以前、ヴァージニア・ウルフはやっぱり怖いなあと思ったのですが、これは楽しかった!

 

 私は犬派なので、前知識なく「ワンちゃんの話かぁ、面白そう」と思って購入して読み始めたら・・・・違いました。

 私はまったく存じ上げなかった、実在の詩人エリザベス・バレットの生涯を、飼い犬のフラッシュ君目線で描いたという快作(怪作)です。

 

 

 途中までフィクションと思って読んでいたので、登場人物の肖像画が挟まれることに「おかしいなあ、登場人物にモデルがいるのかなあ。でも名前が完全に同じでモデルってなあ」と首をかしげながら読み進み、50頁過ぎた辺りで原注を読んで、これが実在の人物の伝記であることにようやく気付きました。

 ただのオタクには、イギリスの詩人(しかも女性)って、ハードルが高かったです。

 てか、調べてから読めよという話ですが。

 お恥ずかしい・・・・・

 

 

 

 話は唐突に変わりますが「吾輩は猫である」って映画化されていて、私が若いころ、深夜枠で時々放映されていたんですよね。 

 若い方はご存じないであろうVHSに録画してとっておいたのですが。

 

 監督は市川崑。苦沙弥先生は仲代達也でカイゼル髭(?)が似合う!!

 傑作なのが、市川映画で常連の岡本信人でした。

 寒月くん役。

 すごく印象に残っているのが、原作ではちっとも面白いと思わなかったシイタケで歯が欠ける逸話です。

 以下、記憶で。

 

 全て正面からのバストショット。

 (急に気がついた様子でこちらに向かってのぞき込む仲代)「おい、君。その歯はどうしたのかね」(素早いカットバック)

 (岡本信人がすました表情で。でも前歯が欠けている)「あ、これですか?シイタケをかみ切ろうとしたら欠けましてね」(素早くカットバック)

 (顔をしかめて後ろに体を引いて)「なんだね、シイタケで歯が欠けるなんざあ、なんだか君も爺くさいねえ」

 (やはりすました表情の岡本信人)「時に、さる令嬢とヴァイオリン(ヴァを強調する発音)で演奏会なぞ、いたしましてね」

     カットがかわって、令嬢とキーキーと音をならしているシーン

 (顔をあげて少し驚いた表情)「ほぉ。そのバイオリン(普通の発音)をどこのお嬢さんと演奏したのかね」

 

 みたいな会話が淡々と流れ、ほとんどBGMも無い。

 乾いたテンポの市川演出でかえっておかしみが増し、原作では全然面白くなかったこのエピソード、私は声をあげて笑ってしまいました。

 ラストシーンは、なぜか逆光で苦沙弥(漱石)夫人(故・勘三郎の、お姉さんが演じていました)を美しく撮っていたような記憶が・・・・

 今なら、あのラストの意味が分かると思うんだけどなあ。

 まま、私の記憶はフィリップ・K・ディックの小説のようにすぐに改ざんされるので、たぶんだいぶ間違っていると思います。

 

 

 

 話を戻します。

 バレットさんの生涯は資料が少ないらしく、本書の伝記としての情報量はWiki程度です。

 でも、そういうことはもちろん問題ではない。

 

 フラッシュ目線(「犬の意識の流れ」?!)から、何が起きて、登場人物たちがどう考え、行動したかを想像させるのが、本当にうまい。

 

 ある男性が訪れた時、フラッシュ君がなぜか疎外感を抱き(p66-69)、なぜか「いまいましく感じ」て男性に噛みついてしまう(p75)くだり、映像的な描写で分かりやすく、しかもユーモラスで、フラッシュ君に感情移入してしまいます。
 

 

 で、この手法だと伝記的に詳しくわからないことは、わからないままにしても不自然ではない。

 何しろ犬目線ですからややこしい事情が分からないのが当たり前。

 なので、本当は何かしらの外的事情による「やむを得ない」行動だったのかもしれないことが、本書ではバレットさんの自発的行動とも読めるようになっています。

 

 だからといって「事実を正確に描く窮屈な作品」ではなく、フラッシュがある事件に巻き込まれたエピソードは、その時の状況やバレットさんの心情など、詳しい記録が残っているはずがないのですが詳細に描かれています。 

 たとえばバレットさんの心情の一部は(たぶん)ブラウニングさんへの「手紙」で報告しているという体で表現される(p110-111)。

 これがウルフの創作なのか、そうでないのか不明(参考文献が書簡集なので、本当かもしれません)。

 ただ、そういう形でしか心情を描けない形式の作品なので、これで理にかなっています。

 素晴らしい。
 てか、もっと重要なのは、この犬が絡むエピソードを描くことが、そのままバレットさんの詩の主要テーマの紹介になっていることです(p88-119)。

 素晴らしい。

 

 

 

 本書で、へーと思った箇所を。

 

 カルタゴ軍が現在のスペインに上陸したとき、ウサギがたくさんいた。

 で、カルタゴ語でウサギは「スパン」だった。

 なので、スペインは「ウサギの国」=イスパニアと呼ばれるようになった(p7-8)。

 もう一つの説。

 バスク語で「エスパーニャ」は周縁という意味があった。

 それは訛ってイスパニアになった(p8)。

 

  

 バレットさんの苦悩。

 「言葉で何でも言いあらわせられるのだろうか(略)言葉は、言葉の力では言いあらわせない象徴を破壊していまうのではないだろうか」(p48)。

 ウルフの苦悩でもあったのでしょうか。

 言葉が本来は表現できないものを「かのように表現」し、私たちが本来分かりえないものを、あたかも分かったかのように振る舞えてしまう、言葉の暴力性を危惧していたということでしょうか。

 どこぞの新聞社かが一時期宣伝文句にしていた、<言葉の力を信じる>とかなんとかなどという呑気な言説とは別世界な悩みです。

 

 似たことがフラッシュ君の描写でも。

 「赤ちゃんは毎日言葉を覚え、それにつれて少しずつ感覚を手のとどかないところへおき去り」にする。

 じゃあ、フラッシュ君が「もののエッセンスが完全に純粋な状態で存在」し、「ものの裸のままの魂が裸のままの神経にふれてくる楽園」にいるかといえば、そうではない。

 彼も人間と共に生活することで「人間の情念」を抱くようになったのだから(p151)。 

 ウルフは、指し示すものやことよりも現実性を持ってしまう言葉を獲得すること(マラルメですね)が、人間にとって<失楽園>と考えていたのでしょう。

 

 

 

 

 最後に。

 おそらくウルフの価値観。

 以下引用。

 

 (略)バレット嬢は手紙を読む。彼に譲歩するのはなんとたやすいことだったろう―「あなたの良識ある御意見は、わたくしには百匹のコッカ―・スパニエルよりも大切なのです」と言うことはなんとやさしいことだったろう。枕にもたれてため息まじりに「わたくしは弱い女、法律のことも正義のこともわかりません。わたくしに代わって決めてくださいな」と言うことは、なんとやさしいことだったろう。(略)バレット嬢はペンをとり上げ、ロバート・ブラウニングをやりこめた。(略)

 

 以上引用終わり(p106-107)

 ノーラさんにおかれましては、この台詞をよーく味わってほしいです。

 

 もう一つ。

 ブラウニングの返信。

 以下引用。

 

 「(略)今度のことでは、ぼくは世界中の夫、父親、兄、横暴な人たち一般、そういう連中のいまわしいやり方に反対して戦っているのです」

 

 以下引用終わり(p108)。

 

 うーん。

 男女の差は埋まらない・・・・。

 

 

 実は同時に「ある協会」(エトセトラブックス)も読んでいたのですが、ぎこちない寓話の「ある協会」より、「フラッシュ」の方がはるかに面白く、ウルフの主張もさらっとしていて上品かなと思いますが、いかがでしょうか。


 

 

 

 

 

ヴァージニア・ウルフ「フラッシュ 或る伝記」   出淵敬子訳

1600円+税

白水社Uブックス

ISBN 978-4-560-07229-5

 

Woolf V: FLUSH: A Biography.  1933