考え方、見方でいくらでも変わる。
――ええ、それはわかっています。
と、何千回思ったか知れない。
「視点」「思考」「感情」を、囚われているものから、別のものに「変える」のではないのだ。
囚われているものを「洗って」、自由にするのだ。
目をそむけようとすると、苦しさは続く。
久しぶりの友人の電話は、そんな声をしていた。
そして昼間の私も、そんな声をしていたに違いない。
何と言ったら、君に伝わるだろう。
何と言ったら、私に伝わるだろう?
うまくいかないとき、ひっかかっているのは「あちら」ではなく、「自分」なのだ。
本当に本当に、そうなのだ。囚われているときは、認めがたいのだが。
なぜ認めがたいのか?
「自分が悪い」と言われているように感じるからだ。
――そう、本当に自分が悪いんです、わたしは自分の非を認められる人間でありたいと思っています。
という回答は、今の私には不健全に聞こえる。
自分の行為が招いた等の「事実」は、認めるべきだろう。
でも「自分の悪さ」など、受け入れられるものだろうか。
絶対「自分が悪い」などと言われて納得できる人間はいない。
本能として、自然として、ぜったいに、それはない。
と、力強く断言したい。
悪いとか悪くないとか、優れているとかいないとか、
「価値判断」は、びっくりするほど物事の流れにとっては、まやかしだ。
個人の人格にとっては、まぎれもない現実に映るのだろうが。
そんな「価値判断」が、それはそれはびっしり、個人の経験やら何やらに基づいて、埋もれるほどびっしり詰まっているのが、私たちなのだ。
でも私はその向こう側に行きたい。
救われる道は、向こう側にあると思うからだ。
もちろん「価値判断」を持ってもいいのだが、ずっと抱えているものじゃない。
持って、手放して、また持ちたくなったら、持てばいい。その繰り返しでいい。
ずっと握りしめたままでは視界を失う。
物事が見えなくなってしまう。本当に、見えなくなっている。
私は、人が冗談みたいに簡単に、ほとんど支離滅裂と思える小さなことで、憎み、恨み、傷つき、歓ぶことを知った。
そして自分がそんなに簡単ではない、と誰もが思っていて、実際の心の動きとは別に「頭で考えた立派なストーリー」を頑なに信じようとしていることを知った。
つまり「自分が納得するに値する価値」を持つよう造られたストーリーである。
私は物語の向こう側に行ってみたい。