タイトルと「ノラが出ていく」(猫の話?)くらいしか知らない本作。

 

 本屋をぶらぶらしていて、気晴らしにちょうどいい厚さだと、こども3が持ってきたコロコロ・コミックと一緒に購入。

 すぐ読了したのですが、釈然としませんでした。

 

 否定的なことを書きたくないのですが、期待値が高かったこともあり、感想がネガティブになってしまいました。

 私が女性心理をよくわかっていないということで。

 

 

 

 主人公のノーラさん、この人物が、どうしても私にはよくわからない。

 

 

 まず、3人の子供を産んで(p49)、結婚して8年もたっている(p168)のに、”まだ少女のよう”という設定(第一幕)が飲み込めない。

 当時の社交界デビューの平均16歳で、すぐに結婚したとして24歳。

 当時なら早いと50歳代で寿命なはずだから、今の感覚だとアラフォーくらい?

 にしては、幼いように思える。

 もちろん、夫あるいは男の望むように、振舞った結果だという考え方もできます。

 それにしてもです。

 それとも、当時の上流階級では、これくらい”世間知らず”なのは極端な例ではなかったのか。

 ところが、第二幕では、露骨ではないものの、性的な隠喩や振る舞いが多く、実は成熟した女性と読めなくもない。

 いったい、どっちなのでしょうか??

  

 

 

 旧友(女性)の大変な苦労話に、ノーラは被せるように自分の苦労自慢をする。

 しかし、ノーラの方はたいした苦労ではない。

 

 普通、他人の苦労話は黙って聞くのではないでしょうか。

 しかも極度の貧困で疲れてきっている旧友に「保養地に行きなさい」(p28)。

 「ブリオッシュを食べたらいいじゃない」と発想が同じ。

 

 病気をもったある男性がノーラたちの家に入り浸っているのですが、その男性との会話(p94)。

ノーラ「お父様は、アスパラガスとフォア・グラのパイに目がなかったんでしょう?そうじゃなくて?」

ある男性「ええ、それに松露(注:松茸の一種だそうです)もね」

ノーラ「ああ、松露。そうね、それに牡蠣もでしょう?」

 (略)

ある男性「(不審げに相手をみて)うふんー」

ノーラ「(ちょっと間をおき)何がおかしいの?」

ある男性「いや、あなたですよ、笑ったのは」

 アスパラガス、松露と牡蠣。

 分かりやすい性的隠喩だと思います。

 こっちは分かってない。

 そういう振り?(流れ的には、本当に気付いてないようにしか読めませんでした)

 他にも、ストッキングの件など、私にはやはり未熟な人にしか見えない。

 

 

 

 彼女は、”奇跡”をまっています。

 それは夫がある行動をすることです。

 でも、夫はそうしなかった。

 

 夫が「あたしの思っているような人じゃなかった」(p168)、妻のことを全力で守る人ではなかったので、<私は人形だったのね>と気づくという流れですが、これがわかりません。

 逆にもし夫が妻のおかしたある罪に対して<全力で守る=責任を肩代わりする?>ことをしたら、ノーラは自分が人形だったと気付かなかったのでしょうか。

 むしろ、罪を贖うことを勧めずに守ろうとすることの方が<子供扱い(人形扱い)>ではないでしょうか。

 

 

 

 第三幕で、「真面目に(夫婦で)話し合うのは初めて」とノーラは言うのですが、第一幕で借金について話し合っていたと思います。

 あれは真面目ではなかったのか?

 

 ノーラは夫と同じく”真面目に人生を考える”のを、避ける人物だったのではないでしょうか。

 物語のポイントであるノーラの過去のある行動も、真面目に考えているとは思えません(必死だったのは認めます)。

 

 ヘルメルが支配的なのは第二幕で描かれます。確かにそういう夫かもしれない。

 岩波文庫だと表紙絵になっているシーンです。

 しかし、「あたしの思っている人じゃない」という言い方は、相手が自分の思い通りではないという意味であり、私からすると、この二人は似た者同士にしか思えません。

 

 いきなり「一人の人間としてみてほしい」と言っても、そのタイミング?という気がしますし、彼女の最後の行動は自立に向けての家出というより、ただの衝動的な家出(それもいささか幼稚な。夫婦喧嘩の果てのくらいな)にしか思えない。

 

   


 この劇は、当時は大きな衝撃を与えたのだそうです(解説p184)。

 夫も子供もすてる。

 訳者の原先生はこの作品を古めかしい女権問題の社会劇というより「自分自身を確かめるのが人間の義務であることを描いている」と指摘されています(同)。

 そうかもしれません。

 てか、そうであってほしい。

 

 というのも、もし本作が女性の自立を描くことを主題にしているのだとすると、イプセンは女性をどこかでバカにしているようにしか私には思えないのです。時代的制約を差し引いてもです。

 

 自分が人形扱いされていることに気付くのに、はたして8年も必要か。

 

 そのことに気付くきっかけが、夫が<自分を守る=全責任を負う>をしてくれなかったからでいいのか。

 私が考える本書の一件で”妻を守る”ことの妥当な線は、「お前はきちんと罪を贖いなさい。そのことに協力はする。ただ、基本的にお前ひとりでしなければならないことが多いだろう。確実に約束できることは、お前が家族の一員としてまた戻ってきてくれるのを待つことだけだ」と伝えることだと思います。

 

 しかも、まったく何の準備もせずに家を捨てる(私はノーラが家を出た後、身を持ち崩していく様しか想像できません)。

 現実の女性はもっと前にその関係性の歪みに気付き、もっと違ったきっかけで家を出ていき、もっと周到に家を出る準備をするのではないでしょうか。

 

 

 とはいえ、本作、しっかりとした演出家と俳優さんが演じる舞台だと、ぜんぜん印象が違うかもしれないとも思いました。

 たとえばラストのヘルメルの台詞。

 どういうニュアンスで言わせるのかで、まったく印象が変わると思います。

 

 

 やっぱり戯曲ですから、読むだけであれこれ言うのは筋違いでしょうか。

 ぜひ劇で見たいです。

 

 

 

 

 

 

イプセン「人形の家」    原千代海訳

600円+税

岩波文庫

ISBN 4-00-327501-2

 

Ibsen H: Et Dukkehjem    1879