本屋に行く度に手にとり、そっと本棚に返していたプルースト。
昔、「スワン家の方へ コンブレ―」で挫折して放置だったのですが、久しぶりに読んだら面白かった!
で、そのまま「スワンの恋」に突入。
ただ、この後は解説本で誤魔化すことにして、「見出された時」にワープして読んでいるところです。
(光文社では未完のはずなので、鈴木訳で購入)
第一部「コンブレ―」を再読して改めて気付いたのは、「笑える」小説だったこと、あと独特な時間感覚がはまると癖になる、でした。
レオニ叔母さんが勝手に妄想して一人で憤慨している様子や(第一巻p277-280)、ルグランダン氏の知ったかぶりはいい味出しています(同p285-330)
プルースト、非常に意地が悪い。
でも、そこがいい(私も意地が悪い)。
そして描写される時間の伸縮の振り幅が半端ない。
有名なマドレーヌの味と紅茶の香りから物語が駆動する・・・ですが、物語のホントの始まりは違います。
それはともかく回想が「些細なきっかけ」から始まって「大きく展開する」を繰り返す。
たとえば、後のスワンの恋ともつながる「私」の大叔父のエピソード(同p185-196)。
「私」が叔父さんの別荘の扉を回想すると、そのまま大叔父のあるエピソードになる。
そのエピソードが面白いので集中して読んでいると、唐突に「・・・大叔父はこの世を去った。そんなわけで・・・」と話が変わり、読んでいる方としては、はっとする。
そして何事もなかったかのように時間の流れが(おそらく)元に戻っている。
このリズムにはまると読んでいて気持ちいいし、その都度、「すごいなあ、プルースト」です。
「コンブレ―」のラスト。
これも、ちゃんと冒頭に回帰します。
もう、鳥肌が立ちました。
すぎなあ、プルースト。
意識が曖昧な目覚めから始まり、大きな流れとしての回想の上に、焦点深度が深くなる回想が寄せては返し、最後は意識清明な目覚めで終わる。
充実した大長編映画でも見終わったような心地よい疲れを感じました。
「スワンの恋」。
テーマは「嫉妬と恋」。
ところで解説書の類では、「失われた時を求めて」で<スワンの恋>だけ3人称で描かれていることになっています。
でも、私が読んだ限りで、語り手の「私」、ちょこちょこ顔を出してます(p24,305,307,311,423)。
これがまた読んでいる側の時間感覚と視点を狂わせて、いい感じです。
「コンブレ―」での回想のきっかけが香りだとすれば、「スワンの恋」では音楽です(p63、p398-410)。
この音楽の描写(p398~)、音楽評論の方は必読ではないでしょうか。
当時は知られていなかったフェルメール(むしろプルーストによってフェルメールは認知されるようになったそうですp37)の研究をしているスワンさんは変わった人で――というか本作で「変わっていない人」がいないのですが――愛人となるオデットと出会った時の第一印象は、彼の本来の女性の「趣味と正反対」(p105)。
しかも嗜好という意味での趣味もまったくあわない(悪趣味だとか、莫迦だとさえ思う p155、252)。
ところが、彼はオデットに惹かれてしまう。
なぜならば、オデットの風貌や雰囲気が、彼が愛したフィレンツェ派の作品に描かれる人物のようだったから(!p105)。
つまり、スワンさんはオデットさん本人ではなく、オデットさんを通り過ぎて向こう側に見える<彼の美的センス>の結晶、彼自身の観念を愛した。
この恋愛はうまくいっているのか曖昧な印象で(スワンさんはオデットに愛されていないと考えたりしている p217)、そもそもスワンさんがどこまで真剣なのか途中までよくわからないのですが(p210、303)、徐々にスワンさんはオデットの行動に疑念を抱き始める(p223以後)。
もともと高級娼婦なので、はっきりと「囲われる」までは保険をかけて他の男性と交際するものと考えるのが普通だと思うのですが、<観念>のオデットに入れ込むスワンさんにはそれが見えない。
または、見ないようにしている。
彼が「考えるのは面倒」と逃げる「怠惰」な性格であることは再三描かれます(p147,213,325,425,474)。
スワンさんは嫉妬心を自覚し(p245、284-285、397)、それによって自分の恋情が煽られていることを理解している(p285、303)。
当初、嫉妬を「知性のよろこび」で「好奇心」「研究」と捉え(p223-225、445)、この感情を味わうことを喜んでいた。
しかし、私が愚考するに、スワンさん、大きな勘違いをしている。
スワンさんは、ありえる「オデットの時間」が無限増殖する苦しみを、徐々に味わい始めます(p283 自分以外の誰々といる時のオデットの姿を想像する)。
あるいはオデットの下手な嘘で、ある出来事の「意味」の可能性が無限増殖することにも苦しみ始める(p448-449 ある場所で出会ったのが<偶然>だったのか<ある男性との逢瀬の後>だったのか・・・)。
嫉妬は一見「知的探求」に似ている。
証拠を<探す>ことになるのですから。
しかし、<探求>は嫉妬によって駆動される行動であって、嫉妬そのものの特性ではない。
さらにスワンさんが見逃していることがある。
証拠からある事柄に到達するには、事柄と証拠が一対一か、少なくとも両者が一定の関係にあるからでしょう。
しかし、事柄の方が<無限増殖>し続けている不安定な状態では、証拠から事柄への行程は「これでもない」「これでもない」という玉ねぎの皮を剥くような果てしない苦行にしかならない、というか、最終的に「無」に到達する行為にしかならないだろうことです。
最初こそ「知性のよろこび」などと言っていたスワンも、徐々に焦燥にかられるようになる。
さらにオデットの方が上手にスワンを振り回し始める(p262-263の会話。スワン渾身の振り回し作戦も、話の内容が高尚過ぎて理解できなかったオデットが直観で行動し、結果、オデットに勝負ありになる。可哀そうなスワン。でもちょっと笑える)。
そしてスワンはオデットの気持ちが理解できなくなっていく(p333)。
嫉妬は知的探求のような悟性には属さない。
感情です。
それも手が届きそうなのに届かない、悔しさ、屈辱感、悲しみ、怒りなどが混じり合った複雑なもの。
さて、己の観念を愛してしまい現実のオデットに嫉妬するスワンと、スワンを愛しているのか曖昧なオデットの二人の恋はどうなるか。
結末は、大人な作品だな・・・と思いました。
ところで「スワンの恋」でスワンが混乱し始める時期、オデットは「私」の大叔父のところに出かけているのですが(第二巻p311)、「コンブレ―」では、その出来事が大叔父目線で描かれています(第一巻p193)。
そこでの、オデットの台詞。
切ない・・・・
第一編「スワン家のほうへ」の最後は第三部は「土地の名・名」。
これはちょっとした思想小説です。
精神分析家のラカンの考え方に近い。
ソシュールは名と名指されるものの結びつきの緩さを主張したわけですが、ラカンは名指されるものより名の優位性を説いた。
本作もそうです。名指されるものより「名」の方が豊富であると(p485)。
というか、元ネタはマラルメでしょうけど。
で、本編での「私」は、偶然、初恋の少女「ジルベルト」の名を聞く。
そして、その名が彼に「観念を運んでくる」(p503-505)。
この時、「私」はジルベルトの姿、つまりホンモノを見ていない。
<本人ではないもの>から始まる恋。
誰かに似ています。
そう。
「自分が愛する人の中に(略)文学(略)で知ることになもなる(略)ふさわしい特質を見出して幸せな気分になったり(略)自然が求める特質と正反対であっても(略)自分の愛(略)として受け入れたりすることはありえるだろう ― かつてスワンがオデットの審美的側面を求めたごとく」(p538)。
「私」は無意識のうちにスワンの仕草を真似するようになっている(p547 「コンブレ―」でも「私」はスワンさんを敬愛しているように描かれています。第一巻p51-77)。
この<スワンの恋>が反復されることを予感させて唐突に改行し、この長大な第一編は、かつてのブーローニュの森の様子を描いて幕を閉じます。
「現実の情景には(略)記憶そのものからもたらされる魅力が(略)欠けている」(p578-579)と記しつつ。
他にもたくさんの伏線回収があります。
この作品の面白さ、若い時にはわかんなかったかも。
10年後か15年後に再読したいです。
プルースト「失われた時を求めて 2 スワン家の方へⅡ」 高遠弘美訳
1105円+税
光文社古典新訳文庫
ISBN978-4-334-75239-2
Proust M: A La Recherche du Temps Predu. 1913-1919