伏線回収をざっくり楽しもうと第一編から第七編に飛んで、以前、そのような読み方をお勧めしましたが、前言撤回です。

 この読み方、お勧めできません(すいません・・・)。

 

 大きくブリッジのように第一編と第七編で伏線回収されるエピソードはあるのですが、細かなものがあちこちに仕掛けられて、同じ編で、あるいは別の編で回収されたりします。

 なので、やっぱり順番通り、かつ全部読まないと、誤解もあるし楽しみも半減(以上)です。

 

 今回、第一~第六編まで読んだ上で第七編を再読したら、まったく別の内容が見えてきました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  そしてやっぱり面白い!

 2回目なので細かな引用は省きます。

 

 

 まず驚いたのが、サン・ルーとジルベルトが結婚していること。

 しかも、サン・ルー、さすがシャルリュスの甥。

 彼もまたあの性癖を開花させています。

 可哀そうなことにジルベルトは、サン・ルーのかつての恋人と同じような服装や髪型、髪の色にして愛されようと一生懸命。

 サン・ルーは第二編から登場して恋人のこともその時のエピソードなので、初見の時にはピンと来ていませんでした。

 

 それとシャルリュス氏のマゾヒズム・シーン。

 サディストでもあるけどマゾヒストでもある。ここもプルーストらしいです。

 これも第五編から六編を読んでないとピンとこない。

 

 

 さて、前回のブログでは勘違いというか誤読していて、「私」が文学論を展開すると書きましたが違いました。

 

 「私」は文学を書きたいと全編を通じて考えているけれど「才能がない」と思っている。

 しかし、敷石でふらついた刹那、ヴェネチアを思い出し(これも第六編を読まないと分からない)、さらにゲルマント邸の食堂でナプキンの手触りから、バルベックの海岸沿いのレストラン(これは第二編を読まないとダメ)を思い出す。

 そして、彼は重要な心境に到達する。

 

 前ブログでは、「私」の文学論は「現実<思い出」として「真の生を描く」というものだという主旨のことを書きました。

 結論は大きく間違っていないのですが・・・・

 

 「私」に突然戻る思い出(マドレーヌ、敷石、ナプキン体験=いわゆるreminiscence:意図的でない想起)と現実には隔たりがある。

 そして、レミニッサンスの際、「私」は現在と過去がつながる「超時間的存在」になっている。

 過去は想像力で得られるが衰弱し、現在は感覚器官で捉えられるが本質をもたらさず、未来は過去の延長で現実的ではない(繰り返し述べられてきた現実<想像が少し変化している)。

 過去、現在、未来ではないレミニッサンスは、記憶や知性で捉えられない「失われた時」、過去と現実に共通する「本質的な何か」を「私」にもたらす。

 

 現実は、感覚(≒現在)と思い出(≒過去)との関係の中にある。

 そして、真理、本質は2つの対象の<関係>の中にある。

 つまり、現在と過去の<関係>の中に現実、本質、真理がある。

 言い換えれば、本質は、時間の外、時間の秩序の外にある。

 

 「私」の文学方法は、レミニッサンスという通常の時間体験外の過去と現在が二重化された一瞬に、顕わになる生、物や経験や言語の下にある何か、観察されるものではない何かを取り出すこと。

 それは作家が自らの意志で創造することでなく、発見すること(見出すこと)であり、敢えて言えば再創造(再構築)である。

  

 

 前編までの「私」は、想像した対象の方が、現実(現在)よりも美しいと考えてきた。

 でも、現実は、単なる現在ではないし、過去でも、想像でもない。

 現実は、現在と過去の<関係性>であると最後の最後になって考え直しているのですね(ページにすればⅠp308~最後まで)。

 

 だいぶ誤解していました。

 と同時に、この壮大な小説の終盤に相応しい読み応えのある個所でした。

 二回目に読んで「現在と過去、現実と想像を分離していた語り手が、とうとう両者を統合して真実を見出すようになったのか・・・・」という深い感動を覚えました。

 

 読解力がなくて、お恥ずかしい・・・・・ 

 

 さて、「私」は文学方法を獲得した。

 では題材は?

 以上が前半まで。

 

 

 さて後半。

 ゲルマント大公夫人のサロンに「私」は誰と会話するでもなく歩ている。

 

 多くの登場人物たちの老いが執拗に描かれます。

 同時に、登場人物たちの立場の変化、逆転も冷酷なまでに記されます。

 ここは第六編までを読んでいる者にしかわからない(サディスティックな)快楽です。

 初見では表現の面白さに注意を奪われていましたが、その内容、記述の底意地の悪さ。

 

 ヴェルデラン夫人、なんと再婚してゲルマント大公夫人になっています。

 今やゲルマント公爵夫人と立場が逆転。

 高級娼婦ともいえない立場だったあのラシェルは大女優に。

 そして、高級娼婦と陰口をたたかれていたオデットは娘をゲルマント家に嫁がせ、もはや生粋の貴族と見做されている。

 

 ブルジョアを見下していた貴族たちは、無残にも老いさらばえている。

 そして、若い人たちは歴史への無関心ゆえに、目の前の状況だけで不正確に人の立場を認識する。

 

 

 終盤。

 ゲルマントのほう、スワンのほう、バルベック、コンブレ―とあらゆる記憶がサン・ルー侯爵とジルベルトの娘、サン・ルー嬢に集約されていく。

 語り手は描くべき題材をとうとう見つけます。

 

 それは「時」そのもの。

 単なる過去から現在へという水平的ではないもの。

 記憶と過去、記憶と現在、過去と現在の組み合わせが重層的に構築されたもの。

 

 そして、時は人間そのものでもある。

 

 

 ああ、素晴らしい作品でした・・・・

 

 これからはお気に入りのパート(第一編後半と第二編前半あたりかな)を繰り返し読もうと思います。

 楽しかったなあ。

 

 今日は仕事で嫌な事ばかりでしたが、これがストレス解消法になりました。 

 

 

 

 

 

プルースト「失われた時を求めて 見出された時」  鈴木道彦訳

(再読)