プルースト。
第二編「花咲く乙女たちのかげに」です。
ところで第一編と第七編はこちら。
きれいな副題だと思って原題をみるとA l'ombre des jeunes filles en fleurs。
Filles, FleursとF音が繰り返されていて洒落ています。
あとjeune filleだけで14-5歳の女の子という意味だそうです。
en fleursなので「花々の中の」が直訳ですが、en fleurと単数形にすると「花が咲いている」という意味があるそうです。
なるほどと思ったのがfleurは複数形だと「清らかさ、処女性」を意味するのだそうです。
だとすると、邦訳、ぴったりです。
おお!と思ったことが一つ。
辞書のページをめくったらflouという、fleurに似た発音の形容詞が「色のぼやけた」「あいまいな記憶の」という意味だそうな(クラウン仏日辞書による)。
影Ombreと響き合う語ではないですか。テーマにも合致するし。
私の妄想ですが。
なお、高遠先生も副題について触れていらっしゃいます(解説p742-745)。
第一部は「スワン夫人のまわりで」。
「私」の初恋相手のジルベルトとの短い交際を描いているのですが、「私」の初恋の相手、実はスワン夫人。
「私」はジルベルトに逢うためにスワン家に入り浸ることになっているのですが、スワン夫人の描写の方が圧倒的に多い(p115、198、237-256、275、291・・・・)
「私」がたぶん気付いていない気持ちを、読者が理解できるのがp237-256のシーン。
「私」はジルベルトをスワン氏を通して「間接的に支配している」という。
その後、スワン氏がオデットを愛し始めた時に聴いた音楽を夫人自身が演奏する。
すると「私」は一般論という形ですが、音楽の官能性について吐露します。
それから菊の花が出てくるシーン(p403-404)。
菊の花は、スワン氏とオデットが関係を結ぶ時の重要なアイテムでした。
最終的に「私」は些細な事でジルベルトと行き違う(p445-447)。
入れ替わるように「私」はスワン夫人に「ボッティチェリ風」の若さを感じるようになり、彼女がコルセットを着けずに身体のラインを意識させる服装であることを長々と描写します(p450-458)。
「私」はスワン夫人を、初恋相手の母親としてではなく、明らかに「一人の女性」として見ている。
その後、スワン氏と同じく「愛している(いた)女性が別の男と歩いている(ように見える)」(確実ではない点が味噌)ところに出くわし(p469)、ジルベルトは「私」のことを何とも思っていないのだと結論する(自己完結しているのが味噌 p476)。
私の仕事的に面白いのが「私」がある夜にみた夢から、自分の気持ちを再確認するところです(p482-491)。
ただ、ジルベルト自身の考えや気持ちを置いてけぼりにして、夢にまですがりついて自分に言い訳しているという印象ですが。
最後のシーンが美しい。
ブーローニュの森の中で堂々と立っている美しいスワン夫人を中心に男たちがまるでひれ伏しているかのように見えている(p503-509)。
このシーンは途中まで「私」がスワン夫人と会話している、つまり近景なのですが、途中から遠景描写に切り替わります。
まるでスワン夫人のことを切ない想いで回想しているようです。
映像的で感動しました。
すごいぞ!プルースト!
で、この本で有名な箇所のp150。以下引用。
愛する人の前に立った時(略)注意力をあまりに怯えさせるので、相手の姿をはっきりとつかみ取ることができない。(略)私たちがその存在を固定して考えるのは、相手を愛していない時に限られる。(略)愛されている場合は絶えず動く。(略)ジルベルトの顔立ちがどうだったか(略)私は本当にわからなくなっていた。
引用終わり。
本当に好きな人の顔は、プルーストのような感性だと思い出せないのですね。
こんなに繊細だと生きるのがしんどそう。
さて、第一部が無茶苦茶面白くて、期待して第二部「土地の名:土地」へ(題の意味はⅡp639-640のことかなと)。
第一部の2年後。祖母とバルベックに来た「私」。
約90頁もかけてバルベックに着くまでの「私」の曖昧で不安げな感情が描かれます。
「私」は母なしでやっていけるのだと初めて感じたとされていますが、たぶん本当は逆(Ⅱp25)。
バルベックに着いてからは当地の人物描写に。
下品な噂話ばかりの地元のブルジョワたち(同p97-100、118-128、157-160)。
悪い人ではないけど、人を見下しているヴィルパリジ侯爵夫人(p113-223)。
第一印象は最悪、でも気遣いのできるいい奴、サン・ルー侯爵(p224-239、p227-228、p347-352)。
スノッブの塊のブロック(p239-266、316-342)。
挙動も風貌も怪しすぎのシャルリュス男爵(p274-312)。
過剰に男らしさに反応し、夜に部屋にやってきて「見返りのない愛がある」と呟く(p296-297、302、309)。
ここまでで360頁。
どうしたことでしょう・・・・死ぬほど退屈です・・・・
何度、本を置いたことか。
ところが。
美しい少女たちが突如現れる(p363-)。
一気に描写が変わります。
バルベックの夕日や岸壁の美しさ、ホテルのレストランの賑わい(p399-413、p621-623)。
最初、少女たちはひと塊で描かれる(p463-464、p563-593、p626-653、p673)。
また、ある画家さんは自分の奥さんを<絵のモデルとして理想>と見ていて、「私」も奥さんの肉体が「非物質化」して「重さがなくなる」と考える。そして、「実人生で(略)美は無意味な言葉」だと思う(p507-511)。
これ、スワンさんの価値観と同じ。
そして「現実は可能性の引き算」(p555-556)で、 記憶が精神を形成し(Ⅰp118)、忘却があってこそ記憶し、記憶の方が現実よりも美しい(Ⅰp464-465、Ⅱp11、p56)。
これ、「私」の価値観ですね。
共に抽象的・観念的。
少女たちの中で「私」の目を引いたアルベルチーヌ。
最初「私」は彼女に曖昧な気持ちを抱いているのですが、徐々に彼女を<断片>あるいは<別々の存在>としてしか想起できなくなる(p520、523、551、556-557)。
読んだことあるぞ。
第一部は伏線だった!
「私」はアルベルチーヌに好意を抱き始めているのです(だからジルベルトのように記憶に定着しない。ところでアルベルチーヌも<名前だけ>第一部で先に登場します。ここにも反復があります)。
そのうち「私」は彼女の身体的特徴について具体的に想起し始め(p560-561)、少女たちも個別性を帯びてくる(p653-655)。
とうとう「私」は認めます。
「思い出す(略)という行為は(略)忘れるにひとしい」(p656)、むしろ「記憶が誤っていた」(p657)。
そしてアルベルチーヌの手の感触が官能的に描かれ(p660-661)、「私」はアルベルチーヌが「実体」であり、毎日会うアルベルチーヌは「別の存在」だけれども「私」自身も別な存在であると考えるようになる(p687-682、p717-721)。
もはや記憶より現実が重要になっている。
その後の「私」の思春期男子特有の空振り気味な自意識過剰ぶり(p660-669)と大失敗(p693)は、微笑ましいというか痛々しいというか。
わかります。
だから、私は二度と思春期に戻りたくない。
いや、後半から急に面白くなった・・・・と思って、あっ!と。
読書体験そのものが、「私」の時間体験と類比構造になっているのではと。
退屈な時間。そういう時間は遅く流れる(第二部前半を読むのに2-3週かかりました)。
しかし、現実が生き生きし始めると時間は速く流れる(ほぼ同じ分量の後半は3日で読了)。
そこまで考えていたのかなあ、プルースト(たぶん私の妄想)。
気になるのが「私」の価値観の変化。
「女を愛するとき(略)女たちのうちに自分の魂(略)を投影しているにすぎない」(p470-471)、あるいは相手の気質について(p602-603)。
非常に自己愛的。
でもその後、少女たちといることで孤独でないと考える虚偽、相手が自分が「拵えた自分」に過ぎないという虚偽と異なる快楽を得たと「私」は述べています(p634)。
自己愛的な「私」に<他者>が立ち上がった。
この後、どうなる?
後はこれまで語られてきたお馴染みの考え方。
知性や論理の無力さ(Ⅰp196、p348-349、Ⅱp501、p516、p521-522、p550、p724-725)。
自我は変化する(Ⅰp230、p481、Ⅱp84-85、p549)。
あと芸術論も(小説論はⅠp311-328、絵画論はⅡp474-484)。
備忘録用に<感情移入>に関する興味深い記述が(Ⅰp193)。
魅力溢れる描写で本当に楽しかったです。
マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第二編 花咲く乙女たちのかげにⅠ」 高遠弘美訳
1295円+税
光文社古典新訳文庫
ISBN 978-4-334-75268-2
同 Ⅱ
1500円+税
同文庫
ISBN 978-4-334-75323-8
Proust M: A La Recherche du Temps Perdu. A l'ombre des jeunes filles en fleurs. 1919