仕事が忙しくなり、本がなかなか読めず。 

 

 

 合間を縫って第四編、読み終わりました。

 やはりきれいな装丁(ぜひ実物をご覧ください)

 

 相変わらず面白い。

 

 

 

 

 備忘録。

 

 

 ずっと第一編から出ていたシャルリュス男爵。もはや第二の主人公。

 彼の性癖がいきなり冒頭から全開(Ⅰp18-25)。

 しかも、結構、過激な表現。

 

 しかし、このことをプルーストは否定的に描いておらず、「蜜の香りや鮮やかな花冠の色彩にさえ比較できる」(Ⅰp62)

 第Ⅱ部では「はるか昔からある一定の数の天使のような女たちが間違って男性の中に組み込まれて(略)男たちに(略)近づこうと空しい羽ばたき」(!!Ⅱp215)。

 

 他の登場人物たちも実は同じ性癖という設定。

 長編なのでその性癖の「方が普通」のような錯覚まで覚えてしまいます。

 

 その後のシャルリュスさんの口説きも面白い(Ⅰp180-184)。

 というか、本作ではシャルリュスさんは若い男を見れば口説いてばかりいる(Ⅰp433、Ⅱp13、p28、p190-191、p250-253、p457)。

 

 

 舞台はゲルマント大公夫人のサロンに。

 相変わらず、その場に相手がいようがいまいが関係なく続く、罵詈雑言大会。

 貴族以外の者に対して、露骨に感じの悪い貴族連中の記述が延々続く(Ⅰp96、p138、p156,p158,p186-187,p188、p193、p220)。

 

 ゲルマント公爵の頓智気ぶりも健在(Ⅰp216-218、p229-230)。

 「私」は社交界でどのように振舞うべきか、すっかり身につけている(Ⅰp120、p209-210)。

 とはいえ、嫌悪感でいっぱい(Ⅰp189)。

 

 一例。

 シャルリュス男爵の態度。

 彼は誰に対してもばかにしているので、「相手が間抜けな人であろうとも、別の形で(略)好感をもてるならば、利口な人と大差ないと思うような」微笑みを相手に見せる(Ⅰp193)。 

 

 

 おかしかったのが、病気で死相の出ているスワンさん。

 当時のドレスは胸元が大きく開いたわけですが、ある女性の胸元を「片眼鏡まであてがって」見てしまう(Ⅰp194)。

 

 

 サロンが終わってアルベルチーヌと再会。

 当初「愛していない」(Ⅰp89)と明言していたのに、徐々に嫉妬を感じ始める(Ⅰp237-238)。

 そして、遇っても「うれしくない」と書かれた次の頁には、「このときほどきれいな彼女は、それまで見たことがなかった」(Ⅰp254)。

 ・・・・

 その後は婉曲な表現ですが、閨房の出来事が描かれる。

 

 ここから、いきなり時間軸が跳躍します。

 ジルベルトに手紙書いていると、ゲルマント公爵の頓馬な話になって、スワン家のサロンの地位が上がっているまでの描写で、約20頁(p256ー275)。

 

 自宅に戻って、引き留めるゲルマント公を振り切って馬車から降り、女中のフランソワのところへ寄って、自室にアルベルチーヌが来るまで、延々18頁も使っているのに(Ⅰp228-246)

 

 確かに「失われて」います。時間感覚。

 

 

 第Ⅱ部第一章のあとに不思議な章が。

 「心の間歇Intermittences du coeur」(Ⅰp276ー)

 プルーストはこれを本作の題名にしようとしていたそうです(注276Ⅰp477-478)。

 辞書で調べるとintermittenceは断続、間欠、coeurは単なる心というより愛情とか優しさというニュアンスもあるようです。

 <懐かしさ/愛情の唐突な露呈/消失>みたいな感じでしょうか。

 

 バルベックを再訪問した「私」。

 部屋で靴を脱ごうとした瞬間、突如、亡くなった祖母への想いがあふれ出てくる(Ⅰp284ー296)。

 「記憶の混乱には心の間歇が結びついている」(Ⅰp286)。

 そして「祖母の埋葬から1年以上もたって(略)祖母が死んだ」ことをようやく理解する(Ⅰp285)。

 

 こういうことは確かにあります。

 時間がたってから、しみじみと感情が動く。

 

 祖母が細やかに気遣いしてくれていたことに、ようやく気付いて自分を責める「私」。

 切ないです。

 そして、そのまま眠り込む「私」(Ⅰp292)。

 おばあちゃんが「ほんの少しだけ生きている」という夢。

 「ほんの少しだけ」生きている。

 これも切ない。

 

 

 第二章はバルベックで再開するアルベルチーヌとのエピソードが中心に。

 本作で目立つのが<この話は後に>という思わせぶりな伏線(Ⅰp342、p364、Ⅱp326、p355、p382)。

 とはいえ、本作、プルーストの生前、最後の出版だったそうです。

 

 

 話を戻して、この章の前半のクライマックス。

 アルベルチーヌも同性愛者かもしれないという「疑惑」(Ⅰp352、p367、p429-432、p450-453)。

 

 「私」は彼女が女性に向ける眼差しで、またも嫉妬で苦しめられる(Ⅰp357)。

 

 そして、この嫉妬がスワン氏の反復(「固定観念」)だと気づく「私」(Ⅰp369)。

 同時にアルベルチーヌとスワン夫人(オデット)を重ねていることにも気づく「私」(Ⅰp418-419)。

 その上で「私」はアルベルチーヌを愛しているのだと認める(Ⅰp417、Ⅱp23)。

 なのに、いったん冷たい態度をとる「私」。

 

 ジルベルトの時と同じです(「花咲く乙女たちのかげにⅠ」光文社古典新訳文庫p444-446)。

 思春期だった頃のこの出来事はうやむやになりましたが、青年期の「私」はどうするのか。

 

 

 愛情についての省察。

 「愛」には「二種類のリズム」がある(Ⅰp410-411)。

 「愛されていないのではないか」という恐れで「ひき潮」をもたらし、しかし「ふたたび攻勢に転じて、敬意と支配をとりもどそう」とする。

 

 

 ・・・・で、Ⅱへ。

 

 

 

 本作で面白かったのは同性愛者として生きることに関する細やかな描写。

 決して、肯定的に(だけ)同性愛を描いていない。

 そこに深みを感じます。

 

 哀しみ。

 「彼らが夢中になるのは(略)彼らを愛することがありえない男だからだ」(Ⅰp38)

 だから「からだを売った相手を」想像力で「本当の男」と自分でだます必要がある(Ⅰp39)

 

 複雑な関係性(Ⅰp50-51)。

 意味が理解しづらく、何度も読み直しました。

 男しか愛さない場合は、相手の男に嫉妬するので簡単ですが、女性も愛せる場合がややこしい。

 男は、「彼らが」相手の女性にとっては「女役」で、同時に相手の女性は「彼らが男に見出すものを(略)提供する」。

 そして自分の愛している「男」が「ほとんど一人の男にほかならない女性に釘付けにされていることに苦しむ」(p49-50)。

 えーと、分かりました?
 

 慎重に身を潜めても(Ⅱp128-129)、どうしても「ある種の秘密の行動が外にあらわれると、結果としてその秘密を暴露する(略)話し方や身ぶりになる」(Ⅱp214、ほかにもⅡp363など)。

 

 

 

 本作でも笑えるシーンが満載です。

 たとえば貴族への容赦ない描写など絶好調です(Ⅰp375 歯の抜けた侯爵夫人。大好きなショパンの話題で興奮して涎を口から流して話し続ける。見た目、下品な娼家の女将だけど難しい雑誌を読んでいるなあと思ったらⅡp19・・・・Ⅱp79)。   

 

 

 

 

 

 

プルースト「失われた時を求めて ソドムとゴモラⅠ」   鈴木道彦訳

5000円+税

集英社

ISBN 4-08-144007-8

 

Proust M: A La Recheche du Temps Perdu.  Sodme et Gomorrhe.