「左手」
半島が一望できる丘の上にいる。僕は、潮風を真っ向から受け、
Tシャツが靡くのを、ずっと抑えていた。晴天の空が海を飲み込む。
コバルトブルーは、どこまでも深く、僕の存在すら忘れ去っている。
あの日、見た夢。
それが現実に変わるなんて、8年前の僕が考えただろうか。
運命だと思っていた。彼女と出会い、別れ、そして1人きりだった。
初めて見た時。彼女は、僕を尊敬の眼差しで眺め、今となっては
僕は彼女に憧れを抱いている。
風が木々をざわつかせる。木漏れ日の作った影が揺れる。
僕は、左手をずっと、ずっと握り締めている。
宿舎に戻ると、チームメイトが待ち構えていた。
「おーい!!どこ行ってたんだよ!みんな、探してたんだぞ!!」
息を切らして僕の下へやってくる。仲間の蛭間が声を掛けてくる。
「監督が呼んでるから、行って来いよ。かなり怒ってたけどな・・」
僕は冷たい廊下をすたすたと、靴も履かずに裸足で歩いた。
非常階段の照明灯が緑色に光っている。壁を手で触りながら、
監督の猪瀬がいる部屋まで歩いていった。
ノックする音が辺りに響き渡る。静まり返った部屋の中。
どうやら留守のようだ。
引き返そうと思った矢先、突然、扉が開く。
目の前に先生。小声でぶつぶつ呟いている。言い訳しても
仕方ない。僕は、半ば諦めながら、自ら部屋に入ろうとする。
その瞬間、監督が僕の襟を掴んで、一発、頬を殴った。
鈍い音がした。
拍子に、その場に倒れこむ。体勢を整えようとすると、監督が
睨みをきかせて言い放つ。
「お前、集団行動を乱してるの、解かってるのか!!」
今度は、平手打ち。
頬にじんじんと響く。バチン、バチン。
暫く経つと、頬が腫れ、熱を帯びてくるのがわかる。
それでも、監督は僕を罵りながら、ひたすら平手打ちやパンチを
僕の顔めがけて、繰り出してくる。
気付くと、監督は息を切らし、それでもまだ僕のことが憎いのか、
罵声を浴びせながら殴ろうとしてくる。
「今、何時か、わかるか!みんな探してやったんだぞ!お前1人を!!
え!!何処行ってたか、言え!!そんなに殴られたいか!!」
僕はひたすら沈黙を押し通した。何故、殴られているのかも解から
なかった。
ただ、僕は、海の見える場所へ行ってきただけ。
帰り際、左手を見ようと思っただけ。
それでも、監督は、僕を殴る。我慢していると、涙が自然と溢れてきた。
悲しくはない。ただ、頬が麻痺し、眼窩の神経が緩んでいるせいだ。
僕は、ずっと左手をぶら下げ、右手だけでカバーしていた。
力の強かった監督は、いとも簡単に僕の腕を振り払い、そこから顔面を
狙い撃ちしようとする。
何分が経過しただろうか。
僕は、意識が朦朧としてきた。気付くと、歯茎から血が噴き出ている。
生ぬるい。冬とあって、口の周りだけが温かい。
ちゅるっと血を飲み込む。生唾と一緒に喉を通る。
気持ち悪い感触。僕は、そんな作業をひたすら監督の、見えない口の
中で行っている。
「もういい!お前は明日の練習出なくていいから、そこにずっと居ろ!」
そう行って、監督は扉を開け、出て行く。
ピシャという激しい音の余韻だけ残して。
僕は、涙と血の合流を喉下でひたすら繰り返している。
泣きたくなんてなかった。
涙が出ても、折れたら敗北だと思っていた。
翌日、僕はほとんど一睡もせず、監督の部屋に居残った。
チームメイトは、宿舎と繋がった体育館で、バドミントンの練習を
続けている。
昼過ぎ。後輩の呼ぶ声がする。扉がゆっくりと開く。
「失礼します!あっ!!」
後輩の小野は、僕を見た瞬間、呆然と立ち尽くした。
時が止まる。彼の眼球が泳いでいる。目を塞ぐリアクションを
した後で、僕に声を掛けてきた。
「ど、どうしたんすか。その顔・・・。あ、痣になってますよ!」
彼をゆっくり見た後で、壁に背もたれし、座りながら答えた。
「殴られた。何十発か、わかんねーけど。昨日、俺、いなかったの
気付かなかったのかよ?」
いや・・。そう小声で呟きざまに、僕の肩に触れる小野。
「いや、知ってます。探したんすけど、何処行ってたんすか??」
僕は、答えるのがあまりに億劫だったため、俯きながら
そのまま自分の太腿ばかり見ていた。多分、疲れがピークに
達したのだと思う。
「せ!先輩!先輩!!」
彼女の姿が見える。小さな身体で精一杯、背伸びをしながら、
シャトルを打っている。コートの中で彼女は踊る。
歓声が聞こえる。会場がどよめく。
彼女は強かった。数年前に見た時とは打って変わって別人だった。
出会いは、交流試合。僕は、その試合で全国大会ながら、ベスト8に
入る健闘を見せていた。好不調の波が激しかった僕は、
翌日に行われた準々決勝で格下の選手に敗れた。勝てる相手だった。
皮肉にも、相手の選手は、彼女と同郷で同じクラブ仲間だった。
思えば、僕はあの日から、勝てない選手だったように思う。
いつも格下相手に競っては負ける。
大体、トーナメントで行われる試合は、8試合くらい勝ち進まなければ
全国区の大会には出場できない。
僕は、負け癖のせいで、いつも3回戦や4回戦選手だった。
実力はある。そう言われ続けてきた。現に、中学時代は県内で僕ほど
有名な選手はいなかった。
「長谷川が出れば、優勝をさらってく」そう言われていた。
しかし、高校入学と同時に、僕の成績は別人のように落ちぶれていった。
敗北者。
そもそも、優勝者以外、敗北するのだから。優勝なんて、いくらレベルが
低い県内であっても、安易に出来るものではない。
実力があれば、追随され、常に追われる立場なのだ。
プレッシャーとも戦わなければいけないし、何より自分の実力を現段階
より上げなければいけない。
そんな中、僕は1人、突っ走っていた。そして、高校入学直前の試合で、
彼女と出会った。
彼女は、体格には恵まれてはいなかった。どちらかというと華奢で、彼女
も勝てない無名の選手だった。
僕はそんな彼女の直向なプレーと、足腰のラインを見てふと思った。
「彼女、この先、伸びるな・・・」
左利きのプレーヤー。脚が長く、筋肉の付き方が、太腿にかけて
発達していた。
右利きの相手からすればやりにくい選手だ。
細い左腕。遅いテンポ。
それでも、僕は彼女を応援した。
そして、彼女もまた、僕を応援していた。
拍手喝采。熱気に蒸せ返る体育館。
2階席から彼女の姿が見えた。その時の僕は、コートの中で
ひたすらシャトルを追っていた。がむしゃらというのは、いささか
違うが。
上を見ると照明が明るい。
「何だ・・ちょっと眩しすぎない??」
そう思った時、僕を揺り起こす男がいた。
高山だ!
「起きろ、長谷川!!起きろって!大丈夫かぁ~~???」
彼は、チームメイトでもあり、ダブルスのペアでもある。
いつの間にか、布団に横たわっている僕を、彼は大声で叫んで
呼んでいる。
眩しい・・。そう思ったのは、彼の持ったペンライトのせいだった。
「おお、やっと気付いたか!ちょっと起きろ、飯食うぞ!しかし、すごい
な、その顔。今回は酷いくらいやられたなぁ・・あっはっは!!」
笑ってる場合かよ。僕は、彼の目を見て、呟く。
高山に支えられ、腕を担がれながら身体を起こす。
「痛ぇ!いててて・・・」
僕は、どうやら背中も強く打ったようだ。口ばかり気にして、気付かなかった
ようだった。高山は、満面の笑みを浮かべ、僕を気に掛ける。
「大丈夫かぁ。お前も、また反抗したんだろ?猪瀬のやつ、よっぽど
お前が折れるのを見たいんだなぁー」
僕は、高山も殴られているのを何度も目撃している。僕と高山は、チーム
メイトの中でも、意地でも監督のやり方に屈しない選手だ。
1度決めたら、後に引き下がらない。高山も意固地になって、監督の
方針に従わなかった。
負けても勝っても、内容の悪い試合は、全て体罰。
それに、集団行動を乱すと、殴打の刑。この部活では、連帯責任が伴う。
僕は、ただでさえ、1匹狼なのにも関わらず、部活のせいで
殴られてばかりいた。何の責任のない行為であったとしてもだ。
ただ、試合で結果が出なかっただけ。
けれど、必要以上の愛のない暴力で、僕の精神と肉体はもはやボロボロ
だった。
高山は、そんな内部事情を知っているから、僕を責めることなどしない。
何処へ行ってたかも、「検討がつくから言わなくていいよ」そう笑いかけな
がら、僕を庇う。
高山には、世話になっている。勿論、彼が監督に殴られた時は、真っ先に
止める。お互いの暗黙の了解みたいなものだった。
<続く>