竹下先生が新刊をお出しになると必ず手に取るのですが、本書も待望の一冊です。
さて、冒頭から私は惹きつけられました。
#Me too運動の時、カトリーヌ・ドヌーブらフランス人女性がこの運動に対して批判的発言をして非難を浴びました。
彼女たちの行動の背景にあるのは何か。
「フランスではセクハラ告発の際」「男性にすべての責任が降りかからないよう」「女性の方が守ってやるという流れ」がある(p15)。
では、その流れが生まれたのはなぜか。
それはキリスト教史を紐解けば理解できるというのが本書のテーマです。
面白そうではないですか!
フレンチ・フェミニズムの独特さを歴史から。
フランスでは中世に「ギャラントリー」の伝統があった。宮廷愛ですね。
これは、後進国だったフランスの有効な「ソフトパワー」で外交上の武器だった。
この伝統は男が<女性心理への共感性>を高めることに貢献し、さらに19世紀以後に仏男性作家たちが女性を主人公にした作品をさかんに執筆することにつながる(p21-24)。https://ameblo.jp/lecture12/entry-12606360285.html?frm=theme、
https://ameblo.jp/lecture12/entry-12615399660.html?frm=theme、https://ameblo.jp/lecture12/entry-12628314784.html?frm=theme
(実際にはうまく機能していないようですが、男のとんでもないナルシシズムを傷つけることを社会が構造として埋め込んでいることが重要だと思います)
この結果、フレンチ・フェミニズムは男女共同戦線でかつ「弱者優遇」ではなく(p26)、<多様性への寛容>を求めるという形になった(p27)。
また実存主義的な個人の選択を重視したボーヴォワールの影響下にあるフランスに比べ、デリダやフーコーの構造主義に影響を受けた北米フェミニズムは、なにしろ「構造」ですから、男女の問題を「社会的構築」(p27)として固定化する方向に向かった・・・
というのが、序章レベルのお話です。
もうすでに十分に面白いです、本書。
さて、ようやくキリスト教。
旧約でさえ、本来、男性優位には説かれてなかった(p54)。
詳しくは本書をどうぞ。
新約。
マリアは「肉=身体」、ヨセフは「系図」と「名」をキリストに与えた(p65)。
革新的ラビだった(p67)キリストの発想は、律法遵守ではなく、サマリア人だろうがローマ人だろうが病者だろうが女性だろうが、とにかく「慈しみを優先した」(p69-70)こと。
この発想にはマリアの影響が大きかった。
彼女はキリスト教文化の伝統として「学問好きの女性」として描かれるのだそうです(p128)。
つまり「弁がたち、考えを言語化するのが得意な母」がキリストの背後にいたことになる(p121)。
さらに初期キリスト教では女性の力が大きかった。
キリストが生きていた時代には、すでにギリシャ哲学があるのですから、当時からすでにイエスの奇跡が合理的ではないという発想はあったわけです。
強固な知的体系をもつ男社会にイエスの言動が影響するには女性たちの「実践」が必要だった。
具体的には「人を癒す力」。
古来から出産に関わる女性は生まれる前と生まれた後、つまり<彼岸との境界>と親和性が高いと考えられ、治癒者としての役割を担うことが多かった(p131)。
では男(弟子)は?
マタイのゲッセマネの祈りのシーンなどでもボンクラに描かれていますが(信者の方々、すません・・・)、彼らは教えを「知識」「権威」にしてしまった。
特にパウロは男尊女卑の傾向があったといいます(p90-92)。
そう、あのパウロ。
しかし、女性が実用的な術をもつことはある問題は生む。
マリア信仰が土着の民間信仰と習合し(p101,103)、<ご利益>追求、やがて免罪符発行へつながる(p106)。
で、話題は宗教改革へ。
実用的伝統技術は厳密にはキリスト教の教義とずれていたけれども、カソリックは鷹揚に構えていた(p191、194)。
そこに現れたプロテスタント。彼らにとって聖書に書かれていないことは排除すべきもの(p194)。
もともとカソリックでは、異端は「典礼上の誤り」に過ぎず改悛可能で、魔術は迷信・反社会性を意味して処刑する対象だった(p195、199)。
この辺から本書の記述が錯綜するのですが、私なりにまとめると、徐々に異端、魔女(魔術)、悪魔憑きの混同が起きた(p196-198)。
そして、宗教改革が16世紀に起きる。
魔女裁判、急増(p199)。もちろんプロテスタントが中心。
カソリックはプロテスタントへの対抗として魔女裁判を慌てて始めた(p192-193)。
で、ありがちなことに、対抗処置はエクスキューズ的側面があるので、本家より激烈になってしまうことがあった。
私的なイメージはカソリックの方が、特にスペインの異端尋問・・・って、これはモンティ・パイソンの影響ですね。
話を戻すと、恐ろしい言葉使いを竹下先生はさらりと書いていらっしゃいます。
「ピューリタン的な粛清意識」(p193)・・・・あの、私でなくて竹下先生の表現ですからね。
その後、17世紀に魔女裁判は世俗裁判へ移行し、ややこしいことに権力への不服従と混同される(p201)。
で、18世紀にフランスで医学的見地から反対運動が起こる(p204-211)。
こうして魔女=ご利益がなくなる。
しかし、この後、宗教カルトが増加したそうです。
これは戦後日本の宗教的空白の時期に、多くの新興宗教が生まれたのと相似ではないかと竹下先生は指摘なさっています(p211)。
私的に「なるほど!」と思ったこと。
カソリックのスペインは南米を征服した。
もちろん、ひどいことをしたのですが、意外に混血が進んで、現在も先住民さんはいらっしゃる。
しかし、ピューリタンが上陸した北米はどうだったか。
ご存じの通り、先住民をほぼ殲滅した(p239-240)・・・・・。
さて、魔女の対極に聖女、修道女がいます。
男によって運営される修道院は、徐々に権力、富、領土といった世俗と結びついていしまう(p248)のに対し、修道女たちは文化的、学問的であり続け、世俗ではなく超越へ至る方法を考えていた。
それはキリスト教本来の「弱者の救済」「徹底した弱さと非暴力」思想から離れないことでもあった(p216、226、238、248、254)。
たとえばフォントヴロー修道院はパスカル、デカルトの影響を受け(!)、プラトンの仏訳までしていた(p238、225)。
面白いのが、聖女たちは「承認欲求を満たす」ことではなく、神との結びつきで「人としての完成」を求めていたという指摘です(p173)。
なるほどと思います。
承認欲求では社会から離れられない。
そうすると男のつくりあげた社会にどう適応するか、あるいはどう戦うかになってしまう。
彼女たちの解決方法は、そのような社会とは次元の異なる方向に向かった。
これは現代女性も学べる点ではないでしょうか。
さて、現在のフランスはどうか。
男女は生物の次元で「差異」があるのが大前提。
しかし区別は差別ではない。とはいえ、権力が生じてしまう。
ではどうするか。
宗教的には「超越者」を設定して差別しないように共感する場を作るしかない。
そして「神」がそのような「場所」であるといいます(p254-255)
世俗的には。
フランスでは主義・運動として<男を対立物>とするフェミニズムではなく、学問知として<フェミノロジー>が生まれたのだそうです。
あくまで人類学や歴史学の一部として。
認識「connaisance」を「co-naissance誕生とともにある」と読み替え、思考する(260-261)。
面白いです。
ぜひ読みたいです、フェミノロジー。
さて、落ち葉拾い。
金で万能感を得る現代人。
キリスト教的に万能感を得ることは定義上「悪魔」。
現代日本。悪魔だらけです。
一方、権利だ、自由だと声高な主張をするのも現代人。
しかし、ホッブスではないですが、権利行使は誰かの権利を侵害していることでもある。
それを自覚させることがキリスト教の「慈しみ」の精神である(p258-260)。
現代日本。悪魔だらけです。
ギリシャ=ローマ文化では自然は超越だった。
しかしユダヤ=キリスト教文化では自然も同じ被造物扱いであった(p176-177)。
ハイデッガーの思想のネタ元を教えていただきました。
最後、ええ!と思ったこと。
「マグダラのマリア」
マグダラはフランス語で「マドレーヌ」と発音するのだそうです(p137)。
おお!
「失われた時を求めて」のマドレーヌについて鹿島大先生があることをお書きになっていますが(「「失われた時を求めて」の完読を求めて」 鹿島茂 PHP)、あの説とは違ったことが考えられそうです。
もう考えたいことだらけです。
ヤスパースの「超越」のヒントにもなりそうなことも学べました。
だから読書はやめられない!
竹下節子「女のキリスト教史 もう一つのフェミニズムの系譜」
860円+税
ちくま新書
ISBN978-4-480-07273-3