はなそうよ ~ Let's Talk -2ページ目

はなそうよ ~ Let's Talk

はなそう基金 = Let's Talk Foundation  古森 剛 のブログです。
「Komo's英語音読会」@陸前高田、その他関連する活動などを綴ります。


はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ







□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
復興対談シリーズ ~ Talk for Recovery


 
第4回 株式会社臼福本店 代表取締役社長 臼井 壯太朗 さん


 
(対談実施:2012年9月中旬)
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


 
古森:こんにちは。本業にも復興関係にも飛び回っておられる中、お時間をいただきましてありがとうございます。


 
臼井:いえいえ、こちらこそ時間がタイトになってしまいまして恐縮です。ちょうど今、市役所での会議から戻ってきたところです。


 
古森:本当にお疲れ様です。


 
臼井:何からお話ししましょうか。


 
古森:大きくは三つのことを伺えればと思います。まず、改めて震災発生当時のご記憶をたどって、印象に残っていることは何でしょうか。二つ目は、臼井さんが感じておられる復興の課題について。そして三つ目は、実際どうしていくかということです。臼井さんご自身の取り組みも含め、お聞かせ願えればと。


 
臼井:なるほど、わかりました。


 
 
■ 逃れた山の上から見た水平線の白い壁


 
古森:震災発生当時は、お仕事中でしたか。


 
臼井:はい、普通に事務所にいました。うちは遠洋マグロ漁業の会社ですので、常時7隻ほどの船を世界中の海に送り出しています。遠くの海に散らばっている乗組員の情報のハブになり、留守中の家族の世話なども含めて面倒を見るのが我々本社の仕事です。その日も、港に面した社屋でいつものように仕事をしていました。


 
古森:そして地震が来た・・・。


 
臼井:地震には慣れていますし、緊急地震速報を聞いても普通に皆仕事をしていました。しかし、なかなか揺れが収まりません。そのうち、神棚がパソコンの上に落ちてきたり、窓枠が落ちてきたりして、「これは、ちょっと違うぞ!」と。「揺れが収まったら外に出るぞ」と呼びかけたものの、一向に揺れが収まらないのです。


  
古森:いつもの揺れとはまったく違っていたわけですね。


  
臼井:少し揺れがゆるくなったので外に出ました。そしたら、もう道路が液状化して水が噴出していました。すぐに、津波が来ることを確信しました。みんなに「津波が来るから山に逃げるぞ。貴重品とパソコンだけ持っていけ!」と呼びかけて、車で裏山に逃げました。
   


   
古森:経営者としては、瞬時に避難の判断をされたわけですね。従業員の方々は無事避難できたのですか?


 
臼井:うちの従業員は全員無事でした。パソコンを持ち出したのも正解でしたが、肝心の経理のパソコンだけ忘れてしまいました(笑)


 
古森:そして、裏山の上から津波が来るのを見ていたわけですか。


 
臼井:そうです。裏山に続々と人が逃げて来る中で、まだ地面は揺れ続けていました。ふと沖のほうに目をやると、何か白いものが見えてきたのです。なんだろうと思ってテレビ局のカメラで見させてもらったら、水平線に白い壁のようなものが見えました。


 
古森:その距離で壁に見えるのですから、とんでもない高さですね。


 
臼井:まだ合流できていない社員や家族に、必死に携帯のショートメールを打ちました。電話はパンクしていましたが、ショートメールは使えたのです。「死ぬぞ、死ぬぞ、逃げろ」という短いメールを打ち続けました。


 
古森:その緊迫感、想像を絶するものがあります。


 
臼井:そのうちに津波の第一波が到達しました。港の入り口には重油のタンクがあって、まずそれがちぎれて流れました。次々に漁船が流されて、くるくる回っていました。波が押し寄せ、川を遡上して、町を押しつぶしていくのが見えました。


  
古森:目の前で、その光景をじかに・・・。


  
臼井:ちぎれたタンクから流れ出た重油がどこかで引火して、海が燃え上がりました。火の津波です。陸に火とともに押し寄せて、そして、火を残して引いていくのです。恐ろしい光景でした。


 
古森:気仙沼の火事は、あの夜、テレビのU STREAMでも中継されていました。私は帰宅難民化した社員と一緒に新宿のオフィスでそれを見ていました。ほんとうに、地獄絵図だと思いました。忘れられません。


 
臼井:下の産婦人科にまだ人がいるということで、皆で助けに行きました。赤ちゃんを産んだばかりの人もいて、まだ血を流している状態でした。火が回ってくるので、皆で運び出して、警察を先頭にして雪の中を移動しました。山のほうにも火が回るかもしれないということで、山道を抜けて逃げました。やがて父の家にたどり着き、そこでようやく家族とも合流できました。


  
古森:よりによって雪でしたね。あの惨事の中でさらに雪が降るということが、ことさら辛かったというお声も色々なところで聞きました。


  
臼井:津波が去った後は、やはり自宅や会社のことが気になるので現場に戻りました。ほとんど全部流されていましたが、かろうじて事務所の神棚は残ったので、ここの仮店舗に持ってきました。
 


古森:自然を相手に生きる方々は、神棚を本当に大事にされますね。


 
臼井:しかし、最初の頃は本当にひどくて・・・。多くのご遺体・・・。そんな惨劇の中で、自動販売機や企業の金庫は津波翌日から荒らされ、ご遺体が身につけていたものは外国の窃盗団に奪われました。人が殺された場所もあると聞いています。


  
古森:救援の手よりも早く窃盗の手が伸びた・・・。なんとも嘆かわしいことですね。震災下の秩序ということで海外のメディアにも美談が報じられましたが、場所によっては色々とあったのですね。


  
臼井:財産も家族も失って自暴自棄になった人が、被災していない内陸の家屋に放火したり、半壊だと保険が出ないという噂から自宅を燃やしたり、という事件もありました。私も怖くなって、水につかりながら自宅周辺のガス栓を閉じてまわりました。


 
古森:しばらくは、そうした混乱の日々だったのですね。


  
臼井:最初の一ヶ月は、家と会社の整理、そして船員を含む従業員の家族関連の情報収集に奔走しました。我々本社は、沖にいる船員たちと陸との情報のハブです。そのハブが機能しなくなると、沖にいる人たちは不安になります。震災後一週間くらいしてAUがつながったので、AUの携帯を人から借りて、沖の船員たちと連絡をとりました。


  
古森:沖にいる人たちも、さぞ不安だったことでしょうね。


  
臼井:遠洋ですから、帰ろうと思っても、すぐに帰れる距離ではないのです。ですから、沖のほうでは「俺たちは大丈夫。少しでも魚をとり、お金を持ち帰るのが俺たちのやるべきこと。そっちのことは頼んだ」ということになり、こちらでは「ありがとう。こっちは俺たちに任せてくれ」ということで、船員の家族の安否確認などに全力を注ぎました。
  


   
古森:沖の人たちにかわって、家族同然に一生懸命に動く。


  
臼井:船員の留守家族を守るというのも、私たちの仕事なんですよ。遠洋漁業をやっていますと、親の死に目に会えないことがほとんどです。沖の乗組員に代わり、焼き場まで行って、お骨を拾うところまで、私たちの仕事なのです。


  
古森:食卓に並ぶ魚の背景には、そういう連綿たる人間の営みがあるのですね。震災時ならずとも、本当はそれを知って食卓に向かいたいものです。


 
  
■ 進まない瓦礫撤去 ~ 根深い構造問題


  
古森:さて、復興の課題ですが、復興と一概に言いましても実像は様々です。瓦礫撤去などの初期的作業も一筋縄ではいかないようですし、その後の計画づくりや実行段階の課題も、地域ごとに山ほど残されていると聞きます。


  
臼井:おっしゃるとおりで、文字通り課題山積です。


  
古森:私は昨年9月から毎月、お隣の陸前高田に通っているのですが、その都度気仙沼や大船渡などにも寄らせていただいています。それらの町を同時並行的に見ていて思ったことは、瓦礫撤去ひとつとっても町ごとに進捗度に大きな差があるということです。昨年秋頃までは、気仙沼は瓦礫の撤去が進んでいないという印象を持っていました。現地の内情としては、どうなのでしょうか。


 
臼井:実際そのとおりでした。これには事情があります。一言でいえば、過度な地元志向が瓦礫撤去の進行を阻んでいたのです。


 
古森:過度の地元志向・・・。


 
臼井:瓦礫撤去に従事する土建業の世界には、地域ごとに地場企業の住み分けのようなものがあります。しかし、今回のような緊急時には、防災協定にしたがって平常時の枠組みを越えて、県が他地域のゼネコンに応援を要請するのが常識です。ところが、気仙沼は他の地域と違い、すぐにその応援要請を出さなかったのです。


 
古森:災害の緊急時でも、平常時と同じように地元企業で対処すると。


 
臼井:「このままでは瓦礫の撤去さえ進まない」と思いました。折しも、近隣の建設業の知人から「何か支援できることがあれば」というお声がけがありました。その会社は瓦礫撤去の経験もあり多くの機材も持っていたので、弊社の子会社の資材会社がその会社と協働する形で瓦礫撤去の活動に参加することにしました。
  


  
古森:必要性を感じて、現場で動き始めたわけですね。


 
臼井:ところが、動き始めてから色々なサボタージュを受けました。まず、なかなかやらせてもらえない。瓦礫撤去のお金にもいくつか違う出所があるので、出所によっては何とかやらせてもらえる、というような状況でした。現場に行く道すがら、「こっちを通れ」と遠回りをさせられたり、それで現場に行くと先回りされていたり。


 
古森:本当にそんなことがあるのですね。


 
臼井:さらに、曲がりなりにも瓦礫撤去に参画して動き始めてみると、大きな構造問題に気づかされました。あんなにトラックが入っているのに、その割には瓦礫がなかなか減らないのです。おかしいなと思ってよく調べてみたら、瓦礫撤去の費用は「一日一台あたりいくら」という払われ方をしていたのですよ。


 
古森:一日あたりいくら?


 
臼井:つまり、たくさん積んで早く撤去してしまうよりも、出来るだけ少なめに積んで長い日数をかけるほうが儲かる構造になっていたのです。事実、サラっとしか瓦礫を積まないトラックが、街中に数多く見受けられました。


 
古森:・・・(絶句)


 
臼井:ほどなく、「オール気仙沼」で片付ける会というのが発足しました。入手した発起人会のFAXを見たら、要は気仙沼の業者だけで片付けようという趣旨になっていました。そこで、「どうして弊社は呼ばれないのか?」と聞いたら、「登録業者じゃないから」と。「なぜ邪魔をするのですか?」と聞いたら、「臼井さんも入れるようにするから待って」と言われたまま、結局は外されたままでした。


 
古森:復興の基礎作業である瓦礫撤去が、「何をするか」ではなく「誰がするか」で動いていたわけですね。世界人類、どこにでもそういう話はありますが、ここ日本で聞くとやはり寂しい気持ちになります。


 
臼井:やがて我々に力を貸してくれる地元や県外の方々も現れて、最終的には数社で力を合わせて動いていきました。手前味噌ですが、私たちが動いていなかったら、年明けになっても瓦礫撤去は出来ていなかったと思います。 その後、資材の子会社のほうには、ある地元大手土建会社からの発注は全くなくなりました・・・。


 
古森:港の周辺をまわると、昨年秋頃の状況に比べて、ずいぶん変わったということが分かります。一方、まだ基礎などが残っている場所も多いですね。


 
臼井:ここから先、今度は基礎を壊し、地下の下水管なども撤去して、新しく管を通して、それから土を被せて、という作業が必要です。これも気仙沼だけでなく全国から広く力を借りてやっていくべきでしょう。被災していない地域では、そろそろ震災のイメージは風化しつつあります。他の土地から作業に来てもらえば、そうした風化を防ぐことにも一役買うものと思います。


 
 
■ 銀座での挑戦


 
古森:臼井さんは、震災直後からテレビに出演されたり、銀座の阪急のビルで気仙沼のプロモーション・スペースを運営したり、最初から全国を意識した活動をしておられますね。そのあたりの話も少しお聞かせ願えますか。


 
臼井:話の発端は、震災前にまでさかのぼります。もともと「TVタックル」に出ていた関係で、震災後にスタッフから電話がありました。たけしさんからの指示で出演者全員の安否確認をしていて、私だけなかなか連絡がとれていなかったということでした。電話が通じたとき、スタッフの方は泣いておられました。


 
古森:海のそばで暮らしておられたのを皆知っていたでしょうから、なおさら心配されたことでしょうね。


  
臼井:それで、まずはスタッフの方がこちらに取材に来られたので、現地を案内してまわりました。そうこうするうちに、スタジオに来てくれと。これは、状況を考えていったんお断りしました。


  
古森:それは、そうでしょうね。


  
臼井:ところが、父に相談したら、「被災した人たち、みんなのことを伝えるいい機会だ。行ってこい!」ということで、行くことに決めました。スタジオに行く前日に大きな余震があり、直前まで迷いましたが、父が「俺に任せろ」というので・・・。それが一番心配だったのですが(笑)
  


  
古森:それで、出演されて。


  
臼井:スタジオには、私と、福島の会津から来たおばちゃん。そこから、色々と動き始めました。まず、番組が流れた後に、阿川さんから「東京でチャリティー・ディナーショウをやるから、来れない?」と言われました。「預かりに来るだけでいいから、来れないか」と。


  
古森:とりあえず、行かれたわけですね。


  
臼井:はい。そうしたら、会場には各界の著名人がたくさん来ておられて、そこで東急不動産の金指社長や服部セイコーの服部会長とのご縁をいただきました。中でも金指社長は、「被災地で何か応援をしたい」と申し出たら断られたということで、「気仙沼はチャンスを逃しているぞ」と言われました。


  
古森:その縁から、銀座の話に。


  
臼井:はい。その後、金指社長とお話をしていくうちに、2012年9月に解体予定のビルが銀座にあるから、空いているスペースを自由に使っていいぞと言われました。突然の話だったので躊躇したのですが、気仙沼に戻って地元の若手の方々と話をしていたら、「それは何かやるべきだ」と。それで、お願いすることにしたのです。


  
古森:実際、そのスペースでどんなことをされたのですか。


  
臼井:あくまでもオープンなやり方にしようと思いまして、まずは気仙沼商工会議所に話をしました。その後、日本商工会議所に声をかけていただき、被災した沿岸部の15箇所の商工会議所にも声をかけていただきました。結果的には10箇所がこれに呼応してくれました。


  
古森:オープンにやる、というのは臼井さんの信条ですね。


  
臼井:ところが、いざ「やる」という段階になり商工会議所にバトンを渡したら、パッタリと連絡が来なくなったのです。業者もぜんぜん集まっていない様子。おかしいなと思って調べてみたら、なんと出店者から口銭を取る話になってしまっていたのです。


  
古森:そこでもまたお金の話ですか。


  
臼井:ちょっと待て、と。復興支援で金指社長が無償で手を差し伸べてくれているのに、そのスペースを使って口銭を取るなんてありえないでしょう。事情を聞けば、商工会議所は商工会議所で、ここで稼いで雇用につなげたいという話でした。気持ちは分かりますが、筋違いです。やむなく割って入って、参加候補事業者の方々に「口銭はゼロにします」と宣言しました。


  
古森:何か機会があっても狭い範囲に閉じた話になってしまって、なかなか開放系の方向に進まない感じですね。


  
臼井:その後もまだ一山ありました。紆余曲折を経てスペースが銀座にオープンしたのが去年(2011年)の10月初旬です。ところが、オープンしてからまた連絡が来なくなったのです。それで、おかしいなと・・・。


  
古森:連絡が途絶えると、いつも何かあるのですね(笑)


  
臼井:銀座に見に行ってみたら、エキナカの物販みたいになってしまっていたのです。「これじゃあ、だめだ」「単にモノを売るんじゃない。モノに込められた想いを伝えなければいけないんだ」など、思ったことを言いました。そこから先、私もトータルアドバイザーということで活動に主体的にかかわるようにしました。


  
古森:つべこべ問題を指摘するのではなくて、もう、「こうしよう」と。まさに、リーダーシップですね。


  
臼井:目玉としては、今回の震災を機に色々な知り合いができたので、そういう人々にも声をかけてイベントを開催しました。しかし、当初思ったように人が集まりません。そこで助けて下さったのが、先ほど触れたチャリティー・イベントで縁をいただいた服部会長です。案内のFAXを持って銀座連合会へ行って、銀座の店舗全体に情報を流して下さったのです。それで、銀座の人たちもだんだん集まっていただけるようになりました。


  
古森:震災後の混乱期に、無理をしてでも東京に出てきて生まれた縁が、色々なところで生きているのですね。


  
臼井:銀座のスペースは期限が来て終わりになりましたが、今後も第二幕、第三幕ということで、東京で何かを仕掛けていこうと思っています。東急不動産の金指社長さんも、何らかの形で今後もサポートしていただけるということです。まだまだ、これからです。


 
 
■ 震災で気づいた三つの大事なこと


  
臼井:そんな感じで、振り返る間もなく走りながら色々とやってきましたが、この震災で気づいたことは三つあります。


  
古森:三つ。是非お聞かせください。


  
臼井:一つ目は、エネルギーの大切さ。ガソリン、電気。震災後、エネルギーが不足して非常に不便な思いをしました。エネルギーは、本当に大切です。


  
古森:被災地だけでなく、震災後しばらくは東日本の広い範囲でエネルギー不足に関する苦労がありましたね。産業にも少なからず打撃がありました。


  
臼井:二つ目は、食の大切さ。危機的状況にあっては、着るものは一週間以上同じものでもなんとかなります。住むところは、雨風がしのげれば、まずは大丈夫です。でも、食がないと生きられない。本当に、それを痛感する機会になりました。


  
古森:まさに、食は命の源泉ですね。震災後、十分に食事がなかったという避難所の話なども聞きました。


  
臼井:そして三つ目は、人のつながりの大切さ。都会に住んでいたら、なかなかつながりがないじゃないですか。都会ばかりでなくこっちのほうでも、震災前はつながりが薄れてきていました。


  
古森:震災後に、「絆」という言葉も脚光を浴びましたね。


  
臼井:震災後は、お隣の奥さんが見つかって、お互い泣きながら握手したり、「がんばろうね」「いい天気だね」と声をかけあったり。人と人の間の会話が増えたように思います。


  
古森:他の地域でも、そういう話をよく聞きます。


  
臼井:日本が発展していく過程で、「人のために何かをする」というのが薄れていって、それで日本経済は駄目になったんじゃないでしょうか。人のつながりが本当に大事なんだということに、震災を経て改めて気づかされましたね。


  
古森:二番目の「食」の視点などは、まさに漁業者である臼井さんの本業の話でもありますね。そもそも、臼井さんは震災前から地元の食育にも携わって来られたとか。


  
臼井:そうなのです。学校給食を100%地産地消にしようという運動を推進していました。


  
古森:100%地産地消。


  
臼井:昨今、国境周辺で緊張が高まっていますが、「国土を守る」ということを突き詰めて考えると、実は農業や漁業などの一次産業の重要性が見えてきます。一次産業を大事にしない国では、それでは満足に生活していけなくなるので、多くの人が耕作放棄したり、かつて漁業で暮らした島から出て行ったりします。


  
古森;実際、それが日本中の田舎で起きていますね。


  
臼井:よく、「中国の人々に日本の土地が買われている」「島が買われている」などという話を聞きますが、根本的にはその土地で一次産業が成り立たなくなっていることが背景にあるのです。海で言えば、国境や海域を守ってきたのはそこで生活していた漁業者でした。産業として振興されず、従事する人間が誇りを持てず、後継者が育たないから廃れてしまうのです。


  
古森:だから、食育にたどりつくのですね。


  
臼井:そうです。根本的には、日本人はやはり日本の一次産業で得られた地元の食材の良さというものを、もっと知るべきだと思うんですね。気仙沼には、すごい賞をとっている一次産品があるわけなんです。では、なぜそれが十分に認知されて使われないか?答えは簡単で、多くの人が価格しか考えずに食品を買うようになったからです。
   
古森:食品の価格だけでなく、価値をみなければならない・・・。


  
臼井:価値を理解するためには、子供の頃から食というものに対して正しい認識を持つ必要があります。それぞれの食材がどこから来て、それをもたらした人々がどんな工夫や苦労をしてきたのか。またその生き物は、どんな生き物なのか。命に対する感謝の気持ちというものも同時に考えていかなければいけないと思います。


  
古森:単に食べてカロリー摂取するだけではなくて、そういうストーリー、質的なものまで子供のうちから理解できるようにしたい、ということですね。だから、学校給食で地産地消の食育をすることに意義があると。


  
臼井:そう信じています。もっと大きな国防的視点で考えても、自国の食料生産をおろそかにする国など考えられません。食料安全保障というのは、もっと真剣に取り組まれるべき課題です。なのに、政府は自動車などの工業を過度に重視して、一次産業の発展に本腰を入れてきませんでした。


  
古森:発展を助ける方向ではなく、色々と補助しながらも結局は衰退させるような結果になっていますね。


  
臼井:そればかりか、国際的なせめぎあいの場では、一次産業の犠牲と引き換えに鉱物資源の権益交渉を援護するようなことが起きています。報じられていませんが、実際は海の上で諸外国との間にひどいことが起きているのですよ。日本の水産資源は、荒らされています。日本人の食に対する価値観を変えていくことで、この流れをもう一度、何とかしたいのです。


  
古森:以前から取り組まれていることに加えて、今後の復興フェーズの中で何か取り組まれることはありあすか。


  
臼井:「気仙沼海洋公園プロジェクト」というものを進めています。
  


  
古森:海洋公園?


  
臼井:気仙沼の水産業が培ってきたものの集大成を、日本のみならず世界中の人々に伝えられるような場を作りたいのです。


  
古森:水族館・・・などでしょうか。


  
臼井:それもあります。しかし、単に大きな水族館を作るという話ではありません。水槽の中にはリアルな三陸の岩場を作り、ワカメや牡蠣の養殖などの様子もそのまま下から覗けるようにしてはどうかと。魚も、本当に三陸の定置網にかかるような魚種、漁船が獲っている魚たちを泳がせたいですね。


  
古森:三陸の海を再現。


  
臼井:さらに、色々な人が来て気仙沼の水産業を学んで帰れるような要素も盛り込みたいと思います。実際の漁船のトイレを設置する。水上タクシーが走る。あるいは、キッザニアのような感じで、子供が実際の作業を体験できるような場も豊富に用意したいですね。


  
古森:水産業分野の体験型学習は、面白そうですね。大人でも楽しめそうです。私も昔は釣りキチ少年でしたし・・・(笑)


  
臼井:食べるところも、郷土料理をしっかりと打ち出して行きたいです。今、フードニスタの浜田峰子さんにもお願いをしております。世界に伍していけるシェフも気仙沼にいますし、そういう方々の技術を生かして、本当に最高水準の食を提供していく。そんな場が出来たらいいなと思って、プロジェクトを推進しているところです。


  
古森:常に、思ったことは行動!ですね。


  
臼井:震災は惨劇でしたが、それがきっかけになって色々な人との縁が生まれ、ネットワークができました。そのネットワークを生かせば、すごいことができそうな気がしています。そこから実際に何をするかが大事です。「エネルギー」「食」「人のつながり」などの大切さを世に訴えていくことを通じて、気仙沼の復興に貢献できたらいいなと思っています。これから気仙沼で起きることが、最終的には日本を変えていくはずだと思って、これからも取り組んでいきます。


  
古森:ミッションが宿っておられますね。あぁ、気がついたらもう時間です。臼井さん、今日は貴重なお話を聞かせて下さり、本当にありがとうございました。復興も人間業である以上、一筋縄ではいかず、さまざまな現実的困難がありますね。それでも、「こうあるべき」という信念を持って進む人がいる限り、やがて大きな流れになっていくものと思います。気仙沼の復興を心よりお祈りいたします。
  


  
 
(終)


はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ








はなそう基金の会員等の状況に関するアップデートをさせていただきます。



   
■□■□■□ 2012年9月30日現在の会員状況 □■□■□■
 
【活動会員】  合計43名
・英語音読会ボランティア講師  23名
・運営支援等 20名
   
【賛助会員】  
・個人:47名
・法人・団体等:4    
(個人内訳:活動会員兼員が25名、賛助会員のみの方が22名)
  
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



   
この場を借りまして、会員の皆さまのご支援、ご協力に心より御礼を申し上げます。本当にありがとうございます。
  
 
【活動会員】 (英名:Active Contributors)
        
はなそう基金の使命・設立目的にご賛同いただき、その活動の実行、実務面で力を貸していただける個人および団体で構成されます。2012年9月30日時点で活動会員としてご登録いただいているのは、以下の方々です。 
(リスト上での敬称は略させていただきますので、何卒ご了承ください)
  
1. 「Komo's英語音読会」のボランティア講師陣:
 
ボランティア講師の方々は、交通費や宿泊費も自己負担(含、割り勘)で来ていただいています。その分を賛助金とみなして、同時に賛助会員にも登録させていただきます。
 
[既登録の皆さま]   
■ 朝倉 志穂 (東京都) ■ 伊勢 修 (東京都) ■ 奥田 裕子 (東京都) ■ 柴田 明恭 (大阪府) ■ 白木 俊之 (東京都) ■ 田中 大策 (東京都) ■ 谷口 佳久 (東京都) ■ 藤本 こみち (東京都) ■ Keiko Best (東京都) ■ 茂木 崇史 (東京都) ■ 門馬 真理子 (東京都) ■ 山崎 朗 (東京都) ■ 山崎 暢子 (東京都) ■ 横倉 正人 (神奈川県) ■ 吉沢 康弘 (神奈川県) ■ 李 潤天 (東京都) ■ 涌嶋 隆 (U.K. ロンドン)
  
[新規活動会員の皆さま]
■ 伊東 慎太郎 (スペイン・バルセロナ) ■ 児玉 美奈子 (東京都) ■ 田中 絵理香 (茨城県) ■ 中野 将大 (東京都) ■ 中野 欣庭 (Hsin) (東京都) ■ Renata Piazza (スペイン・バルセロナ)
 
児玉美奈子さんは、英・米での居住経験をお持ちで、両方の英語のアクセントが分かる貴重な存在です。
 
田中絵理香さんは、お父様と英語の発音塾のビジネスをしておられて、発音指導は超一流。もうすぐ豪州に留学されます。
 
中野将大さんは、米国で弁護士資格を取得され、現在はご経験と国際的視点を生かした企業内法務の仕事をしておられます。
 
中野欣庭(Hsin)さんは、台湾生まれで青春時代をアメリカで過ごし、今は日本在住。子供向けセッションに特に強みがあります。
 
伊東慎太郎さんとRenata Piazzaさんは、それぞれバルセロナから一貫して東北支援をされてきたリーダーのお一人。来日中に講師としてご参加頂きました。
 
なお、
 
谷口佳久さんは当初ウェブ構築のほうで活動会員になられましたが、9月の会でボランティア講師も務められましたので、こちらに記載しなおしました。
 
李 潤天さんには、ボランティア講師以外に、はなそう基金のブログ英訳作業でもお世話になっています。
 
中野 欣庭 (Hsin)さんには、佐藤たね屋の佐藤貞一さんの「The Seed of Hope in the Heart」の中国語訳作業も担当いただいております。 
 
山崎暢子さんには、7月のSCOAサマーキャンプの際に子供たちの復路のアテンドをしていただきました。また、9月より、これまで奥田裕子さんにお願いしてきた英語音読会の「スタッフィング・コーディネーター」の役割を引き継いで頂きました。
    



2. 各種運営面でご活躍いただいている皆さま:
 
[既登録の皆さま]
■ 大森 義輝 (神奈川県) ■ 川原 亜希 (東京都) ■ 下野 友実 (インドネシア ジャカルタ) ■ 中尾 仁 (東京都) ■ 永田 亜美 (フランス リヨン) ■ 宮田 丈裕 (埼玉県)
   
[新規活動会員の皆さま]
■ 石村 尚也 (東京都) ■ 神谷 佳典 (東京都) ■ 小谷 美佳 (東京都) ■ 佐藤 清子 (東京都) ■ 佐藤 徳之 (東京都) ■ 杉原 佳代子 (東京都) ■ Malcolm Schreiber (東京都) ■ 中川 有紀子 (東京都) ■ 服部 結花 (東京都) ■ 古川 明日香 (東京都) ■ 牧田 清隆 (東京都) ■ 宮坂 雪里 (千葉県) ■ 宮森 千嘉 (スペイン・バルセロナ) ■ 森永 啓 (福岡県)
 
石村尚也さん、小谷美佳さん、服部結花さんには、7月初旬の弾丸ツアーに同行いただきました。交通費の割り勘負担もいただきましたので、賛助会員としても認識させていただきます。
 
賛助会員の佐藤清子さんには、7月のSCOAサマーキャンプの際に、子供たちの往路のアテンド(宿泊・食事含む)をサポートいただきました。それ自体、子供たちの良い経験になったようです。
 
賛助会員の佐藤徳之さんには、7月の「日米高校生サミット in 陸前高田2012」で音読会チームとともに現地入りして、強烈な個性を発揮しつつ運営全般のリーダーシップをとっていただきました。
 
杉原佳代子さんは、本業のスキルを生かして、大森義輝さんとともにウェブ構築のサポートをいただいています。ウェブ構築は運営面での最大の課題の一つ。本当にありがたいです。
 
Malcolm Schreiberさんと中川有紀子さんのお二人には、英語音読会で自作の短歌や詩の英訳版を音読しておられる方々の作品の英訳の際にネイティヴ・チェックをしていただいております。
 
宮森千嘉さんは、バルセロナから一貫して東北支援をされてきたリーダーのお一人です。来日中に「日米高校生サミット in 陸前高田2012」を始め、様々な活動に参加頂きました。
 
神谷佳典さん、古川明日香さん、牧田清隆さん、宮坂雪里さん、森永啓さんには、はなそう基金のブログ英訳作業でお世話になっています。
 




【賛助会員】 (英名:Financial Contributors)
     
はなそう基金の使命・設立目的にご賛同いただき、その活動に関して金銭的ご支援を提供いただける個人および法人・団体等で構成されます(賛助会員としてのご支援は、3,000円からとさせていただいております。一口からでも結構です。ありがたく活用させていただきます)。
  
2012年9月30日時点で賛助会員として登録が完了しているのは、以下の方々です。既登録の方々の中にも、継続的に賛助金をお送りいただいているケースがございます。心より感謝申し上げます。お申し出いただいて送金処理中の方々等は、次のアップデートで掲載させていただきます。
  
なお、活動会員としての活動に伴う交通費等の自己負担分を賛助とみなした方々の記載は紙面の関係で省略させていただき、ここでは、活動とは別途に賛助金を拠出いただいた場合について記載致しております。 
 
(リスト上での敬称は略させていただきますので、何卒ご了承ください)
    
1.個人
 
[既登録の皆さま]
■ 市川 薫 (東京都) ■ 入江 崇志 (福岡県) ■ 小笠原 尚史 (ンガポール) ■ 小木曽 研 (東京都) ■ 奥田 裕子 (東京都) ■ 嘉門 佳顕 (東京都) ■ 貴島 恭子 (東京都) ■ 北野 佳子 (京都府) ■ 肥塚 祐一 (東京都) ■ 坂本 真由美 (アメリカ カリフォルニア) ■ 佐藤 清子 (東京都) ■ 佐藤 徳之 (東京都) ■ 澤原 健吾 (東京都) ■ 下野 航平 (インドネシア ジャカルタ) ■ 瀬上 真理 (愛知県) ■ 高橋 祥 (岩手県) ■ 谷本 憲彦 (大阪府) ■ 千葉 修司 (東京都) ■ 寺田 和紀 (大阪府) ■ 西田 政之 (神奈川県) ■ 野村 有司 (東京都) ■ 林田 明 (鹿児島県) ■ 室井 和磨 (東京都) ■ Scott Gilbert (U.S.A.)
 
[新規賛助会員の皆さま]
■ 児玉 崇 (福岡県) ■ 児玉 都 (福岡県)
 
児玉 崇&都 さんご夫妻は、数年前に東京から福岡県に引越しされて崇さんの家業に従事しておられますが、いつも英語音読会の活動等に声援をお送りいただいています。今般、定期的な賛助も頂けるというお申し出を頂き、本当にありがたいことと感謝致しております。
    
2.法人・団体等
 
[前回より変化ありません]
■ 株式会社アセットケア (埼玉県)※活動会員である宮田丈裕さんの会社です
■ 関西ひだまりの会 (大阪府) 
■ シンガポール地域人事の会 参加者ご一同 </p>
■ S.K.Y. and Partners LLC(東京都) ※賛助会員の小木曽さん、嘉門さん、千葉さんの会社です
 
  
  
【コラボレーション・パートナー】
   
それぞれのお立場で被災地支援・貢献をされながら、はなそう基金の活動にご助力をいただいたり、協働させていただいているパートナーの個人・法人・団体の皆さまです。
(リスト上での敬称は略させていただきますので、何卒ご了承ください)   
      
[前回より変化ありません]
■ 内閣府認定特定非営利活動法人ロッツ(LOTS) http://lots-ss.jp/
■ フードニスタ 浜田 峰子 http://ameblo.jp/hamada-mineko/
■ スペイン・バルセロナのCasa Asia、IESE、ESADEを中心にした有志の皆さん 
   
以上です。
 
 
今後ともご支援・ご助力のほど、よろしくお願い申し上げます。
  
   
一般社団法人はなそう基金
 
代表理事 古森 剛


はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ







9月は、私にとって特別な月柄です。
  
昨年(2011年)の9月、ちょうど震災から半年の週に、ふと思い立って陸前高田に車を走らせました。片道550キロ。支援で現地に入っているLOTSの皆さんにご挨拶しつつ、仮設住宅への物資配布のお手伝いをしました。
  
そこで色々な人との出会いがありました。被災エリアを実際に自分で歩いて感じて、強くインスピレーションを受けました。そして、10月もまた訪問して、自分はどうすべきかを考えて、神の啓示を受けるかのように「英語音読会」の開催を決意しました。
  
陸前高田に通い始めて、もう一年です。「10年間毎月通う」と宣言して、その10分の1が過ぎ去りました。Time flies... この調子でいくと、10年はあっという間に過ぎてしまいそうです。その頃には、「英語といえば陸前高田!」と評判になっている状態にしたいと思います。
  
さて、今回も金曜日の早朝に仲間をピックアップして、まずは気仙沼に向かいました。いつものように、気仙沼復興商店街でランチです。喫茶マンボでラーメンを食べ、新潟屋刃物店でオジサンに挨拶。今回は収穫や小枝の剪定に便利な鋼のハサミを買いました。
  


   
その後、「復興対談シリーズ」の取材。今回は、マグロ遠洋漁業の臼福本店、臼井社長にお願いしました。震災当時の話、復興の現実的なボトルネック、そして取り組み中のプロジェクトなど、多岐にわたってお話しを伺うことができました。
  


  
しかし・・・まだいつもの回遊先がひとつ残っていました。「揚げたてコロッケ屋」。17時になろうとしていましたが、復興商店街に戻り、滑り込みでお店に入って皆でコロッケを頂きました。
  
夜は、陸前高田の某仮説住宅で英語の特別セッション。
  
その後、多くの人々に「陸前高田の母」と慕われるOさんの仮設住宅で食事をご一緒しました。英語音読会は色々な要素が絡みあって浮かんできたアイディアでしたが、このOさんとの出会いがなかったら、行動には移していなかったでしょう。
  
土曜日の朝。チーム一同、Oさんの仮説住宅で朝食をご一緒してから、8時に教室へ。もろもろ準備をして、8時半から徐々に参加者がありました。皆さん、朝一番から真剣に取り組んでおられました。
  


    
やや曇りがちでしたが、真夏を想起させる暑い一日でした。そしてあっという間に、お昼・・・。ちょうど、読売新聞の記者の方が取材に来られました。
  


  
午後は、2時頃から参加者が重なり、かなり忙しくなりました。予定より早く来られる方々もおられますし、講師のキャパシティマネジメントは結構難しいのです。それでも、とにかくその瞬間ごとに最善を尽くします。
  


   
私も講師として入り、全員稼動!
 


  
夕方にかけて、新規に参加を検討されている方々が何名か来られました。18時頃までの間に、何度かに分けてイントロダクションを実施。
  
最後の参加者は、模試を終えてから立ち寄った高校生二人。事情に鑑みて、18時頃に終わる教室を、今回は特別に19時まで延長しました。講師も最後まで真剣にお付き合いしました。
  

   
さて、音読会と平行して、今回は17時頃から懇親バーベキューを開催しました。6月に続く、2回目のバーベキューです。
    
私達の懇親バーベキューは、大人一人500円、高校生以下一人300円をいただいたうえで、足りない部分は「はなそう基金」から拠出するスタイルをとっています。
  
6月は日曜日の昼間に開催しましたが、今回は土曜日の夜です。そのため、地元のホームセンターで電源ケーブルと屋外照明も新たに用意しました。これなら、真冬以外は気軽に開催できそうです。
   


  
英語音読会参加者の方々、近隣住民の方々、および音読会のボランティア講師で総勢30名程度の参加がありました。皆それぞれに、新たな出会いや懐かしい再会などがあったようです。
  
冒頭、Oさんに促される形で私から一周年のご挨拶をさせていただきました。そして、Oさんから花束贈呈を受け、感無量・・・。カサブランカの入った花束は、ものすごく良い香りでした。
  


  
日曜日も8時半にオープン。11時前まで数名が熱心に音読して行かれました。一応クローズ予定の11時半までスタンバイして、終了。看板の前で記念撮影。
  

  
昨夜使ったバーベキューコンロをそのまま使って、焼きそば、焼き野菜、焼きオニギリなどを作って講師一同+αでランチ。1時過ぎに帰路につきました。
  
帰路に2軒立ち寄り。
  
一軒目は、音読会参加者の佐藤貞一さんが経営する「佐藤たね屋」へ。先月に続き、佐藤さんがもぎたてトマトを講師陣に食べさせて下さいました。これが本当に甘くて美味しいのです!驚きの味。
  

  
2軒目は、これも定番ながら、今泉の「にじのライブラリー」へ。荒木そう子さんと、ずいぶん話し込んでしまいました。
  


    
震災から一年半が経過して、復興の主役は明らかに地元の方々。そうでなければ物事は進みません。しかし、諸般の事情でそうなっていかない重い現実に、荒木さんは大変強い課題意識をお持ちのようでした。
  
本当は皆で集まって真剣に濃密な議論をすべき時期なのに、イベントにばかり出ていて肝心の議論が進んでいない・・・。それで、いざ誰かがアイディアを提案すると、なかなか建設的な議論にならない・・・。
  
現状の音読会の活動を超えて、よそ者の私に一体何が出来るだろうか?と悩まずにはいられません。
  
大きな素晴らしい絵は、この一年半の間に色々な人が描いてきたわけです。いわゆる提案や申し出は、たくさんあったわけです。
  
そこから物事を現実的に進めていくためには、陸前高田でも気仙沼でも、とても人間的でローテクで、時にダーティーな面も含めた闘いが必要になるように思います。
  
誰かが「頭」ではなく「体」(= often, 命)を張って、説得したり、お金を工面したり、土下座したりして、一箇所一箇所を這い回っていかなければ物事は前に進まないだろうと思います。
  
う~ん。
  
うううう~ん。
   
どうしたものか。  
  
陸前高田訪問一周年。自分の起こした活動が一歩進んだという確かな充実感とともに、現地に深入りすることで見えてきてしまう「毒」の苦しさも交じり合った、複雑な心境で帰路につきました。



はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ







この週末は、月に一度の「Komo's英語音読会@陸前高田」を開催。ボランティア講師仲間5名とともに、行って来ました!
  
【8/24(金)】 
  
金曜日は、いつものように移動日。朝6時に新宿で仲間をピックアップして、東北道を北上。昼過ぎに気仙沼に到着。
  
初参加のメンバーのために気仙沼の被災地を視察。ランチは毎度定例の気仙沼復興商店街。喫茶マンボでラーメンを頂き、その後、いつものように揚げたてコロッケ屋へ。

毎度寄らせていただく新潟屋刃物店では、素晴らしい鍛造の包丁を購入した。1万円なり。砥ぎながら使うのが楽しみ。
 
そして、我らが陸前高田へ。
  


  
一本松を望む気仙中学校は、取り壊しを前にして卒業生によるメッセージボードが立てられていた。読んでいて目頭が熱くなった。
 


   
取り壊し目前の市民体育館、高田高校などへメンバーを案内。音読会の活動をともにする仲間には、その時点で伝えられるものをしっかり実物で共有したい。
  
高田の被災エリア全体が、今となっては草で覆われている。遠目には、単なる田舎の空き地に見える。Time goes by...
   
高田高校の被災した体育館の前にも、コスモスが咲いていた。自然の力が人間の建てたものを破壊し、自然の力が今、花を咲かせる。
  

  
大石沖の「佐藤たね屋」さんに立ち寄り。代表の佐藤さんにご挨拶。佐藤さんが敷地内で育てておられる各種トマトやパプリカを味見させていただけた。おなかいっぱい!
  


  
ちなみに、佐藤さん手掘りの井戸に、ついにポンプが!

    
夜は、某仮設住宅に出張して少人数の音読会を実施した後、Oさんの仮設住宅で晩御飯。話に花が咲いた。
   
【8/25(土)】

朝一番に、いつものように「佐藤たね屋」の佐藤さんが来られた。被災された佐藤さんご自身による震災体験手記、「The Seed of Hope in the Heart」を音読。
  
そうこうするうちに、三々五々参加者の方々が集まって来られた。


  
お昼前、最近音読会に参加されて、大変熱心に取り組んでおられるNさんがいらした。そもそも基礎レベルの高い方なので、発音を中心にサポートさせて頂いた。
 


  
午後は、日経新聞さんからの取材も入る中、講師陣フル稼動。
  


  
夕方になってからも何組か来られて、いずれも真剣に音読をしておられた。
  


  
【8/26(日)】
 
日曜日の今日は、朝一番(8時)にまずお一人。大変有望で、将来が本当に楽しみなTさん。
  


  
その後、小学4年生のTさんは、後半気分が乗ってきたようで、立ち上がってホワイトボードで単語を書いたりしていた。GOOD!
   

  
予定通り11:30頃に音読会は店じまい。今回は23名の方々に参加頂いた。なお、土日両方来られた方も含む延べ参加者数では26名。
  
帰路、アップルロードのマイヤに寄ってお土産などを買い、その後、今泉の「虹のライブラリー」へ。
  

  
虹のライブラリーでは、荒木そうこ さんに色々と映像を見せていただき、あらためてこの地に対する思いを新たにした。
   


  
今回のボランティア講師陣(↓) 
    
ボランティア講師のメンバーの輪も、音読会の継続とともに発展中!
 


  
参加者の皆さま、そしてボランティア講師のみんな、本当に有難うございました!地道に毎月一回、10年間かけて継続的に取り組んで行きます。

     
 
  

  

  

  
  

 

   


 

はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ







一般社団法人はなそう基金としては、東日本大震災の被災地の方々に、色々な形で「英語のネイティブ・スピーカーと交流できる環境」を提供したいと考えています。域外との交流、とりわけ海外との交流が今後の被災地復興の現実的な軸の一つになると信じているからです。先般、共催という形で運営に参画させていただいた「日米高校生サミット in 陸前高田2012」も、その一環でした。
 



はなそう基金の現在の活動の核である「Komo's英語音読会@陸前高田」のほうでも、一歩ずつですが「英語のネイティブ・スピーカーと交流できる環境」を提供する取り組みを進めています。今夏はその第一弾として、当会に参加している小中学生を対象にしたSCOA(http://www.scoacamp.com/index.html)の英語サマーキャンプへの派遣を行いました。
 



本年5月時点で音読会に参加していた小中学生全員にお声がけして、日程の合う希望者全員を派遣する前提で募集しました。最終的には、女子3名(小5、小6、中1)が参加することになり、はなそう基金からサマーキャンプ参加費と往復の新幹線代をプレゼントしました。SCOAは、いつも運営スタッフのレベルが非常に高いと評判のプログラムです。
 



そのサマーキャンプ、夏の間に何回か開催されるのですが、今回の3名が希望した回は7月28日(土)から7月31日(火)まででした。3泊4日のアメリカン・サマーキャンプ。
 
・参加者45~65名前後にアメリカ人キャンプカウンセラーが11~12人、日本人スタッフが4~6人
・共通言語は英語とボディーランゲージ
・キャンプカウンセラーと朝から晩まで一緒に過ごす
・本当のアメリカンキャンプを経験できる
・とにかく楽しい!



 
・・・というのが、このプログラムの特徴です(詳細はSCOAのウェブサイトをご参照下さい)。



 
まだ旅慣れていない子達を親元から離れたところに行かせるわけですし、当方の予算も限られている中での派遣ですから、事前の検討過程では情報収集や議論を尽くしました。色々なプログラムをリストアップした結果、やはりSCOAが良さそうだということになり、はなそう基金の会員2名が説明会に参加しました。そこで直接運営サイドとも接点を持つ中で、「これは素晴らしいプログラムだ!」と確信を持つに至りました。



 
その説明会参加時の縁が花開いて、SCOAのディレクターをしておられるKeiko Bestさんとも知遇を得ることができました。Keikoさんは、その後すぐに「はなそう基金」の活動会員兼賛助会員になって下さり、陸前高田の英語音読会にボランティア講師として来て頂くことができました。すごい縁だと思います。思いやミッションが結びつける縁、素晴らしいです。



 
プログラムへの往路と復路で、新幹線の駅とSCOAのチャーターバスの間のロジスティクスに不安があったので、はなそう基金の賛助会員・活動会員の中からアテンドして下さる方々を募集しました。その結果、往路は佐藤清子さん、復路は山崎暢子さんにサポートを頂くことができました。佐藤さんには前泊もお世話いただきました。心より、感謝いたします。



 
その他、はなそう基金を支えて下さっているすべての会員の方々、そしてSCOAの運営メンバーの皆さまの数々のご尽力のおかげで、3名は無事に充実した日程を終えて地元に帰り着きました。プライバシーの関係で一般公開はできませんが、プログラムの最中に撮影された3人とキャンプカウンセラーの写った写真が私の手元にあります。その3人の笑顔を見て、「ほんとによかった~」と思いました。涙が出ました。



 
私自身、今は平気で国境を越えて仕事をしたり遊んだりしていますが、本格的に海外経験をしたのは20代後半になってからです。大分県の田舎で高校生まで過ごし、その頃に独学で見出した勉強法があって、それを伝えることが「Komo's英語音読会@陸前高田」の核にもなっています。



 
では、その田舎の男の子だった私が「英語を独学でやろう」と思ったきっかけは何だったか・・・。中学生の頃に、2泊3日の英語キャンプに参加した思い出があるんですね。その時の経験が少なからずその後の英語学習にモチベーションを与えたことは間違いありません。たった数日でも、大きな転換点になり得るのです。



  
だからこのSCOAのプログラムを目にしたとき、直観的にひらめくものがありました。今回参加した3名にとっても、SCOAの体験が、きっと何か大きな人生の記憶になるのではないかと思います。すんなり期待通りに伸びなくても、まったく構いません。良い種が蒔かれれば、いつかきっと芽が出る時が来るものと信じます。



 
そう信じて、これからも「Komo's英語音読会@陸前高田」を毎月開催しつつ、様々な形で東日本大震災被災地の皆さんが「英語ネイティブ・スピーカーと交流できる環境」を作って行きたいと思っています。種を、蒔き続けます。地味な活動ですが、今後ともご協力・ご支援のほどよろしくお願い申し上げます。



 
古森


はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ







7/14(土)-15(日)に開催された月例の「Komo's英語音読会@陸前高田」。その最終日の午後、ボランティア講師と協力者一同は「日米高校生サミット in 陸前高田 2012」の運営に参加しました。

主催者であるAidTAKATA(特定非営利活動法人陸前高田市支援連絡協議会)の村上代表から打診があったのは、開催前一ヶ月を切るタイミングでした。

お互いスケジュールが非常にタイトな中、なんとか時間があうタイミングを探して、夜遅く新宿の居酒屋で落ち合って議論しました。
  
国際交流基金のJETプログラムで来日中の、日本語を学んでいる米国高校生との交流機会。そこになんとか、気仙地域(陸前高田、大船渡、住田)の高校生との接点を作れないか・・・。
  
村上さんの熱い思いを感じました。とにかく、「やりましょう!」という話に。ミッションが合致したら、「やる」ということを先に決めて、中身はそれから。
  
企画素案の作成、運営経費の一部負担、当日運営などの面で、はなそう基金として「共催」させて頂くことになりました。そこから超特急で準備を開始。

イベントの運営側布陣は、 
■主催:AidTAKATA
■共催:国際協力基金、はなそう基金
■後援:陸前高田市教育委員会、陸前高田市
 
メールのやり取りや電話会議などを行いつつ、直前には都内某所でブレックファースト・ミーティングをしてイメージを固めていきました。そして当日。
  
米国からは32名、日本からは27名の参加。合計59名。
 
これに市や学校の関係者の方々、メディアの取材なども入って、市役所の会議室は満員状態になりました。にぎやか~。
 
AidTAKATA村上代表が開会挨拶、古森が導入コメント。
 

 
その後、双方代表者からのスピーチ。米国代表は日本語で。大船渡と陸前高田代表は英語で。いずれも堂々としたスピーチで、この段階で既に心の中では感涙。。。
 

 
司会は佐藤徳之さん。佐藤さんは、はなそう基金の会員。このイベントのために陸前高田入りして、前日から詳細な詰めの準備をしていただきました。
 
佐藤さん、持ち前の明るさとパワーを生かして、思い切り笑いをとっていました。

 
そしていよいよ、8班に分かれての分科会討議。
 
サミット第一回目となる今年のテーマは、「将来のために、一緒に出来ることは何だろう」。討議終了後、各班から3分間プレゼンをしていただくという趣向です。
 
全体で2時間しかありませんので、班別討議は1時間。短い時間でどこまで実のある議論が出来るかのチャレンジです。
 
 

 
各班には、はなそう基金や国際交流基金のメンバーがファシリテーターで入りました。
 
 

  
日本の高校生、ちゃんと話せるかな?と心配していましたが、みんな頑張っていましたよ!その姿を見て、またまた心の中で感涙。。。
 

 

  
討議終了後、各班から3分間プレゼン。プレゼンターは最低2名で、日本の高校生とアメリカの高校生が1名ずつ入るようにしていました。
 
1時間しか議論が出来なかった中で、しかも言葉の壁がある中で、各班ともそれなりのアプトプットがありました。
 
 
  
日本の高校生で、何名か、かなり英語もプレゼンも良くできた人がいました。
 
頼もしいですね~! 
 
こういう子たちがもっと経験を重ねていけば、この地域の将来は明るい!と確信しました。
 
最後に、村上代表、および陸前高田市の久保田副市長から総評をいただきました。
  

  
たった2時間の駆け足イベントでしたが、2時間ではありえないような濃い時間になったと思います。高校生達も、きっと何か将来につながるものを感じ取ってくれたことでしょう。
 
最後に記念撮影。ここで、なんとあの「たかたのゆめちゃん」が登場!
  

  
ゆめちゃんも入った形で、一同記念撮影をしたのでした。
    

 
終了後も、参加者はしばらく会場に残って、facebookの友達申請をしあったり、メールアドレスを交換したりしていました。
  
これぞ、リアルな絆の始まりです!つながれば、人間と人間の間に、必ず何かが生まれていきます。

来年以降もまた、さらにグレードアップさせながらこのサミットの継続開催を応援していきたいと思います。

僕のひそやかなビジョン・・・。
 
10年後に、
「陸前高田周辺は、グローバル人材を数多く輩出しているね」
「英語をやりたいから、陸前高田に行きたいな」
などという声が、聞かれるようになったらいいなと思います。
 
被災した沿岸部だけで復興取り組みを進めても、現実問題としてローカルの内需が不十分なために、たいへん難しいだろうと思います。
  
やはり、被災地の域外、とりわけ海外との絆を深めてこそ、本格的な復興が実現するのではないでしょうか。
 
海外との絆を増やし、深めていくために、最低限の土台として「言葉」の壁を越える必要があります。その壁を越えれば、何十億の世界人類とつながる可能性が開かれます。
  
そのために、Komo's英語音読会で通い続けますし、今回のサミットのようなイベントも継続協力します。他にも、色々と仕掛けを考えていきたいと思っています。
  
はなそう基金の賛助会員、活動会員、パートナーの皆さま。今後ともご支援・ご協力を心よりお願い申し上げます!


はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ








「Komo's英語音読会@陸前高田」(2012 July) 2/2


【7月14日(土)】


音読会初日。いつものように、朝一番の8時半に「佐藤たね屋」の佐藤貞一さんが来られました。ご自身の英文震災手記「The Seed of Hope in the Heart」を音読。古森と一緒に、一時間みっちり。


その後、三々五々、参加者あり。少し前に岩手日報に掲載された記事を見て、今回から参加された方もいらっしゃいました。一ヶ月に一回しかなくて申し訳ないですが、役立てて頂ければと思います。
 



   
  



   
今回はいつもに比べると参加者が少ない回でした。土日も働いている方が多いので、やむなしです。それでも、午後もそれなりに忙しくなり、14時以降はボランティア講師フル稼働状態になりました。
  


  


予定通り、18時過ぎに教室は撤収。
 
夜になって、大阪から飛んできた柴田さんが合流。また、バルセロナからの一時帰国中に陸前高田に立ち寄り、「佐藤たね屋」さんに会って来られた宮森さんも合流。


※(宮森さんとその仲間の皆さまは、発災直後から一貫して被災地支援の活動をバルセロナで続けて来られました。震災一周年には、佐藤貞一さんの「The Seed of Hope in the Heart」を現地語で紙芝居にして子供達に見せ、その子供達からの寄せ書き(描き)集を佐藤さんに送って下さったりもしました。ついに、佐藤さんにお会いいただけました!)


チームの人数が多くなったので、土曜日の夜はとうごう薬局脇のスペースでそのままバーベキューにしました。雨にならなければ、11月頃まではこのスタイルがいいなと思います!
  
その後、佐藤徳之さんを中心に、夜遅くまで「日米高校生サミット in 陸前高田 2012」の準備関係討議。こちらも大事なイベントなので、関係者一同熱が入ります。佐藤さんに至っては、もう沸騰寸前!
  


【7月15日(日)】


日曜日も朝一番からパラパラと参加者がありました。土曜日は朝8時半からですが、日曜日は8時スタートです。
  



  


   


北海道から高田病院に来ておられる医師、高橋さんも来られました。

高橋さんは、「畑にはまらっせんプロジェクト」と銘打って、仮設住宅の方々向けに菜園を提供する運動を続けておられます。


医薬の処方にとどまらず、生活全体、コミュニティ全体での真の健康を実現しようと奔走する、「真の医師」です。高橋さんとの出会いも、人生の記憶に残る大事な縁の一つです。


その他の音読会参加者の方々とも、会の回数を重ねるごとに馴染み度があがっていきます!皆それぞれ、ひとつひとつ、大切な縁です。
 
震災など起きて欲しくない・・・。でも、起きてしまった以上、そこから生まれた縁を本当に大事にしたいと思っています。


予定通り11時頃までに音読会を終え、そこから片付け。おにぎりなどを手っ取り早く口にして、「日米高校生サミット in 陸前高田 2012」の会場である市役所に向かいました。
 

(今回のボランティア講師他、協力メンバー一同 ↓)

  


  
日米高校生サミットの件は、ブログを分けて書きます。


はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ







7月14日(土)~15日(日)の週末、月例の「Komo's英語音読会@陸前高田」を開催しました。


今回のボランティア講師陣は、古森+6名。


朝倉さん、柴田さん、茂木さん、李さん、中野さん(初参加)、伊藤さん(バルセロナから帰国中、初参加)。
 


【7月13日(金):移動日】


古森ほか3名は、金曜日の早朝に車で東北道を北上。他のメンバーも、金曜日~土曜日にかけてそれぞれ現地入りしました。


古森Carで移動の一団は、途中いつものように気仙沼に立ち寄り、南町紫市場(気仙沼復興商店街)で昼食。「喫茶マンボ」でラーメンを食べ、「あげたてコロッケ屋」でコロッケを。


毎月徹底的に同じところで食べています。最近は、近くを通るだけでコロッケ屋のお姉様方が手を振ってくれます。寄らないわけにはいかない!あと、最近は毎月「新潟屋刃物店」にも寄り、毎回何か購入します。


気仙沼を拠点にして、地域振興のための「一般社団法人まちの誇り」を立ち上げた茂木さんと合流。ビジターの秋山さんも一緒。茂木さんも初期からのボランティア講師の一人です。


気仙沼に法人を構える茂木さん、さすが現地には詳しくなっています。彼の案内で、「安波山」(あんばさん:標高239m、航海の安全と大漁を祈願して名づけられた)へ。展望台から、被災エリア全体が見渡せました。



 
震災から1年4ヶ月。ほとんど瓦礫はなくなり、一面の荒野。ところどころに点在する建物の残骸が津波被災地であることを伝えるのみ・・・。物事は少しずつ進んでいるようですが、ほんとに少しずつです。


この安波山には、発災直後多くの人々が逃げてきたそうです。ここから鹿折地区の火災の地獄絵図を見た人々の心情、いかばかりかと思います。命あふれる木々の間から鹿折のほうを見て、しばし呆然としました。
 



 
その後、茂木さんの案内で鹿折の「復幸マルシェ」(仮設商店街)へ。茂木さんはここを拠点にした再生可能エネルギー関連のプロジェクトにも関わっているようです。金曜日の昼下がり、全体的に静かな感じ・・・。
 



この店で飲むヨーグルトをいただきました。おいしかったですよ。

さて、合流した茂木Carとともに陸前高田へ・・・。


気仙町にさしかかったところで、先日「復興対談シリーズ~Talk for Recovery」でインタビューさせて頂いた荒木タキ子さん(宮司夫人)がおられる月山神社にちょっと立ち寄り。
 


 
(ちなみに対談記事はこちらです ↓)
http://ameblo.jp/let-us-talk-foundation/entry-11305257819.html


タキ子さんはおられませんでしたが、皆で参拝しました。
 



 


次に、「佐藤たね屋」さんへ。佐藤貞一さんは音読会の参加者で、貴重な英文震災手記「The Seed of Hope in the Heart」の著者でもあります。その編集も、「はなそう基金」のメンバーでお手伝いしました。


いまや佐藤さんは、私の中では陸前高田で最も縁の深い人の一人です。店の前を通れば、一声かけるのが当たり前になっています。しばし店内で歓談、種苗談義に花が咲きました。


(佐藤さんも対談記事があります ↓)
http://ameblo.jp/let-us-talk-foundation/entry-11303975267.html


 

  
さらに寄り道は続く・・・。今度は「りくカフェ」へ。ここのところ行程が混んでいたので寄れていなかったのです。久々に吉田和子さんにご挨拶。久保田副市長の奥様も来ておられました。ほんと、縁が広がるなぁ。


「りくカフェ」の夜の空き時間を使って、何か英語関係のセッションが出来ないかとのこと。検討を進めることに。縁が増えるとともに、やることも増えますね・・・。ミッションがあってやっている事、広がる縁から生まれる挑戦は受けて立ちます。


 

 
さらにさらに、「陸前高田未来商店街」へ。
 



 
益子焼陶器市の準備をしている最中でした。カフェも開いておらず、さらっと歩いて出てきました。陶器市自体は盛況だったようです。 
(参照⇒ http://ameblo.jp/mirai-shotengai/entry-11305764287.html )


南三陸、気仙沼、大船渡などの近隣の仮設商店街を色々と見ていますが、ここの未来商店街は最も「簡素」で、まだ本当に心もとない感じがします。
 
他の町の大きい仮設商店街も苦しいのは明白ですが、ここはまだ本当に著に着いたところ・・・。個人的には、「たかたのゆめちゃん」キャラをここで売って欲しいですね。


(たかたのゆめちゃん ↓ かわいずぎる!)
http://www.yume-chara.com/
 


鈴木旅館にチェックインして、夜は多くの人々から「陸前高田の母」と慕われているOさんの仮設住宅へ。バルセロナから帰国中にボランティア講師として参加する伊藤さんも、夜になって到着。皆で一緒にご飯を食べました。


途中、古森、朝倉、李の3名は、別の仮設住宅へ。音読会初期から続けている、訪問型の音読会クラス。このスタイルで多くの人に対応するのは無理なので、立ち上げ初期の参加者さん限定で継続中です。
 


今回は、日曜日の午前中に音読会終了後、午後に別途「日米高校生サミット in 陸前高田 2012」の運営に参加。そのサポートで、佐藤徳之さんも金曜日のうちに陸前高田入り。


食事の後、夜遅くまでその打ち合わせなども含め語り合いました。Oさんの仮設住宅に集うこの瞬間、僕らは皆「家族」になります。部屋に入るときは、「おじゃまします」ではなくて、「ただいま」と言うのが通例です。


 


はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ







□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
   
 復興対談シリーズ ~ Talk for Recovery
 第3回 佐藤たね屋(陸前高田) 代表 佐藤 貞一  さん  
  
 (対談実施:2012年7月初旬)
  
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
  
  
古森: おはようございます。お忙しい日曜日の午前中にお時間をいただきまして、ありがとうございます。この対談シリーズ、東日本大震災からの復興の現場で活動しておられる方々にお話を伺い、メッセージを世の中に発信しようということで、この4月から始めました。本日の対談は、その第3回目となります。よろしくお願い申し上げます。
  
佐藤: こちらこそ、よろしくお願いいたします。
  
古森: 佐藤さんには「Komo’s英語音読会@陸前高田」に昨年12月から来ていただいていますし、英文震災手記「The Seed of Hope in the Heart」の編成過程で私も色々と文章を拝読しましたので、「起きたこと」についてはある程度理解しております。ただ、今回は日本語で、かつ、かなり凝縮した形で、改めてお話を伺ってみたいと思っております。
 
佐藤: わかりました。どんな感じでお話すればいいですかね。
  
古森: 3つに分けてお伺いしたいと思っています。まず、震災発生から1年4ヶ月を経た今、発災当時を振り返ってあらためて胸に去来するものは何でしょうか。二つ目は、「佐藤たね屋」復活の経緯について。「The Seed of Hope in the Heart」に詳しく書かれていますが、サマリー版をお聞かせいただければと・・・。そして最後に、この震災から佐藤さんが思うこと、世に伝えたいメッセージなどを伺いたいと思います。必ずしもこの順番にこだわる必要はありません。全体としてそういうことが伺えれば、という趣旨です。
  
  
   
  
■ こんなに涙を流したことはない 
  
佐藤: 改めて今振り返って・・・ですか。
  
古森: はい。振り返ること自体がつらいことだとは思いますが。
  
佐藤: そうですね。一言でいうと、「こんなに涙を流したことはない」ということですかね。
  
古森: こんなに涙を流したことはない・・・。
  
佐藤: 地震が起きた後、私は店が津波の被害にあうとは思っていませんでした。ただ、数日前の地震でダメージを受けていた実家の石垣が心配で、妻と二人で実家に向かったのです。
  
古森: 津波から避難したのではなく、ご実家の石垣が心配でそちらに向かわれたと。
  
佐藤: そうです。海から10キロくらいのところ、山の中です。母が住んでいますので、大丈夫かなと心配だったのです。
  
古森: ところが、実際は津波が何もかも壊してしまった・・・。
  
佐藤: 震災から数日後に、店のほうに向かいました。瓦礫で道路が寸断されていましたので、歩いて山を越えて、高台に出て、店のあったあたりを見たのです。そしたら、店はおろか、近所の住宅街、工場、桜の木、ハナミズキの並木道など、見慣れた光景はあとかたもなく消え去っていました。
  
古森: あとかたもなく・・・。
  
佐藤: 私も多くのものを失いました。店、住まい、ビニールハウス、フェンス、倉庫など、それまでに作り上げてきたものすべてが、一瞬にして蒸発したかのようでした。ただもうその場に崩れるように膝をついて、その光景を見ていましたね。
 
古森: 私には、言葉もありません。
  
佐藤: そのときは、泣きはしませんでしたよ。気仙男児は人前では泣いたりしません。でも、一人になると、朝でも晩でも、毎日のように泣いていました。親しい人が、数多く亡くなりました。私の叔父と叔母も流されました。瓦礫の中を、行方の分からない家族や知人を探して歩き回る人々がたくさんいました。その姿を見ていたら、また泣けてきて・・・。こんなに泣いたことはなかったですね。
  
古森: そこから気持ちを立て直していくというのは、本当に大変なことですね。
  
佐藤: 毎日のように泣きながら、それでも私は思ったのです。ああ、でも私は生きているじゃないか。亡くなった人たちがそこら中にいるのに、私は生きているじゃないか。生きるも地獄、死ぬるも地獄。もっとひどい思いをしている人もいる。強く生きなければ。何が何でも頑張らねば。為せば成る。為さぬは人の為さぬなりけり。な~に、先人はもっと苦労していたに違いない。ここから這い上がろう、と思いました。
  
古森: 不屈の精神ですね。
  
佐藤: あきらめない精神というのは、日本人の原点だと思います。
     
 
■ 復活! 佐藤たね屋
 
古森:  震災後の、「佐藤たね屋」復活までの道のりをあらためてお聞かせ下さい。厳密には、震災前は「佐藤種苗」で、震災後に再興するにあたって「佐藤たね屋」になったのでしたね。
  
佐藤: そうです。店の再興にあたっては、最初にぶつかった現実的な問題は地震保険の有無でしたね。
   
古森: 地震保険。たしかに、保険が下りるのと下りないのとでは大きな差がありますね。
  
佐藤: 私は、地震保険には入っていなかったのです。
  
古森: 「・・・。」
  
佐藤: 震災当時は、折しも春の植え付けシーズンに向けて種も苗も思い切り仕入れた直後でした。つまり、買掛金が一年で一番膨らんでいる状態だったのです。その品物は全部店ごと流されて、しかし買掛金だけは残ったわけです。しかも保険は出ない。
  
古森: ゼロになったどころか、マイナスからのスタートですね。
  
佐藤: だからもう、「やるしかない」「何が何でも頑張らねば!」という心境になりました。保険が出なかったのは本当に苦しいことでしたが、逆に今思えばそれがバネになりました。保険金が出ていたら、私は動いていなかったかもしれません。
  
古森: それで、最初はどのようにして店を?
  
佐藤: まず、実家に残されていた軽トラックの荷台に「心に希望の種を」と赤ペンキで手書きして、移動式店舗にしました。4月初旬のことです。
  
古森: 4月初旬には、もう・・・。今も軽トラックにはその文字が、少し消えかけながら残っていますね。
    

   
佐藤: MAIYAさん(注:この地域メインのスーパーマーケット)の仮設店舗の駐車場の脇に軽トラックを停めさせていただいて、そこで細々と商売を再開しました。でも、軽トラの荷台ですから雨が降るとダメですし、時期もまだ悪かったかもしれません。さっぱり売れなかったですね。
  
古森: 苦難の船出ですね。
 
佐藤: 次は、実家の納屋を使ってみることにしました。しかし、そもそも山の中ですし、納屋は雨漏りがしました。しかも、車をおく場所が十分になかったのです。納屋を使うことは早晩あきらめました。
  
古森: そこもあきらめざるを得なかった。
  
佐藤: 次に考えたのは、田んぼの土地を転用できないかということです。海岸から8キロくらいの横田町に田んぼを持っていまして。ところが、その地域は「農業振興地域」に指定されているため、農地の転用は出来ないということが分かりました。こういうところは、被災地であろうとまったく融通はきかないのです。それでも固定資産税は支払い続けているわけです。
  
古森: 非常時であっても、土地の用途はなかなか変えられないのですね。
  
佐藤: まあ、震災で行政のほうも大きな被害を受けていましたから、行政は行政で大変だったのだと思いますよ。
  
古森: その次は?
  
佐藤: 田んぼの土地が店に使えないとなると、次は行政の補助事業を活用しようと思いました。他業種と組んで事業を申請すれば土地と建物が補助されるという仕組みがあるのを知りまして。昨年の6月頃の話です。それで、とある車屋さんと一緒に組んで申請してみたのですが、手続きが遅く、断念しました。やはり、行政に頼っていないで、自分で動かなければだめだ!と思いました。
  
古森: 陸前高田市は、市役所も3分の1くらいの職員の方々が亡くなったと聞きました。行政のほうも、震災後しばらくはどうしようもない状態だったのでしょうね。
  
佐藤: そうなのです。あれだけの大災害ですし、その直後に行政に何かを期待するというのも無理があります。やはり、まず自分で動かないとダメですね。
  
古森: それで、ついにこの店舗のあった場所に戻って来られたと。
  
佐藤: 俺はやはりここに戻る、と決めました。昨年7月のことです。
  
古森: しかし、店舗跡といっても、瓦礫の山で水浸しですよね・・・。
  
佐藤: どこから手をつけるか、最初は見当もつきませんでした。でも、決めたんです。目先のことから、一つひとつ、きちっとやっていこうと。それでまず、風よけの設置です。高田松原がなくなってしまいましたから、海からの風が直接吹き込んできます。知人から鉄パイプをもらって、実家のものとあわせて、風よけを作りました。
  
古森: ありものを継ぎ合わせて。
  
佐藤: 次に、何か緑を植えようと思いました。一面瓦礫の荒野になっていましたから、緑が欲しくて・・・。それで、トマトを植えてみました。私は植物の中でも特にトマトやナスが専門ですから、トマトならやれるのではないかという自信はあったのです。そして見事、トマトは育って、たわわに実りました。育ち行く緑を見ていたら、勇気がわいてきましたね。また、津波で家族を亡くし、泣きじゃくっていたお客さんが、この津波跡トマトを食べるとき、少しのほほえみを浮かべていましたよ。植物の緑、果実の赤い色。それは人を勇気付けるのでしょうね。
  
古森: 新たな生命が、津波の大地に。
  
佐藤: その次は、やはり建物をなんとかしなくてはならないということで、中古のプレハブを探しました。しかし、震災後はその手の資材が全国的に品薄になっていて、なかなか見つからなかったのです。
  
古森: とくに建築系の資材は数ヶ月にわたって欠乏が続きましたね。
  
佐藤: そんな時、偶然にもヤフーのオークションで鳥取県のリサイクル業者さんから買うことが出来たのです。あれは運だったとしか言いようがありません。業界の仲間や以前の通信販売のお客様、そしてボランティアや支援団体の方々からの支援金を生かして、なんとかその中古のプレハブを購入することが出来ました
  
古森: それが今の店舗の真ん中の部分ですね。
  
佐藤: そうです。ただ、やはり中古のプレハブでしたので、当初は雨漏りがしました。まずはその修理です。隙間を塞ぎ、天井を補修して、屋根を付け、ドアを付け・・・。大工さんでもないのに、とにかくもう必死にやっていたら、なんとなく仮店舗らしきものが出来上がりました。
  
古森: よくここまで自作で・・・。私も日曜大工で小屋を作ったりしますが、この半分の大きさでも大変ですよ。しかも電動工具を使って。
  
佐藤: やるしかありませんから、こっちは。経験がないとか、道具がないとか、材料がないとか、そういうことは言っていられなかったのです。やるしかないということです。震災にあったら、誰でもそうなりますよ。他人事ではないかもしれませんよ。
  
古森: そこから、今度は・・・。
  
佐藤: 井戸掘りですね。ここは津波最前線の地域で、1年4ヶ月経過した今でさえ、まだ水道も来ていないのです。でも、苗を育てるわけですから、水は必須です。さてどうするかということで、井戸を掘るしかないなと。
  
古森: 井戸を掘るのも、別にご専門というわけではないのですよね?
  
佐藤: 初めてですよ!
  
古森: しかも道具もない・・・。
  
佐藤: 最初は、料理の「おたま」で掘り始めました。
  
古森: 「おたま」って、あの玉じゃくしのことですか。
  
佐藤: そうですよ。それしかなかったのです。次に缶詰の空き缶を使ってみました。しかしそれも、なかなかうまく掘れない。やがて、竹の筒に土抜きの弁を付けて掘り下げることを思いつきました。
  
古森: 必死の工夫ですね。
  
佐藤: 来る日も来る日も、汗だくになりながらひたすら掘りました。掘ってもすぐに崩れてきてしまうので、一日に何センチも進まないこともありました。そのうち、掘った分だけパイプを入れ込んでいくことを思いついて、それで少しずつ進むようになりました。それで結局、5メートルくらい掘りましたかね。そしたらやっと、水が出てきたのです。
  
古森: 手作りの道具で、手掘りで、5メートル掘って・・・。出るかどうかも分からないのに。それでも5メートル掘って、とうとう水を。
  
佐藤: 塩水だったら困るなと思っていましたが、幸い真水でした。しかも、地下水ですから夏に涼しく冬場には凍らない、たいへん便利な水です。
  
古森: 5メートルですか・・・。
  
 
 
 
佐藤: 水が得られたので、今度はビニールハウス作りです。陸前高田は三陸の地中海と言われたくらいで、東北の中では比較的暖かい土地柄です。それでも、やはり東北ですから、冬は苗をそのまま育てられるような環境ではありません。ですから、育苗のためのハウスは必須なのです。しかも、単にハウスにするだけではダメで、普通は電熱線を通して保温するのです。それを、何もないこの場所に再現する必要がありました。
  
古森: 私も畑をやっているので多少はわかります。春先に苗で出そうと思ったら、芽出しは厳冬期ですよね。しかしそれを、何もないところでどうやって?
  
佐藤: 色々な部品、資材を集めてきて、ハウスを自作しました。床には発泡スチロールや毛布類の屑などを敷きつめまして、できるだけ断熱効果をあげようと工夫しました。竹を割った資材を火で曲げ加工してトンネルのアーチを作って、夜間はそこに毛布をかけて保温するようにしました。
  
古森: いま対談させていただいている、このハウスですよね。これ全部、手作り・・・。はぁ~、ため息が出ますね。
  
佐藤: でも、全部自分ひとりでやったわけではないですよ。店舗もハウスも、時々来てくださるボランティアの方々に色々とお世話になりました。基本的には自分一人でもやる。誰か助けてくださるなら、有難く協働する。まあ、必死で頑張っていると、人は声をかけてくれるものですよ。そのようにして、なんとか店舗、井戸、ハウスが昨年末までに出来上がりました。
  
古森: 復活!ですね。
  
佐藤: 完全復活とはいきませんが・・・。昨年の段階で、再興を進めながら細々と売り上げが上がり始めました。少しずつ商売が戻ってきている感じです。今年になって、行政からもついに店舗再興のための補助が出ました。経済的にはまだまだですが、気持ちとしては、今年はもっと頑張ろう!と前向きに思えるところまで来ました。つらくても、自力でやり始めて正解だったと思います。
  
古森: 自力復活の最初の歯車を回したのは、地震保険が下りない状況で買掛金があり、「やるしかない」という状況そのものだったわけですよね。そこから「為せば成る」という思いで復活された佐藤さんの口から出る、「自力でやり始めて正解だった」という言葉には、大変な重みとリアリティがあります。
  
佐藤: 本当にそう思いますから。あの時自分で動き始めていなかったら、今になっても何も出来ていなかったかもしれません。
  
古森: その言葉、被災地のみならず、現代日本全体に送るべき強烈なメッセージだと思います。
 
 
  
 
 
■ 歴史をロマンではなく事実で見ることの重要性 
  
古森: さて、少し話は変わりますが、佐藤さんが英文震災手記「The Seed of Hope in the Heart」を書かれた理由の一つとして、「正しく記録を残したい」という思いがありましたね。これについて、もう少しお聞かせ願えないでしょうか。確かに、記録を残すというのは将来の防災の観点からも重要なことだと思いますので。
  
佐藤: とても重要なことだと思っています。今回の津波被害も、私たちがもっと正しく歴史を理解出来ていたら、軽減できた部分があったかもしれないのです。
 
古森: 過去の津波の歴史が、あまり正しく伝わっていないと?
 
佐藤: その可能性が高いと思います。今回の津波はあまりにも悲しく、そして悔しく、この一年間ほどの間に色々と私も調べてみて、気づくことが多々ありました。
  
古森: 例えば、どんなことが・・・。
 
佐藤: そもそも、陸前高田にこれほどまでの大津波の記録は残っていませんでした。多くの人は、日頃から避難訓練はしていたものの、これほどまでの津波が来るとは思っていなかったと思います。少なくとも、皆が知っている程度の過去の記録の中には、こんな出来事はなかったのです。
  
古森: だからこそ、海に面したこの地域に陸前高田市の市街地が発達したのでしょうね。
  
佐藤: ところが、1611年の慶長三陸津波のことを、当時偶然にもこの地に来ていたスペイン人、Sebastian Vizcainoが記録に残しているのですよ。その後しばらくして日本は鎖国になりました。この地では、その津波のことを言い伝える記録は見当たりません。一方、スペインではそれが残されていました。なんという皮肉でしょうか。その記録によれば、少なくとも今の今泉のあたりまでは津波に飲まれたという事実があったようです。当時あった村が壊滅したようですね。
  
古森: 400年くらい前に、かなりの規模の津波が来ていたと・・・。
  
佐藤: この規模の津波は「千年に一度」などと言われますが、それは869年の貞観三陸津波のことを指しているものと思います。でも、実はそれよりもずっと近い過去に、この地域には大津波が来ていたわけです。
  
古森: 400年と1000年では、かなりサイクルのイメージが変わりますね。
  
佐藤: その後、1896年の明治三陸津波では19名、1933年の昭和三陸津波では3名、1960年のチリ地震津波では8名と、被害は出ましたが被害者の数は他の地域に比べてそれほど多くはなかったのです。それがかえって、「ここには大津波は来ない」という油断になったのではないでしょうか。400年前の大津波をもっと鮮明に覚えていたら、陸前高田市の街づくりは違ったものになっていたかもしれません。
  
古森: 過去の津波に関しては、地域単位で見ると必ずしも詳細の文献が残っているとは言えない状況・・・。だとすると、現実的には何を手がかりにして過去の津波や災害の歴史を想像するかですね。佐藤さんは、植物の専門家だけあって、木の樹齢に着目しておられますね。
  
佐藤: はい。例えば、今回の津波で流されてしまった今泉天満宮の下にある天神大杉ですが、この樹齢は一般的には550年くらいと言われています。直径などから想像するに、もしかしたらもう少し若くて350年~400年くらいという可能性もあるなと個人的には思っていますが・・・。いずれにしても、重要なのは樹齢に関して諸説に大きな差があるという点です。これを防災の観点で見た場合、どういう意味を持つか分かりますか?
  
古森: それだけ大きな差があると、「何年くらいそこに津波が来ていないか」の目安がつけにくいということですか。
  
佐藤: そうです。今回の津波で、天神大杉は根に塩水が入り、枯れかけています。耐えてくれることを祈りますが、植物として冷静に見ると枯れる確率は高いと言わざるを得ない状況です。津波をかぶった他の杉の木も、山裾で軒並み枯れています。根元まで津波が来た場合には、杉は枯れることが多いのです。だとしたら、その土地に残っている杉の樹齢を見れば、「少なくとも過去に何年間くらいは安全だったか」はある程度想像できるわけです。
  
古森: なるほど。過去の大津波の年代まで正確に特定は出来なくても、少なくとも安全だった期間が過去何年くらいかは、想像しうるわけですね。
  
佐藤: いずれにしても、かたや「1000年」という話があり、一方で数百年という見方があるわけです。歴史ロマンとしては1000年でも構わないのですが、「1000年くらいの間は、ここには津波が来ていない」という示唆としてとらえてしまうと、防災への意味合いはまったく変わってきます。
  
古森: たしかに。
  
佐藤: 種屋というのは、種の播き時 苗の植え時を 異常なほど気にするものなのです。よって、樹齢についてもことのほか気にします。つい、「この木を植えた年月日を知りたい」と思ってしまいます・・・。
  
古森: 高田松原に残った「希望の一本松」についても、ご自身で調べておられましたね。
  
佐藤: あの木に限らず、高田松原の松のことを考察していくと、色々なことが推定されてきます。まず、高田松原が作られ始めたのは400年くらい前からです。
  
古森: 400年前・・・。慶長三陸津波の後から造林が始まったということでしょうか。津波を意識した造林だったのかもしれませんね。
  
佐藤: そうかもしれません。しかし、今回の津波でほぼすべての松がやられました。一本だけ残った「希望の一本松」の樹齢は、約270年といわれています。一本松の年輪を数えることは出来ませんが、周囲の木の直径などから類推するに、もう少し短くて180年~200年くらいかもしれません。あの松は他の松よりも大きく、おそらく松原で最も樹齢の長い松だったものと思われます。その一本松でさえ、400年前からずっと立っていたわけではないということです。
  
古森: 400年前に造林を始めた松原で、2011年時点で一番古いと思われる松が、せいぜい200年くらいの樹齢かもしれないわけですね。
  
佐藤: その間の約200年間、何があったのか。色々な事情がありえますが、もしかしたら、松原がダメになる程度の津波が200年位前の段階で陸前高田に来ていたのかもしれませんよ・・・。海沿いに市街地が形成されたのはここ30年くらいのことですから、その頃には松原がやられるだけで、人家への大きな被害はなかったのかもしれません。だから記録されていないという可能性もあります。
   
古森: そのように推察していくと、「千年に一度」ではなくて、かなりの高頻度で津波が陸前高田に来ていた可能性もあるわけですね。少なくとも、木々の樹齢から推定すると、そういう仮説的シナリオもありうるわけですね。
   
佐藤: 歴史的建造物なども、同じような推定の材料になります。ですので、実際の建立年などを正しく記録しておくことは、後世の推察を助けるために大変重要なことなのです。私も歴史ロマンは好きですが、防災の観点からは、やはりしっかりした記録の作成と保存、これが重要だと痛感しています。
  
  
■これからの復興を見据える  
  
古森: 最後に、今後の展望や復興への思いなどをお聞かせ下さいますか。
  
佐藤: まあ、現実問題として、この店でずっと商売をしていくのは難しいだろうと思っています。
  
古森: え、そうなのですか。せっかく再建したのに。
  
佐藤: なぜかというと、復興計画の中でここは「かさ上げ」が決まっていますからね。いずれこの店舗は立ち退く日を迎えることになります。ただ、それが3年後になるのか5年後になるのか。これは分かりません。当面、行政のほうの成り行きを見守るしかないですね。
  
古森: それはまた、不透明ですね。
  
佐藤: 行政にも事情はありますし、私は不透明でも「不安」には感じていないですよ。もともと、人の助けに感謝しつつ、根底の部分では「自分でやるんだ」ということで進んできましたから。
  
古森: これからのさらなる復興も、その基本スタンスは変わらないと。
  
佐藤: やっぱり、自分でやろうとしないと、自分で動いていかないと、ダメだと思いますよ。それは、お互いが協力しないとか、人の助けを拒否するとか、そういうことではありません。人と助け合いながら、ボランティアさんや支援団体の方々、そして行政のサポートなども有難くいただきながら、基本の姿勢をどうするかということです。「他者の助けがないと動かない」のではなく、「まず自分が動く」ことから始める。そういうことです。
  
古森: 様々な支援がうまく生かせるかどうかというのも、支援を受ける側の姿勢で変わる面が大きい・・・ということですね。
  
佐藤: そうです。これだけの被害ですから、本格的な復興にはまだ多大な時間と労力を要すると思います。それでも、被災した我々が「為せば成る」という心を持って、まず自分から動き始めるということが、被災地全体で重要なテーマだと思います。そうなっていけたら、復興は加速していくことでしょう。そうありたいです。
  
古森: そろそろ、お時間になりました。あっ、ちょうどお客さんが来られましたね。佐藤さん、本日は貴重なお話をお聞かせ下さり、ありがとうございました。私もまた改めて、強く感じるものがありました。私は私で、自分がやるべきと思うことをここでやり続けていきたいと思います。佐藤さんのメッセージを読んで、被災地のみならず日本中の人々が何かを感じて下さったらいいなぁと思います。
  
 
   
   
(終)

はなそう基金の公式Webサイトがついにオープン!

当ブログの記事も全て公式Webサイトに移設しました。

今後は、公式Webサイトで報告させていただきます。

引き続きよろしくお願いいたします。





はなそう基金公式Webサイト


この記事の新ページ







■□■□■□■■□■□■□■■□■□■□■■□■□■□■
  
復興対談シリーズ ~ Talk for Recovery 

第2回 月山神社(陸前高田) 宮司夫人 荒木 タキ子  さん
   
(対談実施:2012年6月下旬)
  
■□■□■□■■□■□■□■■□■□■□■■□■□■□■
  


古森: こんにちは。お忙しい中にお時間をいただきまして、ありがとうございます。この対談シリーズは、東日本大震災からの復興の現場で活動しておられる方々にお話を伺い、メッセージを世の中に発信しようということで、この4月から始めました。本日で第2回となります。よろしくお願い申し上げます。
   


荒木: よろしくお願いいたします。


  
古森: 「光に向かって 3.11で感じた神道のこころ」(川村一代、晶文社)で荒木さんのことを知り、先日偶然にも「にじのライブラリー」でお会いして、「この方の経験されたことや感じておられることを世に伝えたい」と思うようになりました。まず、発災当初の様子などをあらためてお聞かせいただき、そこから感じられたことなどについてご自由にお話しいただければと思います。


  

   
  
■ 多くの人々が自律的に動いた


  
古森: この月山神社も、荒木さんご自宅兼研修道場のほうも、発災直後から多くの方々の避難所となっていたと聞きました。


  
荒木: 神社はもともと地域の人々のよりどころとなるものですから、何かあれば身を寄せていただくのが本分です。他の被災地でも同様だったと思います。この神社には、しばらくの間400人くらいの方々が寝泊りしていました。地震発生直後から、すぐに人が集まり始めました。


  
古森: 文字通り、「よりどころ」となったわけですね。


  
荒木: 神社下の地区の湊、上長部などの方々に加えて、気仙町~今泉のほうの人々も避難して来られました。気仙川に隣接しているこれらの地区では、一部を残してほとんどすべてのものが流されてしまいました。津波につかってずぶ濡れになった人も含め、皆さん徒歩で山を越えてここまで来られたのです。夜になってからも、避難者はどんどん増えていきました。


  
古森: 雪が降る真冬の夜に、ずぶ濡れで山を越えて・・・。


  
荒木: ここの神社も研修道場のほうもすぐに一杯になってしまいました。そうしたら、この近辺から避難して来られた方々が、学校やコミュニティーセンターのほうに自発的に移動して下さったのです。その方々も被災者だったのですが、ずぶ濡れになって山を越えてきた人たちに場所を提供するために、床が冷たく過ごしにくいところへ自発的に移動して行かれました。


  
古森: 自分自身が危機的状況にある中で、なかなか出来ることではないですね。


  
荒木: 家が残った人たちは、毎日2千個近くのおにぎりを作って届けて下さいました。自衛隊からの物資が届くまでの数日間を支え続けたのです。国道45号線が寸断されて、路上にはたくさんの車が取り残されていました。車と一緒に立ち往生していた多くの人々にも、山で湧き水を汲んでおにぎりと一緒に届けていました。


  
古森: 車中の方々にまで。


  
荒木: 津波発生後、自宅兼研修道場の方では、もう16時半頃にはご飯を炊いて、おにぎりにして、味噌汁を作って、食べ物も持ち寄って、物事が粛々と動いていました。そして18時半に就寝準備、19時半には寝るようにしました。その間も大きな余震が続いていました。


  
古森: 危機の最中にあって、冷静に手際良く物事が進んだのですね。


  
荒木: 情報がまったく入らない状況でしたから、「日本中が大変なことになっているに違いない」「しばらく救援は来ないだろう」と思いました。電気も水も途絶えていますから、できるだけ体力の消耗を抑える必要もありました。


  
古森: あれだけのことが起きて、情報もない不安の中で、皆さんはなぜそんなに粛々と行動することができたのでしょうか。


  
荒木: 一人ひとりの心がけの賜物だと思います。昔からこのあたりは漁村で、男達は遠洋漁業で何ヶ月も帰ってこないという家がたくさんありました。残る者たちは日頃から防災訓練をしっかりしていましたし、何かあればすぐに連携しあって自発的に動くことが出来ました。


   

  
 
古森: 日頃から危機対応意識が高かったのですね。


  
荒木: そして、特に大きかったと思うのは、おばあちゃん達の存在です。肝っ玉母さん。


  
古森: 肝っ玉母さん。


  
荒木: 海難事故で家族を亡くしている人も珍しくありませんし、これまでに色々なサバイバル経験を積んでいらっしゃいます。危機に陥ってもあわてません。津波で流されていく家を高台から見ながら、「贅沢しすぎた。いつかこうなると思っていた」などと言うのです。


  
古森: 津波で家が流されていくその光景を見ながら、ですか・・・。


  
荒木: 経験豊富なおばあちゃん達が、臨機応変にかまどでご飯を炊き、お湯を沸かし、そのお湯も色々なことに循環活用して急場を見事に凌いで下さいました。


  
古森: おばあちゃんたちの知恵が随所に発揮されたのですね。


  
荒木: 震災後しばらくはトイレもないですからね。地面に穴を掘って、ビニールシートで覆いをして、汚物が溜まってきたら埋めて、また別の場所を掘って・・・と、だんだん場所を移動させていくのです。地面に埋めれば汚物は分解されていきます。循環活用した水は、最後にここで撒いて使いました。


  
古森: そういうことが、発災直後から誰が言うともなく自律的に機能していった・・・。日頃から危機意識を持たざるを得ない環境に暮らし、様々な苦しみや悲しみを乗り越える中で他人思いの心を育み、サバイバル経験を積んだ人がたくさんいるコミュニティだったからこそ、そのような動きが出来たのでしょうね。


  
  
■ 今振り返れば人生で一番充実した時


  
荒木: このようにして震災直後の日々を思い起こすと、表現は難しいのですが、ある意味で「人生で一番充実した時だった」と感じることがあります。


  
古森: 一番充実した時・・・。


  
荒木: 地震も津波も来て欲しくはありません。言葉にできないほど悲惨なことがたくさん起きてしまいました。しかし、その悲惨なことに向き合いながら一日一日を皆で助け合って生きた日々というのは、言葉にすれば「充実していた」という表現が最も近いように思うのです。


  
古森: なるほど、「充実」ですか。


  
荒木: 家も家財も何もかも、人によっては家族さえも流されてしまって、本当に何もなくなった状態で集まった人々。でも、人間ってすごいと思いましたね。悲しみや苦しみを胸に抱えながらも、子供たちも含めて皆さん、努めて明るく過ごしておられました。


  
古森: そのような状況下でさえ、明るく。


  
荒木: 生き残った消防団員さんたちは、警察、病院、市役所などの機能が麻痺している中で、それらの役割をすべて担うかのごとく働き続けました。一ヶ月くらいほとんど仮眠で過ごし、着替えもない。来る日も来る日も、ご遺体の捜索と搬送。彼らを送り出す私たちも働き続けました。そんな状況下でも、皆で挨拶して言葉を交わしながら、日々を明るく過ごしていたのです。平静を装うことでギリギリのところで精神状態を保っていたと言えるでしょう。


  
古森: ただひたすら、やるべきことを皆でやり続ける日々・・・。その過酷な日々の中に、明るさがあったと。


  
荒木: 子供たちも、一気に成長したようでした。自分たちに出来ることを考えて、自発的に行動しました。山で薪を拾ってきたり、フキノトウを摘んできたり。


  
古森: 子供なりに役に立とうとして、自分で考えて行動したのですね。


  
荒木: 物資もエネルギーも限られている中で、皆で自然に分け合って、助け合って、日々を過ごしていました。持ち寄った食料は発砲スチロールの箱に入れて並べておき、端から順々に使っていきました。ふたを開けると腐敗が早くなりますからね。そういう秩序が、きちんと保たれていました。「モノ」が絶対的に足りないということが分かっている状況では、むしろ不平不満は起きなかったのです。
  

     

古森: モノが足りない状況では不平不満が起きない・・・。なるほど。


  
荒木: そもそもモノが「ない」から、奪い合うこともないし、不平不満もないのです。モノが足りない状況では、人はお互いを気づかって分け合います。皆で分け合えば、足りないはずのモノでも余ることさえあります。


 
古森: 分け合えば、余る。


  
荒木: ところが、支援物資がたくさん入ってくるようになってから、少し雰囲気は変わったように感じました。一部では、「あの人は二つとった」などという声が聞こえてくるようになったのです。


  
古森: 人間というものに関して、何か本質的なことを示唆しているように思えますね。


  
荒木: 奪い合えば、足りなくなります。


  
古森: 分け合えば、余る。奪い合えば、足りなくなる。う~む、なるほど。


  
荒木: 「ない」状態というのは、言い換えれば「心を隠さなくて良い」状態なのです。「ない」以上、隠しようもないわけです。ところが、「ある」状態になると、人は「心を隠す」ようになります。心を隠せば「やましい」わけです。心にやましいものを持った人が増えていくと、助け合いと思いやりで成り立つ共同体が機能しなくなっていきます。


  
古森: 「心を隠す」。なるほど・・・。


  
荒木: 「プライバシー」というものも、似たようなところがありますね。最近はことさらプライバシーという言葉が目に付きますが、隠すものがなければ、本来そんなに問題にはならないことです。戦後になって、お互い自分のことを「隠す」文化が入ってきて、それからおかしくなっていったのではないでしょうか。


  
古森: 集団の中に「モノを奪う」タイプの人がいると、他の人々も「隠す」必要を感じるという負のサイクルもあるかと思います。いずれにしても、「他人のことを思いやる」「皆で分け合う」という意識が人々から薄れていくと、人の世はどんどんささくれ立って行くのでしょうね。


  
  
■ 心を置き忘れてきた文明・・・考え直そう


  
荒木: 今回の震災で色々なことを経験して、私はやはり「今の文明を考え直すべき時が来た」と感じています。


  
古森: 文明を、考え直す。


  
荒木: 例えば家屋です。木造のものは壊れやすいので、今回のような津波が来るとひとたまりもありません。ほとんどすべて、壊れてバラバラになってしまいます。でもそれは、片付けやすいということでもあるのです。


  
古森: なるほど、たしかにそうでしょうね。


  
荒木: 一方、鉄筋コンクリートの建物はどうでしょうか。津波で破損して使えなくなったものを壊すだけでも、一棟で何千万~何億というお金が必要だと聞いています。瓦礫になったものでも、処理がたいへんです。


  
古森: そういえば、不燃性の瓦礫の処理が進まず、陸前高田でも問題化していると聞きました。燃やせる瓦礫のほうは随分と騒がれましたが、本当に処理に困るのは燃やせない瓦礫のほうなのですね。


  
荒木: 私たちは今、本当の意味の「エコ」を考えなければなりません。出来るだけ再生可能なもの、言い換えれば土に返るもので生活を組み立てていくべきです。今回の震災を見て、そのことに気づかなければならないと思います。


  
古森: 言葉では色々と言われますが、本当に「エコ」を実現する暮らしになっているかというと、疑問符ですね。自分自身の生活を振り返っても、そう思う部分が多々あります。


  
荒木: 町の規模についても同様です。密集させすぎると災害が大きくなりますし、回復にも時間がかかります。これくらいの大災害が来ても立ち直りやすいような規模にして、ある程度分散させておくべきだと思います。


  
古森: 密集していることにより得られる「利便性」とのバランスですね。


  
荒木: その「利便性」の度合いが問題なのです。今のような鉄筋コンクリートの密集都市の文明というのは、ここ60~70年のことだと思いますが、これはいうなれば「利便性をむさぼりとる生活」だったと思うのです。


  
古森: 利便性をむさぼりとる・・・。脳裏に突き刺さる言葉ですね。


  
荒木: 「心を置き忘れてきた文明」とも言えますね。やはり、人間は自然とともに生きるのが一番です。この震災で反省して、新しい文明を作っていくべきです。そのことを世界に伝えるために、神様はこの東北をお選びになったのではないかと思うのです。


  
古森: 東北沿岸部では、多くの人々が危機意識を持って日頃から避難訓練をしていて、都市の密集度もいわゆる大都市に比べれば控え目でした。それでも、大災害になったわけです。これ、東京だったらどうなるだろうかと思います。


  
荒木: 東京は、大変だと思いますよ。


  
古森: 関東大震災の教訓を、現在どれくらいの人が本気で意識しているかと思うと、背筋が寒くなります。昨年の地震は東京でも防災意識を高めましたが、日頃の生活が大きく変化したかというと、そうでもありません。


  
荒木: 多くの土地がコンクリートで覆われていますから、トイレだってその辺の土を掘って埋めるというわけにはいかないでしょう。山に行って湧き水を汲んでくることもできないですね。大変なことになると思います。


  
古森: 頭では分かっていても、都市の構造まで変えるということにはなっていません。建物の耐震強度は世界一だと思いますが、関東大震災のように火災の海になってしまったら、どうしようもないでしょうね。個々人のレベルでは、「東京で起きたらひどいことになるが、自分にはどうしようもない」とあきらめている場合が多いと思います。
  


   

   
  
■ 支え合いながら生きるのが人間


  
古森: 結局は、この震災を目の当たりにして、人間として何を思うかですね。さらに言えば、そもそも人間とは何なのか。生きているというのは、どういうことなのか。幸せとは、何か。この震災は、そうした根本的な問いを突き詰めていく契機にすべきだと思います。私はこちらに通うようになって人生観が変わったというか、薄々感じていたものが確信に変わったように思います。


  
荒木: 人間は皆、不完全な状態で生まれてきますね。宇宙物理学の佐治晴夫先生が言っておられましたが、父母だけで子供を育てるのは無理で、子育ては集団で行うように出来ているのだそうです。集団で助け合わなければ生きていけないという現実が、人間の原点なのですね。


  
古森: 助け合わなければ、生きていけない存在。


  
荒木: 子供だって、親の所有物ではないのですよ。「借り腹」と言いましてね、私たちは神様にお腹を貸しているのです。最初から、自分のモノなどないのです。


  
古森: 「借り腹」・・・ですか。自分のモノを競って集め、心を隠し、奪い合うこととは対極にある考え方ですね。


  
荒木: 今ここに自分が存在しているということ。この髪の毛一本一本でさえ、色々な命をもらって出来ているのです。その感謝を、忘れてはいけないと思います。私たちは神様が地球に落とした一滴の魂。地球に住まわせてもらっているに過ぎないのです。


  
古森: 色々と突き詰めていくと、「どのような世界観・価値観を持つか」にたどり着きますね。人間同士が思いやり、支え合わなければ生きていけないという現実を、この震災は語りかけていますね。その震災からのメッセージを、もっともっと、東北から世界に発信して欲しいと思います。この対談も、いずれ英訳して世界に伝えます。


  
そろそろお時間になりました。荒木さん、本日は貴重なお話をお聞かせくださり、本当にありがとうございました。


   

 
 
(終)