ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

今回ご紹介させていただく本は、

 

みうらじゅんさんの、

マイ仏教

 

 

実は、SNSで紹介されていた、

みうらじゅんさんの最新刊、

アウト老のすすめ

に興味をもったので、

 

仕事の帰り道、

駅前の本屋で探したら、

残念ながら見当たらなかったのですが、

 

「たしか、みうらじゅんさんの本、

家にあったな~」

 

と思い、本棚を探ったら出てきた本が、

この、

マイ仏教

 

10年以上ぶりになりますが、

久々に読み返してみました。

 

みうらじゅんさんといえば、

「マイブーム」

という言葉を作ったイラストレーターで、

ちょっとエロくて、

かなりオモロイお方なのですが(^^)

 

「見仏記」

などのベストセラーもあるように、

仏像ブームをけん引した

お方でもあるんですね!

 

少年時代に京都・東寺の仏像群を見て、

「怪獣みたいでかっこいい!」

と思ったのがきっかけで、

 

「将来の夢は住職」になったという、

筋金入りの仏像好き!

 

四天王に踏まれている邪鬼を、

自分に見立てたり、

 

「弘法大師のマネ」

をクラスメイトに披露して、

ドン引きされたり(笑)

 

笑えるエピソード満載なのですが、

 

思い返せば、

私自身も子供の頃から、

けっこう仏像好きだったかも(^^;

 

鎧武者みたいな謎の絵を

よく書いていた記憶がありますが、

あれは、四天王像に感化されていた?

 

たしかに、

先入観のない子供にとっては、

怪獣も仏像も、

同じ魅力あるキャラクターですしね。

 

もっとも、

みうらじゅんさんのように、

友達に「仏像が好き!」と

無邪鬼にいえるほどの勇気は、

ありませんでしたが(^^;

 

で、この本、

笑える中にも、

けっこう「深く」て

「はっとさせられる」ことが書かれています。

 

私が印象に残った箇所を、

いくつか紹介・解説していきますね。

 

「機嫌」という言葉は仏教から・・・

という話から、

 

 

最近、この「機嫌を取る」

ということの重要性について

よく考えます。

 

「人のご機嫌を取る」

ということは、

ご機嫌にいいことではないかと

思うのです。

 

 

「人のご機嫌を取る」

 

う~ん、行き過ぎると、

ちょっと軽薄な感じもしますが・・・

 

 

「人のご機嫌を取る」

というと、

「あいつは人の顔色ばかりを

うかがっている」と、

悪い意味にとらえられる

こともあります。

 

しかし、

家庭でも恋愛でも、

人間関係が

上手くいっていないときというのは、

得てして相手の機嫌を取ることを

怠っている時です。

 

 

すべてとは言い切れませんが、

たしかに、そうかもしれません・・・

 

 

「相手のことを思って行動する」

のは、人間関係の基本です。

 

相手の機嫌をちゃんととって、

「ご機嫌」になってもらえば、

回り回ってこちらの

「機嫌」もよくなります。

 

「機嫌を取る」

ブームが起きれば、

世の中少しは

マシになるのではないでしょうか。

 

 

たしかに・・・

機嫌は伝播しますしね。

 

 

人の機嫌を取っているだけだと、

「あいつは調子がいい」

などと言われがちですが、

 

人の機嫌を気にして

生きていくことが、

そんなに悪いことだとは

思えません。

 

「ご機嫌を取る」

と似たような言葉に、

「相手の身になって考える」

というのがあります。

 

しかし

「相手の身」というものが

本当はどういうものなのか

わかるはずもありません。

 

あくまでこれは

「自分の考える相手の身」です。

 

しかし

「ご機嫌を取る」であれば、

これは「相手の身」にならなくても

できるはずです。

 

 

なるほど~、

 

「相手の身になる」ということが

悪いことだとは思いませんが、

 

それによって、

「相手をわかったつもり」になると、

変に押し付けがましく

なってしまったりします。

 

それよりも、

「ご機嫌を取る」

 

すなわち、

相手を喜ばせたり、

具体的な気遣いをするほうが、

いいのかもしれません(^^)

 

 

なかなかそう上手くいかないのが

人間ですが、

 

それも「修行」だとあきらめて、

人の機嫌を取ろうではありませんか。

 

例えば、

「家のゴミを出してきて」

と妻に頼まれた場合。

 

「そうすれば妻が喜ぶのだから、

ご機嫌を取るためにやろう」

と思うか、

 

「何で俺がゴミを

出さなきゃいけないんだ」

と思うか。

 

 

どきっ、

私は後者かも・・・

 

特に、ぶっきらぼうに、

あたりまえのように言われた場合には、

カチンときます(^^;

 

 

そもそも

「機嫌を取る修行」

を普段からしていれば、

口ごたえもしないだろうし、

 

妻に言われる前から

ゴミを出しているかもしれません。

 

 

ううっ、そうか・・・

修行が足りんですね(^^;

 

 

かつては

「男は黙ってサッポロビール」。

三船敏郎が出演した

コマーシャルのように、

 

他にも

「不器用ですから」

の高倉健のように、

 

自分から機嫌を

取りにいかないほうが

恰好良い、

とされる時代がありました。

 

それを世の男性は

真似るようになって、

進んで「ご機嫌を取る」

ことを考えなくなってしまった

のではないでしょうか。

 

 

いかにも、昭和の男。

 

私にはそんな要素はない・・・

・・・いや、ウソです。

 

少しはあります(^^;

 

正直、高倉健に

ちょっと憧れるところも

ありますが・・・

 

 

しかしそれは、

それなりのルックスや

力量が伴わなければ

成立しません。

 

誰もが真似できるわけでは

ないのです。

 

 

ううっ・・・

容赦ない。

 

私には無理か(^^;

 

 

飲み屋でもよく

「家に帰ると、

女房の機嫌が悪くてさあ」

という発言が

聞こえてきますが、

その理由ははっきりしています。

 

日ごろ、

その人が奥さんの機嫌を

取っていないからです。

 

そう発言した人間が

当事者なのは明白なのに、

「機嫌が悪くてさあ」

と言うとき、

 

どこか他人事で

無責任な感じが

付きまといます。

 

つまり

責任はすべて相手にある、

という態度です。

 

 

「責任はすべて相手にある」

これ、つい、

そう思ってしまいがちですよね(^^;

 

 

そのようなとき

一番いけないのは、

「何でこの俺がそんなことを

しなきゃいけないんだ」

というものです。

 

この「何でこの俺が」

という言葉。

 

それは

「ご機嫌界」で一番の禁句です。

 

 

「何でこの俺が」が、

「ご機嫌界」で一番の禁句!

 

 

このときの

「何でこの俺が」

という言葉には、

様々な意味が込められています。

 

「もう中学生でもないのに

何で俺が」とか、

「こんなに頑張って仕事をしている

俺なのに」とか、

「俺はアーティストなのに」とか、

 

「俺」に込められた意味は

様々です。

 

それが大概の怒りの原因です。

 

 

「この俺様が、何で」

という特権意識ですね。

 

特に社会的地位が高くなったりすると、

つい勘違いしてしまいがちです。

 

 

これと似た傾向として、

 

「何か俺の周り、

どうしようもないバカばっかり

なんだよね」

という人がいます。

 

しかし

「自分のその中の一人である」

ということが、

なぜかその人には

見えていません。

 

「今日の京都は混んでいるな」

というのも同じです。

 

自分がその中の一人であり、

原因であることが

見えていないのです。

 

 

どきっ、

これは、私が山歩きしていて、

混んでいる時など、

 

つい、

同じことを思ってしまいますが(^^;

 

 

そのときの

「俺」や「私」というものが

一体何であるのかー。

 

先にも述べましたが、

いくら「自分探し」をしても、

その答えが出るはずが

ありません。

 

いつの「俺」かも、

どの「私」かも

わからないわけですから。

 

それよりも、

「自分をなくす」方が、

はるかに具体的な解決に

なるはずです。

 

つまり

「機嫌を取る」

=「自分なくし」

なのです。

 

 

「機嫌を取る」=「自分なくし」

 

「自分さがし」ではなく、

「自分なくし」。

 

「自分なくし」とはいったい

どういうことでしょうか?

 

・・・次回に続きますね(^^;

 

 

 

*****************************************

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回に続きます(^^;

 

 

*****************************************

 

 

 

おまけ写真集(^^;

 

 

丹沢の大山を、

マイナーな北尾根ルートから登りました😊

 

まず札掛の吊り橋を渡ります。

 

通行注意!って・・・

でもそんな危険じゃなかったです(^^;

 

 

 

吊り橋から、

美しい新緑(^^)

 

 

 

ひたすら登ります・・・

これは、林業用のモノレールのレールです。

 

 

 

最後、はしご超えると・・・

 

 

 

山頂着きました!

 

曇っていて見晴らしはイマイチでしたが、

やっぱり人気の山、

山頂は混んでました。

(私もその一因(^^;)

 

 

 

山頂の奥の院。

有り難うございます。

 

 

 

よし、中吉!

いいこと書かかれています😊

 

 

 

下山して、

吊り橋を下から眺めながら・・・

 

 

 

ああ・・・

癒されます(^^)

 

 

 

これは別日の鎌倉ハイキング!

鎌倉名物、切通し。

 

 

瑞泉寺。

苔むす階段上って・・・

 

 

 

本堂、着きました!

 

 

 

奥の庭園。

 

 

これも鎌倉名物、

大きな、やぐら。

 

 

 

鎌倉は、

ハイキングと神社仏閣巡り、

両方楽しめます(^^)

 

 

 

ボクも忘れないで😺

(無防備すぎ~)

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

今回紹介させていただく本は、

2022年の本屋大賞受賞作!

 

同志少女よ、敵を撃て

 

 

著者は、逢坂冬馬さん。

 

第二次世界大戦の独ソ戦、

ソ連軍の女性の狙撃手と

その部隊を描いた小説ですが、

 

いやあ、

特に中盤以降は、

息もつかせぬ展開で、

途中で本を閉じることが

できなくなりました!

 

読了後も、何だか気分が高揚して、

なかなか寝付けず、

翌日、寝不足で出勤する羽目に

なりましたが(^^;

 

20年以上前に、

「スターリングラード」

という映画を観た記憶が

よみがえってきました。

 

冒頭のヴォルガ川を渡航する

壮絶なシーンが、

今でも記憶に残っている映画ですが、

 

その映画では、

男性の狙撃手が主人公。

 

この小説では、

女性の狙撃手、セラフィマが主人公です。

 

ドイツ軍に、

母や村人を惨殺されたセラフィマは、

復讐のため、

狙撃手になるための過酷な訓練を受け、

やがて、スターリングラードや、

ケーニヒスベルクの激戦地に赴くのですが、

 

はたして、

彼女の「真の敵」とは何なのか?

 

・・・と、ネタバレになるので、

詳しいストーリーは割愛しますが(^^;

 

私の印象に残った箇所を紹介します。

 

ソ連軍のジェーコフ元帥が語ります。

(ジェーコフは実在した人物ですね)

 

逃亡する兵士を処刑することについて、

 

 

ナチに交渉は通じない。

これは通常の戦争ではない。

 

軍隊が瓦解すれば

全ての人民は虐殺され、

奴隷化される。

 

故に、

組織的焦土作戦を用いて

撤退する局面を除いては、

踏みとどまって防戦することが、

唯一ソ連人民が生き残る術なのだ。

 

逃亡する兵士は、

もはや敵であり、

ファシストの手先なのだ。

 

 

独ソ戦というのは、

お互いが生きるか死ぬかの、

壮絶な戦いだったのです。

 

著者はこう語ります。

 

 

復讐を遂げるという

目標によって

生きる理由が生じる。

 

そして

苛酷な戦闘を戦う意義が

生まれる。

 

思えば無数の

ソ連人民の動機もまた、

復讐にある。

 

それが国家に基づくものであれ、

家族に基づくものであれ、

復讐を果たすという動機が、

 

戦争という、

莫大なエネルギーを必要とする

事業を成し遂げ、

 

それを遂行する

巨大国家を支えているのだ。

 

 

ソ連は、国土の多くを

ドイツ軍に蹂躙されたわけですから、

 

「復讐が生きる理由になる」

というのは、

もっともだと思います。

 

特に戦時下においては、

いや、平和な社会においても、

たしかに、

これは生きる理由になりうる。

 

そこからエネルギーが生れるのは

否めない。

 

ただ、

復讐はお互いに連鎖となり、

どちらかが滅ぶまでは終わらない。

 

結果は虚しいものになる。

 

スターリングラード攻防戦は、

史実の通り

ソ連軍の勝利に終わりますが・・・

 

 

失った人命は、

ソ連軍が110万人、

市民20万人。

 

(中略)

 

戦火を免れ生き延びた人も

多くは避難しており、

戦前60万人を数えた

この都市で、

生きて戦争終結を迎えた市民は、

わずかに9000人であった。

 

枢軸軍は72万人を失った。

総勢200万人超の死。

 

 

スターリングラード攻防戦だけで、

総勢200万人超の死・・・

 

想像を絶します。

 

ちなみに、

第二次大戦全体だと、

ドイツは900万、

ソ連は2000万以上の

人命を失ったといいます。

 

日本は300万超。

 

単なる数字の羅列ではなく、

生身の人間として、

この一人一人に

かけがえのない人生があったのかと思うと、

 

いかに戦争というものが、

常軌を逸脱した

非人道的なものであるかと感じます。

 

この小説では、

戦時の女性への暴力もテーマになっています。

 

主人公の幼馴染の男性

(少尉)が語ります。

 

 

「兵士たちは恐怖も喜びも、

同じ経験を共有することで

仲間になるんだ。

 

・・・部隊で

女を犯そうとなったときに、

それは戦争犯罪だと

言う奴がいれば

間違いなくつまはじきにされる。

 

上官には疎まれ、

部下には相手にされなくなる。

 

裏を返して言えば、

集団で女を犯すことは

部隊の仲間意識を高めて、

その体験を共有した連中の

同志的結束を強めるんだよ

・・・」

 

 

女を犯すことが

同志的結束を高める。

 

とんでもない論理ですが、

戦時下というのは、

それが現実になってしまう

のかもしれません。

 

主人公は言い返しますが・・・

 

 

「たとえどんな

事情があっても、

女性への暴行は

許されることではない」

 

 

少尉はいいます。

 

 

「悲しいけれど、

どれほど普遍的と見える倫理も、

結局は絶対者から

与えられたものではなく、

 

そのときにある種の

「社会」を形成する人間が

合意により作られたものだよ。

 

だから絶対に

してはならないことが

あるわけじゃない。

戦争はその現れだ。

 

(中略)

 

・・・この戦争には、

人間を悪魔にしてしまうような

性質があるんだ。

 

 

戦争には、

人間を悪魔にしてしまうような

性質がある・・・

 

多くの戦争小説やノンフィクションにも

描かれているように、

 

人間は、平時では善良だとしても、

極限状態に陥ると、悪魔にもなりうる。

 

私もおそらくご多分に漏れず・・・

 

もっとも、

それによって決して残虐行為を

正当化してはなりませんが、

 

しかし、

現実としては、そうなってしまうのが、

人間というものの弱さ、

悲しい性なのではないかと思います。

 

そう考えると、

とにかく、戦争は「始めて」はいけない。

そのような極限状態を作ってはならない。

 

始まったら最後、

たとえ、途中でやめようと思っても、

復讐の連鎖で、

どちらかがつぶれるまで続いてしまう。

 

そして、双方に莫大な犠牲が生じる。

 

戦争という手段は、

原子力、核と同じで、

本来、人類の手に負えるものではないと

思います。

 

 

物語に登場する、

伝説の女性狙撃手がいいます。

 

戦後、女性狙撃手がどのように

生きるべきかと問われて・・・

 

 

「誰か愛する人でも見つけろ。

それか趣味を持て。

生きがいだ。

 

私としては、

それを勧める」

 

 

「愛する人か、

生きがいを持て」

 

当たり前の言葉のようにも聞こえますが、

物語の最後で、

この言葉が重く響きます・・・

 

 

 

*******************************************

 

 

 

以上、断片的ではありますが、

逢坂冬馬さんの

2022年の本屋大賞受賞作!

 

同志少女よ、敵を撃て

 

 

から、私の印象に残った箇所を

紹介・解説させていただきました。

 

まるで当時の戦場にいるような、

スリルや没入感を味わいながらも、

 

読了後は、

今の日本で平和な日々を過ごせることが、

どれだけ貴重で、恵まれているのかを、

考えさせられる小説でした。

 

登場人物が、

絶対的な善人や悪人に

分けられていないところも深みを感じます。

 

果たして、女性狙撃手の

「真の敵」とはいったい何なのか・・・?

 

一読をおすすめします(^^)

 

(あと、エピローグで、

名著、戦争は女の顔をしていない

も出てきますよ)

 

 

 

 

********************************************

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございます😊

 

次回は別の本を紹介します。

 

 

*******************************************

 

 

 

 

おまけ写真集(^^;

 

少し前になりますが、

GW後半、

西丹沢の檜洞丸

(ひのきぼらまる、と読みます)

に登りました!

 

 

西丹沢ビジターセンターの

駐車場で車中泊、

早朝からスタート!

 

 

 

キャンパーたちの群れをよそ目に・・・

 

 

 

ええっ、熊😲

でもツツジ新道(登山道)は、

人が多いので大丈夫!

 

 

 

沢を渡ります!

 

 

 

慎重に・・・

 

 

ツツジ?

少し咲いていました。

 

5月下旬~6月には、

シロヤシオ(ゴヨウツツジ)が

咲き乱れるそうです!

 

 

 

だいぶ来ました。

 

 

バイケイソウがたくさん。

 

 

不思議な木

(シナノキらしいです)

 

 

頂上!

 

 

無事着きました。

有り難うございます(^^)

 

 

山桜?

 

 

反対側は蛭ヶ岳。

 

 

 

犬越路方面へ。

雄大な景色!

 

 

富士山🗻

 

 

 

足元に遊び心!

 

 

 

絶景・・・

しばし、見惚れます。

 

 

 

数か所の鎖場越えて・・・

 

 

 

美しいブナの林。

 

 

 

進め~

 

 

 

へえ~

 

 

ここ、

一応、渡れましたが・・・

 

 

 

無事、戻りました😊

 

檜洞丸、噂にたがわぬ、

素敵な山でした!

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

皆さま、GWはいかがでしたか。

 

私は、大阪・関西万博に行ったり、

山歩きに行ったり、

おかげさまで楽しませていただきました(^^)

 

明日から仕事なので、

今、ちょっぴりブルーな気分ですが(^^;

 

・・・で、

だいぶ期間が空いてしまいましたが、

 

精神科医・泉谷閑示さんの新書、

 

「普通がいい」という病

 

 

を紹介・解説しています。

 

今回で5回目、最終回です。

 

「小径を行く」

という講から、引用します。

 

 

必ずどんな人にも、

その人なりの敏感な

アンテナというものが

どこかにありますが、

 

その敏感さゆえに、

もろくなってしまったり、

弱くなってしまったり

していることがよくあります。

 

本人自身がそのアンテナを

「みんなと違う感覚だから

良くないものだ」

と思ってしまうと、

 

それをひた隠しにして、

使わないようにしてしまいます。

 

使わないから、

磨きがかからない。

 

しかし、

そのアンテナが

無くなることはありませんから、

 

結果として、

中途半端に敏感で

細い状態になり、

 

その人自体が

弱くなっていって

しまいます。

 

 

そうですね。

このアンテナとは、

この本を紹介した最初の記事

 

 

の「角」と同じ意味ですね。

 

茨木のり子さんの詩の一部(汲む)が

紹介されています。

(大好きな詩です!)

 

 

大人になっても

どぎまぎしたっていいんだな

 

ぎこちない挨拶

醜く赤くなる

 

失語症

なめらかでないしぐさ

 

子供の悪態にさえ

傷ついてしまう

 

頼りない生牡蠣のような

感受性

 

それらを鍛える必要は

少しもなかったのだな

 

年老いても咲きたての薔薇

柔らかく

 

外にむかってひらかれるの

こそ難しい

 

あらゆる仕事

すべてのいい仕事の核には

 

震える弱いアンテナが

隠されている

 

きっと・・・

 

 

何だか勇気づけられますね(^^)

 

「すべてのいい仕事の核には

震える弱いアンテナが隠されている」

 

ほんとそう思います。

 

私事になりますが、

若い頃は、

 

人が人前で話す時に、

「今、緊張しています」

とか、

「うまく話せるか自信がない」

と言うのを聞くと、

 

「言い訳するな!」

「何、甘ったれたこと言ってるんだ!」

と反発心を感じることが多く、

 

自分ではそういう弱音は

決して吐かない人だったのですが、

 

近年は、

「ちょっと緊張してます」

と素直に自己開示できるように

なりました。

 

そのほうがリラックスして

自然体で話せますので(^^;

 

少しは自分の弱さを

受容できるようになったかな(^^)

 

・・・横道にそれました💦

「小径」の話に戻ります。

 

 

マジョリティの大通りは、

不自然で窮屈な道です。

 

人間はそれぞれに

ユニークな存在なのですから、

本来一万人いたら

一万通りの道なき道が

あるはずです。

 

にもかかわらず、

大勢の人が通る

大通りというものが

あること自体、

とても不自然なことです。

 

 

たしかに・・・

 

大通り、すなわち、

皆と同じ道を歩むというのは、

本来、無理があるのかもしれません。

 

 

大通りを歩くということは、

いろいろなことを諦めたり、

感じないように麻痺していたり、

 

すなわち、

去勢された状態で

歩いているということです。

 

そうでもなければ、

苦痛で歩けたものでは

ありません。

 

 

感じないように麻痺する・・・

「抑圧」というやつですね。

 

 

しかし、

それでもなぜ多くの人間が

そこを歩きたがるのか。

 

どんな人だって、

本当は自由でありたいはずなのに。

 

この不思議な現象について、

『愛するということ』

の著者エーリッヒ・フロムは

『自由からの逃走』

という本一冊をかけて、

詳しく論じてくれています。

 

 

「自由からの逃走」

まだ私は通して読んだことはないのですが、

エッセンスが紹介されています。

 

 

自由というものは、

何の指針もなければ、

その小径が正しいのかと

問われても

答えようがないもので、

 

自分の判断以外に

あてに出来るものはない。

 

マニュアルもなければ

他人との比較も出来ないし

前例すらない。

 

これが自由ということの

大変さなのです。

 

そして多くの人は、

このリスクが怖くてしょうがない。

 

それに比べて、

大通りは不自由だけれど安全。

 

これが、

人々を大通りに

強くひきつけている

最大の理由である

ということなのです。

 

 

「自由」という小径を行くには、

道なき道を、

自分で選んで、自分で決めなければならない。

 

そのリスクが怖いし、面倒だから、

つい、自分を殺して、

皆と同じ大通りを歩んでしまう・・・

 

・・・現実論として、

それは、ありますね。

正直、私自身にも(^^;

 

ドストエフスキー

「カラマーゾフの兄弟」

の「大審問官」の章にも描かれている

テーマですね。

(この大著もいつか解説に

チャレンジします(^^;)

 

「誰か決めてくれ!」

それがいきすぎると、

やがては、独裁者を生み、

全体主義、ファシズムへの道に

突き進むことになるのは、

歴史が物語っているとおりですが・・・

 

 

大通りの人たちは、

必ず徒党を組みます。

 

彼らは、

内に不自然さ、窮屈さを

無意識に抱えているので、

 

どうにかしてそれを

打ち消しておく必要がある。

 

そうでなければ、

自分たちの大通りが

間違った道であるということが

バレてしまう。

 

打ち消すには、

井戸端会議的に徒党を組むのが

一番手っとり早い。

 

「ね、そうよね。

私たち正しいわよね。

あの人はちょっと変よね」

 

というようなことを言って、

大通りを外れた人の

ゴシップをネタに、

 

自分たちを正当化して

安心するわけです。

 

 

なるほど・・・

 

自分が抑圧しているものを、

他人に投影して、

自分を正当化するという

メカニズムでしょうか。

 

 

巷にあふれる

ワイドショーや

ゴシップ週刊誌は、

 

そういう人たちの

根強いニーズがあるからこそ

成り立っているわけです。

 

大通りの人にとっては、

「人の不幸は蜜の味」

なのです。

 

自分が幸せな場合には、

そんなものを見たいとも

思わないでしょうし、

 

むしろあさましく思えて

不愉快なものですが、

 

大通りを行く人が

たくさんいる限りは、

こういうものも

無くならないのでしょう。

 

 

そうですね・・・

 

自分が大通りを

ガマンして歩いているからこそ、

 

そこから外れる人のことを

許せないという心理。

 

私は、ワイドショー的なことには、

あまり関心がないのですが、

 

しかし、このような心理が、

自分の中にまったくないとはいえません(^^;

 

エゴを抱える人間ですから、

完全になくすことはできませんが、

(と自己弁護していますが)

 

やはり、幸せな人、

自分らしく生きているほど、

 

「人の不幸は蜜の味」

というのは、

感じにくいのだと思います。

 

 

茨木のり子さんの詩にあるように、

 

まずは、自分の中の、

「震える弱いアンテナ」を大切にすること。

 

「心の声」に耳を澄ますこと。

 

そして、

時には、その声に従って、

大通りから小径に外れてみること。

 

それが、

自分以外の他者を理解、尊重することにも

繋がるのではないか・・・

 

そんなことを思いました😊

 

 

 

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以上、

かなり期間が空いてしまいましたが(^^;

 

5回にわたって、

精神科医・泉谷閑示さんの新書、

 

「普通がいい」という病

 

 

から、私の印象に残った箇所を、

紹介させていただきました。

 

精神医学、心理学の知見から、

内容濃く、されど分かりやすく、

語られている新書です。

 

「自分らしく生きる」

ために勇気を与えてくれる本。

 

おすすめします!

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回からは、別の本を紹介します(^^;

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

 

GW前半、

カミさんと万博行きました!

 

 

 

あいにくの空模様、でも、

かなり混んでいました(^^;

 

 

 

 

オーストリア館。

 

 

 

コロンビア館、ポルトガル館。

 

 

 

サウジアラビア館。

 

 

 

西陣織の飯田パビリオン。

 

 

 

未来の都市館。

 

 

 

夜の水上ショー。

 

 

 

何回もチャレンジしたら、

夜の当日予約で

奇跡的にガンダム館取れました😲

 

 

 

 

 

おもろかった!

 

 

 

閉館まぎわ、

PASONA館も駆け込みで!

 

 

 

IPS心臓!

 

 

 

映像美しかったです。

 

人気パビリオンは、

夜が狙い目でした!

(少し並べば入れるところが増えます)

 

欲張って、

朝から閉場まで11時間もいましたので、

ヘロヘロになりましたが💦

 

 

 

往路、三重県鈴鹿市の椿大神社に寄り道。

(つばきおおかみのやしろ、と読むそうです)

 

渋くて立派な神社でした!

 

 

 

復路は、京都の醍醐寺に寄り道。

 

大きなお寺でした!

(霊宝館では仏像もたっぷり観れます)

 

車で行ったので、くたびれましたが(^^;

寄り道もできて、

いい思い出になりました😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

精神科医・泉谷閑示さんの新書、

 

「普通がいい」という病

 

 

から、

私の印象に残った箇所を、

紹介しています。

 

今回は、

内容をご存知の方も多いとは思いますが、

イソップ童話の「北風と太陽」。

 

引用の引用になりますが、

改めて内容を紹介しますね(^^;

 

 

「北風と太陽とが

彼らの力について

言い争っていました。

 

そこで彼らのうちどちらでも、

旅人を裸に

させたものの勝ちだと、

いうことにいたしました。

 

そして北風から

まず初めて烈しく

吹きつけました。

 

その旅人は

着物をしっかり

押さえましたので、

北風はいっそう強く

吹きつけました。

 

しかし旅人は

なおいっそう寒さに弱らされて、

さらに余計な着物まで

着こみました。

 

とうとう北風は疲れ切って

彼を太陽に譲り渡しました。

 

太陽は最初は

ほどよい加減に

照りつけました。

 

その人は

余分な着物をぬぎましたので、

太陽はもっと

強く暑さを増しました。

 

とうとう彼は暑さに

耐えることができないので、

着物をぬぎ捨てて、

水を浴びるために

傍を流れている

河にはいりました。」

 

岩波文庫

「イソップ寓話集」より

 

 

この童話は、

改めて一読してみると、

多くの示唆を与えてくれます。

 

泉谷さんの解説から、

 

 

さて、旅人はなぜ

着物を着ているのでしょうか。

 

そう、寒いから

着物を着ているのです。

 

北風はその着物を

力ずくで取り除こうとする。

 

しかし、

旅人はそれで

余計寒くなったので、

かえってしっかり

着物を握りしめてしまいました。

 

一方、太陽は

この旅人が欲しているもの、

つまり暖かさを届けました。

 

それによって、旅人は

着物をまとう必要がなくなり、

あっさりと自分から

着物を脱いだわけです。

 

 

そうですね。

旅人は何か「理由」があって

着物を着ている。

 

つまり、寒いから、

別の言い方をすると、

何か「怖れ」や「傷つき」があるから、

着物を着ているのに、

 

私たちは、

それを忘れて、

力づくで脱がそうとしがちです(^^;

 

対して、

太陽の暖かさ、

これはつまり、

月並みな言葉になりますが、

「愛」のことですね。

 

満たされれば、

自然と脱ぐわけです。

 

ありのまま、

オープンになれるということですね😊

 

 

北風のやり方は、

まさにコントロールそのものです。

 

こういう力ずくの

コントロールは、

歴史や今の国際情勢を見ても

明らかなように、

 

一見思い通りになったように

見えたとしても、

地下潜行していた

抵抗勢力によって、

 

後で必ずや

レジスタンス運動や

独立運動、

テロリズムがひき起こされます。

 

 

同感です。

 

古今東西、今の世界も含めて

例外なく、

その通りになっていますね。

 

家庭での子育てや、

職場での部下育成でも、

根は同じだと思います。

 

一見従ったように見えても、

見えないところでは、

むしろ、

反抗したり、

さぼったりするようになる(^^;

 

 

(中略)

「頭」の理性はとかく

北風方式のコントロールで

物事を解決しようという

傾向があります。

 

習慣によるコントロール・

時間によるコントロール・

知識によるコントロール・

マニュアルによるコントロール

などさまざまありますが、

 

しかし、

本当の変化というものは、

中から自発的に

起こってくるものです。

 

それを可能にするのは、

太陽方式です。

 

 

本当の変化というものは、

中から自発的に起こる。

 

いわゆる

「気づき」というやつですね。

 

ゲシュタルト療法の

「変容の逆説的理論」

でもいわれている、

 

「人はありのままの自分を

受け容れてこそ、変化が起こる」

 

という言葉にも通ずると思います。

 

 

つまり、

ある問題にアプローチするときに、

 

表面に現れた問題を

力づくで外から

コントロールするのではなく、

 

その問題が生み出された

根源のところに目を向け、

 

そこで欠乏しているものを

明らかにし、

 

その根源に向けて

必要なことを行っていく

やり方です。

 

 

外からコントロール

しようとするのではなく、

根源に向けて

アプローチしようとする。

 

これはまさに、

カウンセリングの手法ですね。

 

「答えは相手の中にある」

と信じて、ひたすら、

相手のことを分かろう、理解しよう、

という姿勢ですね。

 

 

北風方式は、

対象を捻じ曲げたり

破壊してしまったり

するのに対して、

 

太陽方式は

対象に真の変化をもたらします。

 

これは、

自分自身と向き合うときも、

他人に向き合うときにも、

どんな場合にも当てはまる、

普遍的な大原則なのです。

 

 

太陽方式、すなわち、

暖かさで満たすことが、

真の変化をもたらす。

 

ほんとうにそう思います。

 

それは他人にだけでなく、

自分自身と向き合う時にも

いえることですね。

 

自分が満たされていないと、

他人を満たすことはできませんし・・・

 

・・・と、

そうはいっても、

 

時には、

(特に仕事においては)

どうしても

他人をコントロール

しなければならない時はありますし、

 

自分自身に対しても、

本音を押し殺して、

振る舞わなければならない時も、

やっぱりあります。

 

太陽方式は、時間がかかるので、

即効性がある(ように見える)

北風方式を、つい、

取りたくなってしまう時も

ありますが(^^;

 

しかし、それは、

そうせざるを得ない

例外的な場面に限るようにして、

 

基本的なスタンスとしては、

「太陽方式」でいきたい!

 

そう改めて思いました😊

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回に続きます(^^;

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

 

田舎にいくと、ありがちな看板(^^;

 

 

 

芝桜、キレイです!

 

 

 

毎週のように山に行っています。

ヒルの居ぬ間に、東丹沢(^^;

 

 

 

気持ちいい木漏れ日ロード(^^)

 

 

 

有名なミツマタの群生地、

・・・ですが、

さすがにもう、

花はほとんど終わっていました(^^;

 

 

 

出た!鎖場。

 

 

 

たくさんありますが・・・

 

 

 

何とか、

三峰山頂、着きました😊

 

 

 

うう、ここ降りるか・・・💦

 

 

 

新緑、気持ちいい!

 

 

 

物見峠で一息・・・

 

 

 

無事、下山できました。

今回も、なかなかのアドベンチャーコース!

こわおもろかったです(^^)

 

 

 

この日、

トカゲ10匹くらいは見ました。

 

生命が躍動する季節ですね!

 

 

 

別日、

仕事でお台場、帰りに寄り道・・・

ガンダム!

 

 

 

お騒がせの会社。

 

 

 

久々のお台場散策でしたが、

インバウンドの人だらけで、

まるで外国のようでした!

 

 

 

美しい・・・風景ですが、

なんだか、ちょっと恥ずかしい気分(^^;

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

精神科医・泉谷閑示さんの新書、

 

「普通がいい」という病

 

 

の内容から、

私の印象に残った箇所を

紹介、解説しております(^^)

 

今回は、

ニーチェの「三様の変化」、

駱駝・獅子・小児の比喩の箇所を

紹介させていただきます。

 

駱駝・獅子・小児の比喩は、

よく他の本でも紹介されていますが、

 

本書では、

精神の成熟過程を理解するうえで、

とても説得力を持って語られています。

 

 

このプロセス

(精神の成熟過程)には

三つの段階があって、

最初、人間は駱駝(らくだ)

として描かれています。

 

駱駝は、

従順さ、忍耐、努力、

勤勉さ等の象徴です。

 

「遠慮なく重いものを

積んで下さい。

もっと重いものは

ありませんか?」

 

と望むような存在です。

 

駱駝は元来、

龍の存在によって

駱駝にさせられたのでした。

 

この龍は

「汝なすべし」

という名前の龍で、

 

「私は絶対者なのだから、

私の言うことを聞いていれば

いいのです」と言う。

 

つまり、

龍以外の主体性を認めず、

ただ龍に従順に従えと

命ずるのです。

 

従っている限りは、

あなたを守ってあげましょう

ということです。

 

 

「龍」とは、

社会通念、道徳だったり、

 

心理学の精神分析でいえば、

「超自我」

のことだと考えます。

 

「駱駝」とは、

いわゆる社会人、

大人になるということですね。

 

本書でも出てきますが、

夏目漱石でいえば「他者本位」。

 

 

この駱駝が、

ある時自分が窮屈であることに

気付きます。

 

そして、駱駝は

獅子に変身し、

この龍を一気に倒してしまう。

 

そして獅子は

自由を獲得します。

 

つまり、

自分の場所や主体性を

獲得したのです。

 

この獅子の言葉は、

「われは欲す」です。

 

ここで「われ」

すなわち一人称の自分が

誕生したわけです。

 

この獅子は「怒り」

の化身です。

 

去勢されていたような駱駝が、

自分の不当な扱われ方に

疑問を感じ、

「怒り」の爆発とともに

獅子に変身し龍を倒したのです。

 

 

「獅子」になって「龍」を倒す!

というと

いかにも激しい感じがしますが、

 

「龍」はかなりの強敵ですので(^^;

私の感じだと、

やっつけるというよりも、

「龍」から精神の独立を勝ち取る

イメージでしょうか。

 

「自分らしさ」に目覚めて、

それを受け入れる。

 

簡単なことではありませんが、

「中年の危機」を乗り越えることも、

これにあたるかもしれません。

 

夏目漱石のいう

「自己本位」というやつですね。

 

 

このようにして

「われ」を獲得した獅子は、

そこで終わるのではなく、

つぎに小児に変身します。

 

この小児の言葉は、

「然り」です。

 

「然り」とは

「その通り」という意味で、

別の言い方をすれば、

「すべてはあるがままに」

ということです。

 

小児は、

創造的な遊びに没頭します。

 

これはとても

重要な点です。

 

自由を獲得するために

一度獅子になるが、

そのあと獅子の

「われ」は消えて

「あるがまま」の小児になり、

純真無垢で無心に

創造的な遊びに没頭していく。

 

これが、

人間の究極の姿

なのだということです。

 

 

「小児」になるというと、

「好々爺」のイメージが湧いてきますが、

 

この場合の「小児」は、

「駱駝」や「獅子」を経ての

「小児」といういうことが

ポイントですね。

 

 

これはただの小児ではなく

獅子を通ってきた小児です。

 

ですから、

純粋・繊細であると同時に

ゆるぎない自分を備えた

強さがあります。

 

ガラス細工のような脆さとは、

もはや無縁です。

 

 

本書では、

「敏感で太い自分」

という表現がされています。

 

普通は

鈍感で太いか、

繊細で細いか、

どちらかになりがちですが、

 

「駱駝」や「獅子」

を経た「小児」は、

 

「敏感で太く」

なれるということですね。

 

で、著者いわく、

このニーチェの

「三様の変化」は、

東洋思想の「十牛図」と

同じことを言っているといいます。

 

「十牛図」

簡単に紹介しますと、

(図解できないのが歯がゆいですが(^^;)

 

 

第一図、

若者は

牛はどこにいるだろうと

探している。

 

第二図、

若者は牛の足跡を見つける。

 

第三図、

やっと牛を見つけた。

 

第四図、

牛を捕まえる。

 

第五図、

牛がおとなしく

手綱でつながれ、

ひかれています。

 

第六図、

牛の背に乗って、

笛を吹きながら

楽しそうに家に帰る。

 

第七図、

牛は画面から消え、

人は月を拝んでいる。

 

第八図、

人も牛も共に忘れる。

つまり、どちらも

画面から消えている。

 

これがよく言われる

「円相」です。

そこには全く何もない、

空です。

 

第九図、

川が流れ、

木に花が咲いています。

ただそれだけです。

 

第十図、

布袋さんみたいな

立派なお腹の老人が

徳利をぶら下げて、

ニコニコとふもとの里に

現れる。

(これが昔の若者だと

考えても考えなくてもよい)。

 

ふもとに下りて来て、

若者と出会う。

若者はそこで

深い影響を受けます。

 

 

この一図から十図までを、

ぐるっと円にならべたものが、

「十牛図」です。

 

この「牛」とは、

「本当の自分」

のことを指しますが、

 

興味深いのは、

せっかく牛を捕まえて、

楽しそうに家に帰るのに、

 

なんと、その後に、

自分も牛も消えてしまうんですね😲

 

これは、

「本当の自分」を受け入れたことで、

「自我」が消えたということでしょうか。

 

あるがまま、

自然の境地。

 

しかし、

山奥で仙人になるわけではなく、

 

いわば小児のような自然体で、

里に下りて若者の前に現れる。

 

そして、若者は、

牛を探しに・・・

 

・・・こんなふうに、

「十牛図」は、

無限のループ(螺旋)になっているんですね。

 

本書では、

人間の精神の成熟過程は、

「螺旋の旅路」だと述べられていますが、

私も同感です。

 

ぐるっと360度回って、

振り出しに戻ると、

「結局成長しなかったのか・・・」

と思ってしまいがちですが、

 

実は、螺旋階段のように、

一段上のレベルに進化している。

 

もっとも、

螺旋階段を登るには、

「駱駝」から「獅子」への

苦しい葛藤の時期があるのですが、

それは決して無駄なことではない。

 

それを乗り超えれば、

最終的には

「小児」のような心境になれる(かも)。

 

そのような境地に達することは、

なかなか難しそうですが(^^;

 

「敏感で太い自分」

 

目指していきたいです😊

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

次回に続きます!

 

 

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おまけ写真集(^^)

 

新しいトレッキングシューズを買ったせいか、

毎週のように山歩きに行っています(^^;

 

一週間ほど前ですが、

今回は札掛方面から塔ノ岳へ!

 

 

 

 

ここもミツマタ咲いてました!

 

 

 

モリモリしててカワイイです(^^)

 

 

 

ええっ、

上級者向けということで、

少しビビりましたが(^^;

 

よく整備されていて、

そんなに危険な感じはありませんでした。

(整備して下さる人に感謝です😊)

 

 

 

沢を渡ります・・・

 

 

 

なかなかアドベンチャーで

おもしろいコースでした(^^)

 

ひたすら登ると・・・

 

 

 

塔の岳着きました!

 

 

 

が、上のほうは曇ってました・・・

富士山見えず😢

 

 

 

丹沢山方面は、完全にガスの中・・・

 

 

 

大山は見えました!

 

 

 

帰路、上のほうはまだ

雪が少し残ってました。

 

サクサクして気持ちいい歩み・・・

 

 

 

ヒノキ林、

何だか絵画のようですね。

 

 

 

下山後、相模国三ノ宮の、

比々多神社へ。

 

 

 

ご神木。

 

 

 

鈴緒が5本掛かっています。

高さのある独特な拝殿がかっこいいです!

 

 

 

これは今日のウチの庭。

コデマリがもりもり咲いてきました😊