自分の中にある怖れ | Hoʻola ~自分を生きる~

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この世を遊ぶように楽しんでいこうと思ってます♪

先週末からとっても冷え込んでます。
久々に「うー、冷える~」という感覚。今年は部屋に入れたプルメリアが落葉しきらず、水やりが難しいな~って思っていましたが、さすがに寒の入りを迎えてから、かなり寒い日が続いています。
 
でも、勤務先のそばの神田明神は、梅の花がほぼ満開。春は確実に近づいていますね(^^)
 
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今朝、通勤途中にある交番の前で、大声で罵っている中年男性を見ました。急いでいたのでちらっと見ただけですが、どうも若い男性と何かトラブルがあり、中年男性が若い男性を大声で罵っていて、その仲裁におまわりさんが入っているようでした。
 
中年男性は顔を真っ赤にして、交番の中に入れられてからもまだ大声を出していて、50mくらい離れても声が聞こえていて。。。
 
最近、「キレる人」が多いなぁ。。。なんて思いながら、その場を通り過ぎました。電車の中でも金切り声を上げる子供や、大声で他人を威嚇する老人など見ることがあります。
 
ま、あたしもダンナとけんかして、大声で罵ったりすることもありますけどね(笑)
 
キレたり、他人を罵ったりするのって、怒りというよりも「分かってほしい」という気持ちがその下に隠れているように感じます。「分かってほしい」というのは、「分かってもらえない」という怖れの裏返し。
 
もう15年以上前になるけれど、外資系企業の日本現地法人で営業として働いていたとき、上司から「とにかく顧客の話を聞け」と言われていました。何も有益なことなど提案しなくても、話を聞くだけで顧客は満足する、と。
 
人間って、「分かってほしい」生き物なのですね。
 
人はどうしても自分の物差しで、外の世界を見る。それは事実なのです。他人の心情を推測することはできても、他人の見え方を推測することはできても、自分というフィルターを通してしか、世界と接することはできないのです。
 
だから、自分の立っている場所を確認したくて、人と比べて優越感に浸ったり、自分を卑下したり。それは、他人から自分がどう見えているか分からないから、自信がないから、自分の立ち居地が分からないから、という怖れから来ているような気がします。
 
本当は「自分はすばらしい!」って自分で決めてしまえば良いのだけど、これってなかなか難しい。
 
人って、ありきたりな言葉だけど、ひとりでは生きていけない。共同体の役に立つことで、自分がここにいても良いんだって安心感を得られるようになってる。農耕民族の日本人ならなおさらそうなんじゃないかなって思います。
 
突出すると叩かれる。遅れると役立たずって言われる。だけど、自分は自分だって証はほしい。でも、人からどう見えているか分からない。。。
 
永遠のぐるぐる。
 
だったら、もう、えいや!で、「自分はすばらしい」って決めてしまおう。生まれてきた瞬間、泣いただけで周りの人は笑顔になったのです。それだけで「ありがとう」って感謝されていたのです。だったら自分で自分の価値を決めてしまおう!
 
他人が自分をどう思うかなんて決められない。だったら卑下せず、ひねくれず、ただひたすら自分の思うとおりに生きる方が楽しい。
 
なんて思った、今朝の出来事でした。