポイントが挙げられます。

 

ひとつめは、

「自分のことのように想像しながら聞くこと」

です。

悩みや苦しみを抱えている人の話を聞くときに大切なことは、

話し手の気持ち・思いを、

聴き手ができるだけありありと、ひしひしと想像して感じながら、

「あたかも自分のことのように」

親身になって聴くことです。

それができていればいるほど、

話し手は自分のことが分かってもらえると感じ、

正直な思いをさらに深く吟味しながら話していくことができます。

 

反対に、聴き手が漫然と聞いているだけだと、

話し手には何となくそれが伝わります。

それでは聴き手を信頼できません。

聴き手の応答が形式的だったり不自然に感じられれば、

話し手は正直な気持ちや思いを自由に話すことができず、

対話は深まらなくなります。

これは、言葉にするのは簡単ですが、

実際に、

話し手の気持ち・思いを、

聴き手ができるだけありありと、ひしひしと想像して感じながら、

「あたかも自分のことのように」

親身になって聴く

というのは大変です(^^;

 

心身ともに整えて臨む必要がありますし、

集中力も使います。

私は、いつもけっこう疲れます・・・

 

二つめは、

「話し手をそのまま尊重して受け入れること」

です。

 

そうすることによって、

話し手が、いわゆる「~べき」から解放され、

本音を語れるようになり、

協調的で発展的な本質が現れてきます。

 

三つめは、

「聴き手が自分自身に素直で、開かれていること」

です。

 

これはとても重要だと思います。

聴き手自身のこころの中にまだ癒せていない痛みがあると、

話し手の似たような痛みを、

「あたかも話し手であるかのように」

理解することができません。

たとえば、

話し手が、誰かに対して腹を立てているのを聞いて、

聴き手までが、無性に腹が立ち怒り出す場合です。

 

これは、話し手のことを理解しているのではなく、

「聴き手自身のこころの底にあって

まだ癒えていない傷が痛み出している」

のだというのです。

 

また、

カウンセラーが、

自分の劣等感や無価値観を感じることを避けるために、

「あなたが良くなってくれないと私が困る」

という押しつけがましさが混ざったり、

学校の先生が、

クラスに不登校の子がいると、

「無能な教師だと周りから思われる」

とか、

「自分のことを有能な価値ある人間だと思えない」

という不安のために、

子どもを登校させようとしているケースが述べられています。

 

たしかに、これはありそうですね。

 

それを解決するために、

聴き手(特にカウンセラーの場合)は、

自分が実際にカウンセリングを受けて、

自身のこころの未解決の痛みを

できるだけ解決しておくことが必要だと述べられています。

 

ちなみに、

私も継続してカウンセリングを受けた経験がありますが、

その経験が、今、大いに役立っています!

 

少し抵抗のある方もいらっしゃると思いますが、

カウンセリング、いいですよ(^^)

 

四つめは、

「聴き手の理解的で受容的な態度が話し手に伝わること」

です。

 

私たちはだれでも、

程度の差こそあれ、こころの痛みを抱えています。

その痛みが、

「人を信頼するな!また傷つけられるぞ」

と私たちに警告します。

しかし、受容的な聴き手と交流するとき、

こころの理性的で現実的な部分(痛みでない部分)が、

「この人なら信頼できる」

と見抜くといいます。

ただこのとき、

聴き手のそのような態度が話し手に伝わるためには、

聴き手の傾聴力が必要です。

傾聴力とは、

 

①話し手の気持ちを理解する力

②理解したことを言葉で伝える技術

③聴き手が話し手を信頼し、

こころもからだも暖めてその場にいられること

 

の三つからなると思います。

では、実際の場面では、

話し手のことをどう共感的に理解し、

何を言えば心の支えになれるのでしょう。

ということで、

いよいよ実際の練習です。

 

***************************************

 

「ここで何を話せばいいですか」

と尋ねる男性会社員(42歳)のケース

 

――無表情で、固くこわばった感じで話し出す。

 

「あのー・・・私、

人見知りするタイプなんです・・・

あまり・・・自分のことは話さないんですよね・・・

で、ここでは何を話せばいいんでしょうか」

 

 

さて、あなたならどう応答しますか、

実際に書いてみましょう。

 

***************************************

 

皆さまも、是非、

自分ならどう応答するか、考えてみてください。

(よろしければ、書き出してみることをおすすめします)

 

解答例は、次回です!

今回もお読みくださいまして、有り難うございました。

 

前回、前々回に引き続き、

遠藤周作さんの人生論、

自分づくり―それぞれの“私"にある16の方法

の内容を紹介します。

 

今回は、

「三分法の考え方」

を中心に紹介します。

 

いまのぼくたちは、西洋の教育を受けてきたせいか、

物事を二つに分けて考える習慣がある。

いわば、二つの対立した概念で物を考える傾向があります。

 

たとえば、

きれいに対して汚い、

白に対して黒、

善と悪、

ヤセにデブ、

美人にブス

といったように

二つに分けて考える癖があるんじゃないかな。

物事を二つに考えることは、

西洋人の思考法で、

たいへんわかりやすい。

つまり、

これは二分法という考え方です。

しかし、最近、

ぼくはこの二分法に懐疑的になっている。

つまり、

物事を黒か白かと割り切らなくてもいいんじゃないか。

その中間には灰色があるという考え方です。

 

それが「三分法の考え方」です。

 

そこで、

ぼくは二分法でなく、

三分法の生き方みたいなものはないかと考えた。

人生の幸福、不幸を例にとっても、

実際、心の底から不幸だと嘆いている人は

何人いるだろうか。

普通の生活を送っている人の大半は、

半幸福半不幸の状態だと思う。

ぼくを含めて、

あなたたちも完全な幸福ではないでしょう。

が、しかし、それほど徹底して不幸でもないのとちがうかな。

半幸福半不幸な状態が

人生の中では一番多いのではないか。

病気だってそうです。

病気をかかえて生きている人はいくらでもいる。

結構、会社で働いたりしているでしょう。

半健康半病気の状態で、

病気と根気よくつき合って長生きしている人もいる。

不治の病といわれるガンにしても、

まったくこれを撲滅しようという考えはいき詰っているらしい。

そうではなく、

ガンと平和的共存はできないか

という考え方になっている。

 

私も持病があるので、

この発想、勇気づけられます(^^;

 

新型コロナに対しても、

この捉え方は、有効かもしれませんね。


三分法の考え方を身につけると、

人生、楽に生きられるような気がします。

 

ちなみに、

私の好きな氏の言葉、

仕事は「くるたのしい」

(苦しく、かつ楽しいもの)

というのも三分法の発想がありますね。

 

また、近年話題の

ダイバーシティー(多様性)

にもつながると考え方だと思いますが、

この三分法の発想は、
もともと、日本人は持っていたんです。
 
「縁側」というもは、
いわば、半庭で半屋内ともいえます。
自然と家とをうまく融和させるしくみですね。
 
仏教の考え方もそうだといいます。
仏教の考え方は
「善悪不二(ふじ)」といって、
善と悪は決して二つのものではありませんと説明している。
“二つにあらず”という考え方は
二分法的発想では出てこない。
つまり善も限界を超すと悪になるという思想です。
われわれの日常生活の中でも、
他人を傷つけてしまうことがよくある。
氏の小説やエッセーの中でも、
よく、行き過ぎた善意(自己満足)が、
かえって相手を傷つけてしまうというケースがよく出てきます。
 
たとえば、
善意でやっていると信じ込んでいる
熱心な看護師が、
実は患者の尊厳を踏みにじっている場合や、
過保護すぎて、
子供をだめにしてしまう親などがそうですね。
 
三分法の考え方は、
でも、3回にわたり紹介してきました、
「マイナスにもプラスがあり、プラスにもマイナスがある」
ということにもつながります。
 
生活上のマイナスを、どう人生のプラスに転換させるか。
 
遠藤周作氏は、
大病をしましたが、
その経験を小説に生かしたり、
「心あったかな病院」
の活動につなげたりしました。
 
いまぼくは“心あったかな病院”というのを夢見て、
みんなで考えようじゃないか、
といろいろなところで呼びかけているんです。
これは設備の立派な病院という意味ではなく、
たとえば、
注射のときに「痛いからちょっと我慢してくれよ」
と先生が声をかけてくれるとか、
看護婦さんが患者の身になって励ましてくれるような
文字通り“心あったかい病院”のことです。
たしかに、注射のときに、
「チクっとしますよ・・・」
といってもらうだけで、
ずいぶん違います(^^)
 
ぼくは手術を三回受けたけど、
一度目の手術のときは、
麻酔が醒めて、もう痛くて痛くて
「イテーッ」と叫んだり、
ノドがかわいたから、
「水くれー」といったり、
「さすってくれー」
と付添いのおばさんにいっていた。
そのとき、痛み止めの注射をたびたび打ってはいけないからと、
看護婦さんが手を握ってくれた。
そうしたら、
自分の痛みが
向こうに腕を通じてずーっと伝わっていく感じがある。
少なくともこの人は
ぼくの痛みがわかってくれるんだと。
ウッて呻くと向こうもグッと手を握ってくれる。
わかってくれるんだなということがわかった。
それによって随分助かりました。
そのときはじめて、
苦しみというのは必ず孤独感が伴っているのだ
ということがわかった。
その孤独感が
「あなたの辛さがわかっているんだよ」という行為によって、
肉体的な痛みさえ、全部は静まらないけど
非常に緩和されるということが、
そのとき身をもってぼくはわかったんです。
 
私も、カウンセラー、コーチとして、
クライアントの苦しみに寄り添い続ける、
同伴者でありたいと思っています。
 
今回もお読みくださいまして、
有り難うございました。
 

前回に引き続き、

遠藤周作さんの人生論、

自分づくり―それぞれの“私"にある16の方法

の内容を紹介します。

 

今回は、

「無意識」についてです。

 

まずは、映画「E.T.」の話を引用します。

 

あの下敷きは「新約聖書」なんです。

つまり、映画に出てくるETというのは、

新しい“イエス”なんです。

 

「新約聖書」を読むとわかりますが、

イエスというのは、

ある一部の人たちからは愛されたけれども、

彼を理解してくれなかった人からはいじめられ、

みじめな死に方をします。

が、やがて、彼は愛によって復活し、

天に戻っていくという話です。

 

そして、映画の「ET]は、

地球の子どもたちとは理解し、愛し合うが、

理解することができない大人たちに殺されてしまう。

 

川の中にころげ落ちてたいへんみじめな死に方をする。

だが、科学を超えた愛によって復活、

天の故郷に戻っていく。

 

まさに、これはイエス・ストーリーを

原型にしているんですよ。

そのイエス・ストーリーというのは

新約聖書のオリジナルではなくて、

その原型は他の宗教、神話の中にもたくさん出てくる。

つまり、人間の琴線に触れるストーリーともいえる。

なるほど、

私は、映画「スターウォーズ」

シリーズも好きなのですが、

スターウォーズも、

各地の神話や伝説をモチーフにしているといいますね。

 

映画を観た人たちは、

涙を流したり、感動したりしたでしょう。

それは、「ET]の中には、

われわれの心の奥底にある

なんともいえぬ郷愁をそそるというのがあって、

それにこの映画が触れてきたんです。

すぐれた芸術作品は、

個性的な作品ではなく、

このに触れているものだというのです。

 

このとは、

祖先から受け継がれた経験―集合的無意識の中にある、

誰もが共通して持っている「元型」のことです。

 

ユングという有名な心理学者が、

この原型を何種類かに分けて説明している。

 

理想的な女性(男性)、

母性的なもの、

歳とった賢い人(老賢人)・・・。

これらの元型は、

あなたたちにも、ぼくの中にも無意識に潜んでいるもので、

これは日常生活の中では、

自覚することはほとんどありません。

 

たとえば、

過保護な母親のもとで育った子どもが、

大きな沼に吸い込まれ、

もがいている夢を見たとします。

その沼というのは

さきほどの母性的なものという原型が

沼の形をとって現れたわけなんです。

母親に自由を束縛されることが、

沼の中でおぼれていく自分のイメージとなって夢に出てくる。

 

だから、

夢に出てくるものは、その人個人のものと、

人間の心に共通した元型に触れたイメージのもの

といってよいでしょう。

なるほど~、不思議ですね。

 

だから、ぼくたちは

自分の心は意志の力によって制御できると思っていたけど、

実は長い間の祖先の経験が、

無意識の中に潜んでいて、

それがあなたの行動なり人生を左右していることがあるんだ

ということを知ってほしい。

 

あなたの人格、行動、思考というのは、

決して自分一人だけで形作ったものではなく、

いろいろな人の心の集積の上から成り立っていると

考えた方が正しい。

何だか、謙虚な気持ちになりますね(^^;

 

ユング心理学だけでなく、

仏教でも同じようなことを述べています。

 

仏教では無意識のことを、

「阿頼耶識(あらやしき)」という。

“ラーヤ”というのは「溜める」ということ。

“ヒマラヤ”という山の名があるけど、

“ヒマ”はチベット語で「雪」をあらわす。

つまり、ヒマラヤは「雪がたまっている場所」

という意味になるんです。

 

このように、

意識が沈澱し、溜まっているところに

仏教では「阿頼耶識」と呼び、

因果の法則が働く場所といっている。

昔やったことが、

あとで自分の心の中に作用することを

因果の法則と仏教ではいいます。

 

つまり、過去にやった行為が現在につながるところが

阿頼耶識であり、

ここは仏の力が働く場所でもあるわけです。

 

昔やったことが、

あとで自分の心の中に作用すること。

「因果の法則」ですね。

 

たしかに、少なくとも長い目で見れば、

必ず作用する気がします。

(気を付けないと(^^;)

 

では、これらの無意識の世界を、

人生でいかに活用するか。

 

遠藤周作さんはこう述べています。

 

何かに夢中になって取り組んでいたり、

集中してくると、

いまの力を超えたものが自分をあと押ししてくれる、

そんな体験をもったことはないかな。

 

いわゆる、フロー体験というやつですね。

 

遠藤さんご自身の体験として、

思い入れのある作品を執筆する際には、

実力以上の力が出る。

「だれかがぼくの手を持って書かせているという感じがする」

と述べています。

 

私自身も、

大学入試の本番の時は、

今、考えると、そんな感じだったような気がします・・・

 

他にも、

元巨人軍の川上監督が、

座禅を組んで、無念無想(無心)の境地に達したら、

「ボールが止まったように見えた」

と述べていたことが紹介されています。

 

では、無意識の世界をつかまえるにはどうしたらいいか?

 

まず第一に、

自分の能力ギリギリいっぱいまで努力しなければいけない、

ということは確かです。

大半の人は途中で自分の能力に絶望するでしょうk。

が、絶望したらすべては水の泡。

絶望せずにトコトン悩みぬけば、

必ず無意識の力はあなたに働きかけるはずです。

 

なるほど!

フロー状態になるには、

まずは、ギリギリいっぱいまで努力しなければならないんですね。

 

ただし、嫌いなことは、

無理してやらないほうがいいと思います。

 

仮に、世間的にはすばらしいといわれることでも、

イヤなことを、そこまでやるのはキツイので、

やはり、自分の「最高価値」に基づくことをやる。

 

そうすれば、辛くても、悩んでも、踏ん張れますし、

成長につながる。

ひいては人にも貢献できる。

 

無意識の力も応援してくれると思います。

 

今回もお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回に続きます。

 

前回までは、

「自分をどう愛するか」

第一集の「生活編」

自分をどう愛するか―「生活編」幸せの求め方

を3回にわたって紹介してきました。

 

今回からは、

第二集の「生き方編」

自分づくり―それぞれの“私"にある16の方法

を紹介します。

 

この本は、いわゆる絶版(品切れ重版未定)

ではないです!

在庫あります。

アマゾンで新品が購入できます(^^)

 

出版業界は、悲しいかな、

いくら名著でも、容赦なく絶版になってしまうので、

もし、興味を持たれた方はお早めに(^^;

(たったの514円です)

 

遠藤周作さんは、

「生活」と「人生」は違うという考えを持っています。

 

生活というのは

われわれの日常の大半を占めているけれども、

毎日の生活の中で、

普通の人はあまり「人生」というものを

考えたりする暇がない。

 

毎日、仕事に追われ、同僚と一杯のみ、

うちへ帰ったらテレビを見たり、

子どもと遊んだりする日常生活。

オレはいったい何のために生きているのか。

オレの人生はどういう意味があるのか、

というようなことをみんな考えない。

そういうことを考えてしまうと、

生活にブレーキがかかる場合があるんです。

これ、わかります(^^;

そして、生活に追われ、

一年があっという間に過ぎていくという・・・

 

しかし、

われわれの生活の中には、

ときどきその生活のペースが崩れてしまうようなときがある。

たとえば、

自分自身が病気になって入院したり、

肉親の不幸にあったりすることがあるはずです。

そういうとき、

今までの日常生活とは違ったところへ

ポンとほうり出されてしまう。

 

私は、30代前半の時、

病気で入院したのですが、

ベットの上で、人生についていろいろと考えました。

 

人生というものは、

実際の生活の中に隠されているものともいえるし、

人生の上に生活が覆いかぶさっているともいえる。

だから、

人生は日常の生活の中ではたいへん見えにくい。

ぼくが生活と人生は違うものだというのは、

人の一生を考えるとき、

この二つの視点が必要なのではないか、

と思うからです。

 

例が挙げられています。

 

ここに一人の娘がいる、

彼女はある男性を愛してしまう。

が、その男はやがて大病を患い、

あと、五、六年の寿命しかないと診断されていたとする。

あえて、その男と結婚すれば不幸になる、

と周りの人に彼女はいわれるでしょう。

 

「あの男性と結婚したいというあなたの気持ちはわかるけど、

彼と一緒になれば、

あなたは妻としてではなく、

介護人として生きていかなければならない」

 

と忠告されるかもしれない。

その時彼女は、彼を選ぶか、

それとも、いわゆる世間的な幸せを選ぶか、

という岐路に立たされるだろう。

実はこの状態というのは、

彼女にとっては、人生を選ぶか、

あるいは生活を選ぶかということなんです。

この、生活を選ぶというのは、

キリシタン弾圧時代に、

信者が、踏絵を踏んで棄教するのと同じですね。

 

誰にも責めることはできません・・・

 

ぼくは生活を選んだからいけない、

とはいわない。

生活を選ばなくちゃいけないときがあります。

かりに、

僕に娘がいて、

先ほどいったような病人の男を愛してしまったら、

親としてはやめろというかもしれない。

生活を選べというかもしれない。

だから、

生活を選ぶことは決して間違っているとは思わない。

 

ただ、その生活の奥に人生があること、

人生というものがときとして、いや、しばしば

人間を高める

ということは決して決して忘れないでもらいたい。

 

そして、その人生を生きた人として、

コルベ神父

が紹介されています。

 

コルベ神父は、

遠藤周作「女の一生 二部・サチ子の場合」

 

 

の回でも紹介しましたが、

アウシュビッツ強制収容所で、

ある男の身代わりとなって死んだ、

ポーランド出身の神父です。

 

(ちなみに、助けられた男は生き延びて、

94歳の天寿を全うするまで、

コルベ神父に関する講演を世界各地で続けていたそうです)

 

この人(コルベ神父)を

生活の勝利者と思う人は誰もいないでしょう。

強制収容所に入れられ、

みじめったらしく飢餓室で死んだ男。

彼は生活の次元では敗北者だった。

しかし、

人生の次元では勝利者であったと思うことはできないだろうか。

もちろんぼくは、ここであなたに、

コルベ神父のように生きろ、

なんていっているわけじゃない。

ぼくも、そんな生き方はできないし、

大部分の人間には不可能だろう。

しかし、そういう人がいたんだということは

やはり念頭に置いておくべきではないでしょうか。

というのは、

人間というのは

根本的には自分だけで生きているわけではなく、

他人との関わり、他人と一緒に生きるから人間なんだ。

そうですね。

私も、本を通じてですが、

コルベ神父と出会い、生き方に影響を受けています。

 

ここであなたに考えてもらいたい。

自分の過去の生活を振り返って、

自分一人で生きてきたと断言できる人はいるでしょうか。

あなたの両親、先生、あるいは友だち、

彼らからさまざまなプラスとマイナスの影響を受けているはずです。

その過去の人間関係の集積が、

現在のあなたの位置を決めているのではないか。

 

友だちに迷惑をかけられたとか、

苦しい思いをさせられたとか、

女性にふられたとか、

人生にはプラス面だけでなく、

マイナス面もたくさんある。

が、とにかく他人との関係の中で生きてきたはずです。

 

でも、生活上のマイナスは、人生のプラスにすればいい、

生活上でプラスなものは、

さらにそれを人生のプラスにまで拡大してみるといい。

 

極端なことをいえば、

苦しみのない人生なんて意味はない。

みんながお互い、

平和で満足していたら人間同士の愛は育たない。

 

人生に苦しみがあるから、

人生に悲しみがあるから、

人間の間に愛は存在するのです。

 

そうですね。

アウシュビッツの地獄の中ですら、

一日のすべての糧であるひとつのパンを、

病人の枕元に置いていく人間もいたわけですから。

夜と霧より)

 

私も、年を重ねて、

この真実が少しずつ分かってきた気がします(^^;

 

人生すべてに、意味がある。

そして、

愛とは、プラスもマイナスも、

両方うけいれること。

 

なのかもしれませんね。

 

次回に続きます。

今回もお読みいただきまして、有り難うございました。

前回、前々回に引き続き、

遠藤周作さんの人生論、

自分をどう愛するか―「生活編」幸せの求め方

から、

自分を愛するための知恵を紹介します(^^)

 

生活をしていくうえでは一つの顔をもたざるを得ないでしょう。

しかし、人生の中ではいろんな顔をもちなさい。

それは、生きることを豊かにしますよ。

仕事はぼくの一部分にすぎない。

仕事のためにぼくは生きているんではなく、

ぼくのために仕事があるだけにすぎないんです。

 

たった一度しかない人生なんだ。

社会の規約に従って、

この人は作家、

この人は医者、

この人はサラリーマンというふうに、

一つの顔だけで生きてたまるか

という気持ちは誰だってあると思う。

 

これ、最近、私も特に共感するようになりました。

 

過去は、

「この道ひとすじの生き方がかっこいい!」

と思っていた時期もあるのですが・・・

我ながら、思考がかなり柔軟になってきました(^^;

 

遠藤周作さんは、

沈黙

のようなすばらしい純文学作品を残されていますが、

他に「狐狸庵もの」といった、

ユーモアエッセイも多く書かれていたり、

社交ダンスをされたり、

「樹座」(笑)という素人劇団を主宰されたりしています。

 

シリアスな小説だけでは、

「こんな自分がすべてではない!」

という思いもあって、

バランスをとっていた面もあるそうです。

 

近年、「人生100年時代を楽しもう!」

と、さかんに言われるようになりましたが、

氏は、30年以上前から時代を先取りしていましたね。

 

ちなみに、

いろんな顔を持つ、という意味では、

田坂広志さんの、

人は、誰もが「多重人格」~誰も語らなかった「才能開花の技法」

という本も、とてもおすすめです(^^)

 

この、多重人格とは、

「二十四人のビリー・ミリガン」のような、

いわゆる「精神の病」を指すのではなく、

「才能開花」「器が大きい」

という意味です。

 

 

笑いというものが開かれたもので、

人と人とを結ぶコミュニケーションの一手段となるならば、

人を笑わしたりすることは、

けっして不真面目とか軽薄なことではないのではないか。

むしろ、

「オレはおまえらとはつき合わない」

という意思表示みたいな、

ムッとした顔をする人のほうが、

むしろ人間として不真面目といえるのではないのか。

 

同感です!

私もおじさんになって、

最近ちょっとユーモアを忘れがちなので、

気を付けないと(^^;

 

 

怒りと反対の表現に、

やさしさという行為がある。

この、やさしさというのは男らしい行為です。

しかし、

女をどこかまで送っていくとか、

女の肩にコートをかけてやるとか、

というやさしさじゃない。

 

本当のやさしさっていうのは、

男らしいし、かなり自分を犠牲にするものだ。

やさしさって、つらいことだもの。

そして、もう一つは、

想像力があるっていうこと。

相手のつらさ、悲しみというのがわかるという、

そういうことが想像できる力、

それはなかなかもてるものじゃない。

もてるもんじゃないけど、

そういうやさしさをもっている人は、

本当にいるものです。

 

そういう人を見ると、男らしと思う。

怒ったりするよりも、

はるかに、ああ、男らしいやつだと思う。

 

そういう人に、私はなりたい。

と思っていますが、

道半ば・・・(^^;

 

えてして、

若い人は社会に出てからの苦労、

経験が少ないために

傲慢な正義感になりやすいとはいえる。

だから、たえず、

自分が同じ場所に置かれたならばということを考えなさい。

そのためにはイマジネーションが必要になるんです。

これは、さまざまな人間と数多く接触しなければ

できないことかもしれないけれど、

でも、

そうしたことを経て、

やっと人を許せるという気持ちになるわけだ。

 

年を重ねて、

私も、ちょっと、この意味が分かるようになりました。

 

人生いろいろ、決して人は裁けない。

他人の嫌な部分は、自分の中にも必ずあります。

だから、自分も裁かない。

 

自己受容ですね。

 

 

若いうちは誰でも人生をこうしたい、

良く生きたいと思っているでしょう。

けれども、

社会に出て、生活というものの中に滑り込んでいくと、

生活するために

自分の人生を汚していかなくてはならない時が必ずある。

人生というのは、いわば踏絵です。

そこに生活という足がつく。

私たちの生活は油足の足で、

そこへ黒い指の足跡を残すことがないとは

決していえないのです。

この本は、

理想主義的だった若かりし頃の私に、

「生活」という現実の、

辛さと尊さを教えてくれた気がします。

 

強い人間には生きていく意味があるけれども、

黒い足指を残した人に、

もし生きている意味があるならばそれは一体何なのか、

ということを書きたかった。

 

こういう形で

沈黙

という私の小説はできあがっていったのですが、

この本でも、

同じ意味で弱い人間の方法を書きたかった。

それは、

私が臆病だし、小心で卑怯で

(みんなと同じでしょうが・・・)、

また誰でもそうでしょうが、

できれば人を傷つけたくない人間だからなんです。

 

だから、この本の中でも、

「ライバルの後ろに隠れて走れ」

などといっている。

他の人生評論家だったら、

ライバルをあくまで追い抜け、倒せといういいかたをする。

けれども、

私はライバルに憎まれるのはイヤだし、

傷つけたくはない。

だから、後ろに隠れて走っていて、

向こうが走るのをやめるまで待つほうを選ぶんです。

これならライバルも傷つかないからという配慮です。

 

要するに、

ます強からぬ自分、普通の自分、

ありのままの自分を直視することからはじめたら、

ということです。

その上で自分の生き方を

正直に考えてみようではありませんか。

 

とても共感します(^^;

 

今回もお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回は、

自分をどう愛するか

の第二集の「生き方編」

自分づくり―それぞれの“私"にある16の方法

を紹介します。