A TALE -3ページ目



降って湧いてきた!

満月だから?皆既月食だから?

関係あるのかないのかわからないけど、特別に実り多い日になった。



人格を羽より軽くしたい!

身軽になったら、瑣末なことにも目がいくようになった、

自然に観察できる。



内なる声、というのも、ほんとはこんなにいつも鳴ってた。

ないものとして振舞ってたから気づかなかった。

聞こえなくなることもよくあるけど、

気づくと実はうるさいくらいあーだこーだ言ってる。

かなりのおしゃべり。



今日助けてくれたのはあなたがたか?

どうもありがとう。

想像以上に盛り上がってる12月。




霊感(れいかん、inspiration)とは、が示す霊妙な感応のこと。また、神や仏が乗り移ったようになる人間の超自然 的な感覚。あるいは 的なものを感じとる心の働きこと。 理屈(理知的な思考過程など)を経ないままに、何かが直感的に認知されるような心的状態。

また、こうした本来の意味から転じて、芸術家・哲学者・科学者などが説明しがたい形で得た着想、ひらめきのことも指すようになった。


(Wikipediaより)






母に会った。



こんなに客観的に母と自分を眺めたことはなかった。

時は思い出を美化するというけれど、

離れている間に思っていたより、

母も私も二人のあいだも、

でこぼこして、イビツだった。

とてもするりとした、滑らかなイメージに思い込んでいたのだけど。



自分が思い描いた想像上の母、想像上の娘としての自分、想像序の親子関係。

それらを脱皮して、リアルな人間になったのだろう、私も母も。

でこぼこさが、今は興味深い。



私は母に認められたがっていて、

母は与えることで何かを避けている。

思い合っていて、コミュニケーションを取っていて、それでもどこかチグハグ。

不器用さや、いびつさを恐れる必要がないというのは、解放的だ。



与えられていることに感謝する。

母も父も与えて与えて与えてくれた。

いろんな人がいろんな存在が、あらゆるものを与えて与えて与えてくれる。


でも、与えてくれたから、ありがとう、なのか?


なんだか今日は、与えてくれてありがとう、と言いたくない。

なんだかもっと違うこと、

例えば不器用に隣に並んでることなんかに、ありがとうと言いたい気分。







2011年、最終章。





いろいろあった一年が終わろうとしている。

本当に、いろいろあった。

2010年から始まり、本当に何もかもうまくいかなかった。




渦中にいるときは、絶対にこんな出来事に感謝する日は来ない!

と思ってたけど、

今は感謝してる、皮肉の一つくらいは許してね。





自分を振り返る事、リハビリ、行動療法的一助として、始めたブログ。

思いっ切り踏み込んで書いてやろう、

と思っていたのだけど、

あんまり重く哀れっぽく且奇抜になるのは抵抗感を感じ、

また特定できる具体的情報は避けよう、

などと考えてるうちに、

抽象表現ばかりになってしまった。





できるだけ、見たくないこと、ぞっとするようなこと、を

書いてみたいな、と思っているんだけども。



考えられないことを考え、言うも恐ろしいことを言う (『ヴォネガット、大いに語る』カート・ヴォネガット)





今日は髪を整え、眉を整え、爪を整えた。

これから変貌していく予感を感じる。

戻れないことの悲しさと不安と痛みと孤独と、同時に高揚感。

やっぱり破壊されたら、元には戻れないのだろう、新しい別の姿に再建されるだけなのだろう。





ぞっとするようなことをひとつ。





非常に重要なふたつの人間関係において、

「離れたいのに、離れられない」

「離れたくないのに、離れていく」

という現状に陥り、めちゃくちゃだった私が再建されるきっかけになったのは、


赤ん坊のころ母と一緒にいたい甘えたいときに、叶えられなかった感情がある


という指摘だった。

波風ない幸せな家庭で育ち、トラウマが育つ余地皆無と思っていたので

にわかに信じられなかったが、

その日からすべてが変わっていった。





人間なんてちっぽけな存在なんだ、と、よく大自然なんかを前に言うけども、

そのとき私もそう思った。

なんてなんて小さく、軽いのか、と。

正確には人間というより、人格が、なのだろうが。





街を歩きながら、こんなにたくさんの人が存在することに、愉快さと憂鬱と、両方感じた。



吹けば飛ぶような人格といっしょにこれからも生きていくのだ。

この考え自体は私を愉快に、安らかにしてくれた。

私たちが抱えている"人格"が、決して中身を見とおすことが出来ないような暗く重く複雑難解な危険物でないことが判明したのだから。

でもどれだけの人がこの"人格"というものを、唯一の全世界であると重々しく抱きかかえているのかと思うと、軽い憂鬱を感じる。






長かった暗い旅路のフィナーレも、あと28日。







考え方、見方でいくらでも変わる。





――ええ、それはわかっています。





と、何千回思ったか知れない。



「視点」「思考」「感情」を、囚われているものから、別のものに「変える」のではないのだ。

囚われているものを「洗って」、自由にするのだ。

目をそむけようとすると、苦しさは続く。





久しぶりの友人の電話は、そんな声をしていた。

そして昼間の私も、そんな声をしていたに違いない。





何と言ったら、君に伝わるだろう。

何と言ったら、私に伝わるだろう?





うまくいかないとき、ひっかかっているのは「あちら」ではなく、「自分」なのだ。

本当に本当に、そうなのだ。囚われているときは、認めがたいのだが。



なぜ認めがたいのか?

「自分が悪い」と言われているように感じるからだ。





――そう、本当に自分が悪いんです、わたしは自分の非を認められる人間でありたいと思っています。





という回答は、今の私には不健全に聞こえる。

自分の行為が招いた等の「事実」は、認めるべきだろう。

でも「自分の悪さ」など、受け入れられるものだろうか。





絶対「自分が悪い」などと言われて納得できる人間はいない。

本能として、自然として、ぜったいに、それはない。





と、力強く断言したい。





悪いとか悪くないとか、優れているとかいないとか、

「価値判断」は、びっくりするほど物事の流れにとっては、まやかしだ。

個人の人格にとっては、まぎれもない現実に映るのだろうが。



そんな「価値判断」が、それはそれはびっしり、個人の経験やら何やらに基づいて、埋もれるほどびっしり詰まっているのが、私たちなのだ。





でも私はその向こう側に行きたい。

救われる道は、向こう側にあると思うからだ。





もちろん「価値判断」を持ってもいいのだが、ずっと抱えているものじゃない。

持って、手放して、また持ちたくなったら、持てばいい。その繰り返しでいい。

ずっと握りしめたままでは視界を失う。

物事が見えなくなってしまう。本当に、見えなくなっている。





私は、人が冗談みたいに簡単に、ほとんど支離滅裂と思える小さなことで、憎み、恨み、傷つき、歓ぶことを知った。

そして自分がそんなに簡単ではない、と誰もが思っていて、実際の心の動きとは別に「頭で考えた立派なストーリー」を頑なに信じようとしていることを知った。

つまり「自分が納得するに値する価値」を持つよう造られたストーリーである。





私は物語の向こう側に行ってみたい。










最近、意識的に“新しいこと”をしていないかもしれない。

よくよく振り返るとそれなりに毎日変わったことをしているが、“チャレンジ”のニュアンスが少ない…だから気づかなかった。





大きなニュースもあった。解決してない問題もある。日々いろんなことが起こる。

しかしなんだ、この順風満帆な雰囲気。

満ち足りた雰囲気。





このままでは停滞してしまう。





意識的に、新しいことを数えてみよう。

ほんの小さな小さな本当につまらない事を「チャレンジ」と捉えて精一杯だった頃のように、ひとつひとつ数えてみよう。







■■■ 2012年







・2012年(正確には2012年度)の目標を立てました。