続き。
鈴木版 装丁がきれい。中にある挿絵も美しいです。
Ⅱ部第一章は先のブログで書きました。
泣けます。
Ⅱ部第二章。
ヴィルパリジ夫人のサロンに行く前の「私」がサン・ルーに紹介されたあるご夫人と交際がうまくいくことを妄想しているところに、突如、アルベルチーヌが訪れる(鈴Ⅱ80-113)。
「私」は「もう愛していない」(鈴Ⅱp85、p88、p91)。
とはいえ、第二編でし損なったことをしっかりと完遂します(鈴Ⅱp86-105)。
ぞれから「私」は今やアルベルチーヌのことを「一つの顔をもった」「現実に存在する」女性と、当然のように認識できるようになっています(鈴Ⅱp81、p99)。
その後、「私」が先のご夫人に見事に振られて泣いちゃっているところ(鈴Ⅱp75、p153、p156)に、友情は「疲労と倦怠」(鈴Ⅱp158)なんて言ってたのに、グッド・タイミングでサン・ルーが現れ、「私」の気持ちを和らげてくれます(登場の仕方がかっこいい!そして相変わらず気が利く! 鈴Ⅱp178-187)。
第二のサロンのシーン、ゲルマント公爵夫人主催の会。
最初のサロンのシーンが「くすっ」くらいの面白さだったので、正直、あまり期待していませんでした。
でも、それがよかったかも。
というのは、ゲルマントのサロンのシーンが滅茶苦茶、面白く、最初のサロンのエピソードとの落差で、”面白さ倍”になったからです。
基本的には「印象、悪っ」ですが、登場人物の描写が生き生きとしていて、声を出して笑えるエピソード満載。
仕事の疲れを忘れて、一気読みでした(鈴Ⅱp193-p413)。
読んでいて、それぞれのサロンの雰囲気を体感させられている気がしました。
高齢ゆえか、どこか静かな雰囲気のヴィルパリジ侯爵夫人のサロン。
脂の乗り切った年齢の、華やかな雰囲気のゲルマント公爵夫人のサロン。
相変わらず「サロンのバカ」ぶりをみせる公爵(鈴Ⅱp265、p422、479-480)。
というか登場する貴族、あまねくそんな(鈴Ⅱp324-325、p339)。
全く愛し合っていないのに(鈴Ⅱp289)サロンに集まった人々を楽しませるため(と、自分たちの評判を上げるため)、テンポよく掛け合いをする公爵と夫人の白々しさ(鈴Ⅱp304-305、p310-311)。
醜悪な、でも面白おかしい、大量の陰口(鈴Ⅱp183、p220-221、p274-279、p333-334、p393、p407・・・・面倒なので以下略)。
他人の気の利いたセリフも平然と丸パクリ(話した当人の目の前で!鈴Ⅱp379-380)。
「私」の視線もだんだん刺々しくなりますが、大事なことに気付く。
ゲルマント公爵夫人には「私」の「思考内容」にある「反省(邦訳ではこうですが「内省」という意味だと思います)」「道徳的な配慮」が排除されている。
けれども、ある種の「エネルギーや魅力」がある(鈴Ⅱp345)。
そして、それは「別の彼女と同じ」(鈴Ⅱp345-346)。
サロンでシャルリュス氏の話題になると、分かりやすくぎくしゃくして、夫妻が「男らしいか」どうかで口論のようになるシーン(鈴Ⅱp353-354、p357)の後、「私」は、もともと誘われていたシャルリュス邸に赴く(鈴Ⅱp433-456)。
どうなるのか!
ラスト。
ある人物の悲しい将来が描かれます。
しかもゲルマント公爵の態度がえげつない(夫人はまだマシ)。
第二編に比べて、量が多くなっている第三編。
読み終わって疲れましたが、次が読みたくなる・・・・。
本編のテーマ。
サロンとは?
「空し」く(p192)「知性ではなく才気(エスプリ)」(鈴Ⅱp269)で対話し、「私」が「人生の快楽を感じることができない」場所(鈴Ⅱp389)。
終盤、ゲルマント夫人の<才気>が空回りするところに立ち会ってしまい、経験値を上げていた「私」は居心地が悪くなったりしています(鈴Ⅱp487-488)。
貴族とは?
当初の「私」にとって空想でしか触れえない存在。
女性は美しく華やか、男性はぎこちない言動をする、どこか奇妙な性質の人々(鈴Ⅱp225、p234、p364-365)。
で、サロンの経験を経てどうか。
プルーストは明確にこうと書き記していませんが(鈴Ⅱp191、p194-195、p213、p228、p411-415、p497-498、p500-502)、私の言葉では<名でしかない、あるいは土地の名でしか残らない、実体が曖昧な存在>として描きたかったのかなと愚考いたします。
歴史上の貴族たちも「私の知っている(略)人と変わらない」というか「それ以下の肉体と知性」(!)の持ち主だろうと「私」は考える(鈴Ⅱp383ー385、p397、p414)。
とはいえ、「私」は家柄の話題に「詩的快楽」を得る(鈴Ⅱp403、p410)。
なぜなら「ロマネスク様式の建築」のような(鈴Ⅱp406)力強さを感じるから。
そして、彼らの古風な言葉遣い(鈴Ⅱp331、p344、p403)。
貴族は「私」にとって「過去を無償で保存しようとする愛すべき人たち」である(鈴Ⅱp430-431)。
深刻な話をまったくスルーして赤いドレスに黒い靴を履いてきてしまった夫人に公爵が怒鳴りながら靴を履き替えさせるシーン(鈴Ⅱp511-512)や、内心、公爵を小ばかにしているだろうスワン氏とゲルマント公爵との会話(鈴Ⅱp480)を終盤に置いて、生産性が重要になっている時代に移行している中、何も生み出さず社交を優先して滅びゆく貴族と、生産を生業とするブルジョワで、立場が交代しつつあることを匂わせて物語が終わるのも余韻があります。
私のツボだったこと。
グルーシ―夫人という人物がゲルマント家筋という設定で出てきます。
彼女はいつも遅刻する(鈴Ⅱp223、p307)。
グルーシー氏、ナポレオン・ファンならご存じ、ド・グルーシーの子孫という設定(訳注307)。
ド・グルーシー、ワーテルローで別動隊としてプロイセン軍を補足する任務に失敗、さらに自身が戦場にたどり着かず会戦に参加できなかった。
ワーテルローのクライマックスは、ネイの無茶な突撃と、プロイセン軍がここで?というバッド・タイミングで到着して栄光のグラン・ダルメが挟撃され(+グルーシーの遅刻で)敗戦決定となるところですが、その一因になった人です。
その子孫がいつも遅刻する。
二回目の遅刻で「遅れるのがあなたの一族の伝統なのね」と突っ込まれるシーンで、声を出して笑ってしまいました。
日本なら、さしずめ徳川秀忠家臣団の子孫が中山道を使うと、なぜか長野で渋滞に巻き込まれて遅刻する、みたいな感じですか。
あ、違いますか。すいません。
それから、ヴィルパリジ夫人のサロンでも外交的対話の繊細な腹の探り合いのシーンが面白かったのですが(高Ⅱp202-214)、お、と思ったのが、サロンでの人の動きや自身の身の振り方で「私」が参考にしたものが「文芸批評より(略)政界の動き」(鈴Ⅱp290、p293)だったという点です。
互いに明確に発言せず、言葉の内容より文脈、口調、表情から相手の真意を読み取るしかない。
時には絵や小説の一節などに託すという形で返事をしている。
ヨーロッパでは、まさにサロンの延長に政治があった(あるいは男の政治を女性がサロン文化として取り込んだ。あるいは若者にとってサロンは政治活動のいい訓練場所だった)ということなのだろうと思います。
あとは全体を通じて、例によって発音やスペルへのプルーストのフェティッシュなこだわりも満載でした(Ⅰp318-319、高Ⅱp199-200 鈴Ⅱp87-89、p91、301、p304-307、p310-311、p338-339、p344、p348、p372、p379-380・・・ああ、面倒!以下略)。
それにしてもいやな感じでした。サロン。
プルースト「失われた時を求めて ゲルマントの方Ⅱ」 鈴木道彦訳
4800円+税
集英社
ISBN 4-08-144006-9
Proust M: A La Recherche du Temps Perdu. Le Cote de Guermantes. 1920